もどる

    かけはし2011.10.24号

ベトナム派兵を拒否し翻ろうされ続けた2人の脱走兵

平和憲法信じて日本に向かうも突き放された彼ら

 国と国の間の関係は表面に出てくることだけでは分からない場合が少なくない。新聞などに登場する華麗に飾りたてられた公的な歴史の背後に隠された「闇」の関係が、時たま時間差をおいて我々の前に突然、現われ、それまでの常識を覆しもする。2国の関係が深ければ深いほど、頻繁であればあるほど光明の歴史は多いけれども、それだけに闇の歴史も多いというものだ。
 政府から旅券の発給を受け、行こうとしている国の政府からビザを交付されて飛行機や船で国境を越える、人の移動が徹底して管理・統制されている今日の国境感覚とは異なった過去が、わずか数十年前に存在したという事実を通して、公的な歴史には隠されたもう1つの歴史を想起してみよう。
 

北行後、消息不明のキム・ドンヒ


 1960年代にベトナム派兵を拒否した韓国人は歴史の上では存在していない。けれども以下に紹介する2人の韓国人はベトナム戦争への参戦を拒否し、「密航」や「亡命」を通して国境を越えた人々だ。脱営、亡命へと続く2人の人生の流転の舞台となったのは日本だけれども、この舞台には韓国、ベトナム、米国、北韓(北朝鮮)、キューバが登場する。2人についての資料は、ほとんど存在していない。韓国の新聞には米軍兵士キム・ジンス(金鎮洙)についての短信記事が登場するばかりだ。日本の国会議事録、運動団体の機関紙や回顧録など、断片的な日本側の資料を通じて2人の人生流転をたどってみるしかない。
 キム・ドンヒ(金東希)は1965年7月3日、釜山にあった陸軍兵器学校を脱営する。階級は兵長(下士の下、上等兵の上)だった。彼の証言によれば、ベトナム派兵への命令を拒否するためだった。彼は語る。「罪のないベトナムの人々を殺したくない。また、私を含む韓国軍も死にたくない」。そして8月15日、ちっちゃな漁船に身を委ね、日本の対馬島を目指す。密航を選択したのだ。けれども彼は不幸なことに日本の警察に逮捕される。そして出入国管理法に違反したとの理由で約1年の懲役刑を受けて福岡刑務所で服役する。
 1967年2月19日、刑期を終えて刑務所を出てきたキム・ドンヒを待っていたのは「監獄ならざる監獄」「監獄よりもひどい監獄」の大村収容所だった。長崎にある大村収容所は、主として「強制送還」のために朝鮮人を閉じ込めておこうとして作った施設だけれども、刑務所よりもさらにひどい人権蹂りんなどによって悪名高い所だ。日本に「亡命」をしたいという彼の要求は日本政府の拒否によって実現されなかった。彼には、韓国に強制送還されるか、収容所で期限のない「監獄暮らし」に耐える道しか残っていなかった。彼は結局、韓国への強制送還を避けるために北韓へ行く道を選択した。
 日本政府は1968年1月26日、突然キム・ドンヒをソ連のナホトカ行きの船舶に乗せて北韓に向かわせることにした。けれども彼が実際に北韓に到着したのか、それともそのままソ連にとどまることになったのか、彼のその後が伝えられたことは全くない。大村収容所にいた彼の要求を聞き届けようとして東奔西走していた日本の平和市民団体・ベ平連(ベトナムに平和を! 市民連合)を主導していた小説家・小田実の回顧録によれば、1976年10月にキム・イルソン北韓主席と会った時、彼の消息を訊ねてみると、後日「そのような人物は北韓に存在しない」との答弁が返ってきた、という。彼の「北行」は強制送還を要求する韓国政府と「日本亡命」を要求する日本内の市民団体との間で選択した日本政府の決定だったけれども、彼の「北行」のために実際に日本政府が北側と接触したのかは明らかになったことはない。

