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    かけはし2011.11.28号

今や「新たな国際主義」が始まった

欧州連合の危機と抵抗の力学(下)

問われているのは債務危機への欧州規模の回答

ピエール・ルッセ

 抵抗の力学

7 闘争の新
たなサイクル

 二〇一〇年から二〇一一年にかけて幾つかの欧州諸国では重要な社会的動員が行われた(ギリシャ、スペイン、フランス、イギリス……)。ギリシャでは第二次大戦の終わり以後最も重要な闘いが存在している。そうした動員はお互いにきわめて異なったものである。たとえばフランスでは一九九五年一一〜一二月の公共サービス部門の大衆的ストライキから最近、昨年秋に行われた年金問題に関する大衆的デモに至るまで、ある程度の連続性をたどることができる。一方ギリシャでは、その闘いは根本的に新しい情勢に対処するものである。スペインでは、「怒れる者たち」の「精神」は「別のグローバリゼーション」運動の遺産のなにがしかを復活させている。しかし全体としてそれは「同じもの」ではない。
 EUは社会的危機の新しい局面に入っている――そしてそれは以前のストライキやデモの波、あるいは暴動の爆発が、広範で持続したものであった場合でもほとんど何も獲得できなかった中で起こっているのである。それは階級闘争のいっそうの強硬化を告げている。
 ギリシャは一つの警告である。「別の」あるいは「反」グローバリゼーション運動は国際サミット(WTO、IMF、G7―G8……)をめぐって結晶化したが、現在の動員はまず第一に各国政府(そしてその背景にあるEU統治)を攻撃対象にしており、サミットはもはや大規模なデモを引きつけてはいない。この傾向はEUに限定されない。パレスチナ問題が背景にあるアラブの決起においても、それぞれの反乱は自国の独裁体制、ならびにそれぞれの社会・経済情勢(失業……)に向けられたのである。
 これは、現在の闘争の波が以前(先述の項を参照)よりも国際主義的ではないということではなく、パターンが違っているということを意味している。世紀の転換期に形成された社会フォーラムのネットワークは、すでに長い年月がたつ中でその有効性を喪失した。これはとりわけ欧州社会フォーラムに関して、欧州諸国にあてはまることである。コペンハーゲン気候会議への動員(二〇〇九年)からギリシャ・スペインの「怒れる者」たちの国際的呼びかけにいたるまで、「ポスト・シアトル」ネットワークの外部からイニシアティブが発揮された。先立つ一〇年間に作り出された数多くの豊かな国際的連携は依然として生きているが、新しい集団的枠組が形成されなければならない。AEPF(アジア・欧州民衆フォーラム)はアジア―欧州大陸規模でその課題に貢献することができる。

8 新しい局面に
単純な道はない


 欧州(西欧)には動員と組織化のあいだに驚くほどの溝が存在する。重要な社会運動と闘争の多くが、今世紀への転換以来生み出されてきたが、それはこの間のほとんどにおいて、恒常的な諸組織(労働組合、社会運動、左翼とラディカル派の政党……)の顕著な強化に結び付かなかった。新自由主義秩序への新たな体系的批判が形成され、現在それは反資本主義的領域と結びつくことが多いのだが、絶望、未来への恐怖、オルタナティブの欠落といった感覚もまた存在している。こうした矛盾に満ちた状況には多くの理由が存在する。わたしはここで、そのうちの三つについて言及しようと思う。
 西欧において、労働運動や進歩的運動がこのようなグローバルな社会的強襲と危機に直面したのは、第二次大戦以来はじめてのことだ。今や、政府や資本家と交渉するその文化、構造、方法が全体として不適切なものになっている。そのことはたとえば、この四〇年間ではじめて大規模で恒常的な失業が再現した一九九〇年代に、すでに示されていた。この長期にわたる失業に対してどのような組織化を行うのかは、新しい(そして古い)問題だった。同じことが労働と社会生活の不安定化についても言える。ポスト第二次世界大戦期の遺産を克服するのは、きわめて困難である。
 きわめて理解可能な理由によって、若い世代の活動家の間には(多かれ少なかれ)伝統的組織形態(労働組合であれ政党であれ)への拒否が存在する。組織間(とりわけ政党と社会運動の間)の、より民主主義的で階層構造的ではない関係が発展してきており、それはきわめて積極的なことである。しかし恒常的な基盤の上に組織する必要性については依然としてきわめて過小評価されている(そしてこの事実は控えめにしか語られていない!)。それは現在のラディカル化の波の中での「アキレス腱」だと言える。
 一九九〇年代以前と以後の経験の政治的・世代的ギャップは深い。教訓や問題(未回答のものでさえ)の伝達はほとんどなされていない。かなりの範囲で政治的熟考・反省が全くの初めのところから再開しているが、それはきわめてスローペースである。
 新自由主義的グローバリゼーションと資本主義の危機への急速な展開の中で、社会的抵抗の運動の時となり、かれらにとって新しい形態(後に述べる債務問題)である諸問題に再びぶつかっている。政治的回答が姿を現すには時間がかかるだろう。危機の深化とともにすべてが可能になる。より冷静に言えば、すべてが不可能ではなくなる。しかしすべてが困難、そう、きわめて困難であることは確かである。

