【静岡】二月一一日は例年、靖国問題連絡協議会の呼びかけで、ヤスクニを闘い、思想・信仰の自由を語る集いが持たれてきたが、今年はキリスト者を中心とするこの会がフクシマの現実を見据えた集会を考えていると知った反原発グループがこれに合流して、共同の集会を持つ運びとなった。
この集会には福島から中田麻意さんとお子さん(小学三年)、いわき自由労組の斉藤春光さんの三人を招いた。初めに実行委を代表して靖国問題連絡協議会の中川さんが共同の集会となった経緯を簡単に紹介した上で「フクシマ原発震災から多くを学ぶため、現地からの話をしっかり受け止めたい」とあいさつした後、現地からの報告を受けた。
食品線量検査
に市民の関心
斉藤さんは「いわきはどんなところか」と切り出して「かつて常磐炭鉱があり、戦争中には朝鮮の人々を強制連行して酷使した歴史を持つ街」が原発震災でどんな状況になったかを日常生活の激変の中から「何が手にはいらなかったか」という具体例――水、食べ物、灯り、ガソリンなど――について語り、困難な生活を強制した東電という会社の実態を次のように指摘した。
それは「隠ぺい、無責任、焼け肥り体質であり、事故隠し、データー改ざんを繰り返しながら、誰も責任を取らない。これが現在でも何ひとつ変わっていない。不祥事を重ね巨大独占にアグラをかいてきた結果が眼の前にある現実だ。この原発震災は起こるべくして起きた」と断言した。
そして、現在行っている活動のひとつとして、「食べ物の線量検査をやっているが検査希望が多く、三カ月待ちの状況にあり、市民の間の放射能に対する不安の大きさを実感している」と同時に、「一般の家屋一軒あたり五〇〇万円もする除染費用の負担はとてもできないし、今のやり方で解決するものでもない。相当長い期間が必要だ」と述べ、福島県民が抱える困難な生活と闘いを報告した。
なぜ私たちは
避難したのか
つづいて中田さんは三・一一からお子さんを連れて福島を離れ避難するまでの経過とその心境を語った。「三・一一直後、小学校に行くと子どもたちが校庭に集まって避難していたが大きく激しい余震が続く中、全員を体育館に移動させたので怖くなった。と言うのも体育館の照明器具や運動器具が落ちてくるのではないか、子どもたちのケガが心配になったからだ。しかし誰もその場から動かないので、自分だけ子どもを連れて自宅に帰った」という最初の判断と行動の動機はそれ以来、今日まで変わっていないと言う。
そして、当時は「原発についてほとんど知識もなく、関心が低かった自分が現実に起きていることをどう理解すればいいのか分からなかったが、テレビや新聞報道や県民が注意すべき事項の知らせなどに違和感があって、信用できなかった。それでインターネットで必死に情報を取って知識を得ようとした。そんな中、福島県の原発対策アドバイザーで山下(大学教授)という人物が公民館や学校に人を一杯集めて講演していて『原発、放射能は怖くない』などのいろんな話をしていたり、病院の院長はホウレン草を何十s食べても安全だとか信じられないことを言って回っているのに驚いてしまった」という経験や「知り合いに原発内で作業している人がいて、その人は大丈夫だろうかと心配になり、探したところ不明だったり、4号機の水素爆発の後、二人の人が吹き飛ばされて海から遺体で発見されたことを知ってますます、これはおかしいと思うようになった。そういう中で、自分の子は大丈夫かと心配になった。そこで小学校に掛け合ったが、校長以下何の対応もしないと言うだけでなく、平然と校庭に子どもたちを遊ばせているので怒りが募るばかりだった。周りのひとにこれをどう思うかどうするのか相談してもはっきりとした答えが出てこない状況が続いて、これはもうダメだと思い、放射能から子どもを守るため避難することを決めた」と言う。