密航で脱走したキム・ジンス


 もう1人のキム・ジンスに対しては〈東亜日報〉1968年1月11日付に短信記事がある。「東京にある『キューバ』大使館は昨年4月に亡命を要求、同大使館で保護中だったソウル生まれの韓国系米軍1等兵ケネス・クリックス(22、韓国名、キム・ジンス)が『行方をくらました』との事実を昨年12月29日に日本外務省に通告してきたことが10日、明らかになった。この逃亡兵はソウル生まれの孤児として11歳の時、米国人『クリックス』の養子となり渡米、5年前に陸軍に志願入隊し在日米軍部隊に勤務した後、66年にベトナム駐在の米191兵器部隊特技兵(タイピスト)として転属勤務中、東京のキューバ大使館に亡命を申請していたものだ」。〈京郷新聞〉は1968年1月13日、日本の新聞の報道を引用して、キム・ジンスは「北韓に脱走したようだ」という記事を報道した。彼の米国名であるケネス・クリックスをクリックスとし、さらにスウェーデンを北韓と報道したことだけを除けば、おおむね事実と符合する。
 キム・ジンスはソウル生まれで、韓国(朝鮮)戦争で父母を失い、戦争孤児となった。米軍兵士の助けを得て米国に渡り、米国の市民権を得ようとして米軍に入隊し、韓国、日本の米軍基地を経てベトナムに派兵される。休戦の際に日本に立ち寄った彼は1967年4月に脱営を敢行して駐日キューバ大使館に身を委ね、キューバ亡命を要求する。キューバ政府側は亡命を受け入れ、安全な「日本脱出」を日本政府に要求するが、日本政府は米国側の引き渡し要求を受け入れ、これを拒否する。結局、彼はキューバ大使館をこっそり脱け出し当時、米軍脱走兵を支援していたベ平連の助けを得て、ソ連経由でスウェーデンに亡命する。彼の日本脱出はキム・ドンヒとは違って「密航」だったようだ。キム・ドンヒと同様に、彼の足取りはその後、ほとんど伝えられてはいない。ただ、ベ平連の事務局長だった平和運動家・吉川勇一の証言によれば、亡命以後に2回ほど日本を訪れ、北欧で家具の貿易に従事していると言う。

ベトナム戦争と韓半島

 2人の脱営と亡命は、いずれもベトナム派兵が原因として作用した。ベトナム戦争当時、米国で徴兵を拒否した人は、実に57万人に達する。このうち2万5千人が起訴され、9千人が有罪判決を受けた。伝説的なボクシング選手であるムハマド・アリもイスラム教の原理に従って兵役を拒否し、チャンピオン・ベルトまで剥奪された。ベ平連の助力を得てベトナムで脱営し第3国に亡命した米軍兵士もいる。ベトナム戦争を扱ったファン・ソギョン(黄晢映)の〈武器の影〉には米軍脱営兵の姿が描かれている。従って米軍兵士キム・ジンスの脱営と亡命は明らかに特殊なケースではない。けれどもキム・ジンスの脱営にはベトナム戦争を韓(朝鮮)半島の脈絡で深刻に受けとめる彼の苦悩が位置づいている。日本脱出以降、彼の支援者たちによって発表された「米国、日本そして世界の人民に送るメッセージ」において、キム・ジンスは語る。

なぜ日本に行ったのか


 「米国で10年間、暮らしながら私は米国市民になりたかったです。だが私が米国軍隊に入り1人の兵士となって韓国、日本、そして最後にはベトナムに派兵され、まず南韓の惨酷な現実を見て、同時になぜそうなったのかを考えさせられました。ベトナムで戦争がもたらした状況を見て万一、米国が韓半島でやったと同じに、やり方でベトナムでも目的を達成しようというのであればベトナムの人々の運命がどうなるか、その未来を考えさせられたのです」。そうして「ベトナムの人々の苦痛を目撃してこれに加担すること、米合衆国の市民になること、すなわち実際には犯罪者になるということ、いかなる興味も希望も持てなくなった」し「今の米国」を変えなければダメだという考えから脱営を敢行した。だ、と言う。彼は、自身を戦争孤児として追い出した韓国戦争の経験からベトナム戦争を見ていた、というのだ。
 2人の脱営と亡命は、日本という舞台の上で繰り広げられた。なぜ、そうなのだろうか。もちろん当時、先に述べたベ平連という市民団体が存在し、ベトナムの米軍脱営兵を支援する「反戦脱走兵米軍兵士援助日本技術委員会」(JATEC)が組織的活動を通じて、この兵士たちの第3国亡命を非合法的に展開していたという点が大きく作用した可能性はある。実際に多くの米軍脱営兵たちは、これらの組織の存在を事前に知り脱営を敢行したという。けれども記録によれば、2人がベ平連やJATECの存在を脱営前から知っていたという状況は全く把握されていない。これらの団体の支援を受けたのは、すべて脱営以降だ。そうならば、彼らを日本に導いたものは別の脈絡から見なければならない。

