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平時における頑強な陣地戦なしに
革命的ヘゲモニーの行使は不可能
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ヘゲモニーと永続革命――
トロツキーとグラムシ (4)
西島 栄(トロツキー研究所) |
3、一九〇五年革命における党とソヴィエト(承前)
(3)ソヴィエトをめぐる政治的対立
だが、この新しい現象に対して旧来の思考に囚われていたボリシェヴィキはうまく対応できなかった。その典型は、国内ボリシェヴィキがソヴィエトに敵対を示したことである。党が素手で権力を獲得する(あるいはせいぜい、党の意のままになる道具=手袋を通じて権力を獲得する)という発想を捨て切れていなかった国内ボリシェヴィキは、ソヴィエトをヘゲモニー機関と見るどころか、党に対するライバルだとみなし、ソヴィエトがただちに党に服従すると宣言しないかぎりボリシェヴィキはソヴィエトから離脱するべきと考えた。すなわち、ソヴィエトが、党の意のままになる「伝導ベルト」ないし「フロント組織」のような存在にならないかぎり、それは党による革命を阻害する障害物だとみなしたのである。ここにおいて、いわゆる誤った「急進主義」(急いで目標に達しようとする焦燥感の政治的表現としての「急進主義」)が何ら目標の到達を速めず、むしろ遅めるという事実を示している。彼らは、党と革命とのあいだに忽然と現われたソヴィエトを、党を革命に接近させる媒介項とみなさず、党と革命とを引き離す疎隔物とみなしたのである。
それに対して、その革命的柔軟性においてボリシェヴィキのどの仲間よりも秀でていたレーニンは、国外から、党かソヴィエトかではなく、党もソヴィエトも、だという立場を表明し、国内ボリシェヴィキの誤りを正した。現実そのものに深く学んで旧来の図式をあっさりと覆すというレーニンの偉大さがここでも発揮されている。しかし、レーニンは、ソヴィエトの必要性をただ、当面する革命がブルジョア民主主義革命だからという理由で認めたにすぎなかった。ソヴィエトの意義は本当は、それとは逆、すなわち、それがプロレタリア革命のための媒介項になりうる(したがってまた革命の勝利の暁には労働者権力の機関になりうる)機関だという点にあったのだが(トロツキーは、ソヴィエトをパリ・コミューンのロシア版だとみなしていたので、まさにプロレタリア革命のためのヘゲモニー機関だとみなしていた)、レーニンは、プロレタリア政党以外の雑多な諸勢力が入っていることを理由にソヴィエトを承認したのである。
レーニンの介入によって、ボリシェヴィキも積極的にソヴィエトに参加することになった。しかし、その参加が遅れたため、ソヴィエト内の主導権をボリシェヴィキは握れなかった。主たる勢力はメンシェヴィキだったが、メンシェヴィキの多くの部分は日和見的だったので、能動的ヘゲモニーを行使できなかった。こうして、結局、ボリシェヴィキでもなくメンシェヴィキでもなく、そしてその革命的能動性において右に出るもののいない一人の若者、トロツキー(およびそれを支えたパルヴス)が両極(ここではメンシェヴィキとボリシェヴィキ)を媒介する傑出した中間項として、両極に対してヘゲモニー的な地位を占めたのである。
トロツキーとパルヴスの「ヘゲモニー」のもとでペテルブルク・ソヴィエトはまさに事実上、革命的ヘゲモニー機関として機能した。形式的には帝政が存在しているにもかかわらず、ペテルブルクでは、事実上の革命権力が存在しているような状況になった。それは、パリ・コミューンのように自らを政府と宣言するまでには至らなかったが、パリ・コミューン並みに(いやそれ以上に)権力を行使していた。これは、上からの形式的ないし法的な「宣言」による「権力」ではなく、首都における労働者の潜在的にヘゲモニー的地位と労働者の圧倒的多数を組織することで成立した下からの権力であり、まさにその意味でそれは「労働者のヘゲモニー」だった。
これは一種の「地域的二重権力」状態だが、言いかえればこれは「革命なきヘゲモニー」ないし「国家権力なきヘゲモニー」であると言える。これは革命の成功と発展の過程でしばしば生じる現象であり、このような不安定状態は長期にわたって存続することはできず、一時的にヘゲモニーを握った側が形式的にも権力を獲得して革命の勝利に至るか、ヘゲモニーが既成権力によって粉砕されるか、どちらかの結末を急速にもたらすことになる。一九〇五年革命の際には、結局、後者の結果になるのだが、しかしここで得られた教訓と経験とはその後の革命において決定的な役割を果たす。一九一七年革命は、一九〇五年の経験なしにはけっして実現しなかっただろう。無駄な敗北など歴史には存在しない。
