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    かけはし2011.11.28号

原水爆禁止運動「分裂」の歴史がいま私たちに問うているもの

――敢えて「非体験者」の立場から考察する

原水爆禁止運動と反原発運動の歴史的教訓を再整理するために

 ここに掲載する文章は雑誌『インパクション』一八二号(二〇一一年一一月一〇日発行)に掲載した論文に、若干の字句上の訂正をしたもの。この論文は「いかなる国の核実験にも反対」のスローガンをめぐる原水爆禁止運動の分裂を略述しながら、「原子力の平和利用」=原発容認論についてふれたものであり、第四インター系の「労働者国家の核武装の権利」の主張をめぐる総括についてはふれていない。本紙でも討論の課題になっているこの問題については、近いうちに試論的な形で提起したい。なお『インパクション』誌の同号特集「原発輸出? 国際的『核』管理体制を問う」は、非常に興味深いものであり、ぜひ読んでいただきたい。(国富建治)

米ソ核対峙と「原子力平和利用」



 福島原発事故は、政府・官僚・財界が一体となって進めてきた「国策」としての原発推進の犯罪性を白日の下にさらけ出し、「脱原発」の言論と運動を急速に社会の表面に浮上させることになった。同時に、世論やメディアの転換を含めた「3・11」以後の「脱原発」運動の広がりは、広島・長崎の原爆、そしてビキニ環礁での第五福竜丸の被爆を経験した日本において原水爆禁止運動の「国民的」拡大にもかかわらず、なぜ五四基もの原子力発電所を抱えた「原発大国」が生み出されたのかを、あらためて俎上にあげることになった。
 このテーマに関しては、原水爆禁止運動と「原子力平和利用」の関連について批判的に切開したすぐれた論文がいくつも発表されている。田中俊幸「『原子力平和利用』と広島」(1)、加納実紀代「ヒロシマとフクシマのあいだ」(2)などである。
 日本における原発の導入が、一九五三年一二月の国連総会におけるアイゼンハワー米大統領(3)の「アトムズ・フォー・ピース」演説の路線に沿い、米国の核軍事戦略に日本を動員し、つなぎとめる意図に裏打ちされたものであることはすでに明らかとなっている。そしてそれに乗っかった中曽根康弘などが主導した日本初の原子力開発予算が、当初から日本独自の核武装能力を準備する意図に貫かれたものであったことは、藤田祐幸の「戦後日本の核政策史」(4)によっても詳細に分析されている。一方、米国はそうした日本の支配層の「独自核武装」への動きを牽制しながら、米国の核戦略拠点としての日本「本土」と直接占領下の沖縄を確保することを至上の命題としていた。
 一九六〇年の安保改定時における日本への核配備の密約、沖縄の施政権返還協定に伴う「有事核持ち込み」の密約は、日米安保が当初から米国の核戦争戦略への日本の無条件の承認を前提としたものであったことを示すものである。そして一九五四年三月一日のビキニ水爆実験の「死の灰」で被爆した第五福竜丸事件を契機にして澎湃として全国に広がった原水爆禁止の運動が「反米世論」に転化することを恐れた米国政府によって、「原子力平和利用」キャンペーンが繰り広げられたことも周知の事実である。日本におけるその代表的エージェントとなったのが読売新聞、日本テレビ網を配下に収めた正力松太郎であったことも今ではよく知られている(5)。
 「原子力平和利用」のキャンペーンが、米国の支配者にとっては核兵器の日本配備をスムーズに受け入れさせる意図を持っていたことも解禁された米国文書で明らかにされた。国際問題研究者の新原昭治の調査によれば例えば次のような文書がある。
 「日本の文民指導者らへの通常(兵器手段による)防衛問題の教育が進んだ後になれば、彼らは日本で原子兵器の有用性を受け入れ。恐らくついにはその利用を求めるというより良い立場に到達するだろう。短期的には、原子力平和利用問題に専念することによって、また、米日関係の現在の中間経過的な局面からもっと強固かつ信頼できる関係に発展させるというすでにわれわれが保持している目標に専念することによって、最善の結果がもたらされるだろう」(1956年12月3日付書簡 スミス国務長官特別補佐官発、グレイ国防次官補あて)(6)。
 本稿で私に与えられたテーマは、おもに原水爆禁止運動の歴史に沿ってその分裂の経過をたどり、その過程で「原子力平和利用」問題、すなわち原発への評価・対応がどのような影響をもたらしたかを概観しようとすることである。だがそれに先立って「帝国主義の核」と「社会主義の核」をめぐる対立・分裂の性格についても触れないわけにはいかない。むしろ一九六三年の原水禁運動の分裂へと帰結した対立の性格は、「原子力平和利用」すなわち原発の是非に関わるものだったのではなく、「社会主義国」の核実験に対して反対の態度を取ることができるかどうか、あるいは原水禁運動内の矮小な「政治主義」、原水協事務局内の多数派を握った日本共産党の原水禁運動引き回しへの反発が主要な要因であった。「社会主義国」の核実験への態度をめぐる論争と政党フラクションを通じた大衆団体の引き回しという二つの問題は、決して分離することのできないからみあった現象である。
 「原子力エネルギーの平和利用」や、「帝国主義の核」と「社会主義(あるいは労働者国家)の核」の区別・連関といったテーマは実は、社会党・共産党を批判して登場した新左翼運動にとっても(私自身をふくめて)、突っ込んだ自己批判的再検討・総括が必要な課題なのであるが、とりあえずは今後の課題として上げる以外にない。