流転に垂れ込めた陰の歴史


 キム・ドンヒ自身が「亡命申請書」で「憲法前文および憲法9条の戦争放棄を規定した平和主義を貫徹させようとして努力している日本」だからだと明らかにしているように、平和憲法が彼らを日本に導いた背景として作用した可能性が高い。武装と武器の使用を禁止している日本の平和憲法を日本社会が実践に移していたならば、彼らの亡命劇は日本で終わったことだろう。けれども平和憲法は実際には機能しなかったし、むしろベトナム戦争のための基地を米国に無限大に提供し、自衛隊が武力を増強するという現実が日本に位置づいていた。彼らを日本に導いたのは平和憲法の理念だったけれども、彼らを日本の外に追い出したのも平和憲法の現実だった。
 事実、キム・ドンヒは日本に「居住」する権利があった。彼は1937年に済州島で生まれたけれども、すぐに日本に渡り、小学校4年の時まで日本で暮らした。45年の解放直後、再び韓半島に戻ったけれども、済州島4・3民衆蜂起や韓国戦争を体験した済州島の多くの人々がそうであったように、彼も日本への「密航」を強行する。彼の3人の兄弟が日本で暮らしていたのだから、彼の日本への密航は極めて自然なことだ。在日朝鮮人作家・徐京植のおじさんがそうだったように(〈言語の監獄〉)、日本で育った在日朝鮮人にとって密航は「家族が暮らしている地」へ「帰って行く道」だった。
 こういうわけでキム・ドンヒは1955年4月に密航して約5年間、日本で生活する。この期間に彼は民族学校にも通い、日本の大学にも入学する。けれども警察に逮捕され1960年3月、韓国に強制送還され、再び1962年5月に密航した後、10月に再び送還される。1965年の脱営と密航は3度目というわけだ。結局、「家族が暮らしている地」である日本で暮らそうとする彼の夢は実現されなかった。終着駅が確認されていない彼らの人生の流転には植民地、4・3民衆蜂起、韓国戦争、ベトナム戦争、南北分断が暗い陰を落としている。
 キム・ドンヒとキム・ジンス、2人を探したい。そうして公的な歴史によって隠された「陰の歴史」に出合ってみたい。(「ハンギョレ21」第878号、11年9月26日付、クォン・ヒョッテ/聖公会大・日本学科教授)

「かけはし」編集部から

キム・ドンヒ(金東希)のその後について


 「ハンギョレ21」のクォン・ヒョッテ教授の文章ではキム・ドンヒ(金東希)について、「けれども彼が実際に北韓に到着したのか、それともそのままソ連にとどまることになったのか、彼のその後が伝えられたことは全くない」と記しているが、日本で公刊されている以下の書籍によると金東希は北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)に行き、その後行方不明(あるいは死亡している)になっていることが分かる。
 
 在日朝鮮人10万人が北朝鮮に帰国した。「帰国事業」に責任者として関わった張明秀(元朝鮮総連新潟県本部副委員長)は共和国で帰国者が行方不明になることを知り、その責任を痛感し1988年、総連の活動を退いた。彼は「共和国帰国者問題対策協議会」を結成し、行方不明問題を追及していく。彼は『裏切られた楽土』(講談社、1991年)の中で、金東希について以下のように触れている。
 「?千葉県のある地域在日朝鮮人商工会会長の息子が六五年ごろ帰国し、ピョンヤン国立交響楽団のメンバーとして活躍していたが、行方不明になった。私がこの話を聞いたのは一九七五年のことで、実はこれが帰国者の行方不明問題を初めて知った第一号である。当時、私は総連中央社会局で実質的責任者として帰国事業に携わっており、この話を社会局長(故河昌玉氏)に報告した。すると局長から、『韓国国軍を脱走し、共和国に亡命した金東希青年もスパイとして処刑されているくらいだから』との返事がかえってきた」。
 「補足すると、金東希とは六七年、韓国の軍隊を脱走し、日本に密入国したが、捕えられた。当時、総連ではこの金青年の行為を英雄のごとく称え、社会党、共産党、日朝協会などに働きかけ、支援を得て日本当局に抗議、陳情した結果、金青年は六八年にソ連を経由して共和国に亡命した。共和国ではその英雄視された金青年でさえ処刑されたのだから、普通の帰国者の行方不明くらいはものの数ではない、というわけである」(47〜48頁)。
 
 本文で触れている脱走米兵を国外に逃がすジャティク(JATEC)の活動を担った鈴木道彦(元一橋大学教授)が『越境の時 一九六〇年代と在日』(集英社新書、2007年)で「ベトナム戦争の脱走兵・金東希の救援活動」について、やや詳しく触れている。本文で同じ内容が紹介されているので、その部分は省く。
 「今も私の手許には、大村収容所の金東希本人から六八年一月三日付で送られてきた手紙がある。当時彼の北朝鮮への『帰国先希望書』なるものの写しが出回っていたので、それを不審に思った私が手紙で質問したのに答えたものだ。そこには、『私はまが(ママ)いなく日本に亡命をねがっているものであります。それいがいなにものもありません』と明記されている。おそらく、日本政府から亡命を拒否された彼は、韓国に送還されることだけは避けようと、やむなく北朝鮮への『帰国』を『希望』させられたのだろう」。
 「その北朝鮮に彼がとつぜん送り出されたのは、六八年一月二六日の朝だった。……この妥協的措置に私は釈然としなかった。その後の彼の情報は分からない」(147頁)。
 その後、小田実が訪朝し金日成主席に、金東希のことを問いただしたが、そんな人はいないという回答が返ってきた下りが紹介されている。

 


もどる

Back