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    かけはし2011.11.21号

政治、市場の指令にマヒ

欧州連合の危機と抵抗の力学(上)

代表者なき支配階級の集団的利益が偏向した路線を社会に強要する

ピエール・ルッセ

 この報告は、ニース(フランス南部)で開催されたG20オルタナティブ・サミットの前の一〇月二八日、パリで開催されたアジア・欧州民衆フォーラム(AEPF)国際組織委員会のオープン・セッションで提起されたものである。会合で配布されたこの覚書は、意見交換の中で提起されたいくつかの要素を付け加えて、その場で完成された。英語版は「インターナショナル・ビューポイント」編集部が改訂した。

 資本主義的グローバリゼーションによる最初の金融危機(一九九七、九八年)と現在の危機との間には強力な継続性が存在している。しかしわれわれは、広範囲にわたる複合的な危機(気候・エコロジー危機、食糧危機、社会・経済的危機……)の中で新しい段階に突入してしまった。一〇年以上前に始まった「もう一つの」あるいは「反」グローバリゼーションを掲げるグローバル・ジャスティス運動(GJM)と、現在の「怒れる者たち」(Indignad@s)のうねりとの継続性を強調することもできる。しかしここでもまたわれわれは、動員の力学における重要な転換点に到達している。
 ここでわれわれが見ておきたいものは、継続性というよりもむしろ新しいものである。
 いつものように「欧州」について語る時、欧州諸国はきわめて多様であることを思い起こさなければならない――それは「法則の例外」の集積である。そして欧州連合はギリシャ、ドイツ、フィンランドのそれぞれからは同じようには見られていない。

EU危機を支配する力学

1 欧州が国際的危機の中枢へ


 二〇〇八年の「サブプライム」危機ですでに新しく起こったことは、国際金融危機の中心が「北」――その時はとりわけ米国――であって「南」ではないということだった。それは統一した欧州帝国主義国家の構築という歴史的過誤の帰結だった。統一した欧州帝国主義国家を作り上げようというこの目論見は、強力な国家主導のプロセス(欧州石炭・鉄鋼共同体)としてはるか以前に始まった。しかしそれは市場が主導するものに置き換えられ、一九九〇年代には新自由主義パラダイムの拘束を受けることになった。
 こうしたプロセスが成功する見込みはほとんどなかった。それは共同市場とユーロを生み出した(それは必ずしもあらかじめ所与のものだったわけではない)が、それ以上のものを何も達成しなかった。有機的一体となった欧州ブルジョアジーは形成されず、欧州統一軍は創設されず、真の欧州政府や共通の経済・外交政策は主張されず、成育した欧州国家は作られなかった。逆に、新しい諸国(東欧)の統合やユーロ圏の拡大といったプロセスには、いまや大きな疑問が投げかけられている。
 現在、危機の圧力の下で明るみに出ているのはこの失敗である。二年前、主流派エコノミストや政治家には考えもつかなかったことが、いまや公然と論議されている。すなわちユーロ圏の崩壊やEUの分解の可能性である。これはきわめて予測困難な未来を伴った歴史の大きな転換点である。

2 福祉国家の浸食から破壊へ


 新自由主義政策は、その出発点から戦後―新自由主義以前の時代に勝ち取られた集団的諸権利を巻き戻すことを目標にしていた。このプロセスは一部の諸国(英国……)では早くから始まり、資本主義的グローバリゼーションの下で後に他の諸国(フランス……)に広がった。各国ごとの重要な違いを超えて、不安定労働の全般化、すべての分野(保健、教育など)での社会的保護の浸食をともないながら、それはすでに欧州の社会的光景を深く変えてしまった。第二次世界大戦以後初めて、新しい世代はかれらの両親よりも悪化した生活条件に直面している。
 今やこの社会的強襲は厳しいものになっている。そこには客観的理由がある。統一した欧州帝国主義を打ち固めることが失敗したため、国際的力くらべに立ち向かい、「南」からの超過利潤を確保するEUの能力は著しく弱まった――それぞれの欧州ブルジョワジーは、以前よりもさらに自国の住民に顔を向けた攻撃を進める必要に駆られている。しかし金融危機と債務の恐怖もまた政治的な道具となり、社会的・民主主義的諸権利の新自由主義的な破壊を正当化するために使われている。この危機は、集団的抵抗を決定的に挫折させる好機と見なされているのだ。
 ここでもわれわれは大きな転換点に到達している。この流れは、公共サービスの浸食からその破壊への動きである。現在ギリシャで起きていることは、欧州の一国家で社会的紐帯がいかに暴力的に引き裂かれうるのか、いかに大規模な貧困化が引き起こされうるのかを劇的な形で示している。
新自由主義の急襲が、社会的抵抗によって速度を落とした諸国においても不平等が拡大している。貧困が広がる中でトップの一%(さらにはトップの〇・一%あるいは〇・〇一%)はますます富裕化している。社会的保護の水準の相次ぐ量的削減は、質的影響をもたらしている。たとえばフランスでは、ますます多くの人々が医療費の増大のために治療を受けることができなくなっている。そしてさらに事態が悪化する状況が到来している。