「全国民的運動」からの出発


 一九五四年三月一日、ビキニ環礁での米国による水爆実験で、静岡県焼津港のマグロはえ縄漁船第五福竜丸が被爆し、同船の無線長だった久保山愛吉さんは半年後に病院で亡くなった。水爆実験が放出した「死の灰」が大量に飛散し、環境や食物をかつてない規模で汚染し、人びとに「核兵器の恐怖」をあらためて実感させることになった。このとき東京都の杉並から始まった「原水爆禁止署名運動」は二カ月間で杉並区の全住民の七一%にあたる二八万人の署名を集め、全国でもいっせいに同様な「草の根」からの署名運動が展開された。同年八月には「原水爆禁止署名運動全国協議会」が結成され、この運動が翌一九五五年八月六日に被爆地広島で開催された第一回「原水爆禁止世界大会」につながった。署名数は世界大会までに三〇〇〇万人を突破した。
原水爆禁止署名運動が、まさに「全国民」的で、超党派的な広がりを持っていたことは、世界大会に当時の鳩山一郎首相、東久邇稔彦元首相、全国都道府県会議長、全国市長会代表からのメッセージが寄せられた事実に示されている(7)。「原水爆禁止世界大会」は、一九五四年から始まった署名運動ではともすれば忘れられていた広島・長崎の被爆者の苦しみに接し、原水爆禁止と被爆者救援を結びつける契機ともなった。世界大会後の同年九月、原水爆禁止運動杉並協議会議長だった安井郁を理事長として原水爆禁止日本協議会(日本原水協)が発足した。
 一九五四年、杉並から始まった署名運動は「杉並の主婦たちが主導した運動」と言われることが多い。しかし共産党員として日本原水協の事務局で活動し、のちに共産党と袂を分かって原水協から分裂した原水禁の事務局員となった池山重朗は、杉並は例外的な存在だったとして次のように述べている。
 「初期の原水禁運動を担った主な組織は、『町内会』・『婦人会』・『青年団』という保守的色彩の強い団体であった。そして保守派が全面的に支配していた地方自治体がこれらの運動をバック・アップし、署名の大部分はこうした諸集団によって集められたのが実態なのである。たとえば、自民党員の町内会長が回覧板をまわして“原水爆実験反対”の署名を集めたり、商店会の会長が署名集めの先頭にたつという現象は随所で見られた。あるいは戦前の翼賛婦人会のなごりをとどめる地域の婦人会が会員から署名を集め、青年団が署名運動にハッスルするという具合である」(8)。
 地域におけるこうした保守的地盤にも支えられた原水禁署名運動であったからこそ三千万人を大きく超える署名が達成されたのであり、米国が「反米運動」として深い恐怖感を抱いたのも、そうした地域の保守的地盤が動いたことに重要な要因があるのではないかとも考えられる。

