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    かけはし2011.10.10号

起きたことは、基本的に希望の源だ

アラブ革命

ジルベール・アシュカルへのインタビュー

世界共通の民主主義への熱望が
「民衆の春」への扉を開き始めた

 以下に、クリスチャン・ヘラーによるジルベール・アシュカルに対するインタビューを掲載する。昨年末から現在までアラブ世界一帯を揺さぶっている革命の波について、それが歴史の中にもつ位置と意味を中心に、多くの側面の論点が語られている。(「かけはし」編集部)

闘いの焦点は圧政からの解放


クリスチャン・ヘラー(以下H) アラブ諸国におけるこのところの蜂起には、少なくとも西側のコメンテーターを見る限り、希望と恐れが同じほどつきまとっている。希望とは、民主化の持続する波は結局は、長きにわたって改革に抵抗してきたこれらの社会全体に行き渡るだろう、というものだ。他方恐れとは、もっと反動的で全体主義的な諸勢力が優位に立つかもしれない、というものだ。この地域の政治システムに関する深い識見をもつ専門家としての、またそこでの多くの諸個人とのつながりをもつ人物としてのあなたの場合、もっとも強く感じていることはどういうことですか。

ジルベール・アシュカル(以下A) 私から見れば、起きたことは基本的に、希望の源だ。確かに私は、今後の行方と運動の将来については懸念してきた。しかし、そのような革命的な影響が地域に行き渡りつつあるという事実は、極めて肯定的な何ものかだ。進行中のものについて恐れを示している人びとは明らかに、イスラム勢力による権力継承のような彼らが心中抱いている潜在的にあり得るシナリオに比べ、独裁政権が提供する安定性はより小さな悪と見なし得る、と信じている人びとだ。そのような観点は、自民族中心主義あるいは反民主的であるだけではなく、彼らの評価という点でも完全に誤っている。なぜならば、イスラム原理主義的な対抗運動の発展に対して基礎をなす理由こそ、そのような独裁政権の存在にあるからだ。
 事実上これらの政権のほとんどは、西側諸国によって後援されてきた。こうしてそれは、西側で唱道されてきた民主主義と世俗主義という理念そのものの信用性を痛めつけてきた。そのような政権が続く限り、原理主義的な対抗勢力というその種のものもまたあり続けるだろう。
 人がむしろ考慮に入れるべきことは、これら諸国の住民は圧政にうんざりしているということであり、世界の他の住民すべてと同じく、圧政から抜け出すことを大いに必要としているということだ。例えば東欧にとって良いと思われたことは、同じくアラブ諸国にも当てはまる。

H 離れたところからの、あるいはより「部外者」といった種類の見方に立ったとき、これまで目立ってきたことは、問題となっている諸国間の大きな違いだ。ある国々は進行中のほとんど「終わりのない」動乱(エジプトにおけるような)を経験してきたが、その一方で他の諸国は、相対的に静穏なままにとどまってきた。あなたの意見では、この違いを分ける主な基準とは何ですか。つまり、あり得る蜂起に極めて陥りやすい国がある一方で、他の諸国はほとんど動じない、あるいは動乱のようなシナリオが展開することに対し過度に抑圧的であるかもしれない、という違いを分けるものですが。

A モーリタニア、モロッコ、またアルジェリアからヨルダン、シリア、またオマーンやバーレーンまで、この地域には動乱のようなシナリオに無縁な国というものはほとんどない。これまで影響を受けてこなかった国はおそらく、アラブ首長国連邦とカタールだけだ。しかし今挙げた国は極度に人工的な国家であり、そこでは、市民権保持者は実のところ小さな少数派――人口の一五%ないし二〇%といった――となっている。
 他の大多数の国に関しては、抗議運動の水準と形態は抑圧の程度に左右されている。そこにおける中心点は、政権が憎まれているかどうか、圧政があるとしてもそれがどの程度にひどいか、ということだ。蜂起は、まったくの専制的政権があったチュニジアで始まり、住民の巨大な部分から政権がぞっとするほどに嫌われているエジプト、リビア、イエメンといった国に広がった。地域の他のほとんどの諸国においては、サウジ王国を主な例外として、過酷な専制体制という問題は少なく、むしろ政治改革に向けた要求が多かったり、イラクの例のように社会的要求が主だ。
 つまり、運動の極めて不均質な展開は、地域の不均質さの当然の結果だ。問題が開発の欠如、社会的平等、あるいは社会的公正ということになれば、多くの国々が多くの問題と将来を共有している。しかし問題が政治権力の型となれば、もちろん巨大な違いがある。

