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    かけはし2012.年2月13日号

わずか6カ月で原子力研究院が核発電所の誘致に化けた

福島原発の事故で目覚めた三陟市民

  2011年12月23日午前10時、韓国水力原子力株式会社(以下、韓水原)は核発電所(原発)の新規建設のための敷地予定地候補として江原道三陟と慶尚北道盈徳(ヨンドク)を選定したと発表した。実に驚くべきことだ。韓水原は一介の事業者にすぎない。核発電所はものすごい課題だ。国家レベルのエネルギー政策に属することだ。一度決定すれば、その影響から脱け出すまでに何百年、いや何千年かかるかも分からない国家の重大事だ。このような巨大な計画を一介の事業者が発表するということ自体が、はたして国民の目にはどう映るだろうか。

21兆ウォン規模の国策事業

 それまでの1年6カ月の間、三陟(サムチョク)では奇怪なことが、たくさん繰り広げられた。三陟が核発電所新規建設候補地に選定される過程で、高度に計算されたやり方で三陟市民を籠絡しようとする幾つものトリックが乱舞したという事実を知っている人は多くはない。
 話は2010年5月にさかのぼっていく。当時、キム・デス三陟市長はハンナラ党の公認争いから脱落し、無所属での再選への挑戦を宣言した。その年の5月11日、出馬を宣言する記者会見においてキム市長が「21兆ウォン規模の世界原子力研究院を誘致する」と宣言するとともに問題は始まった。「研究院」という単語が持っている属性とは何だろうか。人々は何となく白衣の研究員や大学の建物・研究棟を思い浮かべたことだろう。
 研究院が核発電所に化けるとは誰も思わなかった。単に「21兆ウォン規模の国策事業を誘致する」という公約だけが三陟市民らに飲みこまされていった。キム市長は健康上の理由を口実に、市長候補のTV討論にも参加しなかった。このような非民主的やり方にもかかわらず彼は再選に成功した。当時の選挙で「核発電所の誘致」ということを言ったならば、おそらく選挙の様相は違うものになりえただろう。
 当選直後からキム・デス市長は言葉を変え始めた。意味のない難くせをつけるわけではない。三陟市が出した「市長指示事項」という公文書を根拠にして言っていることだ。どう変わっているのか目をこらして見てみよう。
 2010年7月2日にはハッキリと「原子力発電研究院」の誘致だった。その年9月8日には「スマート原子炉誘致と言葉を変えていたが、遂に10月18日の幹部会議で公式に「核発電の誘致」を宣言する。そして核発電所誘致の申請同意案を提出し、市議会をも籠絡することが繰り広げられた。その年12月に発表した国土海洋部(省)の「東海(日本海側)圏の発展総合計画」に既に原子力クラフト(複合体)事業は慶尚北道と蔚山地域の東海圏と登載しているにもかかわらず、同月6日の市議会に提出した同意案の名称は「原子力クラスター構築のための原子力発電所新規敷地誘致申請同意案」と書かれていたのだ。
 ここに至るまでに要したのは、わずか6カ月だった。あわててかきこんだ飯が腹をこわすのは当然だ。口やかましい多数の市民たちまでが誘致に同意するものと誤算したキム市長は、市議会に誘致申請同意案の処理を要求するとともに、三陟核発電所誘致白紙化闘争委員会(以下、反闘委、常任代表パク・ホンピョ・トゲ聖堂主任神父)は一部の市会議員らを説得し、準備した住民投票の要求を受け入れさせた。市会議員8人全員が原発誘致についての住民投票同意署名簿を作成・署名し、三陟市は住民投票を行うとの内容を盛り込んだ文書を市議会に送った。

候補地発表延期の「せこい手」


 2011年、新年になるとすぐにキム市長は強大な行政力を基盤にして、さまざまな御用団体を総動員して誘致賛成の雰囲気を作り出していった。韓国原子力文化財団の支援を受けて核発電所への団体見学が相次ぎ、各御用団体名義で誘致支持の横断幕が掲げられ始まった。横断幕は初めは1、2枚掲げられるレベルだった。だが(旧)正月を過ぎると邑・面・洞(行政の末端組織)の首長までが乗り出して督励しつつ、各地域の大小さまざまな団体はもちろん、市に納品している業者に至るまで、まるで横断幕を掲げる競争でもするかのような様相になった。ついには市内の食堂や旅館までが誘致申請賛成の幕を掲げるという珍風景が演出された。市内に掲げられた横断幕、垂れ幕は1千枚を超えた。さながら「横断幕全盛時代」の趣だった。
 その頃から「原子力発電所誘致協議会」が作られて、2月中旬から誘致申請への賛成署名を集め始めた。署名作業がはかばかしくないとなるや、市の公務員が動員された。そのようにして集めた誘致賛成の署名者名簿が三陟市の有権者の96・9%に達していると市側は宣伝した。考えてもみよう。全有権者のうち3・1%だけが反対した計算だ。約1788人だ。ところで2011年4月の江原道知事補欠選挙の際、不在者と申告した人だけでも1859人だ。三陟に住んでいなかった人までが誘致賛成の署名をした、ということなのか? それにもかかわらずキム市長は「圧倒的な賛成の世論」を強調しつつ、2011年3月2日の職員朝会で「約束したこともなく、法的にもできない」として市議会に約束した住民投票を反古にしてしまった。
 そして3月11日、日本・東北地方の強震と共にフクシマ原発の事故が勃発した。リアル・タイムで伝えられる核発電所の状況に接するやいなや、人々の認識が変わり始めた。3カ月余り、何とも凶々しく陣取っていた誘致賛成の横断幕がこっそりと取り払われた。フクシマ核発電所の爆発事故以降、反闘委の事務所を訪れる人が次第に増えた。降り注がれるメディアの関心は中途半端なものではなかった。
 遂に4月4日、反闘委は三陟・大学路公園で大規模集会を開いた。全国的関心を繁栄するかのようにチョン・ドンヨン民主党最高委員、進歩新党のイ・ジョンヒ、チョ・スンス議員ら有力政治人が大挙参加した。千人を超えたこの日の集会で市民たちも次第に自信感を持つに至った。全国の環境問題各団体との連帯組織も作られた。世界的環境団体グリーン・ピースの「レインボー・ウォーリア」号が6月22日、17年余ぶりに再び三陟港に入港して市民らと肩を組み、街頭デモを展開した。毎週水曜日、「核のない世の中」を祈願するミサやキャンドル集会が今もなお続けられている。「上半期中に候補予定地を発表する」としていた韓水原が発表の時期を変えたのも沸き立っている世論に押されてのことだ。「ソナッピ(激しい夕立)」を避けようとする一種の「コムス(せこい手)」だった。
 三陟は1990年代(発電所)と2000年代(核廃棄物処分場)の2度にわたって「核」を退けた貴重な歴史がある。今も近徳面トクサン里マウプ川の川辺に行けば、当時の反核闘争を記念して作った「8・29記念公園」と「原発白紙化記念塔」が、しっかりとその場を守っている。環境運動家たちの話を聞いてみると、「原発白紙化記念塔」があるのは世界広しと言えども三陟が唯一だという。
 1993年にも今回、新たに核発電所の建設候補地に選定されたまさにその場所に核発電所を建てようとする試みがあった。その年の8月29日、近徳面民たちは近徳小学校のグラウンドに押しよせた。約7千人へとふくれ上がった人の波は「核発電所予定地の解除」を要求し、市内に繰り出した。当時の近徳面の人口が9千人余りだったのだから、その熱気を推し測るに充分だ。「8・29記念公園」はそっくりそのまま、その歴史を残し、伝えている。