3 極右を助ける政治的袋小路


 現在の危機において衝撃的なことは、それがいかなるオルタナティブにも道を開いていないことである。緊縮政策が欧州(の一部)に景気後退を告げている中で、EUの救済策は「以前と同じ」にとどまっている。諸国政府が欧州条約の財政的義務を破らざるを得ない中でも、かれらは今なおこうしたルールを憲法上の義務にしようと試みている。WTO(世界貿易機関)からEUにいたるまで、諸政府がもはや統治できないまでに新自由主義的秩序が禁令によって強制されてきた。選択肢のほとんどは、神聖不可侵の「競争市場」と「資本の自由」の名において禁じられている。支配階級の集団的利益は根本的な路線変更を呼びかけている、と考えることができる。しかし明らかに、誰もこうした資本家階級の集団的利益を代表することができないのだ。
 EU内の矛盾はきわめて先鋭であり、短期的な一時しのぎから次の一時しのぎに移行することだけが可能である。社会民主主義は実質的な対案を提示していない。確かにフランスでは社会党が二〇一二年の大統領選挙と国会議員選挙で勝利する位置にある。しかしその候補者(フランソワ・オランド)は、彼の党と同様に確固とした新自由主義的パラダイムの中にとどまっている。そしてスペイン(サパテロ、PSOE[社会民主労働党])、ギリシャ(パパンドレウ、PASOK[全ギリシャ社会主義運動])において、民衆の憤怒に直面しているのは社会民主主義政権なのである。
 ラディカル左翼は余りにも弱体でオルタナティブとして見なされていないだけではなく、自らの力を打ち固めておらず、さらにそれらが以前の時期に持っていたよりも質的な強化を果たしていない。選挙結果は矛盾に満ちたものである。ポルトガルの左翼ブロックは深刻な後退を喫し、デンマークの赤と緑の同盟は予期せぬ大きな成功を収めた。しかし当面のところ成功に続くものは後退であって、その逆ではない。ここで挙げる最後の例はフランスの反資本主義新党(NPA)の深刻な危機である。ラディカル左翼の危機は、かれらが放置した政治的フィールドが外国人嫌悪の極右勢力からの反システム(虚偽の)的オルタナティブへと開かれているという点で、とりわけ憂慮すべきである。

4 民主主義の圧殺が危機加速


 信頼しうる政治的オルタナティブや出口のない長引く危機は、欧州連合の分解の危機に道を開く可能性がある。EUにおいてはすでに深刻な制度的危機が存在している。それは明らかに民主主義的なやり方ではなく上から下へ作られた制度の危機である。選出された機関ではないWTOが採択した規則を国民議会が義務的に一国の法にしなければならない時(EUの規則についても同様)、ブルジョワ民主主義はその座から立ち去ることになってしまう、ということができる。人々は昨日までのブルジョワ的制度――いかにそれに伝統的な欠陥、虚偽、限界があろうと――が、決定的に周辺化されてしまったと感じる。政策の実質的変化のない政権交代――すべて新自由主義的枠組に適合した左派/右派政権の継承――は、広範に広がる政治への拒否、選挙での棄権の高率化――を育んできた(人々が投票箱を使って復讐を果たそうという意思の減退)。
 外国人嫌悪の極右の台頭は、最近のデンマークでの選挙結果が示すように決して直線的なものではない。広範な大衆動員がある場合はいつでもレイシズムは後方へ引っ込む。しかし現在の情勢に内在する危険性を過小評価すべきではない。レイシズムは依然として国ごとにきわめて異なった姿を取っているが、すでに一部の国では過激な反民主主義的極右勢力が選挙に勝利し、政権を構成することができる(ハンガリー)。

