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統治の歴史的琴線、農民の
信頼が共産党の死活問題に
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前号に掲載した烏坎の闘いについて、香港のもう一つのトロツキスト組織、『十月評論』の観点を以下に紹介する。集会発言であった前回に比べ、闘いの経過、中国共産党指導部の対応、問題の根源である農村・農民問題、特に土地収用問題の爆発的性格が、事実資料をそえて解説されている。(「かけはし」編集部)
一九二七年、中華全国農民協会が結成され、広東の陸豊地区と海豊地区では労農代表大会が行われ、海陸豊地区労農兵士ソビエトの結成が宣言された。これは中国最初の共産政権であり「耕す者に田を」が基本的スローガンとなった。当時の農民運動の指導者、彭湃は「田仔罵田公」(小作は地主をののしる)という詩のなかでこう記している。「地主が平然と生きているなら、小作らは団結する。団結して革命をする。革命で田畑を分配する。わしには田んぼを、あんたには畑を。土地の分配ほどうれしいことはない。さつまいもじゃなく白米が食える」
新中国建国後初
の公認村民組織
かつて労働者農民に依拠した共産政権は、現在では労働者農民から不信のまなざしにさらされている。二〇一一年、広東省汕尾市にある陸豊市東海鎮烏坎村では、土地を巡る争いから村民と警察部隊が対峙し、村民らはインターネットで訴えた(訳注:中国の行政地区は、省・直轄市―市―県―郷で区分されており陸豊市は汕尾市に属する県級の市)。
「われわれは土地を巡る問題で抗議の意思を示しているだけです。私たちは共産党員です、共産主義青年団員です。政府とメディアは私たちの素性をおどろおどろしく報道することをやめてほしい」。その後、何度かの闘争を経て烏坎村民らは「烏坎村村民臨時代表理事会」を自主的に結成した。これは新中国建国六二年の歴史の中ではじめて政府が承認した権利擁護のために結成された村民組織となった。
烏坎村の人口は約一万三〇〇〇人。一五〇〇畝の水田と三七〇〇畝の畑のほとんどが開発のために接収されてしまったと村民は訴えている(訳注:中国の面積単位、一畝は約一五分の一ヘクタール)。一九九一年、東海鴻峰商業が烏坎村の土地一八〇畝を囲い込んだことに始まり、一九九三年には烏坎港実業開発公司が不動産開発に乗り出した。一九九七年には、烏坎村に本籍のある香港人資本家、陳文清が五〇〇畝を囲い込み養豚場を建設したことで村民らから不満が出た。陳文清は村民委員会(訳注:中国農村の自治組織で委員は村民の選挙で決める)と結託し、三二〇〇畝の土地を開発業者に転売し、開発業者から村に支払われた補償金をかすめ取った。陳文清はいまも広東省および汕尾市の政治協商会議の委員であり、香港の広東汕尾同郷会の会長も務めており、中国国内で多数のホテルや開発会社を運営している。(訳注:政治協商会議とは中国共産党による愛国統一戦線組織で、中央政府をはじめ各行政単位に設立されている)。
烏坎村の村民は一九九〇年代から陸豊市や汕尾市、そして広東省政府に対して何度も陳情を行ってきたが、納得のいく回答を得ることができなかった。烏坎村では薛昌という人物が四一年間も村のトップである村の党支部書記を務め、村を支配してきた。農民の同意を得ることなく村民委員会の名義で土地の売却・リースを行い、七億元余りの収入を得たにもかかわらず、補償費用として村民に支払われたのは一戸あたり五五〇元にすぎなかった(訳注:村民委員会も薛昌らにつながる関係者で占められていた)。
対官僚実力闘
争による成果
二〇一一年九月二一日と二二日、烏坎村の村民は陸豊市政府に抗議に押し寄せ、土地問題に対する調査を約束させた。薛昌ら村民委員会のメンバーは村から逃亡し、三階建ての事務所はもぬけの殻となった。九月二九日、村民らは「烏坎村村民臨時代表理事会」の一三人を選挙で選出した。運動を牽引してきた楊色茂が理事長、林祖鑾が理事会顧問に就任した。
二カ月経っても市政府からの納得のいく回答が得られなかったことから、村民らは一一月二一日に再び平和的な抗議行動をおこなった。一二月三日、陸豊市政府はメディアに対して、この事件はすでに解決したという一方的な発表を行い、村民らの怒りをかった。一二月四日には村民一万三〇〇〇人がストライキ、授業ボイコット、商店休業、出漁中止などを実施して集会とデモを敢行した。
一二月五日、村民は上級組織から一方的に任命された党書記の就任も拒否した。一二月九日、警察が荘烈宏、薛錦波、張建城、洪鋭潮の村民リーダーを逮捕した。一二月一一日、陸豊市政府は、逮捕した薛錦波が心源性の突然死で死亡したと発表。一二月一二日と一三日には村民らが追悼と冤罪をはらすための集会を行い、闘争継続を宣言した。