9 すべてを包み
込む闘う連帯を


 多くのことは、先述した「分割統治」という致命的な政策を打ち負かす能力にかかっている。「寛容」と「対話」は、それをなしとげるには十分ではない。「寛容」はきわめてあいまいな規定である。人は嫌いなものを我慢する! あたかも「他者」を嫌うことはあたりまえだったかのように。「対話」でさえ他者に圧迫を与える。お互いに支え合うのが必要であることは確かだが、社会的襲撃の暴力に立ち向かい、外国人嫌悪のレイシズム、宗教的不寛容の高まりに立ち向かうためには、相互の連帯以上のものが必要なのである。われわれは共通の要求に基づく共通の目標のために、共同の闘争に従事する必要がある。
 社会危機と民主主義の危機は、こうした共同闘争に向けた十分な土台を提供する。こうした中で、最も搾取され、抑圧された人びとの特別のニーズと「可視化」が現実に高まることが死活的意味を持っている。連帯はすべてを包み込む。反性差別、反レイシスト、反原理主義の闘争は、政治的・民主主義的・社会的闘いによって周辺に追いやられるのではなく、包み込まれたものになる。言うは易く行うは難し。欧州における進歩的勢力がこうしたやり方で連帯すべきすべての友を結びつけるのが難しいことを経験が示している。これはもう一つのアキレス腱である。

10 社会的権利と
「民主主義」の奪還


 現在の広範な動員と抵抗の大きな特徴の一つは、彼らが支配的秩序への批判と社会的・民主主義的諸権利を結びつけるその方法である。かれらは新自由主義政策や金融/市場の独裁に反対し、「今すぐ真の民主主義」を求めている。
 社会的諸権利、自分の生活の民主主義的管理を奪還する意思の共有は、集団的・進歩的オルタナティブを再建するための、きわめて希望に満ちた基盤を構成している。

