【大阪】兵庫県伊丹市の昆陽池公園で一月二二日、一月二四日から二月六日までの一三日間にかけて予定されている日米共同方面隊指揮所演習ヤマサクラ61に反対する集会が開かれ、八〇〇人の市民が参加した。伊丹市には陸自中部方面隊総監部がある。
米陸軍のシンボルマークであるヤマと陸自のシンボルマークのサクラにちなんで命名されたヤマサクラは今回が六一回目。情報ネットワーク「APAN」によるとヤマサクラ61は、中国と北朝鮮を想起させる国の連合軍が日本を侵略し、侵攻阻止の防御戦闘を実施する陸上自衛隊中部方面隊を米太平洋陸軍と第1軍団前方司令部(キャンプ座間)指揮下の米軍地上部隊が支援し、「侵略軍」を打破するというシナリオによる演習となっている。
しかも今回はじめて、韓国に駐留する米軍第8陸軍司令部が全作戦を指揮する統合任務部隊司令部となり、オーストラリア陸軍も参加する。
米国の戦争に
自衛隊を動員
実行委員会の六人の代表世話人を代表して千住実さん(伊丹民主商工会)があいさつをし、続いて四人の来ひんがあいさつをした。 社民党の服部良一さん(衆議院議員)は、「軍事予算の削減の流れの中で、米国は今後ますます日本に軍事協力を求めてくるだろう。それは日本の防衛のためではなく、米国の世界戦略のためであり、東アジアで無用な緊張を創り出し予算の削減を食い止めようとするためだ。二年半前に政権交代し、東アジア共同体・対等な日米関係・普天間移設は最低でも県外などと言われ、少しは日本も変わるのかと一瞬だけ期待したが、ものの見事に裏切られた。民主党はそのような認識を捨ててしまった。辺野古の新基地建設を絶対に許してはならない。自衛隊の武器使用要件の緩和・武器輸出三原則の緩和など、自民党ですらやらなかったことをやっている。消費税・TPP・辺野古・脱原発、今年は大変な年になるだろう。自・民に代わる受け皿が維新の会やみんなの党では情けない。日本の政治がおかしな方向にならないよう頑張っていこう」と訴えた。
日本共産党の堀内照文さん(兵庫県国政委員長)は、「ヤマサクラ61は、昨年八月三〇日『赤旗』がその内容を暴露した。日本政府も、二〇一〇年一二月に閣議決定した防衛大綱で、本格的な侵略事態が生起する可能性は低い、といっている。にもかかわらずヤマサクラ61をあえてやる目的はどこにあるのか。それは、米国が行う戦争に日本を参加させるためだ。また成長著しい中国への牽制、米国のアジアにおける権益を守る、そのためのものだ。米国のために日本を戦争に巻き込むことは許されない。この声を大きくひろげていこう。アジアと世界の平和のためには、平和憲法の立場に立った外交こそが必要だ」と訴えた。
また、新社会党の小林るみ子さん(神戸市会議員)は、「戦後の今も戦争の被害と加害や謝罪問題は解決していないのに、またも戦争準備がなされようとしている。ヤマサクラ61は、一昨年一二月に決定した防衛大綱を具体化したものだといわれている。大綱は防衛の基本を専守防衛から動的防衛力へ、必要に応じていつでもどこでも派兵できるように、また南方方面の防衛力強化を図る方向に転換した。再び沖縄を捨て石にしようとしている。武力では平和和つくれない。また、阪神大震災震復興でも求められたのは災害救助隊だった。災害救助隊への自衛隊の改編が今ほど求められている時期はない」と述べた。
沖縄県民は殺人
に加担しない!
