ベトナム派兵を拒否した脱走兵、金東希さんの消息について
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彼らの希望は日
本の「平和憲法」
『かけはし』一〇月二四日号に「ベトナム派兵を拒否し翻ろうされ続けた二人の脱走兵」という『ハンギョレ21』の九月二六日に出たクォン・ヒョツテさんの論の翻訳が紹介されていました。キム・ドンヒ(金東希)およびキム・ジンス(金鎖洙)の二人は、私が関係したべ平連(ベトナムに平和を!市民連合)も、関連があり、とりわけ北朝鮮に向かったキム・ドンヒの消息に深く憂慮しており、韓国内でのこの事件への関心はどうであるのかも気になっていました。今度初めてこの論を知り、ありがたいと思っています。
ほとんどは、このクォン・ヒョツテ論が事実に添っており、あとに述べるように、細かい点での事実のズレがありますが、「彼らを日本に導いたのは平和憲法の理念だったけれども、彼らを日本の外に追い出したのも平和憲法の現実だった」ということは、まったくその通りでした。彼が日本で発表した「亡命願い」には、はっきりと次のように書かれてあります。
「私が亡命地を日本に選択したのは、もち論地理的条件もありますが、特に私は日本国憲法前文ならびに(第九条)戦争の放棄を規定し平和主義を貫こうと努力している日本国に亡命したのであります」
この韓国軍からの二人に限らず、日本で脱走した米国人の兵士も、すべて彼らの希望は「平和憲法」を持ち、軍隊のない日本に滞在したいという希望ばかりでした。しかし、日米安保条約の制約によって、米国兵も、米軍及び日本警察から逮捕され、米軍裁による有罪処罰になる結果になります。脱走兵は日本には安全に存在できず、支援したべ平連はやむをえず、警察の眼から隠しながらスウェーデンなどに送る以外はありませんでした。キム・ジンスの場合は、こうしてスウェーデンに無事送られ、それ以後、同国のレセパッセをもらって日本に三回も入国しています。最近は連絡が切れてはいますが、私も二度、東京でその後の彼と会っています。
自民党政府は
頑なに亡命拒否
問題はキム・ドンヒのほうです。彼が北朝鮮に送られるまでの経過は、かなり明らかです。 一九六八年七月に「京都金東希を守る会」が発行し、ベトナムに平和を京都集会と京都大学新聞社が協力した『権利としての亡命を!――金東希問題を考える――』に詳しくあります(一冊、貴紙編集部に寄贈します)。これらの経過から見れば、彼が日本に在住できる資格は十分にあったと思うのですが、日本政府は彼を密入国で逮捕して、長崎県の大村収容所に入れ、韓国への帰国を強制させようとしました。しかし、当時の韓国の政治状態から、もしも彼が強制送還されれば、生死にもかかわるような処罰は確実だと思われました。
べ平連をはじめ、各地の「金東希を守る会」、在日朝鮮人総連合など団体、とりわけ京都の知識人は、日本への在住を強く要求し、署名運動も行なったのですが、自民党政府は頑なにこれを拒否し、韓国への強制帰国を主張したのでした。力足らず、運動は日本への在住が困難だと判断せざるを得なくなったのでした。この段階で、キム・ドンヒ青年は[日本での亡命がどうしても許されないのならば、北朝鮮へゆきたい]と願うようになってはいました。しかし、政府・法務省は、彼の北朝鮮送りを事前に明らかにせず、関係者にはまったく知らせないまま、突然ソ連船に乗せて北朝鮮に送らせたのでした。
私たちは、積極的に北朝鮮への送りを運動しようとしたのではなく、韓国への強制送還を何としても阻止しようとする点でした。
しかし、いずれにせよ、彼が北朝鮮に送られ、最初は愛国者の「帰還」だと大歓迎の集会なども行われながら、その後一切の情報がなくなり、「処刑」されたという話までが出てきて、私たちは驚きました。一九七六年一〇月、金日成に小田実さんが会った時に状況を尋ねた時も、現状不明の返事が送られたのです(小田実『「べ平連」・回顧でない回顧』1995年第三書館160〜161ページ)。
元「ベ平連」が
知り得た事実
クォン・ヒョツテさんが最後に「キム・ドンヒとキム・ジンス、二人を探したい。そうして公的な歴史によって隠された『影の歴史』に出合って見たい」と書かれていますが、とりわけ、キム・ドンヒについては、彼の北朝鮮送りに間接にせよ、関連を持った私たち(元べ平連のメンバー)は、この事情を明らかにしたいと、強く望んでいます。