11 債務問題
が中心的課題


 欧州の現在の情勢の中で、第一次大戦以後初めて債務が中心的政治課題となった。現在まで、債務は典型的な「第三世界」の問題だと見なされてきた。債務が「北」の問題にもなったことは大きな驚きである――それはきわめて似通ったものに見える。
 債務がこれほど中心的問題になったのは、それがEUの金融危機の鍵となるような側面だからであり、またそれがEUの統治がいかに金融権力の影の下に置かれてきたかを示しているからであり、それが破壊的な反民衆的諸政策を正当化する主な論拠になってきたからでもあり、さらにもはや、北の債務が南の債務に比べて正統化できるようなものではなくなっているからである。
 金融危機は資本主義的グローバリゼーションの力学の産物であり、債務は新自由主義政策(大金持ちや株主に与えられるあらゆる金融的贈り物のために税収の大幅な減少などを伴った)の産物である。
 民衆は金融危機への責任を感じておらず、やつらこそが支払わなければならないという考えを固く抱いている。そこには、大規模な主流派の宣伝や広範な恐怖(銀行の倒産で自分たちの貯金がすべて消えてしまうのではないか、といった)のために、おそらく公的債務についていっそうの混乱がある。
 こうして、この問題についての政治的・「教育的」キャンペーンが不可欠である。しかし全体として、欧州の進歩的諸勢力はこの「新しい」分野についても準備ができていない。この課題がいまやよりよく理解される諸国(ギリシャはもちろんのこと)があるが、他の国はいまだ取り組みがなされていない。一つの鍵は、いかに市民の監査、支払い停止、そして帳消しへの呼びかけを明確にするかである。最も重要なのは欧州(そしてあらゆる諸国)に根ざしたネットワークだが、それは第三世界の債務に特化してきた。いまや「南」についての専門的意見を欧州の舞台に再投資している――それがCADTM(第三世界債務帳消し委員会)である。
 債務危機への欧州規模の回答を作り上げることは今日の課題であることは確かだが、それはいまだいささか忘れられた状態にある。

12 我々のすべ
ての権利の擁護

 金融・債務危機は、数多くの約束――エコロジー全般とりわけ気候変動、さら貧困軽減なども――から逃れ、一部の諸国(ポーランドなど)では今や公然と攻撃されている中絶の権利などの基本的諸権利を掘り崩す口実としても利用されている。中絶の権利は、他の多くの国でも財政支出のカット、保健センターの閉鎖などを通じてすでに掘り崩されていたのである。
 一九九〇年代以来、新自由主義的グローバリゼーションは、それをめぐってすべての抵抗運動、民衆の権利を擁護する運動が収斂していく共通の課題となった。このことは依然として事実であるが、今やこうした役割はより直接的に金融・債務危機が果たしている。こうした問題は全体としてのグローバリゼーションのプロセスよりもっと具体的に感じられるため、民衆の運動が収斂していく力学に、新たな力を加えるようなものにすべきである。

13 包括的なオ
ルタナティブを


 オルタナティブという時、われわれはゼロからスタートするわけではない。全くそうではないのだ。実際には、過去に詳しく述べられた進歩的プログラムの多くの要素は現在でも有効であり、再び今日的なものとされており、われわれが直面しているのは考え方の欠落なのではなく目標の欠落が主要な問題なのだ、と私は考えている。
 民主主義的諸権利・人権、社会的ニーズ、エコロジー的制約に始まる全体的要求のセットは国際的ネットワークを通じて発展させられ、集団的に共有されてきた。この枠組みの中で、市場と貸し手に強制された論理に反対する公共サービスの論理がルールとなるような公的債務論の極を構成することは、現在の債務危機に対する有効な回答となる。
 それにもかかわらず、さまざまな関係分野で具体的に明確にする上で難しい問題がある。とりわけ欧州において、われわれは過去に勝ち取った民主主義的・社会的諸権利を防衛しなければならないが、それがわれわれの未来のモデルであるかのように過去の「ガバナンス」や支配の手段(「ケインズ主義」)を振り返ることがあってはならない。
 例えば自動車産業で重要な労働者の闘争が進行中である。ほとんどの労組は「雇用の防衛のために、欧州自動車産業よ永遠なれ!」と言うだろう。多くの環境グループはそれに対し「気候と地球を守るために、自動車産業をぶっ飛ばせ!」と応えるだろう。もちろんわれわれは両方を防衛しなければならない。理論的には、それは難しいことではない(それは雇用とスキルを保持した上での交通システムの再転換を含んでいる)。しかし実際には、社会的・エコロジカルなプログラムを結合し、明確にする必要は、ほとんどの環境運動と社会運動によって統合されてはこなかった。
 伝統的な「ラディカル派」と「穏健派」の分裂(金融危機に対する対応などに関して)を超えて、以前よりもいっそう集団的なやり方で、今やわれわれが示さなければならない別の課題も存在する。われわれは欧州連合から脱け出すべきなのだろうか、それとも内部からそれを作り替えるべきなのだろうか。フランスのようにEU建設の当初から関わってきた諸国の左翼は、「内部で闘え」と答えがちである。つい最近になってEUに加盟した諸国では「まず脱退し、それから新しいものを作れ」と答えがちである。
 現在の危機の中でこうした問題が再評価されなければならない――そしてそれは極めて複雑な課題である。欧州の一部では「脱グローバル化」とは何を意味しうるのか、この問題に対するわれわれの政治的回答はなんであるべきか、といった討論も始まっている――これもまた複雑な問題である。
 欧州は、地域化された経済の典型としてアジアから見られることがあった。それは相対的には事実である。しかしアジアにおいてはおなじみの地域化とグローバリゼーション/脱グローバリゼーションに関する討論が、欧州人にとってもおなじみのものになってきた。