人々の怒りに直面した上級政府機関は村官僚らに対する事情聴取を行うとともに、薛昌と陳文清の癒着の象徴であった土地開発プロジェクトを一時中止せざるを得なくなった。一二月二一日、村民運動指導者の林祖鑾が、広東省の党委員会副書記の朱明国、汕尾市のトップである市党委員会書記の鄭雁雄らと、陸豊市で会談を行った。
メディアや取材を締め出した密室で双方が記録員をともなって交渉が行われ、逮捕され死亡した薛錦波の死因鑑定、逮捕されている三人の村民の釈放、村民らによって選出された臨時代表理事会の承認、報復措置は行わないことを鄭雁雄が約束し、事件はひと段落した。
一二月二七日、国務院総理の温家宝は北京で開催された中央農村工作会議で、土地請負経営権、農村住宅地使用権、集団利益分配権などは農民に与えられた合法的な財産権であり、かれらがそれを必要とするか否か、かれらが農村にいるか都市部にいるかに関わらず、それを剥奪する権利は誰にもない、と強調した。
温総理の講話は、中央政府は「土地使用権等の放棄と引き換えに都市部における社会保障を手に入れる」政策には賛成しないという地方政府へのメッセージであると中国人民大学教授の鄭風田は分析している。
一二月八日、国土資源省は「都市と農村の建設用地の増減振り替え試験地区の業務に関する通知」で、農村部の建設用地を開発するにあたっては、農民の意向を十分に尊重するとともに国土資源部の許可を得なければならないと通知した。しかし鄭風田は、新たな「土地管理法」を制定して、地方政府による土地収用の条件を厳しく、農民と地方政府の間で紛争が発生した際に依拠できる法的根拠が必要だと考えている。
「土地から財を
成す」が火薬庫
改革開放以降、少なくとも五〇〇〇〜六〇〇〇万人の農民が土地を完全に失い、一部は都市住民になったが、そのうちの半分近くは仕事も社会保障もなく社会問題になっている、と中国社会科学院農村発展研究所社会問題研究センターの建は指摘する。
二〇年近くにわたり農民からおよそ一億畝の農地が収奪されたが、それに対する補償額は、土地の市場価格を二億元下回るという。農民が土地から得る付加価値収益はわずか一〇%程度で、残りの九〇%は上級の各級政府が受け取っている、と鄭風田は批判している。国務院発展研究センターの劉守英研究員は、現行の土地収用モデルはきわめて危険であり、このまま「土地から財を成す」モデルを継続して発展させることになれば、農民の利益は損なわれ、さらなる社会矛盾を作り出すと指摘する。
中国社会科学院が公表した「二〇一一年中国都市開発報告」によると、都市化と工業化の加速化にともない、農村の集団所有地が大量に収用され、土地を失う農民(失地農民)の数は急速に拡大している。中国の失地農民の数は四〇〇〇万から五〇〇〇万人に達し、現在も毎年三〇〇万人ずつ増加しており、二〇三〇年には一億一〇〇〇万人に達すると予想されている。
現代農業経済理論によると、収用地一畝あたり一・五人の失地農民が生まれるという。二〇〇〇年から二〇三〇年の三〇年間に占有される耕地面積は五四五〇万畝以上になると予測されることから、失地農民は一・一億人程に達するという計算になる。サンプリング調査によると、六〇%の失地農民が生活に困窮しており、土地を失ったことによって基本的生活に影響を受けなかったのは三〇%程度に過ぎない。八一%の失地農民が将来の生活を心配しており、そのうち老後の生活を心配する人は七二・八%、収入を心配する人は六三%、医療面で心配する人が五二・六%にのぼっている。
大規模な土地収用と同時に、都市部における土地の乱開発と非効率な利用も深刻である。国土資源省が二〇〇八年一〇月に発表した「全国土地利用総体計画要綱」によると、全国の都市部の計画区域に、認可後も開発されていなかったり放棄されていたりする休閑地が合計三九五万六一〇〇畝もあり、都市部の建設用地の七・八%を占めている。一九九七年から二〇〇五年までに、農村人口は九六三三万人減少したが、農村の宅地面積は一一・七五万ヘクタール(一七〇万畝)増加している。これらの数字は、農村の建設用地の利用効率が全般的に低く、収用の規模が実際の需要を上回っていることを示している。
中国社会科学院の報告では、失地農民が都市部住民となった後も、地方政府は職業転換や社会保障、住民サービスなどを提供せず、深刻な社会問題を引き起こしており、頻発する農民の陳情行動のうち、六〇%は土地と関係のある事柄であり、そのうち三〇%は収用に関連するものである述べている。
失地農民が増加すればするほど、その社会的影響は甚だしいもになるだろう。中国の歴史を振り返ってみれば、安定的支配を続けてきた歴代王朝はどれもみな「耕す田畑に困らず、租税の負担も厳しくない」安らかな生活を保障してきたといえる。つまり、農民の信頼を得たものが天下を支配し、農民の信頼を失ったものは天下をも失ってきたのである。
『十月評論』二〇一一年第二・三期
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