「原発誘致賛成は50%未満」

 韓水原は2011年12月23日、新規核発電所の候補地を発表するとともに、「原発誘致に対する三陟市民らの賛成の世論は50%に及ばない」と自ら認めた。そうであるならば候補地選定の決定は直ちに撤回されなければならない。この原稿を書いている今、日本では54基の核発電所のうち6基だけが稼働している。それにもかかわらず日本が全国的な停電の事態に陥っているという話は、およそ聞こえてはいない。フクシマ核発電所の爆発事故以降、世界各国がエネルギー政策を根本的に変えており、「脱核」が大勢だ。核発電所は今や「良心の問題」となった。「命」より大切なものがどこにあるというのか。(「ハンギョレ21」第893号、12年1月9日付、イ・グワンウ/三陟核発電所誘致白紙化闘争委員会企画広報室長)

コラム

編集者の本領


 一冊の本はさまざまな人の手によってつくられている。もちろん書き手たる著者なしでは始まらないが、別の視点から見れば著者ひとりだけでは、成り立たない。本は書き手とつくり手との共同作業なのだ。ここで重要なのが編集という仕事。大先生の作品であってもそれは同じである。編集作業を経て、初めて世に送り出されると言ってよい。原稿だけみても著者から持ち込まれる場合もあれば、版元(出版社)が企画を立てて著者になりうる人物を探して依頼することもある。その先頭に立つのが編集者なのだ。
 編集者というと一見華やいだ職業にも思えるが、実は地味で根気がなくてはつとまらない重労働。残業おろか土日出勤もあたりまえ。一握りの大手版元を除けば、低賃金が大手を振ってまかり通る業界である。
 先日、書店の紹介で出版社希望の女子大生が採用予定の有無を問い合わせてきた。今春、卒業予定なのだが、まったく内定がもらえず落ち込んでいるらしい。採用の予定は無いことを前提に、話だけでもと来てもらった。聞くところによると、首都圏の出版社をかたっぱしからエントリーしたが、面接までこぎつけないとのこと。大手版元はいざしらず、零細版元は即戦力になる経験者しか採用できないのではと、業界の現状を説明してお帰りいただいた。
 また、出版業界には死語ともいえる(?)「志」という言葉が、まことしやかにささやかれている。ボクもその「志」とやらに毒されている一人だが、食えなくてはしょうがない。本も売れなければ、版元としてたち行かない。本は読まれて(買っていただき)はじめて意味を持つ。
 しかし、そうは言っても志だけではなかなか当たらないのが業界の常。二○一○年の新刊点数は七万四七一四点にものぼる。一年三六五日に換算すれば、毎日二〇五冊もの本が誕生していることになるから、いやはやすごい数字だ。返品率も四○%を超える。新刊の書店滞在時間が短いのも頷ける。
 小社では、人文系のいわゆる「堅い本」が多い。その内容にもよるが、売れて確実なところ一〇〇〇冊を超えるくらいか。「売れれば官軍。売れなければ賊軍」とのそしりも受けるが、地方で版元をやる以上、心がけることは古びない本をつくることにつきる。
 評論家の大宅壮一が著書『実業と虚業』の中で、出版社には「漁業説」と「農業説」があると書いている。漁業説は「魚の大群をいちはやく発見し網を打ち、ベストセラーをねらうもの」、農業説は「土地を耕して、わずかだが確実な収益をあげていくもの」とあり興味深い。小社はどちらかと言えば後者。できうれば、著者と共同して地方をモチーフにしたものであっても底本になるような企画を出し続けていきたいと思う。
 本と言えるのは、モチーフを愛した編集者が介在したもの。いくら体裁を整えていても、編集されていない本は単なる印刷物に過ぎない。好奇心を忘れず、著者の意図を理解し、読者にいかに的確に伝えるかが編集者の本領である。 (雨)



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