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ロシア十月革命は「陣地戦」として闘われることで勝利を実現しえた
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学習
ヘゲモニーと永続革命――
トロツキーとグラムシ (5)
西島 栄(トロツキー研究所) |
5、一九一七年革命とヘゲモニーの実現 反動期に続いて、第一次世界大戦直前に再高揚期が存在するのだが、そこは飛ばして、一気に一九一七年に話を移そう。日露戦争のような局地的戦争にさえ大きく動揺して一九〇五年革命を引き起こしたロシア帝政は、第一次世界大戦のような総力戦にはとうてい耐え切れなかった。すでに一九一六年頃から大きく動揺しはじめ、一九一七年初頭には国内の緊張は頂点に達していた。一九一七年二月末、街頭を飛び出した民衆に軍隊が合流し、あっという間にロシア帝政は崩壊した。
(1)機動戦としての二月革命
ここで改めて、一般に流布しているロシア革命像の誤りについて述べておく。周知のように、グラムシは、獄中ノートにおいて一九一七年のロシア革命を「機動戦」の典型例として言及しているが、これはまったく一面的であり、そしておそらくは、グラムシ自身の意思にさえ反してそれが教条化され、その後、「機動戦としてのロシア革命」という理解ないしイメージが広がってしまった。
たしかに二月革命は機動戦だった。それは、街頭に飛び出した大衆が一気に帝政権力を崩壊に導いた典型的な「機動戦による革命」だった。しかも、このような機動戦が可能だったのは、帝政の寿命がつきかけていただけでなく、第一次世界大戦のおかげで、帝政を防衛するはずの軍隊の主要部分が離反していたからである。この要素がなかったら、二月の機動戦で勝利することもなかったかもしれないし、少なくともはるかに困難だったろう。ちなみに、一部の論者は、このような「機動戦としての革命」のみを「革命」ないし「真の革命」とみなし、組織された革命であった「十月革命」を「クーデター」とみなしているが、この皮相な見方は、彼らが――しばしばグラムシを賛美しているにもかかわらず――「革命=機動戦」という根本的に誤った観念(ヘゲモニーなき革命!)を抱いているからに他ならない。
さて、大衆が街頭に飛び出し、そこに首都の軍隊が合流することで一気に二月革命は成就した。しかし、それは準備のない革命、主要な陣地を事前に獲得することなく一気に本丸へと攻め込んだ機動戦であったために、敵将(ツァーリ)が逃亡して権力の空白が生じたとき、この革命を成し遂げた大衆はその空白を埋める能力をもっていなかった。事前に組織されておらず、権力を掌握する能力を陶冶されることなく(それは長期にわたる陣地戦を通じてはじめて陶冶される)、帝政の打倒を果たした大衆は、手を伸ばせば届くはずの権力の座をそのまま放置した。それゆえ、この空白は、事前に、支配階級の一員であることによって統治能力を、したがって「構造的ヘゲモニー」を部分的に有していたブルジョアジーと地主階級の諸政党によって埋められたのである(ブルジョア的臨時政府の成立)。これがまさに、トロツキーが『ロシア革命史』で述べた「二月革命のパラドクス」の核心である。このパラドクスはまさに、「機動戦としての革命」、すなわち「ヘゲモニーなき革命」の必然的な帰結であった。
だが、既成権力と癒着していた勢力以外に、もう一つ組織された勢力があった。それがメンシェヴィキとエスエルである。ボリシェヴィキも組織されていたが、この時期にはかなりの小勢力になっていた。ボリシェヴィキは、「再高揚期」には、一時的にメンシェヴィキよりも多くの支持を労働者の中で得るようになったが、第一次世界大戦勃発後におけるナショナリズムの高揚と、ボリシェヴィキの「祖国敗北主義」路線の過激さゆえに、再び小勢力になっていたのである。二月革命を実行した大衆は、トロツキーの予言どおり、メンシェヴィキやボリシェヴィキの末端活動家たちとともにあちこちでソヴィエトを自然発生的に結成したが、このソヴィエトの指導部を独占したのはメンシェヴィキとエスエルだった。こうして、一九〇五年革命の時と同じくいわゆる「二重権力」が生じたのだが、この二重権力の頂点を占めていたのはともに、一九〇五年のときと違い、二月革命を実行した人々とは異なるブルジョア的ないし小ブルジョア的インテリ階層(その一部は旧支配層)だった。
(2)レーニンの「四月テーゼ」と陣地戦への転換