「平和勢力」と「戦争勢力」

 原水爆禁止運動に内在する矛盾・対立が大きな亀裂となって現れていくのが、安保改定が日程に上りつつあった一九五八年の第四回世界大会であった。ここではおもに共産党系の参加者から「平和の敵を明確にせよ」「戦争勢力と対決せよ」という主張が繰り返し強調され、さらに大会決議に当時の階級闘争の焦点にもなっていた教員への勤務評定(勤評)反対闘争を「大会宣言」に盛り込むか否かをめぐって論争が起きた。この点では当時日本平和委員会と原水協の理事を兼ねていた共産党員の熊倉啓安も「原水協という組織は、あくまでも原水爆禁止という限定された目標を追求する組織」であり「平和運動のセンターではない」と述べ、「勤評だとか、労働運動に対する圧迫とかをそのまま平和運動がとりあげる」ことに危惧を呈し、「勤評反対」を世界大会で決議することを取りやめにしたことは正しかった、と一九五九年の段階で述べている(9)。
 しかし、一九五九年三月の安保条約改定阻止国民会議の結成にあたって社会党、総評などとともに日本原水協が同国民会議の幹事団体に入り、安保改定阻止の運動に原水協として取り組むようになった時、保守派の離反は明確になっていった。広島県議会は一九五九年七月五日に「政治的偏向」として大会補助金支出を否決し、新潟、山口、香川の各県も同じ態度を示した。都道府県レベルでの原水協に参加していた自民党もいっせいに離脱する。一九六〇年の原水禁第六回大会は「平和の敵、アメリカ帝国主義との闘い」を前面に出したものとなった。日本青年団協議会(日青協)や地婦連はこうした「政治的偏向」に反対した。一九六一年の第七回大会では、日青協や地婦連は全労(後の同盟、労使協調を基本にする民社党支持の労組ナショナルセンター)、民社党、自民党をも含んだ原水爆禁止運動への方向転換を訴えるようになった。総評・社会党も共産党主導の原水協の政治主義を批判した。
 だが皮肉なことに、共産党が多数決で押し切った第七回世界大会の決議には「こんにち最初に核実験を再開する政府は、平和の敵、人類の敵として糾弾されるべきである」とする一節があった。もちろんここでの共産党系多数派の意図は「最初に核実験を再開する政府」がアメリカであろう、ということにあった。しかし原水禁大会から二週間あまり後の九月一日、三年ぶりに核実験を再開したのはソ連だったのである。九月一日以後、ソ連は同年一一月初めまでのわずか二カ月で、高空、空中、水上、水中、地表で実に五九回、つまり一日一回のペースで核実験を強行した。
 世界大会決議に沿えば「平和の敵、人類の敵」として糾弾されるべきはソ連だった。しかし九月一、二日の原水協担当常任理事会では激論の末「ソ連政府の実験再開決定に対して強く反対する」ことを含んだ声明を九月二日に発表した。ところが共産党系の理事もふくめて確認した「ソ連核実験再開反対」のこの常任理事会声明に対して、日本共産党は九月二日の党機関紙「アカハタ」紙上で「ソ連政府が核実験再開を決定したことは、全世界の人びとに対して、現在の国際情勢の重大性について最大の警告を与えた」「それはドイツをめぐって燃えあがろうとしている第三次世界大戦の危険である」「いま重要なことは……ソ連の全面完全軍縮と核実験停止の合理的提案を支持し、国際緊張を激化させ、核実験再開を不可避にするような帝国主義と西ドイツ報復主義者に対して闘うことである」との主張を展開することになる。つまり悪いのは米帝国主義の核戦争準備なのであって、ソ連の核実験に対して反対すべきではない、ということだった。この立場は大衆運動団体にも党の方針として持ち込まれた。日本原水協は大混乱に陥った。
 この中で、総評、社会党、日青協、地婦連の四団体は、「いかなる国の核実験にも反対する」ことを「原水爆禁止運動の基本原則」とすることを求め、一九六一年一一月二五日の日本原水協常任理事会はこの基本原則を決定した。翌六二年三月の常任理事会と全国理事会は「原水爆禁止運動は、原水爆の製造、貯蔵、実験、使用、拡散について、また核戦争準備に関する核武装、軍事基地、軍事同盟、軍事行為について、すべて否定の立場をとる」という形で「いまなる国の核実験にも反対する」基本原則を確認することになった。
 全国理事会では、共産党系の地方代表は激しく反対したが、「基本原則」賛成の意見が多数となり、共産党などの反対派が「保留」する形で「基本原則」は承認されたのである(7)。
 しかしそれで事態は終わりではなかった。六二年八月の第八回原水禁大会さなかの八月五日に、ソ連はまたも核実験を強行したのである。世界大会起草委員会は、このソ連核実験に抗議するか否かで激論が交わされ、結局「抗議しない」ことになったため、大会最終日の八月六日夜になって、総評、地婦連、日青協などは大会から退場し、抗議声明を発表することになった。この段階で日本原水協は事実上分裂したのである。

