かけはし重要記事

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『親日派のための弁明』金完燮(キムワンソプ)著、草思社刊1500円    最悪の歴史解釈による「反民衆」の書        かけはし2002.11.18号より

旧日帝の「他律性論」「停滞性論」を受け売りして描く朝鮮近代史

「帝国主義植民史学」による歴史解釈

 今年の夏に出版された『親日派のための弁明』が売れていると聞き、さっそく近所の書店に行ってみると、やはり店頭に平積みにされていた。日本語版への序文に目を通すと、韓国人の「反日感情」を切り口にして話は始まっている。私も以前から、韓国における反日思想というものは、反共思想と一体となって軍事独裁政権によって意図的に強調され、利用されてきたものだと考えていたので「なるほど」と思った。
 しかし、いざ本稿の序文に入るや「日本にとって朝鮮と台湾の統治は、隣の店舗を買いとって店を拡張するような行為だったといえる。韓国人の反日感情は、この点にたいする誤解からはじまっている」とか、「こんにちの日本の問題は反省と謝罪がないということにあるのではなく、過去にたいする清算があまりにもいきすぎたことにある」だとか、「日本の東アジア進出は、西洋帝国主義の侵略とはちがって搾取と収奪が目的ではなく、革命と近代精神を伝播しようとの意図が前提となっている」……。
 こうした「ウルトラ」が連発する。自民党の代議士などがこそこそ言う「問題発言」を通り越して、韓国人が堂々と主張しているのだ。「親日派を弁明」するために、韓国人の反日感情はまちがいだということを入口にして、日帝の植民地支配を全面的に「正当化」しようとするのである。
 ちなみに、今年の三月に韓国で出版された本書の著者は、閔妃の末裔たちから「名誉毀損」と「外患せん動」で告訴され、逮捕された。また四月には、政府の検閲によって「青少年有害図書」に指定されて、事実上、書店での販売が禁止されている。
 この本の著者は、八〇年光州民衆蜂起のときは全羅南道庁にろう城し、またノ・テウの大統領不正選挙に抗議し九老区庁にろう城するなど、過去、韓国の民主化のための決死の闘いの最前列に身を投じてきた元「左翼」である。
 こうした経歴をもった著者が、今回出版された本書においてまともな韓国人ならばとうてい受け入れ難い「歴史観」に依拠した近代史分析の方法をとったのには、著者自身の経験と挫折からする韓国社会と韓国人に対する否定的な評価が根底にあるものと思われる。著者自身も日本語版への序文の中で、反日からの転換がはじまったのは九七年ごろだと明らかにしている。軍部独裁打倒と民主化闘争の先頭で闘ってきた著者にとって、文民政権としての金泳三から金大中政権のていたらくと、金融危機―IMF支配などの経験は、現実の韓国社会と韓国人を否定的にとらえる契機になったのであろう。
 また、過去にベストセラーとなった本の収入でオーストラリアなどで二年ほど生活してみて、韓国資本主義社会のブルジョア民主主義の底の浅さのようなものを実感し、失望感というものでも生まれたのかもしれない。
 まずは著者の「反日思想分析」から検証してみよう。
 「北朝鮮の場合、抗日独立運動の伝説で知られたパルチザンとその後継者たちが久しく政権をにぎっているため反日政策は当然といえる。しかし独立以降、日本時代にその統治に協力した勢力が政権の中心にいた韓国で、なぜこれほど反日感情が深刻なのか」「韓国社会において反日策動はひとつのイデオロギーであり、ドグマになっている。かつては反共イデオロギーが強烈だったが、いまやそれを上まわっているといえる」「韓国社会に存在するほとんど無条件の反日感情はじつに理解しがたい集団心理現象であり、研究の対象たりうるものといえよう」……。著者はこのような主張から「論」をスタートさせる。
 「ふつうの韓国人がもつ反日感情の根底には、日本統治時代、朝鮮が多くの損害を受けたという被害者意識がひそんでいるようだ」「かつて私たちの先祖が日本に文化を伝えてやった時代もあったのに、日本の植民地になって侮辱され搾取されたという、心の傷がある」……。著者はこのような、「ふつうの韓国人」が抱くと自ら言う「反日感情」をとりあげた上で、政治的イデオロギーとしての「反日策動」なるものの意味について二点の主張を行っている。