この「機動戦としての二月革命」後の状況において、ボリシェヴィキの多数派は、基本的に混乱状態だった。レーニンの「労農民主独裁」論のドグマを信じていた彼らは、この新しい二重権力状況においてどのような路線をとるべきなのか、まったくわからない状態にあった。そこへレーニンが「四月テーゼ」を引っさげて帰ってきたのである。レーニンの「四月テーゼ」は、状況の急転換の中で思想の偉大な飛躍が生じたことを示す歴史的文書である。混沌とした状況の中で、暗闇を照らす一本の光のように、進むべき道を鮮やかに示した。
それは、まず第一に、二月革命が革命の完了を意味するのでもなければ(メンシェヴィキにとっては二月革命はおおむね革命の勝利を意味していた)、ボリシェヴィキ主流派が考えていたような、単なるブルジョア民主主義革命の出発点でもなかった。どちらも、ブルジョア民主主義革命しか見ておらず、それがすでに主要な課題(たとえば帝政の打倒とブルジョア議会制共和国の成立)を遂行したと見るのか、まだそこまでいたっていないと見るのかの違いにすぎなかった。
しかしレーニンは、大胆にも、これは革命の第一段階から第二段階への過渡であると規定した。この意味は、すでにブルジョア民主主義革命という意味での「第一段階」がすでに遂行されたということではない。なぜなら、臨時政府は帝国主義的ブルジョア政府であって革命的民主主義政府ではないし、民主主義革命の主要な課題(土地問題の解決、旧支配層と官僚・常備軍の粉砕、公正な講和、等々)はまったく果たされていないどころか、臨時政府の帝国主義的性格からして果たしようがなかったからである。したがって、ブルジョア民主主義革命の完全な遂行はプロレタリアートと貧農への権力の完全な移行によって成し遂げられるとみなした。
だが、レーニンはこの権力を、自分が革命前に想定していた「労農民主独裁」とはもはや同一視していなかった。彼はそのような定式を古臭い時代遅れのものとみなした。では、この「プロレタリアートと貧農の権力」とはいったいいかなるものなのか? それは、結局のところ、トロツキーが想定した「農民に依拠するプロレタリアートの独裁」に他ならないものだった。レーニンは、四月テーゼ時点では、そこまではっきりとは言っていないし、また、このプロレタリア権力の確立が社会主義革命の出発点にもなるとも言っていない。このような見地にたどり着くのはもう少し後であり、革命のさらなる高揚の中でである。しかし、四月テーゼは、目指すべき権力がすでに「労農民主独裁」ではないことを明言し、にもかかわらずそれは革命の「第二段階」への過渡であるとした点で明らかに永続革命論への大きな接近を示している。
第二に、臨時政府が「労農民主独裁」ではないとしたら、なぜ「労農民主独裁」を目指さないのかという当然想定される質問に対して、レーニンは、それはすでに独特な形で実現されていると言い切った。それは労働者と兵士(軍服を着た農民)によるソヴィエトとして実現されている。それは革命前にレーニンが想定した単独の中央権力としての「労農民主独裁」ではないし、形式上の中央権力としての臨時政府を補完し、それに追随しているが、それにもかかわらず、労働者と農民の直接的な武装力に依拠しており、まぎれもなく「権力」として存在していると考えた。これは独特の「二重権力」であり、こういう形ですでに「労農民主独裁」は実現されているのだ、というのがレーニンの論理であった。
しかし、これはよく考えれば、いささか矛盾している。もし、二重権力のうちの「従属的契機」として「労農民主独裁」が成立しているとすれば、この二重権力状態を脱して、やはり革命前の想定と同じく単独の中央権力としての「労農民主独裁」を目指すべきであるという結論になるか(ボリシェヴィキ主流派の考え)、さもなくば、そのような単独の中央権力としての「労農民主独裁」はそもそも成立しえず、それはせいぜいメンシェヴィキとエスエルに率いられた従属的権力としてしか成立しないのだとすれば、「労農民主独裁」論は誤っていたという結論(トロツキーの立場)になるはずである。しかし、レーニンはそのどちらの結論にも行かず、労農民主独裁はわれわれの予期しなかった独特の事態の中でメンシェヴィキとエスエルのソヴィエトとして存在しているのだから、今さら「労農民主独裁」を目指すのではなく、新しい段階へと革命を進めるべきだという結論を引き出したのである。これはかなり苦しい議論だが、労農民主独裁論のドグマがしみこんだボリシェヴィキたちを事実上、永続革命論に導く役割を果たした。
このテーゼの第三の意義は、「社会主義の直接的導入」を否定しつつも、ブルジョア民主主義的課題に単純に収まらない過渡的諸要求を提出し、それを第一段階から第二段階への移行の主要な武器としていることである。これらの諸要求はまさに、後にトロツキーが「過渡的綱領」と定式化するものに他ならず、政策上の「過渡的綱領」(すべての地主の土地の没収とその無償分配、すべての銀行の一元化と国有化、生産の労働者統制と営業の秘密の廃止、即時の無賠償・無併合講和の提案、等々)と権力論上の「過渡的綱領」(「すべての権力をソヴィエトへ!」)とが結合したものである。とくに、この「すべての権力をソヴィエトへ」のスローガンはまさに、労働者の大多数を組織されたヘゲモニー機関へと結集しつつ、ソヴィエトを権力機関そのものへと高めるという二重の課題を、きわめて簡潔で労働者の琴線に触れる言葉で表現したものであり、「平和、土地、パン」と並んで革命の成功にとって決定的な役割を果たした。
