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    かけはし2012.年3月26日号

原発族が除染作業で肥え太る
住民は「被曝のモルモット」


福島原発事故1周年現地ルポ

 
 「最高の時代であり、最悪の時代だった。知恵の時代であり、愚かさの時代だった。信念の時代だったけれども信じることができなかったし、光の季節だったけれども暗黒の天地だった。希望の春がやってきたけれども絶望の冬が続いていた。あらゆるものを手にしたけれども何にも持てなかった時代でもあった。みんな天国を目指して進んだけれども、いざ我々が向かった所はそれとは正反対の方向だった…」。(チャールス・ディケンズ、〈二都物語〉から)
 昨年3月11日午後2時46分頃、日本・東北地方の地軸が揺さぶられた。マグニチュード8・8(後に9・0)、観測が始められて以来、日本で発生した最悪の強震だった。地震発生直後に警報が響きわたったが、すぐに地震津波が海岸を襲った。福島県の東部・大熊町の海辺近くに位置する東京電力・福島第一原子力発電所と第二原子力発電所の原発10基も無事ではありえなかった。凶暴になった自然の前で人間のできることはなかった。第一原発1号機、3号機、2号機の外壁が水素爆発によって次々に崩れ落ちた。冷却水の流入が中断された原子炉は熱されるがままに熱された。「統制不能」状態へとかけのぼった。津波警報の発令直後から原発の半径2q、3q、10qへと数時間単位で拡大されていた避難命令は、翌日の午後には20qにまで拡大された。少なく見積もって20万人がアタフタと避難の道を急がなければならなかった。
 どうしようもないことだったのかも知れない。大気と海流に乗って、避難の行列よりも速く放射性物質が四方に広がっていった。それよりももっと速く広がったのは、不吉な未来という「極端なまでの恐怖」だった。安くて、きれいで、安全だと口々に言っていた。「明るい未来のエネルギー」と呼ばれた。頭のいい人間の愚かな欲望が招いた災害だった。「原子力の神話」はそのようにして終末を告げた。
 〈ハンギョレ21〉は3・11の惨事から1年を迎えて日本の福島と韓国の三陟の両都市を回ってみた。暮らしの場が根こそぎとんでいった福島ではこの1年余、「脱原発」の声が高まっている。3・11の惨事以降、全世界で初めて新規原発の敷地候補を確定・発表した韓国の三陟でも「反核」の世論がだんだんに力を増している。ただ、相変わらずなのは三陟海岸に沿って漂っている目のくらんだ欲望の影だ。(「ハンギョレ21」編集部)


 「カネなどは、いらない。3月11日以前に戻ることさえできれば…」。
 日本・福島第一原発の爆発事故が起きてから1年余、いま福島の人々はこう絶叫している。けれども「故郷に戻りたい」という彼らの希望は簡単には実現しがたいようだ。放射能に汚染された大地は、たやすく復元はされない。旧ソ連のチェルノブイリで原発事故が起きてから今年で26年になったけれども、そこの住民たちは依然として故郷に帰れずにいる。

政府は避難地域に指定せず


 昨年3月12日午後、取材のために福島に向かう車の中で「第一原発1号機が爆発した」というニュースを聞いた。時間に合わせて到着できないこともありえた。少しでも早く福島にたどり着かなければならなかった。アクセルを踏む足に力が入った。
 翌日の3月13日朝、福島第一原発のある双葉町では高線量の放射線が激しく出てきているのが観測された。日本政府は「万一に備えて原発の半径10q内にいる住民らが避難して下さればと思う」と発表した。この地域の放射能汚染の事実は公開しなかった。現地にいた住民らは「備えなければならない『万一』とはいったい何なんだ」と怒りを爆発させた。
 前日、急に避難の道をたどることになった住民たちも、故郷が「汚染」されたという事実を知りようがなかった。通りを行く車を1台ずつ止めた後、「村が町がすでに放射能に汚染されて危険だ」と説明し、さらに避難せよと勧めることを繰り返した。
 「万一の場合に備えた避難だ。人体に直ちに影響を与える被害はない」。
 政府は引き続き放射能汚染の事実を隠ぺいした。莫大な予算がつぎ込まれた「緊急迅速放射能影響予測ネットワークシステム」(SPEEDI)が測定したデータも隠された。被害地域の住民たちは何も知らないまま「被曝」を強要された。生命権をもてあそばれたのだ。1日、2日が過ぎると、原発から半径20q、30qへと避難地域が広げられた。けれども汚染物質は既に南東からの風に乗って原発の北西方向へ広がったままだ。コンパスで円を描くように設定した「避難地域」が現実に合わないということは自明のことに見えた。
 計測器で直接、測ってみることにした。3月15日午後、原発から北西方向に約50q離れた福島県相馬郡飯舘村で1時間に40マイクロシーベルト(μSv)、飯舘村の前田集落では100μSvの放射線が測定された。東京で一般人が通常、露出される放射線量の2千倍に該当する高線量だった。3月末、国際原子力機構(IAEA)は、この一帯が放射線に著しく汚染された状態だと発表した。それにもかかわらず日本政府はこの地域を避難区域に設定しなかった。
 水も汚染された。田畑も汚染された。そこで育った野菜も汚染された。乳牛が被曝したのだから、牛乳も汚染された。被害地域で生産されるすべての農・水・畜産物の出荷が禁止された。村で乳牛を飼っている11戸の畜産農家では畑に穴を掘って牛乳を廃棄した。乳牛は定期的に牛乳を搾ってやらなければ乳腺炎にかかるからだ。飯舘村前田集落で会った畜産農民長谷川健一さん(57)は「捨てようとして(乳を)搾った。この気持ちが分かるか」と泣きださんばかりだった。牛乳出荷の道が断たれた畜産農民たちは、栄養価の低い米ぬかを牛に食べさせていた。