分裂の完了


 翌一九六三年、三・一ビキニデーを前にした二月二一日の原水協担当常任理事会では「原水禁運動の統一と強化について」という声明が、共産党系の役員も含めた満場一致で採択された。この声明は事実上の分裂の固定化を避けようという共産、社会両党の会談を基礎にしたものであり、「いかなる国の核実験にも反対し、原水爆の完全禁止をはかる。それはまた異なる社会体制の平和共存のもとで、運動の目的を達成できるという立場に立つものである」とされていた。しかし、この声明が出た翌日に「いかなる国の核実験にも反対ということは、帝国主義と社会主義、戦争勢力と平和勢力とを無差別に同一視するような基本的誤りを含み、日本の原水禁運動の正しい発展を阻害し、真の敵を不明確にする」との共産党統一戦線部長談話が「アカハタ」に掲載され、共産党系の原水協役員は一夜にして態度を急変させた。この結果、安井理事長をはじめとした担当常任理事全員が辞任を表明し、日本原水協中央は完全に機能マヒに陥ったのである。
 一九六三年の第九回原水禁世界大会は、広島県原水協(森瀧市郎理事長)に一任されたが、総評・社会党などの不参加で開催された同世界大会で森瀧広島県原水協理事長の基調報告は、会場の多数を占める共産党系参加者のヤジと怒号で迎えられた。森瀧報告は「どこの国のどんな核実験にも反対」「部分的核実験停止条約(前年のキューバ危機を経て、ソ連が米英両国と結んだ地下実験を除く核実験停止条約。一九六三年八月五日正式調印)の成立は、少なくとも『死の灰』による地球の汚染を著しく減少しうるに至ったという点で高く評価すべき」と強調していたからである。
 こうして一九五四年のビキニ水爆実験被災の衝撃から「国民的運動」として始まった日本の原水爆禁止運動の分裂が確定することになった。共産党に支配された日本原水協から離れた運動体は、広島原水協、長崎原水協、静岡原水協による「原水爆被災三県連絡会」を軸に、一九六五年二月一日に「原水爆禁止日本国民会議」(原水禁)を結成して独自の道を歩むことになった。
 その後、一九七七年には、文化人サイドからの働きかけもあり、森瀧市郎原水禁代表委員と草野信男原水協理事長との合意書による統一世界大会が開催され、一九八二年からは平和行進も統一して行われた。しかし平和行進における「団体旗自粛」問題をめぐり、日本共産党が原水協、平和委員会の人事に介入して「辞任」を求めたことにより統一世界大会も混乱し、一九八五年以後、統一世界大会開催も頓挫してしまったのである。