最後に、比嘉靖さん(琉球大非常勤講師、海上ヘリ基地建設反対・平和と名護市政民主化を求める協議会代表)があいさつをした。一〇年四月二五日の沖縄県民大会で提案され満場一致採択された、黄色いリボンによる意思表示のことにふれて話を始めた。
「そのとき、沖縄県民は自分たちが抱えている問題は必ず解決するという確信を得た。最近のオフレコ問題にしても、わが国の政府の中には沖縄を蔑視している者がいる。自分の親密圏の中から、このような差別構造を許さない闘いをひろげていくことが必要だ。ヤマサクラは要らない、これなら日本の国民も米国の市民もみんなが一致する」。
「みんなが今しなければならないと思うこと、それがパブリックイシュ。名護市の市民も頑張ってすばらしい市長を誕生させた。二月には宜野湾市長選がある。いよいよ県外移設の矛盾が出てくるが、普天間は即刻閉めろ、沖縄に返せ、これならみんなで頑張れるのではないか。伊波洋一勝利のため支援してほしい」。
「一八七四年に明治政府が台湾侵略をしてから一三八年。日本は台湾侵略から太平洋戦争で敗北するまでの七三年間戦争してきた。そして、敗戦以来六三年間我々沖縄県民は毎日毎日戦争の手伝いをしているという実感を持って生きている。皆さんはどうか。平和憲法の理念の下でとはいえ、実は日本は米軍の戦争の手伝いをしてきたのではないか。皆さんはそのことをどう思うか。そのような決意の下、大きく闘いを発展させること。沖縄県民は、人殺しの手伝いはしない・人を殺さない・人に殺されない。人殺しの手伝いはしない、このことがパブリックイシュではないか」。
つづいて、実行委員会参加団体の紹介、阪神間を中心とした地方議員六二人の議員アピールの紹介、集会決議の採択を行い、中北龍太郎さん(しない!させない!戦争協力関西ネットワーク)が閉会のあいさつをした。
集会後、陸自中部総監部前まで約二キロの道のりをヤマサクラ61の中止を訴えてデモ行進した。デモ終了後、全員で総監部包囲のヒューマンチェーン行動をした。 (T・T)
読書案内
長堀祐造 著/平凡社刊/三八〇〇円+税
『魯迅とトロツキー』
中国における『文学と革命』
留学時代のある
エピソードから
そういえば、一九九〇年代初めに留学していた中国の大学の寮の自室で、トロツキーの写真を掲げ、本棚には魯迅全集が並んでいたことを思い出した。新版が出版されることになった魯迅全集の購入を勧めてくれた歴史学部出身の中国人の友人が、トロツキーの写真を見て困ったような笑みを浮かべていたことを思いだす。(この友人の名誉のために付け加えると、彼が社会人に成りたてで遭遇した一九八九年の民主化運動では、直接運動に参加はしなかったが、シンパシーを持って民主化運動をとらえていた)
結局、トロツキーをまともに読んだのはそれからだいぶ後になってからのことだったし、内容を理解するにはさらに時間がかかった。魯迅全集に至ってはほとんど読みもせず、留学を終えて帰国する際、その友人にあげてしまった。トロツキーの知識は「フォービギナーズ」止まり、魯迅に至っては中学生の時に国語の教科書に載っていた「故郷」のうろ覚え程度という状態がしばらく続いた。
その後、社会運動に興味を持ち、縮刷版「世界革命」で香港にもトロツキー派組織があったことを知った。「トロツキー研究所」や日本と香港のトロツキー派組織と連絡を取り、新聞や書籍を読み始めた頃だったか、かつての留学先に件の友人を訪ねた。何かの拍子に、日本でもトロツキー派の社会運動にかかわり始めたと言ったとき、彼から即座に「右派の?」と聞き返された。
その時は「左翼の運動なのになんで右派?」と一体何のことやらわからなかったが、その後、左翼運動にも右派や左派があることを学び、『トロツキー研究』や香港のトロツキー派の出版物などから、陳独秀をはじめとする中国トロツキー派が、公式共産党の歴史においてはご多聞に漏れず中国でも「帝国主義の手先」として位置づけられてきたこと、近年になってから「帝国主義の手先」から「右派」に名誉回復(?)されたことなどを知った。
著者の研究成果
の集大成として さて、いつものように前置きが長くなったが、慶応大学教授の長堀祐造氏の『魯迅とトロツキー』を手にしたとき、もう二〇年近く前のこういった事柄を思い出した。
長堀氏はこれまでにも中国トロツキー派の鄭超麟の回想録(日本語訳『初期中国共産党群像』平凡社東洋文庫)の翻訳や「トロツキー研究」等で中国トロツキー派に関する論考を精力的に発表してきた稀有な研究者である。『魯迅とトロツキー』はこれまでの研究成果の集大成といえる力作であり、魯迅とトロツキーおよび中国トロツキー派を巡るさまざまな論争を、詳細な実証資料を交えて紹介・研究したものである。