チェルノブイリ事故よりひどい


 それでも歳月は流れて行った。事故が起きた後、いくらもしないうちに被害地域の農村の集落では梅、桃、桜の花が満開になった。1年中で最も美しい季節だ。以前であれば山にはワラビ、ゼンマイ、タラノメなどが新芽を吹いていたことだろう。集落の住民たちは山菜を採り楽しい時間を送ったことだろう。渓流ではイワナやらヤマメやらの川魚が姿を現していただろう。そんな「渓流釣りのメッカ」という名声にふさわしく、遠く関東地方からも釣りマニアが集まってきていたことだろう。原発事故はこのような楽しみを、そっくり奪って行ってしまった。田畑からは人々の姿が消え、うら寂しくなった村には木蓮がひとりで満開になっていた。
 「今年は規模を大きくし、牛舎をさらに1棟増やそうと心に決めていたのに…」。一帯で汚染度がもっとも深刻なことで知られる飯舘村長泥で畜産業をしている田中一正さん(40)に会った。東京で生まれ北海道で酪農を学んだという彼は、10年前からここに定着して酪農を始めた。原発の爆発以降も彼は毎日のように堆肥を整理したり、乾草を集めるなどの野外作業を怠らなかった。堆肥と乾草が雨や雪にあたって完全に濡れてしまったからだ。
 原発で事故が起きたということを知るようになったのは友達が送ってきた携帯のメールを通じてだ。それまでは村が放射能に汚染されてしまったということを全く分からなかった。昨年4月中旬に会ったとき彼は、「真実は何なのかを知りたい。ここにいても大丈夫なんだろうか」と尋ねた。真剣な眼差しで私の顔をじっとのぞきこんでいた。彼に「真実」を伝えるというのは容易ではなかった。彼がこの10年間、培ってきたすべてを失うことになると言うに等しいからだ。勇気を出して口を開いた。
 「ここは、旧ソ連のチェルノブイリ原発4号機の事故当時、原発から200メートルほど離れた地点で測定された放射能よりも高い放射線量が絶えず測定されている。人間の暮らせる状態ではない」。
 説明を聞いた彼は無理に笑みを浮かべて見せた。そうしてから、こう言った。「そうか。それならば私は(育てていた)牛をどう処分するかが決まりしだい、山に行って松の枝で首でもくくろう」。胸が痛んで到底一緒にいることはできず、車のきびすを返して現場を脱け出してきた。
 4月中旬、長泥地域の住宅の雨桶から時間当たり1・1ミリシーベルト(mSv)の放射線が計測された。いわゆる「ホット・スポット」(通常、事故地点から半径10q以内)と呼ばれる高汚染地域の水準だ。田中牧場周辺の放射線も40〜50μSvだった。田中さんは原発事故が発生した直後の数日間で既に20mSv以上の放射線に被曝していた。事故以降の1カ月余りの間、彼が日本人の年間被曝許容量の20倍に該当する放射線にさらされていたことを意味する。

海と大気に広がる放射能


 田中さんだけではない。村の住民すべてが大量の放射線で被曝していた。4月11日、日本政府は、福島第一原発から半径30qの外にあって年間被曝線量が20mSvを超える危険のある地域を、「計画的避難地域」に設定した。1カ月以内に退避するのがよい、という意味だ。けれども政府が雇用した放射線の専門家たちは、まさに前日までこの一帯の地域を回り、全く別の言い方をしていた。住民らを被曝の危険へと追いやったも同じことだ。
 「現在20歳以上の成人にはガン発病の危険性はゼロです。だからここにいらっしゃる方々は将来ガンが発病した場合、今回の原発事故が原因ではなく、平素の健康管理がキチンとできていなかったためだと考えて下さい。子どもらを外で遊ばせても問題はありません。普段通りに生活しても大丈夫です。心配してストレスをためるほうが、より危険です」。
 2011年末、野田佳彦総理は「原発事故(処理)終結」を宣言した。原子炉内に放置された核燃料の状態も分からず、従っていつ再び爆発するかも分からないままで、だ。放射性物質は依然として大気と海に広がっている。それでも日本政府は「すべてが終わった」と主張する。