共産党の「綱領的」立場


 「いかなる国の核実験にも反対」の原則をめぐる原水禁運動の分裂においては、明らかに共産党のセクト主義的な大衆運動支配が最大の要因であることは言うまでもない。それは共産党の側からのどのような判断に基づくものだったのだろうか。この間の経過について今入手可能な日本共産党の公式党史の記述から検証してみよう。
 日本共産党中央委員会が編集する『日本共産党の七十年』(10)では、原水禁運動の分裂の経過については、一九六一年以後最大の対立課題となった「いかなる国の核実験問題にも反対」については全く触れられていない。分裂の原因はいきなり一九六三年の「部分的核実験停止条約」をめぐる対立によってもたらされたことになる。
 「部分的核実験停止条約は、地下核実験による核兵器開発を合理化するものであり、米、ソを軸とする核兵器独占体制の維持と、それを前提とする米、ソ間の妥協をはかり、アメリカ帝国主義の核脅迫をたすけ、核兵器全面禁止と核戦争阻止という根本課題から世界人民の目をそらせるものであった」「六三年八月の第九回原水爆禁止世界大会では、部分核停条約の問題をめぐってはげしい論争がおこなわれた。社会党、総評指導部は、部分核停条約の支持を大会が決定することを要求し、この一方的な要求がうけいれられないと、日本原水協と原水爆禁止世界大会からの脱退を宣言した」。
 一方その十年後に編纂された『日本共産党の八十年』(11)では一九六三年の分裂問題について「いかなる国の核実験」問題について、何の説明もぬきに一カ所だけ出てくる。
 「この間、統一行動の発展をさまたげる重大な事態も生まれました。その一つが、ソ連共産党の干渉ともかかわった原水爆禁止運動の分裂でした。社会党、総評などは、六三年原水爆禁止世界大会で、『いかなる国の核実験にも反対』『部分的核実験停止条約支持』を大会におしつけることに失敗すると、大会からの脱退を宣言し、六五年には原水爆禁止日本国民会議(原水禁)を発足させました。世界大会は、『核戦争阻止・核兵器完全禁止・被爆者救援』の旗をかかげて、その後も発展しましたが、原水爆禁止運動の分裂はその後長期にわたって日本の国民運動の展開に傷跡を残しました」。
 ここでは、いかなる国の核実験にも反対した人びとが「ソ連共産党の干渉」の手先としてふるまったかのような記述になっている。「ソ連の核実験」を擁護して「いかなる国の核実験にも反対」に反対した共産党が、ソ連の干渉に屈せず「自主独立」の立場から闘ったかのような混乱しきった自己弁明に終始しているのである。全体を貫いているのは「帝国主義の手先=右翼社民主要打撃論」のセクト主義と大衆運動への支配、党内のソ連派・中国派を次々に切りながら指導部の排他的一枚岩を確立していった日本共産党のあり方の自己正当化である。
 私が最初に述べた共産党の矮小な「政治主義」と大衆運動団体に対する党フラクションを通じた引き回しという問題は、一九六〇年代初頭における日本共産党の政治方針と密接に関連している。彼らは当時米国の大統領に就任したケネディと駐日大使に任命されたライシャワーによる社会党、労組幹部、文化人への「反共・親米工作」(ケネディ・ライシャワー路線)が強まっていると捉えた。そして六〇年安保後に社会党の主導権を握った江田三郎らの右派が「あらゆる運動において社会党の指導を独占的に制度化しようとする反共セクト主義の傾向を露骨に強めてきた」と主張した。しかも社会党江田派執行部は一九六一年の共産党八回大会で確立した党綱領に反対する「反党分子」(構造改革路線に立つ反独占社会主義革命派)と結合していた。
 そこで「日本共産党は、右翼社会民主主義者や反党分子が民主運動、労働運動にもちこんでいる誤った思想や『理論』を克服するためのイデオロギー活動をとくに重視し、党綱領のしめす二つの敵との闘争の路線、反帝・反独占の民主主義革命の路線こそ、日本人民解放の道であることを、広範な大衆のあいだにあきらかにする活動を強めた」(10)というわけである。原水禁運動の分裂は、まさしく彼らの「綱領的」路線の表現だった。