14 国際主義に
基づく連帯行動


 この報告の初めの方で指摘したように、各国政府(そしておそらくはEUの統治)に向けて大衆動員が行われているという事実は、オルタ/反グローバリゼーションの波の国際主義的精神が終わったことを意味するわけではない。われわれはすべて同じ沈みゆくボートに乗っているという感情は、広範なものになっている(外国人嫌悪が地歩を獲得した時を除けば)。「占拠」運動がエジプトからスペインに波及し、さらに欧州から米国へ、そして少なくとも象徴的な形で米国から世界へ一〇月一五日の「占拠の日」として広がったように、大陸を超えた一体感はきわめて活性化している。
 中国が世界経済で果たしている役割(そしてそれほど可視的ではないにしてもインドも)のために、そしてまた欧州連合の金融危機との関係での中国の新たな直接的関与のために、以前はアジアとの連帯は比較的見過ごされていた(連携関係はほとんどの場合、ラテンアメリカ、中東、アフリカの一部に向けて発展してきた)が、以前以上に欧州の進歩的運動の国際主義的ビジョンの中にアジアを組み込むことが可能となるようにすべきである。
 社会的怒りを外国に向けるために、主流の政治家たちが今もこれからも反中国の外国人嫌悪感をかきたてようとする中で、とりわけそのことが重要である。同時に中国とインドが新しい(資本主義の)パワーとして地域的介入を進めていることは、アジアの民衆にとってその社会的諸条件ならびに軍事的・政治的分野において深刻な、そしてしばしば破壊的な意味を持っている。この新しい、そして複雑な情勢の中でAEPF(アジア・欧州民衆フォーラム)は、進歩的観点からこうした問題を方向づける場を提供する。
 すでに一九九六年(フランスでの反G7の動員)以来、国際連帯の新局面が発展してきた。世界全体に同一の新自由主義政策を実施する共通の制度的機関(WTO、IMF―世界銀行、G8/20に対して南と北、東と西で共通の抵抗が行われた(それが初めてだった!)。債務問題が明らかにしているように、これは今日においていっそうの現実である。
 欧州における深刻な社会危機の到来の中で、欧州の運動は以前よりもいっそう多くのことを南における闘争の経験から学んできた。実に多くの進歩的アイデアが南からもたらされている。シアトル世代を生み出した、新自由主義的グローバリゼーションに対する一九九〇年代の新しい国際主義の高揚の後に、北における社会的危機の質的悪化の中で新たな「新しい国際主義」が今や形成されつつあると言うことができる。
 具体的には、われわれは欧州(北)の運動とアジア(南)の運動の、社会的保護、債務、エネルギー(とりわけ原子力)などの課題を軸にしたネットワークを形成、あるいは拡大することができるようにすべきである。アジア―欧州問題に関して、AEPFはこうした前進を促すユニークな位置にいる。

▼ピエール・ルッセは第四インターナショナルの指導部メンバーで、とりわけアジアとの連帯運動に関わっている。彼はフランスNPA(反資本主義新党)のメンバーでもある。
(「インターナショナルビューポイント」一一年一一月号)

 


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