5 「分割統治」政策が新たな重要性帯び中心へ


 支配階級はつねに「分割統治」政策を使用してきたが、戦後期の欧州では社会・政治的力関係のために、それらは広範な集団的社会的連帯を統治のシステムに統合するものだった(社会保障、公共医療と教育、保護的な労働法……)。一九九〇年代に起こった新自由主義政策の全般化は、こうした時代の終焉を意味した。すでに「分割統治」政策はより中心的な位置を占めるようになった。
 こうした政策には多くの容貌がある。怠け者で不当利得を得ているとして描き出された貧しい人びと(あるいは“危険な階級”)の「犯罪者」視。不安定雇用の人々に対して安定した雇用についている労働者や公務員を「特権層」とみなす「悪者」化。女性の居場所は家庭だとするイデオロギー的な暗黙のほのめかし。「本質還元主義」的方法を取った特定のコミュニティーのスケープゴート化――多くはムスリムやロマ(かれらはキリスト教徒である)に対して。登録証を持たない移住者への人狩り(魔女狩り)……。
 レッテル貼りによる非難の政治は、欧州連合でも作動している。たとえば「PIGS」(訳注:債務危機に陥ったポルトガル、イタリア、ギリシャ、スペインの頭文字であるが、同時にここには英語で「豚」という軽蔑的含意がある)という匿名的表現は「南」の人々(「北」の人々よりも怠け者だと見なされている)に対して向けられている。「PIGS」はポルトガル、イタリア、ギリシャ、スペインだが、あたかも財政危機が他の国々(アイルランド、アイスランド……)を直撃しなかったかのようだ。
 EUのグローバルな危機の中での「分割統治」政策の力学は、きわめて危険で破壊的なものになりうる。

6 世界的波及の意味は根本的


 今にいたるまで現在の危機は「北」ならびに広範囲にわたる「南」の諸国をきわめて厳しく直撃しているが、他の多くの諸国はその破滅的影響から逃れてきた。これはとりわけ中国、インド、ブラジルなどの「新興諸国」の幾つかにあてはまる。
 われわれは、米国やEUの経済的下降が「新興諸国」の輸出の機会を大きく削減するという、危機の新しい段階に入るかもしれない。そうなれば、中国市場への輸出に依存しているアフリカのような「南」の経済に対する「ドミノ倒し効果」が作用する可能性がある。そのようになれば、金融/経済危機は、より普遍的な性質を帯びることになり、根本的な意味を持つことになる。   (つづく)

▼ピエール・ルッセは第四インターナショナルの指導部メンバーで、とりわけアジアとの連帯運動に関わっている。彼はフランスNPA(反資本主義新党)のメンバーでもある。
(「インターナショナルビューポイント」一一年一一月号)


書評

くどうひろし著/柘植書房新社/1800円+税

『中国革命の真実
  ―過渡期への手付』 

小松敬二

現代中国が突き出す課題への
国際的に連帯した挑戦を共に


 現代中国を考えるとき、何か苦い、割り切れない思いにかられる人が多いのではなかろうか。民主党親米派によって再び中国包囲強化への傾斜が示される今、それに抗しながら私たちも一方で国際左翼の一部から「中華帝国主義」といういい方がされるようになっている事情も認識せざるを得ないから、判断保留に追いこまれそうにもなる。しかし、そうだからこそ真剣に討論すべきことである。
 本書は中国革命史を「労働者が悲劇、失敗をひもとき、学ぶことで未来を切り開く以外にない」という立場からふりかえり、今必要な討論の前提を共有しようとするものといえる。評者は著者と同世代である。日本新左翼の興隆の時期、黒田哲学や宇野経済学によって日共的立場からの離反をとげようとした部分が多数派であったが、私たちの潮流は歴史の再発見によってそれをなしとげたと思う。著者はそのような体験をもう一度広めなくてはならないという課題意識から古稀を超えても一書を提示せざるを得なかったのであろう。

革命的楽観主義貫くリアリズム


 本書の基調は革命的楽観主義というべきものである。本書の書き始めと末尾の数行ずつがそれを端的に示している。序は「ゴレ島が観光客を迎える時代になった。かつてアフリカから狩り集められた奴隷たちが一時収容された島である」ではじまり、あとがきは「日本の労働者が社畜を返上し、交流、連帯するならば、中国労働者の自発性が社会の秩序になる時期は、予想以上に早いのではないか。上海コンミューンを闘って倒れた労働者階級の跡継ぎが注目される時代になった」で結ばれる。この楽観主義は私たちの世代がトロツキーから日本最初のトロツキスト山西英一を経て受けとった最良のものであったろう。
 その楽観主義はリアリズムに裏打ちされてはじめて成り立つ楽観主義である。「帝国主義がソ連、中国を経済、軍事の両面で封鎖、締め上げた。スターリン独裁と粛清、毛沢東の文化大革命のような悲劇は帝国主義との相関で起った。……侵略に深傷を負い、害毒を防ぎ切れなかった」。「ソ連、東欧、中国に起った出来事はことごとく帝国主義との死闘、対立、抗争の一環である。真理とはやはり全体のこと、階級闘争は世界大である」。世界情勢は各国情勢の寄せ集めではなく、世界情勢が各国情勢を規定するという認識があってこそ維持できる楽観主義である。

