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    かけはし2011.12.12号

若者たちは革命をふたたび街頭に取戻した

エジプト

生活改善無視、旧エリート復活の9カ月教訓に

起きていることは単なるデモ
ではなく高い意識伴う行動だ

リー・サスター/モスタファ・オマル

 「アラブの春」は一年を経て、選挙を通じた制度化という表面の皮を揺さぶる大衆的活力を再び前面に登場させ始めた。それはどのような社会的矛盾の反映なのか、何を用意する動きなのか、現在もっとも焦点化しているエジプトの現実を語ったインタビューを以下に紹介する。合わせて掲載したアラブ革命全般を概観した、ジルベール・アシュカルの論評及びエジプト独立労働組合の声明とつなげて理解に役立てていただきたい。(「かけはし」編集部)
 一一月一九日のタハリール広場における一〇〇人の小規模な座り込みに対する警察の攻撃は、軍事政権の追放を要求してデモに決起した何十万人という人びとがカイロと他の都市の通りに溢れるにつれ、エジプト軍の支配者に対する大衆的挑戦へと事態を転換した。 決起――それは、新憲法を起草する機関のために予定された選挙の丁度一週間前に始まった――は、米国に支援されたホスニ・ムバラク政権を崩壊させた一月と二月の大衆的抗議に匹敵する水準となった。少なくとも三三人の死者を残した軍警と中央治安部隊によるデモ参加者に対する残忍な攻撃から数日後、エジプトの事実上の支配者、フィエルド・マルシャル・モハメド・フセイン・タンタウィは、選出された文民大統領に六月までに権力を委譲すると約束した。それは、元々の提案よりもおよそ六ヶ月の前倒しだった。ムバラクの倒壊以来エジプトを支配してきた軍事最高評議会(SCAF)が率いる軍事政権もまた、別の妥協を行った。そこには、ムバラクの国民民主党(NDP)の元メンバーが政治に参加することを五年間禁ずる命令が含まれている。その一方、エッサム・シャラフ首相が率いる文民政府は、大衆運動からの圧力の下に一一月二一日に辞任した。
 しかしタンタウィは、自身の予算に軍の支配権を与え、将軍たちが政治の最終的裁定権を握ることを確実にする、そのような憲法を押しつける計画の撤回は拒絶した。この姿勢は、抗議に立ち上がった人びとをたださらに敵に回しただけだった。そしてそれらの人びとは、軍の支配者たちは直ちに去るべきだと主張している。
 以下では、今の運動の力学並びにエジプトの革命運動の刷新に向けた展望について、エジプトの革命的社会主義者メンバーでありアーラムオンライン向けのジャーナリストであるモスタファ・オマル(以下、MO)が、リー・サスター(同LS)と語っている。

改革はなく旧体制には復帰の道


LS――エジプトにおけるこのもっとも新しい危機の引き金になったものは何か

MO――引き金は一一月一九日の事件だった。それは、タハリール広場ローターリーの中心にある島で行われていた一〇〇人を超えない人びとの座り込みを解散させるために、警察が来たときのことだ。彼らのほとんどは、ムバラク打倒に導いた一月二五日の蜂起の中で負傷したことがあった。
 この座り込みは、二〇一二年四月末までに最高評議会が文民内閣に権力を引き渡すことを要求とした、イスラム勢力の支配の下に行われた一日前の大行進を引き継ぐものだった。その日はまさに何事もなく過ぎた。しかし保守的なサラフィストである一人のイスラム指導者が、座り込みという彼の計画を取り消し、彼の支持者と共に立去った。そのためわずか一〇〇人だけが夜通しそこにいた。警察は翌朝やって来た。そして彼らを残忍に扱い、広場から排除した。
 しかし数千人が、広場を取り戻すために駆けつけることによってこの抑圧に反応した。次の日までには、タハリール広場に再度、数万人という民衆が集まっていた。そして彼らは警察をたたき出した。直接の光景としては、これが対決の始まりだった。
 ここ三週間の展開を通じて着実に始まりつつあった市民に対する軍事裁判に対する、また軍の支配に対する数々の抗議が起きていた。これが第二の要素だ。それらは巨大というわけではなかった――各々の時点で二〇〇〇人から五〇〇〇人の人びと。しかしそれらは、もっと大きな何事かが起きるかもしれないということを暗示するように、蒸気を集めつつあった。
 ここ数週間、軍の刑務所に収監された人びとの家族や軍事裁判と闘っている活動家の間には、自信を含んだ感覚の成長があった。あなたは、それについて振り返って見ることができるし、広場にでかける――警察と闘い、タハリール広場を取り返す――準備があったことを知ることができる。
 そして裏に潜む理由がある。それは、この九カ月の中で哀れなほどに政府とSCAFが、人びとの生活を改善する何らかの経済的、社会的改革をもたらすことができなかったことだ。彼らは三月には約束したのに最低賃金を引き上げることができず、基礎的な食料品に関する価格統制の何らかのシステムを導入することもできなかった。
 SCAFは逆にここ五カ月事実上、真剣みのある経済的妥協を行うことを拒否するだけではなく、ムバラクの全抑圧機構をゆっくりと戻そうと決意してきた。その指導者たちは、何カ月もの間、警察の自信を再建しようと試みてきていた。警察の主要な抑圧部門である中央治安部隊が、ストライキに決起した者たち、座り込みに入る人びとその他に向け解き放たれてきた。SCAFはこうして、意味のある改革を遂行する代わりに、諸抗議、ストライキ、デモを厳しく取り締まることを決めた。そして彼らはムバラクのNDPが党として選挙運動を行うことを許可しないと約束したものの、NDP党員たちは新しい八つの党を形成することができた。言葉を換えればSCAFは、自分たちを議会の中に戻そうと動きつつあった旧NDP陣営のすべてと共に、政治の輪郭を再設計しつつあった。