原水禁の反原発運動


 原水禁運動が「原子力の平和利用」論を内在させながら展開していったことは、すでにこの間、多くの人びとから指摘されていることである。現に日本原水協は昨年まで「反原発」の立場をとってこなかった。むしろ原水爆禁止運動が「反原発」を打ち出すことに一貫して敵対してきたのが共産党と日本原水協の昨年までのあり方だったのである。
 他方、原水禁はどうだったのだろうか。
 「原水禁では、一九六九年の『被爆二四周年原水禁世界大会』で『核燃料再処理工場設置反対の決議』を採択し、その年の一一月末、新潟県柏崎市で最初の反原発全国活動者会議を開催。さらに七〇年一一月にも茨城県那珂湊市(現ひたちなか市)で『原発・再処理工場反対全国連絡会議』を開催した。/だが当時、原発問題はまだまだ学習の段階であって、原水禁が『反原発』を中心スローガンに掲げたのは『被爆二六周年原水禁世界大会』が最初であったが、七〇年の被爆二五周年原水禁世界大会から大会基調報告に原発問題がはいり、特別企画として『原子力平和利用に関する分科会』を設けている。しかし『原発・再処理問題分科会』が設けられたのは被爆二七周年原水禁世界大会になってからであった」(7)。
 すなわち、各地で原発の建設が急速に進み始めた一九七〇年代になってから各地の原発建設反対住民運動と結びつく形で地域のレベルで原水禁としての反原発運動への取り組みがきわめて経験的に始まったのである。それは高度経済成長とともに水俣病をはじめとするか「反公害」「環境汚染反対」の住民運動が発展し、そこに地区労を中心にした労働組合の活動家が参加するという形をとっていた。
 池山重朗は次のように書いている。
 「こうして反原発の運動が高揚しはじめる過程で、『原水禁』はかなりの寄与をなしえたと言えよう。もちろん『原水禁』には総評以下の労働組合も加盟しており、無力化しつつある社会党も協力組織である。総じてこの社会党・総評ブロックは核問題に無知であり、原発についての問題関心は薄い。そして広島・長崎の体験にのみ依拠した運動を考えるという惰性的思考にとらわれていたのである」。
 「『原水禁』はこういう地域組織の怠慢の中にあって、社会党・総評ブロックから相対的に自立し、比較的活力に富む地方の活動家、住民運動、市民運動などと同盟することにより、前述のような運動の転換と一定の前進を遂げてきたのだった。したがって、社会党・総評がこれまで原子力問題について比較的適確な対処ができたとするならば、それは自らの力、自らの頭脳でそれをなしえたのではなく、全く他から与えられたものということができよう」(8)。
 池山は一九七〇年代における原水禁の反原発への取り組みの中で、その力となったのが既存の労働組合構造に依拠した総評・社会党ブロックの活動家ではなく、地域住民運動や市民運動と結びついた自立した活動家群、すなわち六〇年代後半から七〇年代初頭の全共闘・反戦青年委員会の運動を担った活動家層と重なりあう存在であったことを示唆している。
 このような活動家たちは、各地の原発建設差し止め訴訟、原船むつ反対運動、原発立地での公開ヒアリング阻止行動、核燃サイクル施設反対、核燃料輸送阻止、さらには放射能で被爆した太平洋諸島の人びとと結びつく「非核太平洋」運動などを担いながら、核兵器にとどまらない核エネルギーそのものへの批判的思考を育み、深めていったのである。原水禁は高木仁三郎らの「原子力資料情報室」の設立(一九七五年)にあたっても一定の協力・支援関係を結んだ。原発に関しての理論的蓄積のなかった原水禁は、理論と運動の領域を外に広げることで反原発運動に持続して取り組むことができた。
 そうした活動家たちにとっては、前述した一九七七年の原水協・原水禁の統一大会開催の合意は、意に反するものであった。共産党の「赤旗」は一九七七年六月九日の紙面で「第二回原水禁世界大会(一九五六年)では『原子力の平和利用の決議』が行われており、原子力絶対否定の立場を取っていない」として「原子力の平和利用」に固執し、その立場から原水禁を批判していた。実際、一九七七年の統一大会では「大会アピール」に原発問題が入っておらず、それに抗議して閉会総会への出席を拒否した外国代表もいた。
 池山重朗は、この統一大会を批判して書いている。
 「この世界大会が決めたことは、広島の原爆被爆者の実態を解明・整理し(NGOシンポジウム)、これをたずさえ、さらに核廃絶の署名を持参して国連軍縮特別総会に代表団を送り込むということだけであった。原子力発電については多くの批判意見が出たにもかかわらず、当面する焦眉の問題としては扱われなかった。わずかに『現在世界各地で進められている原子力発電所の建設が引き起こす放射能による被曝、環境汚染、核兵器の拡散の危険性を防止するための国際的な緊急、かつ根本的な措置を要求すること』(大会決議)と触れただけである。この決議文では何を主張し、何を要求するのか全くあいまいで意味不明である。平和利用の核については全く価値判断を下さなかった」(8)。
 この統一劇は、反原発の運動に対してはなんらの貢献をもなしえなかったのである。

