かけはし重要記事

frame01b.html

もどる

                          かけはし2002.12.2号より

EU連合で強まる移民排除政策

オランダ--亡命希望者を非合法化する政策が強化されている

 建前としては、亡命者に対する政策の背後にある考え方は、自分では支配できない状況のために国を後にすることを強いられた人々に対する小さな象徴的な同情である。しかし、オランダの新しい右翼バルケネンデ政府(キリスト教民主党、自由党、右翼ポピュリスト)は、すでに危篤状態にある既存の亡命者庇護政策を死に至らしめようとしてい。
 前政府(社会民主党、自由党、社会自由党)の下で、亡命者庇護政策はすでに人々を追い出す方向に向かっていた。彼らは、亡命要求が劇的に減少したことを自慢した(二〇〇〇年の四万四千人から、二〇〇一年の三万三千人へ。二〇〇二年一月オランダ中央統計局による)。年々法律は厳しくなり、二〇〇一年の新外国人法で一時的な底に達した。
 これ以上悪くなりようがないと思った人々は、いま失望している。新しい計画は想像を絶するものである。〇二年五月十五日の議会選挙に至る過程ですでに、どの党の亡命者庇護政策が最も厳しいかをめぐる政党間の競争が行われた。
 これは特にピム・フォルタイン・リストのせいであり、これが犯罪、移民、難民を選挙の焦点にした。フォルタイン自身は、新しい難民に対してオランダ国境を閉ざしたいと考えていた。すべての人は出身地域でのみ庇護を得られると想定されていた。ただし彼は、すでに長年オランダにいて庇護状態を得ていない人々は、仮定的に一般特赦の対象として考慮され、合法化される、とも言った。
 新政府を構成するための交渉が行われ、「ピムの後継者」たちがこれを持ち出したとき、亡命者や亡命者を守る組織は多少の希望を持っていた。しかし、すぐにむなしい希望であったことが明らかになった。
 というのは、取り上げられたのはフォルタイン提案の最初の部分、すなわち、難民は出身地域で庇護を受けなければならない、という部分であったからである。新しい連立政府の基礎として合意された戦略的合意書(政策協定)に印刷されたのは、これであった。
 政策協定には次のように書かれている。書類を持たない亡命者は、自らのアイデンティティを直ちに証明し、かつ他の場所に庇護を求めなかった理由を説明しなければならない。書類を持たずにスキポール(アムステルダム空港)に到着した場合、単に忘れた場合があり得る。もちろん、迫害を逃れた人々は、まず書類を集めてから飛行機の席を取ったりしない。
 住居を定め、申請の処理を三年間待つことが許されていた規則は廃止された。亡命申請却下後の控訴も、過去のものになった。
 非合法化することは、処罰可能にすることであり、「不法者」の追放が加速される。次の段階では、「不法者」を守る人々や組織が追及されることになるかもしれない。なぜなら、原理的には刑法犯罪の共犯になるからである。すでに政策協定には次のように書かれている――自治体は、訴えを却下された亡命者にいかなる代償住居も提供してはならない。ただし、そうした場合の処罰までは、今のところ示されていない。
 「不法者」は、このようにして出身国に送還されることになる。送還受け入れを拒否する政府は開発援助を受ける資格を失う――全ヨーロッパに適用される内容としてセビリア・サミットに提案されたアズナール(スペイン首相)の案はこのようになっていたが、今回は結局合意されなかった。
 しかし、オランダにとって、この脅迫戦術はあまり有効ではない。オランダの開発援助は約二十カ国に限られ、多くの難民は開発援助が検討もされていない所から来るからである。
 オランダに来る難民にとって、また彼らの利益を防衛している組織にとって、前途には厳しい時代が待ち構えている。右翼政府は他の領域でも攻勢に出ている。移民、環境、雇用方式、開発援助などである。
 幸いにも、政府の計画に反対する共同行動が必要になっているこれらの領域で、活発な組織化が始まっている。「ターン・ザ・タイド(流れを変えよう)」と呼ばれる連合が設立され、社会的組織や多くの野党が結集している。ディスカッション・デーや集会が行われ始めている。(「インターナショナルビューポイント」9月号)