4、反動期におけるヘゲモニーと陣地戦
次に、一九〇五年革命敗北後の反動期について見ていこう。ここにおいても、ヘゲモニー論の発展にとって重要な諸契機を見出すことができる。
(1)革命の衰退と両極分解
一九〇五年革命の熱狂のもとで、ボリシェヴィキとメンシェヴィキとの対立もかなりの部分取り去られ、両党は合同大会を開催するまでになる。第四回大会(トロツキーは獄中にいたので不参加)と第五回大会(ロンドン大会)は、第二回大会以来の合同大会であるとともに、事実上、最後の合同大会となった。
ペテルブルク・ソヴィエトが崩壊し、ソヴィエト不在のもとで一二月蜂起がなされて失敗し、しだいに革命的熱狂は収縮していくことになる。ただ、革命の上昇と下降の地理的不均等発展が存在したので、首都ペテルブルクではすでに革命が下降線をたどっている時に、それ以外の地方の大都市では逆に革命が盛り上がり始めており、それゆえ、全体として一九〇七年の六月三日におけるストルイピンのクーデターまでは、広い意味で「革命期」と呼べるような状況が継続した。だからこそ、合同大会も開催されたのである。
しかし、一九〇六年〜一九〇七年ごろからすでに、党の指導的部分においては革命の下降は察知されており、ロシア社会民主労働党の中で両極分解がはじまっていた。わずか五〇日しか存在しなかったソヴィエトをどのように理解するべきなのかは、その後の革命論争において大きな意味を持ったのだが、その真の意味を正しく理解したのはトロツキーだけだった。すなわち、それは党と革命とを媒介するついに発見されたヘゲモニー機関であり、革命の勝利を実現するための機関であり、勝利の暁には権力を行使するプロレタリア政府機関としての、ソヴィエトである(大三項図式の後半部に成立した小三項図式)。トロツキーは、ソヴィエト崩壊後もこの展望をしっかり堅持し、次に革命が盛り上がる時にはペテルブルクだけでなく全国津々浦々にソヴィエトが結成され、一九〇五年革命が中断された時点から革命が開始されるだろうと予言した。何という正確な予言であったことか!
しかし、トロツキーをはさむ両極では、この小三項図式はしだいに崩壊していく。まず、メンシェヴィキは、ソヴィエトの偉大さに魅了されるとともに、レーニン主義的な匂いのする非合法の党そのものを否定するようになり、より大きな三項図式における「党」という大中間項はソヴィエトという小中間項と合体し、ソヴィエトを全国化するものとしての「労働者大会」および「大衆的労働者党」に非合法の党を解消するという展望が生じた。こうして、大三項図式そのものが、「前衛(メンシェヴィキ)―労働者大会(党とソヴィエトの融合物)―革命」というものになった。しかし、ソヴィエトのような広範な革命的大衆組織が、革命的熱狂の時代ではなく、猛烈な弾圧がなされる反動期においても維持できるというのはまったくもって空想的であり、発達した資本主義国のような自由と民主主義が一定保障されているもとでさえ、ソヴィエトのような全国的な労働者代表組織を長期間維持することは不可能に近いだろう。この発想は、権力をとることなしに労働者のヘゲモニーが長期的に存続しうるという幻想にもとづいている。したがって、この展望は結局、媒介項そのものの不在と消失を意味し、レーニンが口をきわめて非難した「解党主義」へと行き着くのである。
他方、ボリシェヴィキにあっては、ソヴィエト崩壊後は、ソヴィエトの画期的意味が十分に理解されず、再び、非合法の党を梃子として革命を遂行するという展望に舞い戻ることになった。しかし、反動期には維持しえない労働者大会と違って、非合法の党は合法活動と結合しつつそれを堅持することができた。こうして、革命的熱狂期には、メンシェヴィキにおける党否定的な態度がむしろプラスに働き、ボリシェヴィキの党崇拝的態度がマイナスに働いたのだが、この反動期においてはむしろ、メンシェヴィキの党否定的態度は解党主義へと行き着き、ボリシェヴィキにおける党崇拝的態度がプラスに働いたのである。このような路線は、反動期において革命的前衛を組織的に保存し、情勢が好転するとともに革命的陣地を拡大していくという、「陣地戦的ヘゲモニー」戦略を可能にしたのである。