チェルノブイリ事故をめぐって


 一九八六年のチェルノブイリ原発事故は、放射能汚染の恐怖の下で、はじめて日本の民衆全体が原発被害の「当事者」であるとする意識を浸透させ、一九八八年には各地で大きな運動が盛り上がった。四月二四日には日比谷公園で開催された「一万人行動」に二万人が参加した。
 日本共産党はこの反原発行動の高揚に危機感を抱いた。
 「雑多なニセ『左翼』分子をふくむ『原発絶対反対』論者が、デマゴギーさえまじえて原発事故にたいする恐怖を一面的にあおりたてつつ、原発の危険をまったく非科学的に誇張し、住民の切実な要求にもとづくたたかいの展望について、もう間にあわない、理論的に絶望だなどと言っていることも軽視できません」「これは原発問題にたいする正当な要求をとりあげるかのように見せかけて、実際には政府・電力資本の真の責任よりも、原子力の研究や開発にたずさわる科学者が敵であるかのように糾弾し、一般大衆を絶望と無力感にさそいこみ、科学者もふくむ広範な基盤に立つたたかいを挫折と失敗に導く理論です。同時、それは原発そのものとのたたかいが最大の課題であるかのようにいうことで、死活的に重要な国民的要求である核兵器禁止・廃絶の問題から目をそらさせることにもなります」(12)。
 この信じがたいほどの罵倒は、チェルノブイリ事故が党員科学者の「原子力平和利用」信仰、ひいては党のイデオロギー的基盤を根底からゆさぶるようなものであったことを裏書きしている。
 現在、福島第一原発事故の惨事の中で、日本共産党は原発問題に関して大転換の過程にある。「原発絶対反対」論批判から「原発ゼロの日本」へと共産党は態度を変えた。九・一九の「さようなら原発五万人集会」にも共産党は志位委員長、市田書記局長を先頭に参加し、原水禁と原水協との協力をも追求すると主張し始めている。
 日本共産党の理論的最高権威である不破哲三前委員長・現社会科学研究所長は、「日本共産党は最初の段階から安全性抜きの原発建設に反対してきた」と主張し、その根拠として一九六一年七月の第18回中央委員会決議を挙げている(13)。しかしその決議の内容は次のようなものだ。
 「アメリカ帝国主義その他とむすばれている従属的で不平等な原子力開発、動力協定を破棄し、国際原子力機構を中心とした自主的な技術協力を推進する。アメリカ帝国主義への従属のもとに独占資本とその手先である官僚がつくりあげた原子力二十カ年計画を破棄し、わが国の自主的な原子力研究の基礎、応用の全体的発展をめざし、エネルギー経済の総合的な計画を民主的に確立することを要求する」。
 「……原子力発電所の設置は、わが国の総合的なエネルギー計画の民主的な確立、原子力研究の基礎、応用全体の一層の発展、安全性と危険補償にたいする民主的な法的技術的措置の完了をまってから考慮されるべきである」。
 この決議自身は一見してわかるように「民主的政権」の下での原発計画の推進という代物である。これが「原発ゼロの日本」を根拠づけるものであるはずがない。かつての立場が間違っていたならそのように言えばいいのであって、無理やり昔から一貫して正しかったというからつじつまの合わない強弁としか受けとられなくなってしまうのだ。