なお、クォン・ヒョツテさんの文の中で、キム・ジンスは「結局、彼はキューバ大使館をこっそり抜け出し当時、米軍脱走兵を支援していたべ平連の助けを得て、ソ連経由でスウェーデンに亡命する」とありますが、そこは少し不正確です。確かに、キューバ大使館に庇護を依頼して、一九六七年四月からそこにいた彼は、六七年暮にこっそり抜け出し、総評に連絡した後、最後はべ平連に連絡にくるのですが、その時、私たちは、大使館に一切連絡せずに抜け出したことを批判し、まずキューバ大使館に連絡をする必要があると説得しました。大使館はそれまでとても心配していたのですが、わかった大使館はホツと思い、キム・ジンスはまたキューバ大使館に戻ることになります。その上で、あらためて六八年一月始めにキューバ大使館に出たいとの申し届けをした上で、館から出ることになります。大使館は、それなら、四八時間は発表をせずにしておくので、その間に安全なところに移すようにと言います。キム・ジンスは、再度、べ平連に連絡に来て、それからべ平連は彼を庇護することにし、作家の堀田善衛さんの自宅に匿われるなど(堀田善衛『橋上幻像』1970年 新潮社刊)のあと、最後はスウェーデンに送ることになります。この間の詳しい経過は、関谷滋・坂元良江編『となりに脱走兵がいた時代』(1998年、思想の科学社刊)38〜49ページ)にあります。
(よしかわ・ゆういち 元「べ平連」事務局長)
投稿 被曝を逃れるために娘・孫
たちが東京から引っ越し
「芝」
三・一一福島第一原発事故は、私と娘二人の家族にとって、予測出来ない事態を作り出してしまった。私の長女と孫二人(小学生、保育園児)は五月初め、放射能の被害から逃れるために、東京から関西地区に引っ越してしまった。そして、次女と孫一人(保育園児)は、一一月末に、長女の近くへと避難してしまったのである。
私の娘たち同様に、東京からも関西方面に子どもを連れての移住は進んでいるようである。移住しなければならない一番大きな根拠は、保育園、小学校の給食である。福島や東北の農家を助けるためという理由で各区の教育委員会は積極的に、その地域の野菜、牛乳、肉などを給食材料として利用しているのである。
それも独自検査をしているわけではないのだ。大人の五〜一〇倍の影響を受けるといわれる子どもたちに、大人と同じ規制値の食材が与えられている。福島、東北の農家への援助と、その生産物を子どもたちに与えるのとは、まったく別問題なのだ。これらの食材は本来、各行政庁の職員食堂、国会議事堂の議員、職員食堂、東電の食堂などで使用すればよいのである。
保育園児の中では、五月初め頃から、鼻血を出す子ども、目の下にクマの出た子ども、血尿の子どもが増えているのである。保育園の運動会で走りながら、鼻血を出す子どもが、何人もいたらしい。もちろん三・一一以前にはありえないことである。
母親とは本当に
強いものと感心
私の長女は、子どもの時から、デモに連れて行ったり、自分でも大学生になってからは、各地の護憲集会、反戦集会などにも、たびたび参加していたようであった。長女の判断は早かった。四月頃から避難先を考え、子どもを守るためなら、すべてを捨てる、ぐらいの決意だったようだ。しかし、連れ合いの仕事を考え、東京から移動範囲を考え、関西に居を移した。
私を驚かしたのは、次女の行動だった。原発事故以前までは、社会問題、政治などはまったく無関心であり、新聞を読む姿さえ見たことはなかった。原発事故以来、この次女は猛烈に勉強を始めたのである。放射能に関するあらゆる資料を調べ始め、広瀬隆氏、小出裕章氏、武田邦彦氏などの本を読みあさり、インターネット情報も集め、新聞からの関係資料をファイルし、夜中も毎日一時過ぎまで資料をあさっていたのである。
そして保育園では、先生に食品の安全性を確認させるために交渉し、地域においては「○区放射能から子どもを守る会」を数人から作りあげ、今では八〇人の会員が参加しているのである。区議会の傍聴、議員交渉を行い、区内の放射能検査を実施させ、署名集め、集会・デモの参加など、とにかくめまぐるしく活動を繰り返していた。
集会・デモに私と共に参加していたこともあったが、私が参加出来ない時、「一人で行って来たよ」と言うのである。この次女のあまりの変わりように、私はあっけにとられてしまった。母親とは本当に強いものである。
共に反原発の
闘いに立とう
先日原発問題について、二人で討論していた時である。私が「全原発を止めるためには、どのくらい時間がかかるのかなー」と言うと、次女いわく。「それはお父さん、革命しかないんだよ!」。私の娘の口からこんな言葉が出るなんて! ほんの数カ月前には、まったく考えられない言葉だったのである。不覚にも涙がこぼれそうになってしまった。しかし、毎日のように会っていた、この娘も孫を連れて移住してしまったのである。
東京にいる母親たちがこのような状況なのである。小さな子どもを抱えた福島の母親たちの想いはいかばかりのものだろう。子どもたちを避難させたい母親、土地を離れられない高齢者、多くの家庭がバラバラにされてしまっている。無能の政府を抱えた人民は不幸である。
東京に残された私たち全共闘世代は、ただただ闘い抜くだけである。二〇一二年三月一一日、福島現地に数万人の集会を成功させよう。フランス、ドイツ、アメリカの反原発運動と共に闘おう。
ベトナム、ヨルダン、韓国などへの原発輸出をさせない闘いを強化し、この国の人々に、共に反原発闘争を闘うことを呼びかけよう!