従来、革命勢力が国家権力をとるというとき、そこでイメージされていたのはおそらく、既存の国家機関(議会であれ行政機関であれ)という制度的容器から敵を追い出して自分たちがそこに収まり、その機関から外部に向かって伸びている無数の「権力の糸」を握ることだ、というものだろう。しかし、このスローガンはそうした通念を覆した。それは、国家権力獲得以前にすでに形成されているプロレタリアートのヘゲモニーの機関に全権力を集中させることを要求するものだった。この過程は必然的に、ヘゲモニーなき国家と権力なきヘゲモニー機関との陣地戦となる。これは、パリ・コミューンよりもはるかに先進国型に近い革命であり、陣地戦型である。「プロレタリアートは出来合いの国家機構を自分たちの目的のためにそのまま使用することはできない」という趣旨のマルクスの有名な文言は、このソヴィエトの経験を通じて新しい次元を獲得した。
また、この「すべての権力をソヴィエトへ」はさらに独特の統一戦線論としても重要な意味を持っている。というのも、当時のソヴィエトはメンシェヴィキとエスエルが支配していたからである。レーニンは、単に大衆を啓蒙や宣伝によって獲得しようとしたのではなく、自らの経験を通じて学ばせようとした。メンシェヴィキとエスエルの支配するソヴィエトに全権力を集中させることを提案することで、セクト主義的な党派闘争的イメージを払拭しただけでなく、メンシェヴィキとエスエルに対する幻想を大衆自身の経験を通じて克服しようとしたのである。啓蒙的宣伝と並んで、大衆自身の経験を重視するこの戦略は、きわめて的確であった。ボリシェヴィキは、ソヴィエトの少数党として、ソヴィエトが進歩的政策をするかぎりにおいてそれを支持しそれを共同で遂行するあらゆる用意があることを示しながら、一瞬たりとも支配的党派に対する批判をやめることなく、その正体を大衆自身の経験を通じて暴露するという有機的戦略をとった。
対立党派に統一戦線を提案すること自体が大衆の啓蒙と経験において重要であるように、「すべての権力をソヴィエトへ!」と提案すること自体が、大衆にとって重大な啓蒙的契機であるとともに重大な経験であった。ボリシェヴィキが自己の党派的独裁を求めていないこと、自己が少数派であるソヴィエトに全権力を集中させ、プロレタリアートの多数派の権力を実現しようとしていることが、このスローガンを通じて説得的に示されたのである。メンシェヴィキとエスエルはそれを拒否し続けたことで、急速に大衆からの信用を失墜させた。このような効果は単にメンシェヴィキとエスエルの反革命性を宣伝するだけではとうてい達成できなかったろう。これこそまさに、そういう言葉では当時は言われなかったが、民主主義的ヘゲモニーの実現過程そのものであった。それは、後にグラムシが獄中ノートで定式化する「知的・道徳的ヘゲモニー」をまさに実地に発揮したものである。
このテーゼの第四の意義は、このテーゼの中でレーニンが、われわれはまだ少数派であり、徹底的に下から、草の根から、組織を広げ、大衆を説得し、多数派を獲得しなければならないと強調したことである。これこそまさに、「機動戦としての二月革命」、すなわち、権力をブルジョアジーに引き渡す結果にしかならなかったものから、革命の遂行者と革命勝利後の支配者とを一致させるための息の長い「陣地戦」への転換を、したがってヘゲモニーの現実的獲得を呼びかけたものに他ならない。
四月テーゼを「永続革命への転換を画するもの」という認識はトロツキストのあいだでは一般的であるが、それが「陣地戦への転換を画するもの」でもあるという認識はほとんど見られない。しかし、永続革命は何よりも陣地戦として成立するのであり、「永続革命=機動戦」というグラムシ的認識はまったく誤りなのである。なお、レーニンは基本的に二月革命から十月革命まで、陣地戦として戦略を確立したのだが、その過程で、時に「機動戦」に逸脱することもあった。それに対してトロツキーは一貫して「陣地戦」を展開し、それをソヴィエト的正統性と結びつけた。トロツキーにあっては、永続革命、陣地戦、ヘゲモニーという三つの要素は不可分に結びついていたのである。(つづく)
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