世界史的視点から見た中国革命


 第二次大戦後、ソ連軍の力に依拠しないで権力をにぎった左翼は中国とユーゴスラヴィアであったが、どちらもスターリンの制止を振り切っての革命であった。押しつけられた国民党との合作は上海クーデターによる左派労働者の大虐殺を結果したが、日本の敗戦後もスターリンは「内戦をやってはいけない、蒋介石と協力しなければならない。さもないと中国民族は亡びるであろうといった。当時われわれはその命令を遂行しなかった。そして革命は勝利した」という毛沢東。しかし、その毛の選択はスターリン路線を明確に批判してきたトロツキーと上海の敗北後、トロツキストとなった陳独秀の影響があってこそのものだったと著者はいう。中国革命は非トロツキストにになわれた永続革命のその段階での勝利であった。
 しかし毛沢東には世界史の一環としての過渡期という明確な自覚はない。ソ連の農業集団化の失敗に学び得ず、ナロードニキ的幻想と著者が見る農村の非資本主義化、大躍進、人民公社化を急激に進める。下部からの正確な報告が上らない、つまり民主的統制が不可能なまま皇帝化した毛沢東には、三、四年で二千万以上といわれる餓死者を出すという事態を受けて路線修正をはかる劉少奇、ケ小平らは「資本主義の途を歩む実権派、走資派」にしかみえない。紅衛兵を動員して劉・ケ派を打倒しようとしたのが大虐殺を含む文化大革命であった。

民主主義の位置の重視とケ評価


 後に中国共産党自身が「文化大革命で修正主義・資本主義として批判された多くの事象はまさしくマルクス主義の原理であり、社会主義の原理であった。……劉少奇、ケ小平をかしらとするブルジョア司令部などというものは根本的に存在しなかった」という歴史決議をあげた。それはよく知られているが、元人民日報編集長が「文革の一切の暴力的犯罪の主たる責任は毛沢東にある」と言い切っていることを評者は知らなかった。
 「ケ小平が人民公社を解散したのは経験から明らかになった間違いの修正であった。経済発展の整合性と民主主義は不可分の関係にあり、原点である」と強調する著者にとってその後の「改革開放」を導いたケの南巡講和「社会主義の本質は生産力を解放し、搾取を消滅させ、両極分化をなくし、最後に皆が共に豊かになることだ」という立場を「四半世紀もの間、農村を停滞と貧困に陥れ、多くの犠牲者を出した痛恨事に何としても光を当て改善したい、ケ小平の宿願、真骨頂がにじみ出ている」と好意的である。
 だがそのケ派指導部に責任のある天安門事件をどう見るか。著者は「犠牲は人民公社、文革に比べれば比較にならないほど少ないが、民主化を求める学生の請願行動の受けた鎮圧としては法外であった」としつつ、「農村に残る深い傷跡、改革を目ざす指導部のトラウマには学生の行動が文革と同じ無益な動乱に見えた」という洞察を示す。

残る問い、独裁続く大国の行方


 このように歴史をふりかえる著者の特徴的観点は@経済発展を主観的決意でとび超えられないというリアリズムA民主主義なき社会主義志向は「歪められた労働者国家」しかもたらさないBその矛盾の解決は世界史的課題であり日本を含む世界人民の協同こそ重要ということである。
 民主主義なき「改革開放」は資本主義との相互作用の中でゆがみを増幅させ、固定化させる力として働く。経済大国となった現段階でどのような可能性があり、私たちの具体的課題があるのか。その展開は残念ながら本書では不十分である。二〇年前に書かれた付章を削っても「あとがき」で示唆されていることをふくらませるべきであったろう。生産力の発展は韓国、台湾でもそうであったように民主化への基盤を作るという示唆は大局的判断としてはそうであろう。人の往来も多くなった今、資本主義国の労働者との連帯協力の強調は具体的展望を持って語られなくてはならない。それはもとより著者のみではなく私たちの課題である。
 例えば私は日本近代史を中国人が「過去の犠牲者の子孫」としてだけではなく学べる契機を作りたい。包囲される恐怖から大国志向に走った日本のマイナスの教訓は「坂の上の雲」をめざしている現代中国にも役立ちそうだからである。何しろR・ドーアが最近著(中公新書『金融が乗っ取る世界経済』)で三、四〇年も経てば「西太平洋における覇権国家は中国になっているだろう」というぐらいなのだから。


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