イスラム陣営内で分裂始まる


LS――これらすべてに対する人びとの反応は?

MO――今日街頭にいる人びとの多数はおそらく、二月にはSCAFを支持していた。そして、それは人びとの側に立ちムバラク体制を解体するだろう、と信じていた。それを変えるためには、政権の経済政策及び増大する抑圧の中でのさまざまな失望という、九カ月がかかった。SCAFを信じていた多数の若者たちと労働者たちは、二月以来の意識における変化の過程を経験してきた。
 人びとの怒りにはもう一つの理由がある。それは、リベラルの諸党やイスラム諸党が議会選挙や大統領選挙を通して、NDP並びにSCAFと権力を分け合う道を探っているように見えたことだ。
 そのようにして意識は、上っ面の下で変化しつつあった。しかし人びとには反攻を行う自信が欠けていた。しかしまったく突然に、予期しない形で、沈黙の数カ月から民衆の波という波が湧き出てきた。士気阻喪は突然にその反対側に向きを変えた。

LS――政府とSCAFに対するイスラム諸党の姿勢とはどういうものか。彼らは今回の決起にどう対応したのか。

MO――イスラム諸グループは、SCAFを支持してきた。そして、軍と軍事評議会を批判はしない、と事実上語ってきた。特にムスリム同胞団は、闘争を抑制する――そしてストライキに際してはそれを破壊する――ために多くの社会闘争に介入してきた。ムスリム同胞団は、春から夏にかけた二つの医師ストライキを破壊しようと試みた。この組織は一〇〇%軍事評議会の背後に存在してきた。
 しかしその後軍事評議会は、彼らが新憲法起草過程を統制し、軍に関わるあらゆる立法には拒否権を確保し、軍予算は非公開のまま留めることとなろう、と方針を明らかにした。これに関する論争は丸々一カ月続き、軍とイスラム派の間に亀裂を生み出した。
 イスラム派は、他はともかく彼らとしては、イスラム法理――シャリア法――を考慮に入れる宗教条項を憲法に入れることを、軍が妨げることを恐れていた。一一月一九日金曜日の抗議の理由こそこれだった。憲法へのシャリア導入の容認に向けSCAFに圧力をかけることがムスリム同胞団の意図だった。
 金曜日にイスラム派は、四月までにSCAFが文民内閣に権力を渡すよう要求した。タハリール広場のスローガンは火曜日までは、「戦場の元帥たちが即刻去ることを人民は欲している」だった。しかし加えてそこには、イスラム運動指導者たちに対する怒りがある。その一人――大統領候補者――は広場でひどい目に合わされた。もう一人、ムスリム同胞団のナンバーツーの人物は、タハリールから追い立てられた。
 それゆえわれわれが見ているものは新しい大衆的運動だ。そしてそのすべては七二時間のうちに起こったことだ。それは実際に、ムスリム同胞団の何千人という若い支持者とこの組織の指導部の間に、くさびを打ち込みつつある。若い支持者の多くは、その指導部の指示及び願いに反対する抗議に合流するにいたった。
 そのようにして、今タハリールには、自由主義者、独立的な人びと、左翼、そしてイスラム主義者がいる。これが、イスラム陣営内部に分裂を生み出しつつある。それらの貧しいメンバーと勤労階級のメンバーは、警察の残忍さと対決してタハリール広場を守るためにそこに来るべきだと感じている。一一月二二日の火曜日には、まったく四八時間に満たない予告の中で、国中の街頭には一〇〇万人にのぼる人びとがいた。