「可能性」が閉ざされた後に

 マルクス主義者の中で、原子力エネルギーの巨大な意味について最も早く指摘していたロシア革命の指導者の一人、レオン・トロツキーの主張を紹介しておこう。彼は一九二六年三月一日の「全連邦無線友の会第一回大会開会式での報告」で「無線、科学、技術、社会」と題して次のように述べている。
 「放射能の諸現象は、原子内のエネルギーの解放という問題にわれわれを連れていく。原子は、全一的なものとして、強力な隠されたエネルギーによって保たれているのであり、物理学の最大の課題は、このエネルギーを汲み出し、隠されているエネルギーが泉のように噴出するように、途を開くことにある。そのとき石炭や石油を原子エネルギーに取り替え、それを基本的動力とする可能性が開かれてくるのだ。この課題はまったく望みなきにあらずだ。だがこれはなんという展望を開いていることだろうか! この一事からして、科学・技術的知識が大転換に近づいており、人間社会の発展における革命の時代は物質の認識やその獲得の領域における革命の時代と合致しているのだ、と主張することができる。解放された人類のまえには無限の技術的可能性が開かれているのだ」(14)
 多くの政治家、軍人、官僚、資本家たちの野望、科学者の夢を捉えた原子力エネルギーの「無限の可能性」は広島・長崎の惨害として「開かれ」て以後、今また福島原発の惨事として私たちの眼前にある。原爆と原発の一体性としての人道的・環境的惨事は同時代的なものとしての資本主義システムのグローバルな危機の本格化と重なり合っている。
 自らをも含めて立ち向かうべき「敵」は何かを、矮小な政治主義ではなく明らかにしていく集団的作業が改めて問われている。

(注1)「『原子力平和利用』と広島」(『世界』11年8月号)
(注2)「ヒロシマとフクシマの間」(『インパクション』180号)
(注3)アイゼンハワーについて米国人の詩人アーサー・ビナードは、今年8月6日に広島で行われた「核兵器廃絶をめざすヒロシマの会」などが主催した集会の発言で「第二次大戦で功なり名遂げたヒーローとして軍部から大統領職に『天下り』した」と秀逸な表現で性格づけた。
(注4)槌田敦・藤田祐幸他『隠して核武装する日本』所収、影書房、二〇〇七年
(注5)有馬哲夫『原発・正力・CIA』、新潮新書、二〇〇八年
(注6)しんぶん「赤旗」2011年8月5日
(注7)原水禁国民会議、21世紀の原水禁運動を考える会編『原子力開発と日本の非核運動 開かれた「パンドラの箱」と核廃絶へのたたかい』、七つ森書館、二〇〇二年
(注8)池山重朗『原爆・原発』、現代の理論社、一九七八年
(注9)熊倉啓安『戦後平和運動史』、大月書店、一九五九年
(注10)『日本共産党の七十年』(上)(下)、新日本出版社、一九九四年初版
(注11)『日本共産党の八十年』、日本共産党中央委員会出版局、二〇〇三年初版
(注12)「赤旗」一九八八年六月一〇日)
(注13)パンフレット:不破哲三『「科学の目」で原発災害を考える』、日本共産党中央委員会出版局、二〇一一年
(注14)トロツキー『文化革命論』所収、現代思潮社、一九七九年

 


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