中田さんは現在、秋田県田沢湖町に移り住んでいるが、福島にいる時に自覚症状のあった身体の変調も改善し、お子さんの身体も回復したという。そして「原発事故で受けた被害、放射能から自分と子どもを守るためにはこれしかなかったけれど、今も福島にいる人たち、知り合いの一人ひとりに声を掛け続けていて、何とか子どもだけでも避難させたいと思う」と言い、終わりに「福島の現実を経験した今、浜岡原発を再稼働させるような動きがあれば、これを止めるために自分も応援に駆けつけたい」と結んだ。
浜岡原発の再
稼働を許すな
集会はこの後、カンパアピールをはさんで、実行委に参加した五つの団体・グループからの短いアピールがあった。これらのアピールが示した特徴的なことはそれぞれから三・一一以後、活動してきた――それは労働組合を中心とする団体であったり、反原発市民グループだが、数百人規模から最大四〇〇〇人の浜岡現地行動に至るもの――県内ほとんどの勢力と主要メンバーが共同の場に立ったということであり、この集会を持って浜岡の再稼働を止めるために「脱原発静岡連絡会」を立ち上げた意義は今後の共同の闘いいかんによるとは言え、きわめて大きいというべきだろう。この後経産省テント村から最新の報告を受け、最後に実行委から、共同の闘いで浜岡原発再稼働阻止をめざすまとめの提案をもって、集会を終えた。
そして、デモへの出発となり、会場を移動して、市内の公園に再び集まって二〇〇人近い参加者は子ども御輿を先頭に夕方の市内を元気に行進した。 (S)
コラム
大雪と社会矛盾の噴出
今朝もテレビをつけると雪に埋もれた富山や豊岡の市街地が映し出された。正月以来降り積もり、積雪はすでに一メートル近くに達し、新潟県の豪雪地帯である妙高や津南町では四メートルに届こうとしている。私は雪国で生まれ育ったせいか、多くの場合、雪のあるシーンを見ると最初に懐かしさが込みあげる。しかし、今年の大雪には「大変だろうな!」の一言。時には凍てつくような寒さ、雪下ろしや雪かきのしんどさ、また呼吸もできない程の吹雪、さまざまな経験とともに「大変だろうな!」という気持ちがよぎる。
今年の大雪は戦後三度目とのこと。前の二回についても鮮明な記憶がある。伝説の「三八豪雪」(一九六三年)の時、私は中学生で、吹雪のために何回も休校になったことを覚えている。その冬、初めて雪下ろしのために屋根に上がることが許可された。それまでは父親が屋根から下ろした雪を、家の前を流れる融雪溝と呼ばれる側溝に投げ込む係。この大雪でクラスの中には二階の窓から出入りする家があり、学校の帰り数人で窓から出入りさせてもらい感動したことがあった。
「一八豪雪」(二〇〇六年)の正月元旦、友人たちと越後湯沢から北越急行に乗り換える十日町に泊まった。雪は一晩中降り続き、駅に向かう国道は雪崩のために通行禁止。部分開通した後、旅館の主人が車で湯沢とは反対方向の飯山線の森宮野原駅に送ってくれた。途中通過した津南町は、正月二日だというのにすでに二メートル近い積雪。列車は千曲川沿いに長野市に向い走っているはずだが、雪が車窓を覆いやっと川の流れを確認できたのは野沢温泉に近づいてからであった。日本有数の豪雪地帯とはいえ、その雪の深さには圧倒された。
先日、実家の弟から「ひまがあったら雪下ろしの手伝いに来い」という電話をもらった。屋根に取りつけた融雪用の熱線は降雪に追いつかず、ブルドーザーが除雪した雪は軒下に積み重なり、融雪溝まで運ぶだけでも一苦労だという。さらに労働力のない親類の応援まで加わり、身体は休日の方が大変だという。
この大雪は高齢化、過疎化、地場産業の崩壊、市町村合併の弊害、地方財政の破綻という今日日本社会が抱えているあらゆる矛盾を覆い隠すのではなく、逆に一斉に噴出させている。先日発表されたサラリーマン川柳に次のような一句があった。「定年後 田舎に帰れば 青年部」
(武)
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