民主主義革命とその中の労働者

H 先頃あなたは一つの論文において、「蜂起は何よりもまず民主主義を求める蜂起である」と述べた。もっと十分な資格を備えた急進民主主義という立脚点から見たとき、徹底的に民主的な改造を果たすためには、潜在的にすべての重要な社会グループが合流し、新しい連携、あるいは力の均衡を見出す必要があるように見える。リビアやシリアと対照的に例えばエジプトで、これと似たようなものが動いているとあなたは見ていますか。あるいは、そのような考えはまったく当てはまりませんか。

A われわれは、急進民主主義をじっくり考えることのできる地点にはまだいない。もちろんそれは、あなたがこのラベルの背後に何を想定しているかによるが。さて「民主主義革命」であると私が言う場合に意味していることは次のことだ。つまり現在の運動が、ロシア革命に引き続いて現れた一九一八年の革命的衝撃波に比べ、そしてそれが社会的変革という展望を備えた急進的な左翼が率いた階級を基礎とした反乱であったことに比べ、それよりも一九世紀の「民衆の春」(一八四八年)にはるかに近いということだ。ちなみに後者は、パリからウィーンまでヨーロッパを覆った。前者はアラブ世界で今起きていることではない。そこでは、歩みはもっと基礎的なものであり、極めて幅広い連合――専制がひどければそれだけそれと対決する反対派も幅広い――を巻き込んでいる。
 圧政と腐敗のもっとも目立った代表者たちを取り除くことで第一歩が達成されるや否や、次の一歩は、それに続く代わりの政治体制がどのような種類のものかを明確なことばで確定することとなる。それは、まったく正常なことだが、幅広い反対派内部で分裂が起きる段階だ。運動の前衛はこれまで、近代的な民主的社会とそれぞれの諸制度の獲得に献身的である人びと――ほとんどは、一八四八年の若者たちに極めて近い、若い自由主義的な(経済的な意味でではなく、政治的な)民主主義者――だった。しかし始めの内は、専制体制があったすべてのところでは、あなたもまた宗教的な原理主義の考えを信奉するグループに遭遇する。独裁者が去るや否や、イスラム運動と左翼の連合の間に分離が、エジプトとチュニジアではすでに非常に明確となりつつあるそのような分離が起きる。

H 蜂起のいくつかは、少なくとも非常に初期の段階では、自由主義的な民主的青年(あなたが言うように)によって支配されていたように見えた。この影響力の強さは、もっと階級を基盤とした考え方、あるいは労働者階級に関連する考え方を、どの程度まで曇らせたのだろうか。あるいは言葉を換えて、あなたが見るところ、現在の運動に働いている力関係は、より均衡したものなのか、それともより差のある関係なのだろうか。

A この問題に取り組む最良の方法は、事実をよく見ることだ。これまでのところ蜂起がもっともうまくいった二つの国、つまりチュニジアとエジプト――そこですら事態はまだまったくの現在進行形であることにわれわれは留意する必要がある――は実際に、労働者運動が争いに合流した国だ。この両国で労働者は、現存している支配者をぐらつかせる上で非常な助けとなってきた。しかしそのような階級に基盤を置く運動は、リビヤやイエメン、あるいはシリアのような国では欠けている。そこでは現在まで、労働者のストライキはただの一つもなかった。その一方いくつものストライキは、たとえばムバラクをふらつかせる点で決定的な要素だった。
 とはいえこれは、チュニジアやエジプトの労働者運動が資本主義に取って代わるという意味における社会変革展望によって突き動かされている、ということを言っているわけではない。それらの運動は、急進的な反資本主義的性格を備えた運動ではない。それこそが、われわれが第一次世界大戦後のような情勢の中にはいないという理由だ。ここにいる労働者はむしろ、社会変革と改良のための彼ら自身の要求を推し進めるために、現在の動乱という好機をつかみつつある労働者だ。
 しかしこのことは同時に、労働者運動が民主主義確立の闘争それ自身においてもどれほど決定的であるかを示してもいる。結局のところこれは、あなたがたとえばイギリスのいわゆる「民主主義の揺籃時代」をよく見るならば、ある種の歴史的なひな形なのだ。そこでは、それまで存在してきた財産に基礎を置く投票権に反対し、普通選挙権(それは実際には男だけのものだったとはいえ)を押し進める上での主な役割が、一九世紀に労働者のチャーチズム運動によって演じられた。この役割は、民主化過程全体に対して極めて助けとなるものだった。