共産党による
魯迅の「神格化」
一九三七年一〇月一九日、延安の毛沢東は魯迅逝去一周年に際して「魯迅は新中国の聖人だ」と称えた。後年の魯迅神格化はここから始まったという。
その魯迅が「最初期に関心を寄せたマルクス主義文芸批評の専著はトロツキーの『文学と革命』であった」。「折からの革命文学論争では、……トロツキー理論に依拠しながら自らの革命文学論を展開した」。「最晩年の魯迅は、中共・コミンテルンの人民戦線(統一戦線)戦術に異を唱え、周揚ら中共主流派の文学官僚からはトロツキストと非難される仕儀となる」。
しかし奇妙なことに、魯迅の死後に革命が成就して建国された中華人民共和国では、上記の毛沢東による魯迅の神格化が本格的に進む。その理由は、最晩年の魯迅が病床から書いたと言われてきた「トロツキー派に答える手紙」の存在である。この「手紙」は巧妙な書きぶりで中国トロツキー派が日本帝国主義から資金援助の疑いがあることを示唆したうえで、毛沢東率いる中国共産党の支持を明確に打ち出した。
この「手紙」は第一義的には当時スターリンによって全世界で展開されていた「トロツキスト=帝国主義の手先」の中国版であり、毛沢東というよりも王明ら純粋スターリニストたちを大いに喜ばせたのだが、その後、毛沢東が権力を握るようになったのちも、この「手紙」および神格化された魯迅を徹底的に利用したことは言うまでもない。
長堀氏は、毛沢東によって神格化された魯迅を「救い出すこと」を本書の目的のひとつとして以下のように書き記している。
「魯迅の威を借りてトロツキーや中国トロツキー派復権を意図するものではない。むしろ情勢はその逆を要求していると筆者は考えている。中共が自主的にせよ、迫られてにせよ、最終的に社会主義の看板を下ろすような状況が出来するときに備え、スターリニスト、毛沢東主義者に『拉致』された魯迅(のテクスト)を開かれた場に解放しておくことが必要なのである。トロツキー及び中国トロツキー派の『復権』はもはや魯迅に頼るまでもない」(一九八頁)。
トロツキーの文
学理論と魯迅
詳細な注釈が付けられた本書を一読すれば、筆者のような文学の門外漢であっても、初期の魯迅がいかにトロツキーの文学理論に傾倒、重用したのかを知ることができる。また当時の文学論争や毛沢東の文芸政策の問題点、毛沢東による最初の粛清事件である「富田事件」の顛末など、中国革命をめぐる様々な真相を、詳細な資料によって描き出している。中国近代史や中国革命の重要な一端を知る上でも貴重な資料となっている。
個人的には、第七章の「『トロツキー派に答える手紙』をめぐる諸問題」がもっとも関心を引いた。事の顛末や結論については本書を読んでいただきたいが、この「手紙」で侮蔑されたトロツキー派の陳仲山の生い立ちをはじめ、その経過をたどる長堀氏の筆には、毛沢東の獄に繋がれたり、亡命を余儀なくされてきた老托派(中国オールドトロツキスト)たちの想いが乗り移ったかのようである。
長堀氏は、日本帝国主義によって逮捕・処刑されたにもかかわらず、共産党によって後々も「国民党のスパイ」であったかのように語られ続けてきたトロツキー派の陳仲山の名誉回復にも労を折っている。魯迅の断固たる「すべて派=無条件擁護派」であり、本書の随所に登場する老托派のよき理解者であり「同伴者」である長堀氏の過去と未来の歴史に対する誠実さにあふれた本書を、一人でも多くの同志・友人に読んでもらいたい。
批判的精神を
受け継ぐ者は
長堀氏は、「『トロツキー派に答える手紙』をめぐる諸問題」の章をこう締めくくっている。
「一九五二年、中国トロツキー派は大陸から一掃され、現在はわずかに香港の民主派内の小勢力として残存するに過ぎない。しかし今や中共の批判勢力としては最も尖鋭な合法的存在となった。中国トロツキー派の掲げる民主と人権の旗は、実は結成以来の彼らの伝統でもある。陳仲山の遺志はおそらくしばらくは香港で生き続けることだろう。そして魯迅の批判的精神は幾分なりとも彼らと共鳴するはずのものなのである」。
共鳴の旗印は、「アラブの春」から金融危機に揺れる世界を回り、いまふたたび「北京の春」の大地に翻ろうとしている。
二〇一一年一二月二二日
(H)
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