一人ではなく一六人のムバラク

LS――この危機の中で米国はどのような役割を果たしてきたのか

MO――米国の当局者は、ムスリム同胞団との間では恒常的な接触と交渉がある、と語ってきた。彼らはムスリム同胞団、NDPの元メンバー、そして何人かの自由主義者からなる連立政権を準備しつつあった、とも語ってきた。見たところ選挙は、議会の中にムバラク時代の最後のものとほとんど同一のものをもたらすべくしつらえられた。米国とSCAFは、状況を安定化できる――革命運動が依拠していたものを急いで取り去る――ものと自信をもっていたように見える。
 これこそが、警察が土曜日に座り込みを――多くの以前のものを彼らが処理してきたとまさに同じに――厳しく取り締まった理由だ。何人かの頭は割られ、何人かは骨を折られ、そしてそれだけでことは済む――それが彼らの考えだった。怒りと闘う意志の洪水を、彼らは予期していなかった。
 イスラム勢力はSCAFとの合意を下に政権をつくる準備ができていたように見える。しかし今や勢力均衡のすべてが変化した。九カ月満たされないまま過ぎた一つの要求――NDPメンバーの多くが一週間以内に行われる選挙の候補者になっているとしても、彼らが議会に入ることの五年間禁止――を運動が勝ち取るためには、四八時間しか必要としなかった。
 もっと意味のあることだが、SCAFは、軍警が関与する犯罪捜査を停止し、代わりにすべての告発を文民検察官に任せる、と語った。コプト派キリスト教徒の抗議の時に軍警が普通警官多数を殺害した一〇月九日以来、これは中心的要求となっていた。

LS――抑圧にもかかわらず、デモに立ち上がった人たちはどのようにしてタハリール広場を占拠できたのか

MO――一一月二二日について私が言うように、タハリール広場には平和なデモという形で一〇〇万人の民衆がいた。しかし脇の通りという通りでは、七二時間ぶっ通しの戦闘を見ることができた。タハリール広場から一つ通りを離れた近くの旧アメリカン大学キャンパスは、第一次世界大戦を引き写した戦場のように見えた。何千人もの警官が内務省本部を守ろうとしていた。彼らは、米国からの無制限の補給を頼りに、四日間途切れることなく群集に対する五分ごとの催涙ガス弾発射を続けた。彼らはゴム弾をも発砲していた。
 しかしこれは、警察の残忍性ということでは通常のものではない。土曜朝にあった最初の警察の攻撃の後、彼らは日曜日の午後五時に再びやってきた。その時タハリールには三万人から四万人の民衆がいた。しかしその時彼らは軍警と一緒に来た。そしてそれが虐殺が始まったときだ。人びとはゴム弾と実弾で殺害された。これは、狙撃部隊と中央治安部隊による殺害を目的とする発砲方針の結果だった――傷は首と頭の周辺に集中していた、医師たちはこう語った。
 人びとが殺害された後、警察は彼らの遺体を歩道に並べた。彼らはその一つを一二ヤード引きづり大きなゴミバケツに投げ入れた。別の地点で彼らは、死んでいることを確かめるために遺体の頭をこん棒で殴っていた――これはムバラクの時代よりも悪い、人びとはこう語っている。
 この軍の行為が世論を移行させた。それは、ムバラクの最悪の日々は後ろにあると信じていた人びとに衝撃を与えた。彼らはSCAFを好きではなかったかもしれないが、少なくともムバラクより悪いものではないと考えていた。「われわれの前にいるのは一人のムバラクではない。われわれの前にいるのは一六人のムバラクだ」――軍事評議会にいる人びとの数との対比――、今人びとはこう言う。

説明責任を負う政府のために

LS――タハリール広場にいる抗議の人びとの社会的構成はどのようなものか

MO――それは一月と二月にあったものに極めて似通っている。しかし、中産階級はより少なく、勤労階級はより多い。警察によって殺害された人びとのほとんどは、スラムからやって来た貧しく若い勤労階級――無視された年月を経てまったく希望をもっていない若者たち――だ。
 殺害された人びとの一人は、警察に投げる石を割っていた若い女性を助けていた。彼は、「私には教育がない、将来もない。警察はいつの日かどこかで私を殺すだろう。私はここで死ぬつもりだ。あなたは行きなさい。あなたには教育がある。あなたは運動に助けとなるだろう」と彼女に語ったのだ。
 この決起がもし続くなら、もっと多くの若いムスリム同胞団支持者とサラフィストが合流することをあなたは期待できる。負傷者を処置している医師のほとんどは、良心に従って自分の意志でやって来たと語るムスリム同胞団支持者だ。