除染で稼ぐゼネコン各社


 原発推進の諸勢力も動いている。(汚染を除去する)「除染」作業を主導する一方、「国内原子力発電の再稼働」と「原発輸出」などを再び口にしている。3・11事故の原因究明や責任追及など何1つとして実現されたものはない。人々がみな「原発がいつ再び爆発するかも分からない」と語りながらも、そして巨大地震が再び原発を襲いかねないという危険性を否定できないながらも、これらのことなどが堂々と推進されている。
 今、福島県で進められている大規模除染作業は事実上(放射能をなくすことのできる技術がいまだ開発されていない。今日の状況では短ければ数十年、長ければ数百年にも及ぶ放射能半減期を待つ以外にない。―日本語原文からの「ハンギョレ21」への翻訳者、注)。ただ放射能を別の場所に移すだけだ。地表面をはがし放射性物質を水で流し出せば、それはそっくり川の河口を通じて海に流れ込んで行く。
 今、阿武隈川(原発事故が起きた福島県と宮城県を流れる川)に流れ込む福島県の汚染物質は毎日500億ベクレル(Bq)だ。この物質が太平洋に流れ込んでいる。昨年、東京電力が福島第一原発の汚染水を太平洋に放出して国際的な批判を受けたけれども、この時の放射性物質と全く同じ量が今も毎日、太平洋に流れ込んでいる。
 日本政府は飯舘村において居住地域は2年、平地は5年、山林は20年間の除染作業を施行すると発表した。予算総額3244億円だ。飯舘村には1700余の世帯が暮らす。1世帯当たり1億円以上の除染費用がかかる計算だ。この予算は新しい村を求めて住民らを移すのに使うほうが、より現実的だ。被曝は続いている。成功するかどうかも不確実な除染に莫大な予算を使うのは愚かなことだ。
 違うのか。「抑止春香(無理に物事を行うこと)」の形で進められる除染作業を担当しているのは鹿島建設、大林組、大成建設などの総合建設各社だ。原発建設で莫大な利益を手にした総合建設各社は、「原発をなくそう」という動きが始まった今もあわててはいない。彼らは「原子炉をなくす作業や除染によって今後数十年は暮らしていける」と公々然と語っている。
 「我々は捨てられた。被曝のモルモット(実験対象)となった」。今、福島の住民らが感じている現実だろう。仕事のために子どもや妻を避難させて1人で故郷を守っている男性も多い。妻と子どもは夫や父を亡くしたも同然だ。離婚も増えている。
 住民たちの間の対立や反目も時の経過とともに大きくなっている。そうなればなるほど孤立感も高まっている。汚染地域から避難してきた人、とどまっている人、補償金をもらった人ともらえなかった人、警戒区域や計画的避難地域に指定されなかった住民たちまで。福島市内で出会ったあるタクシー運転手は「避難した人々は仕事をしていないで補償金をもらった。酒を飲み、パチンコに通っている。私のように毎日、汗を流して働いている人々はバカ扱いを受けている」と語った。

進歩・保守共に脱原発へ


 3月11日、東日本大地震1年を迎えて福島県郡山市では大規模な集会が開かれる(既報「かけはし」3月19日号を参照)。「原発はいらない! 福島県民大集会」だ。この日の集会には保守から進歩、今日まで原発問題に関心をもたなかった団体、個人に至るまで広範な人々が参加する予定だ。他の地域でもこの日に合わせて数多くの行事が予定されている。原発のない社会、断絶を越え、連帯へと進む新たな動きが今まさに始まっているのだ。(「ハンギョレ21」第901号、12年3月12日付、福島(日本)=文・写真森住卓/ドキュメンタリー写真作家、韓国語翻訳キル・ユニョン「ハンギョレ(新聞)」国際部記者)

森住卓(もりずみ・たかし、60歳)核問題専門のドキュメンタリー写真作家だ。職業写真記者として出発し、1990年代からカザフスタンなど旧ソ連時代に長期間、核実験が実施された地域や原発の爆発事故が起きたウクライナ・チェルノブイリ、劣化ウラニウム弾使用の論難が起きているイラク砂漠地帯など、現場取材を通じて核の災害の現実を知らせることに力を注いできた。彼は福島の原発事故翌日の3月12日を皮切りに今年2月28日まで、この1年間に全部で18回、福島現地を取材した。

 


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