 一点目は「こんにちの韓日関係は戦後日本と韓国を支配してきたアメリカの意図によってつくられた構図ではないか」「アメリカは日本を再興させてはならないという意思をもって、韓国において強力な反日洗脳教育をおこなう……背景には、有色人種を分割したのちに征服するという……戦略があったと思われます」という主張である。
 もう一点は「韓国政府によっておこなわれている体系的な反日教育と、その結果生じた反日感情は、韓国社会においてもっとも重要な政治イデオロギーとして機能している。分断いらい、韓国の政権を掌握した政治集団は体制維持のために、北朝鮮と日本というふたつの憎悪の対象をつくりだしてきた」という主張である。
 二つめの指摘は、それ自身として間違っているとは言えないが、一つめの「アメリカの戦略と反日」という荒唐無稽な論理と結びつけられることによって、全く別の意味を付与されることになった。
 一九四五年九月に公表されたアメリカの対日占領の基本政策は、日本を「アメリカの目的を支持する」忠実な属国につくりかえるというものであった。そのためには非軍国化改革を実行せねばならず、必要な限りで民主化し、民衆の力も利用したのであった。一方、同年九月にアメリカは、朝鮮半島三八度線以南の地域および住民に対して、アメリカによる「軍政を宣言」した。そして左翼勢力に対する弾圧をはじめている。
 アメリカは朝鮮半島の南半分を占領した当初から、冷戦のための最前線基地としての位置づけを意識していたのである。そのためにアメリカは「反日」どころか、米軍政庁に親日派官僚勢力を引き入れ、警察も八五%が日帝時代からの登用であり、また軍隊も日本軍出身の将校が中心を占めた。こうしたアメリカの政策のなかには反日などまったくみられず、逆に日本軍国主義の残滓を冷戦のために最大限に動員したものだったのである。それは「反日」ではなく「反共」戦略の貫徹であった。
 戦後のアメリカのアジア政策の中心は、中国共産党を粉砕して中国に国民党政権を樹立させて、対ソ連の前線基地にしようとすることであった。しかし、こうしたアメリカの思惑が中国人民解放軍の大進撃によって失敗する四八年には、対日占領政策も大転換されるのである。そして朝鮮戦争後は米軍政と李承晩の庇護のもとで、元親日派が政権の核心的基盤となる。こうして彼らとその政権は、自分たちの恥ずべき「民族の裏切者」としての前歴を隠すためにも「反共」の声を大にして、民衆のもつ「反日感情」をも巧妙に利用したのである。
 著者は、自ら描き出した特異な「反日イデオロギー」を批判したうえで、「私たちの日本にたいする態度について、根本から考え直してみる必要がある。そしてこの作業をするためには、過去の歴史への冷徹な評価を避けてとおることはできない。本書で私は開国以降、韓国併合までの時期を朝鮮のブルジョア革命期と設定し、近代史についての新しい解釈を試みた。開国いらい朝鮮の当面の課題がブルジョア革命だったとするなら、日本は頼もしい援軍であり、ときには主導権をにぎって介入し、朝鮮の改革を推進した友好的な外部勢力だと思う」と、著者の「新しい解釈」を明らかにする。
 しかし、こうした近代史解釈の方法は「新しい」ものでは全くない。それは、日本の朝鮮植民地統治時代に植民地支配を「歴史的に正当化」しようとするためにつくられた「古い」方法なのだ。韓国ではこうした歴史解釈の方法を「帝国主義植民史学」と分類している。それは植民事業を担当した総督府官吏、エセ学者など主として日本人によって主張されたものであり、その核心は「朝鮮民族は朝鮮の歴史の主体にはなれず、日本の植民統治によってのみ、朝鮮の歴史を発展させることができる」というものである。
 この植民史学の中で代表的な論理として、「朝鮮は中国の植民地として始まったのだから植民地に帰結しなければならず、自立的に発展できない」という「他律性論」がある。また、「朝鮮史には歴史の発展段階としての古代史や封建社会が欠如しており、朝鮮は日本による近代化によって歴史の落伍者にならないようにしなければならない」という「停滞性論」がある。その他にも、「半島であるために自主的に発展することはできず、日本の温情的で強力な統治を受けなければならない」とする「半島性論」などがある。
 本書の著者は、このような旧天皇制日本帝国主義が主張していた「他律性論」と「停滞性論」を受け売りして、朝鮮近代史を描き出そうとしたのである。