スペイン--移民労働者の合法的入国を不可能にする政策

 スペインで始めての移民法が一九八五年に成立した。その前には、移民の大きな波が外に向かって(最初は旧植民地のラテンアメリカへ、続いて内戦での共和国の敗北後の亡命、最後に仕事を求めてヨーロッパへ)、あるいは国内で(アンダルシアの農村からカタロニアの工場へ仕事を求めて)存在した。
 一九九〇年代中頃でさえ、外国人人口は比較的少なく、その大多数はEC国籍を持っていた。大量の労働者がモロッコ、西アフリカ、南アメリカ、フィリピンから到着し始めたとき、賃金は安く労働条件は悪かったが、仕事を見つけるのに余り困難はなかった。しかし、一九八五年の法律によって、「合法的」に滞在するにはカフカ的な不条理な要件に対処するという巨大な困難が課されることになった。
 ある程度の変化(悪い方向への)があったが基本状況は変わっていない。出身国にいる間に雇用契約を取得してビザ申請のためにスペイン大使館に提出し、その場合にのみ仕事が得られ、このプロセスがいかに長くかかろうとも仕事は空いたままになっていると想定される、という基本状況が依然として維持されている。もちろん、労働市場はこのように機能していないし、そのことはだれでも知っている。
 現実世界では、合法的入国は事実上不可能であるが、たとえば、果樹栽培および建設産業のすべてのセクターは、公式には存在しない、したがって権利を認められていない移民労働者の雇用の上に立って繁栄している。それでもやはり、移民と移民の支援者からの圧力により、政府は特赦の譲歩を何度も強いられた。これは、なんとか入り込んだ人々にとって「特別規制プロセス」として知られている。
 欧州連合の南側を「非合法」移民から守ることを任されているスペイン政府は、海岸および空港の管理の強化を余儀なくされ、北アフリカの二つの飛び地であるソータおよびメリージャ周辺に大がかりに壁を築いている。アクセスはこれによって妨げられず、新しい移民が絶えず入り続けているが、かなり危険なものになっており、「マフィア」にもうけのたねをもたらしている。ジブラルタル海峡を渡ろうとして、あるいは安全航海を期しがたい小船でカナリア諸島に渡ろうとして、数百人が溺れ死んでいる。この問題に関しては社会労働党と国民党の間にほとんど差はない。
 かなり最近まで、移民労働者の主要な問題は、警察の嫌がらせや許可を得るまでの膨大な障害という国家や制度の民族差別主義から派生していた。移民は大きな政治問題ではなく、公然たる反移民民族差別主義は(スペインのジプシーに対するものとは違って)一般的に社会に存在しなかった。
 しかし、新しい、より厳しい移民法が国民党前政権末期に成立し、さらに、もっと厳しい移民法が国民党の政権復帰とほとんど同時に成立した。このこととともに、スペインのEU議長国任期の終了時に行われたセビリア・サミットで焦点として「移民問題」が取り上げられ、「不法」移民が犯罪急増の原因として公然と非難されたことが、何を合法的と見なすかについて明確なサインを送ることになった。民族差別主義が広がり、紛争が頻繁になった。空気は変わった。
 二〇〇〇年の一月に数百人の移民がバルセロナの中心部で最初に一つの教会を選挙すると、続いて十の教会が占拠され、巨大な同情が盛り上がった。彼らの決意とねばり強さ、社会の複数の部分からの活発な支援により、彼らは政府から事実上すべての関係者の「書類」をもぎ取り、数千の他の人々のためにドアを開いた。
 残念ながら、EUサミットの前夜に行われたセビリアの大学の占拠では、四百人以上の移民労働者が「書類」を要求して占拠したが、政府はこれまで受けたことがないような大きな社会的圧力(ゼネラル・ストライキを含む)を受けたにも関わらず、同じ回答を得られず、したがって同じ成功を収めることはできなかった。
 将来有効な抵抗を進めていくには、反民族差別運動の中の意見の違いを修復し、グローバルな正義の運動を確信を持って拡大し、労働運動との新たな結合を強め、全ヨーロッパ的な調整を追及していく必要がある。(BA、二〇〇二年七月二十八日)


もどる

Back