LS――闘争の次の段階として、ある人たちはゼネラルストライキの可能性を提起してきた。われわれはそこに近づいているのだろうか

MO――九月にわれわれはゼネラルストライキ情勢に近づいた。その時、教員の全国ストライキ――一九五一年以来で初めての――、ほぼ二〇日間続いたカイロのバス運転手のストライキ、国立部門の医師による二つの大全国ストライキがあった。九月には経済の鍵となる部門において、少なくとも七五万人の労働者がいくつかの地点でストライキに入っていた。左翼の多くの人々はその時ゼネラルストライキが起きる可能性があると考えた。
 これらのストライキは負けたわけではなかった。しかしまた勝ってもいなかった。多くの人たちにとって、それは志気をくじくものだった。労働者はSCAFと取引する上で十分組織されていない。今日ストライキを行えば、そのストライキを破壊あるいは抑え込むために来るのは、警察ではなく軍だ。
 今日、何らかの大衆的規模のストライキはないが、いつでも数多くのストライキがある。そして、つい最近の七二時間が人びとにSCAFと勝負する自信を与えていることに、疑いはまったくない。独立労組の数は、この夏始めのおよそ九〇から今日の二五〇まで、飛躍的に伸びてきた。しかし、労組数は多いとはいえ、この国に労働者のための政治組織は一つもない。

LS――次はどうなるか。選挙は計画通りに可能か。

MO――数々のストライキ、そして九月の準ゼネストがあったとはいえ、過去五カ月は革命の勢いにおける引き潮としてあった。SCAFは支配を保ち、大衆的な士気阻喪もあった。しかしまったく突然に、情勢は変化した。
 彼らは五日のうちに選挙を行うことができるだろうか。戦闘はなお続いている。しかし、エッサム・シャラフ政府が倒れたことはすでに大きな勝利だ。シャラフはタハリール広場の首相になると約束したが、ムバラクのNDP出身の人間に三つないしは四つの地位をもたらしたも同然だったのだ。
 まさに今、運動の要求はNDPの人間を一人も含まない統一政府を求めるものだ。交渉は、イスラム主義者、自由主義者、そしておそらくは左翼出身者を含むこととなる新政府のためのものだ。
 この新政府がまったく異なった諸条件を引き受けることとなるだろう。われわれは、三月にシャラフ政権を選出した時彼に白紙委任状を与えたが、彼は革命を盗み取った。今度はわれわれは、新政府を説明責任の下に確保するだろう。人びとはこのように語る。
 今起きていることはSCAFに反対する単なるデモではない。そのすべては、意識のはるかに高い水準を伴って起きている。

▼モスタファ・オマルは、ニューヨーク在住のエジプト人社会主義者。彼はムバラクが倒れた時カイロにいた。(『インターナショナルビューポイント』二〇一一年一一月号)

 

共同した反撃の闘いを

仏NPA、英国公務員ストに
連帯し全欧州行動呼びかけ
   

 フランスの反資本主義新党(NPA)は、英国の公務員ストを支援し、全欧州規模の共同した抵抗を呼びかけた。NPAは一〇月に開催された緊縮政策に反対する欧州抵抗連合の会議の組織化に参加した。会議ではNPAを代表してオリビエ・ブザンスノーが発言した。(本紙一〇月一七日号)

 NPAは英国の公務員労働者のストライキに連帯する。
 労働組合は、一一月三〇日のストライキを呼びかけた。労働組合はキャメロン政権の年金プランに反対している。
 こうした公務員年金制度の改悪は、欧州全域の政府が実施している社会的公正の破壊と緊縮政策の一環である。
 この改悪は退職年齢を二〇二〇年に六六歳に押し上げ、それ以後は六八歳にするものだ。それは労働者が支払う年金基金分担を六%から九%へと大きく増やし、年金給付を、最終給与ではなく平均給与をベースにすることで減額するものだ。
 年金への政府の攻撃に加えて、雇用と予算の切り下げが行われており、公務員労働者はすでにその攻撃にさらされている。幾千もの抗議行動が計画されているが、今回のストライキは一九七九年以来、最も重要なものになるのは疑いない。校長がストライキに参加するのはこの一一四年で初めてのことである。
 NPAはイギリスの公務員労働者と全面的に連帯する。
 福祉と社会的諸権利の大規模な破壊の政策は、それぞれの政府がいかなるタイプのものであれ欧州連合全体で実施されている。その破壊の範囲は、年金、所得、保健医療など基本的諸権利の全体に及んでいる。
 諸政府は、金融市場の指示と訴えによって、古くからの同じ路線を繰り返している。この危機のツケを支払い、犠牲として差し出されるのは勤労民衆なのである。
 ギリシャ、スペイン、ポルトガルといった危機の打撃を最もひどく受けている諸国では、すでに多くのストライキや抗議行動が行われている。
 全欧州で同時に行動するためには、反撃行動の調整が決定的に重要だ。
 これはまさしく緊急の課題である。
二〇一一年一一月三〇日

 


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