教育の機会均等を作る制度の実現をめざすシンポ
「知らなさすぎる」奨学金問題の現実を告発する! いま独立行政法人「日本学生支援機構(旧日本育英会・以下、機構)」から借りた奨学金が、本来の目的から逸脱し、重いローンとなって人生にのしかかっている。
沖縄なかまユニオンが行った労働相談から、労働者の多重債務の根幹に奨学金返還が隠されていることが判明。首都圏なかまユニオン、日本学生支援機構労組、各種学校専修学校関係労組連絡会議が呼びかけ、11月23日東京・中央区築地社会教育会館で、「教育の機会均等を作る『奨学金』制度の実現をめざすシンポジウム」が開催された。そして「知らなさすぎる」重大な問題として論議がなされた。
学費をまかなうために借りた奨学金だが、就職難と非正規雇用の拡大、派遣切り、親の失業と賃金カットなどにより二〇〜四〇歳台の二一万人以上の人が三ヵ月以上の滞納者となっているのが現状だ。それに対して機構は、回収を最優先として、延滞者の金融信用情報ブラックリスト化や、起訴を強行してきている。しかも延滞した場合には延滞金を課し、その後の返済においても、先に延滞金の支払を充当。次いで利息、元金という返済の順番としているために、元本の一〇%以上のお金を出せなければ半永久的に延滞金を払い続けなければならないという悪徳金融ばりの回収を行っているのだ。では、なぜ社会の反応が鈍いのか?
講演者・大内弘和さん(中京大学教授)は、世代によって奨学金に対する認識が大きく乖離していることを指摘している。まず@教育費の高騰と所得減収がある。国立大の初年度納付金にしても六九年一万六〇〇〇円が、一〇年は八一万円超となっているのに対して、平均世帯収入が九〇年代から実に一〇〇万円下降(〇八年四四八万円)している。そして、A奨学金利用者の激増。九八年約五〇万人の利用者が、一〇年では約一二七万人と二倍を大きく上回っている。しかもB無利子奨学金枠が横ばいなのに、有利子奨学金が約一〇年間で一〇倍に膨らみ、両者の比率が見事に逆転した(図参照)。
このとおり奨学金の有様が大きく様変わりしているのだが、奨学金を苦学生の救済的制度として認識している世代は、往々にして「借りた金を返すのは常識」というモラル意識が先にたって、個人的問題へ切り縮めてしまうという。つまり「奨学金」という呼称が、実は悪質教育ローン化した実態を隠ぺいしているというわけだ。
新自由主義の標
的とされた制度
奨学金の有利子枠が、八四年に創設。当時付帯決議で「無利子貸与が根幹。有利子貸与は補完措置」と定められたが、九九年橋本内閣行政改革で、奨学金への一般会計投入を減らし、財政投融資投入が決定される。さらに機関も「財投機関債」で四〇〇〜五〇〇億円を発行しつつ、〇七年からは五千億円の銀行融資も受けて、有利子の「二種奨学金」を生み出してきたのだ。この金融資本介入を裏付けるように、〇一年当時の石原伸晃行革担当大臣は、「育英会は組織として民間金融機関と競合している」と批判し、奨学金事業の金融事業化へ舵を取り、小泉内閣によって育英会は独立行政法人とされた(注)。
学校の塀の内と外
をむすぶ運動へ!
シンポでは実行委から現状を打開するため、@給付型奨学金をめざし、A返還猶予五年期限撤廃と延滞金返済より元本消込みを優先する充当順位の見直し、B全国での相談機関設置が、実現目標としてアピールされた。
続いてパネルディスカッションでは、大学カウンセラー、在学生、返済者、機構の金融事業化に反対してきた機構労組の岡村書記次長たちによって、多角的視野からの分析がなされた。
会場から、「この財政難のなか、政府からの奨学金原資の拠出は可能だろうか?」という率直な疑問が投げかけられた。岡村さんは、日本の教育公費のGDPに占める割合が、OECD(経済協力開発機構)加盟国三一国中最下位(08年)であることを指摘し、日本の三・三%を各国平均並み五%に引き上げるだけで、すべての教育段階での無償化が可能だと説明。「滞納回収(現在民間回収業者が参入)も不要となるわけだから、費用も給付手続きで済む」と低コスト化の実現を提示した。また大内さんも「政府の統計にだまされてはいけない。企業は二四〇兆円の内部留保を抱えているが、二・五兆円で大学は無料」と述べ、オキュパイ運動にも学費問題が大きな比重を占めており、自己責任論を打破して新自由主義と対決する運動の必要性を訴えた。
金融が教育を市場ターゲットにしているという分析のもと、参加者からも「学校の塀の内と外を結ぶ運動」が必要だとし、奨学金延滞者の次の世代をも見据えるならば、この問題は労働者の再生産すら許さない状況をつくりだしており、労働問題として明確に取り組まなければならないという意見もでた。また「奨学金被害者の会」のような組織が必要だという積極的な発言も相次ぎ、この運動をより強化していくことを全員で確認した。
(大望三)
注 「奨学金なのかサラ金なのか(樫田秀樹著)」世界10月号参照。
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