 また、日本と親日派を「正義の連合」とし、ロシア・清と王室・貴族を「悪の連合」とすることによって、あたかも腐敗した封建派と結託せずに日帝と手を結んだ側が進歩的であるかのように描こうとしている。その結果、一八九四年に反封建と反侵略を掲げて全羅道全域を解放区とした甲午農民戦争(東学党の乱)は、「やみくもに日本を排斥するという誤った路線を選択することで挫折した」とか、「農民軍は日本軍がすすめるブルジョア革命に反旗をひるがえし、革命勢力に対抗して全面戦争をくりひろげることになった」ということにされる。こうした解釈は、日清戦争後に朝鮮軍と日本軍による鎮圧によって虐殺された三十万人農民に唾を吐きかけるようなものだ。
 だが朝鮮を侵略する帝国主義列強にしてみれば、どの勢力と手を組むのかが重要なのではなくて、組むことによって侵略と植民地化の「合法性」を獲得できればよいということである。その意味で親日派は、日帝に利用されたのにすぎず、使い捨てられる運命にあった。一九〇九年末に「韓日合邦を要求する声明書」を出すまでに腐敗し堕落した親日派走狗の一進会は、翌年の日韓併合直後に朝鮮総督府によって解散させられるのである。
 なお日帝の植民地支配下で積極的に親日分子が育成されたのは、一九一九年の三・一独立運動の翌年に、朝鮮総督の斉藤実によって出された「朝鮮民族運動についての対策」によってであった。それは朝鮮人富豪、資本家、上流階層、インテリ、宗教家などの中に各種親日団体を組織させて、官職や経済的利益を与えようとする政策であった。また民族運動の内部においても、ロシア革命の影響を受けて社会主義運動が台頭するとともに左右への分裂が生じていた。日帝は左を押さえ込むために、民族主義右派を積極的に育成し利用したのであった。
 とにかくも著者は、日本の植民地支配やアジア諸国への侵略戦争を「日本は明らかにまちがったともいえるものがないのだから」として、全面的に正当化しようとする。そしてそのための論法として、日本軍国主義勢力によって使い古された欧米列強に対抗する「アジア解放戦争」、「大東亜共栄圏構想はじつに望ましいアジア自立の道」などと書きたて、あげくの果てには「日本の罪といえば負けたという、ただそれだけのことなのだ」と主張するありさまである。
 さて最近になって韓国政府から、「竹島(独島)の観光地化」だとか「日本海を東海と世界表示せよ」とか、いわゆる「反日策動」と思われる言動があおられている。これはいわゆる「日韓文化交流―日本文化解禁」などによって、若者をはじめ「反日イデオロギー」が崩れはじめていることへの、韓国右翼民族主義者の側からの危機感にもとづいた反応であることは確かだろう。
 しかし本書のなかでも指摘されている「ふつうの韓国人がいだく反日感情」というものは、右翼民族主義者の「反日策動」と区別して受けとめられる必要がある。それは過去において、侵略と植民地支配を受けた被害者の側からする歴史的な根拠にもとづく正当な感情表現にほかならないからである。日本政府には、サンフランシスコ講和条約や日韓条約を盾とせずに、軍隊慰安婦をはじめとする戦争被害者に対して、十分な誠意をもって補償をしなければならない責任がある。北朝鮮や中国などの戦争被害者に対しても同様の責任がある。
 再開された日朝交渉を、日朝権力者双方の思惑と事情にもとづいた日本の戦争犯罪「総清算」の場とさせてはならない。また難民申請問題などで明らかになっている日本の「人権後進国」としての現状は、過去の戦争犯罪の責任をとることを回避し続けてきた日本の民主主義の質が問われていることを示していると言わなければならない。
 過去の戦争犯罪に対する誠意ある対応をないがしろにしたままに、小泉政権は有事法制など国家の軍国主義化を進行させている。韓国、中国をはじめとしたアジア民衆の側から、不信と警戒の気分がつくりだされてくるのは当然である。そして日本の民衆による反戦・平和のための闘いは、アジア民衆との新しい信頼と連帯を築き上げて行くための礎にほかならない。
 最後に、本書の共訳者であり「拉致被害者救援全国協議会事務局長」の荒木和博が、解説で「日本人にとって本書はいわれなき反日に対抗する武器となりうるものだ」と感想を述べているが、とんでもない話である。帝国主義支配を正当化するこのような主張を、日韓民衆の連帯した闘いで打ち砕かなければならない。(高松竜二)

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