この両派に対してトロツキーは、一方では、党に取って代わる機関としての労働者大会ではなく、党がヘゲモニーを行使するための全国機関としての「労働者大会」の展望を支持しつつ、メンシェヴィキにおける解党主義を批判し、非合法の党の存在を擁護し、それを合法活動と有機的に結合することを提唱した。理論的には、トロツキーの立場は完璧である。しかし、トロツキーには、反動期において陣地戦を遂行するための梃子となる組織がなかった。すなわち、大三項図式における前半部の小媒介項たる「分派」がトロツキーには存在しなかった。トロツキーは、分派主義反対、党の統一をと訴えた。彼は、大三項図式における後半部に注意を集中したため、「革命的前衛」が党の中でヘゲモニーを獲得するためには、そのための組織された中間項(革命的分派)が必要であることを理解しなかった。彼は、ウィーン『プラウダ』などの機関紙を基盤に党の統一を倦むことなく繰り返し主張し、それは一定の影響力を持つに至ったが、ボリシェヴィキもメンシェヴィキもいっさい自分たちの陣地を譲る気はなかったので、この試みは挫折する運命にあった。
(2)陣地戦としてのヘゲモニー論
この革命衰退期と反動期において、レーニンは、解党主義と戦いつつ、党の陣地を守るとともに、党を通じて、ブルジョア的政治勢力(とりわけ、第一国会と第二国会で反政府派の中で圧倒的な優位を獲得したカデット)の影響を労働者大衆の中から払拭して、しだいに自己の陣地を広げていくという「陣地戦としてのヘゲモニー闘争」を主導することになる。
グラムシの図式においては、発達した市民社会のある西方では陣地戦が主要な闘争形態であり、市民社会が未成熟な(ゼリー状の)東方では機動戦が主要な闘争形態であるということになっているが、これはすでに述べたようにまったく一面的である。ロシアにおいても、革命闘争の基本は常に陣地戦であった。労働者のヘゲモニーなしにはプロレタリア革命は実現できないのだから、そしてヘゲモニーは一朝一夕で獲得できないのだから、ヘゲモニー獲得闘争は必然的に陣地戦の形態をとる。ただ違うのは、その陣地戦が比較的速やかに進行するのか、それともそれに対する頑強な抵抗が旧社会に存在するのかであって、市民社会という堅牢で柔軟な諸制度(ブルジョアジーの「構造的ヘゲモニー」)を備えている西方では、この陣地戦そのものがきわめて長期にわたる困難なものになるのである。東方ではそれほどでもないのであり、そこが違いなのであって、一方は陣地戦だが他方は機動戦という図式ではない。東方であれどこであれ、あたかも陣地戦なしにプロレタリア革命が可能であるかのように考えるのは、革命過程においてヘゲモニーの獲得が決定的である点を理解していないことを意味する。
この衰退期と反動期において、レーニンの著述物には、一九〇五年革命時とは比べものにならないぐらい多く「ヘゲモニー」という用語が登場する。従来の研究では、不思議なことに、一九〇五年革命における、あるいはその前の時期におけるレーニンのヘゲモニー使用例ばかりが引用されるが、実を言うと、レーニンは、一九〇五年革命の高揚期にはほとんどヘゲモニーという言葉を使っていない。レーニンがヘゲモニーという用語を多用しはじめるのは、事実上、一九〇五年革命の高揚期が終了して、その衰退期が始まってからである。
またこの反動期においてレーニンは、いわゆる「解党派」が自覚的にヘゲモニー論を放棄しようとしたことに対して猛烈なイデオロギー闘争を遂行している。その中でレーニンはプロレタリアートの階級形成とヘゲモニー闘争との有機的連関を明らかにしており、これは革命運動内部でのボリシェヴィキのヘゲモニーを確立するためのイデオロギー的「陣地戦」でもあった。
このような地道で長期にわたる陣地戦的取り組みがあったからこそ、第一次世界大戦による社会愛国主義の席巻にもボリシェヴィキは耐え抜き、一九一七年において革命を遂行する最低限必要な陣地を確保しえたのである。どんな革命情勢も無から革命的ヘゲモニーを行使しうる党を一朝一夕でつくることはできない。それは、革命情勢が起こるずっと以前から準備され、あらゆる「平時の」諸事件を通じて鍛えられていなければならない。レーニンはそれを成し遂げた。トロツキーにはそれができなかった。それゆえ、トロツキーの理論的優位性にもかかわらず、一九一七年革命において十月革命を成し遂げたのはボリシェヴィキであって、トロツキーが展望したようなメンシェヴィキとボリシェヴィキとを統合した「統一した党」ではなかったのである。 (つづく)
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