「不協和音」こそ健全かつ必然

H 「反乱と革命の弧においては、抑圧が強いた沈黙が多様性の不協和音に取って代わられるにつれ、幅広い市民権という理念は試練にさらされつつある」、先頃ニューヨークタイムスがこのように書いた。あなたはこのような種類の評価に同意しますか。もしそうであれば、この「多様性の不協和音」を大略民主的なシステムに転換するために必要な段階とは何だと思っていますか。

A 「多様性の不協和音」とは、まさに民主的な多元主義に対するもう一つのことばだ。問題が政治体制のことであれば私は、権威主義的な指揮者と一体となったオーケストラよりも不協和音の方を取る。ある人びとは、これらの運動には指導勢力がまったく見あたらないという事実を強調している。ある意味でそれは、権力を独占する中心を備えた指導的党があるよりも、もっと元気を与えられることだ。
 つまり私は、混沌という意味における不協和音があるとは考えていない。そうではなくむしろ、闘争の各々の段階で人は違う連携相手を得ている、と考えているのだ。そのような複雑な過程においては人は、最初から最後まで同じ勢力からなるブロックをもつわけにはいかない。問題が専制打倒ということであれば、あなたも、宗教的な原理主義勢力を含んだ極めて広範な連合を組むことができる。しかし問題が、それで独裁者を置き換える新たな制度をあなたが望むように確定することとなる場合は、連携の範囲は必然的に狭くなる。
 民主主義のためのこれらの闘いはその目標に関し一致でき、社会主義のような課題についてイデオロギー的論争に入り込むことなしに、共に行動できる。イデオロギー的論争などのことは、実際に今起きていることではない。人びとは主に、民主的な変革を深めること、また革命過程として始まったことが中途挫折せず、民主的転換という目的にたどり着くことを確実にすることに関心をもってい
る。

民主主義は西欧の特権ではない


H 西側からの数多くの反応は、極度に空想化された革命の投影(来る世界革命の新たなメッカのような)か、反対の極端として、非常な誤解を生むオリエンタリズム的かつイスラム嫌悪的な恐れか、そのどちらかによって支配されているように見える。特に部外者的観察者が抱く見通しという観点から見て、先のような主観の投影を回避することはどの程度可能だろうか。

A 事実としては、民主主義への熱望や政治的自由が問題である限り、アラブ人や他のムスリムも、中国人、ラテンアメリカ人、あるいは東欧の人びとと何ら変わらないということだ。民衆は本質的に異なった文化によって形作られている、世界の異なった部分には異なった文化的根本要素があり、それゆえ異なった政治的必要がある、このように信じる思想の線に属しているものが、軽蔑的な意味におけるオリエンタリズムだ。私はそのような観点を拒絶する。そして、民主主義と自由ははるかに普遍的な理念であると、強く信じている。またそのようなことを背景として、普遍的という言葉をまったく恐れない。
 何といっても、人が一八世紀のヨーロッパをよく見たとすれば、人は次のように言うことが可能だったと思われる。つまりそこでの文化は、ヨーロッパの民衆は絶対主義体制を必要としている、というようなものだったと。そしてこの絶対主義体制は、この世紀の終わりと次の世紀の中で君主制が滅び始める以前には、人びとの前にあったものなのだ。似たような理論がかつてあった。つまり、プロイセンからロシアまで、東欧民衆はどれほどまで全体主義中毒に染まっているか、といった類の理論だ。しかしスターリニズムであってさえ、一九八九年後に驚くほどの急速な形で消滅し、多少とも民主的な体制に取って代わられたのだ。
 ロシアのような国の場合、そのような例には完全に当たるわけではないとしても、それは文化の問題ではなく、国の規模や不均等な発展を含む社会・経済的かつ政治的な諸条件の問題だ。そこでの市民社会の相対的な弱さもまた、ロシアが全体主義の経験がすべての中で最長であった国である、という事実に関係している。
 他の指摘すべき点は、蜂起がイスラム原理主義に機会を開いていると語る人たちは、地域全体の中で最悪の政権は(問題が原理主義だけではなく政治的かつ社会的専制である限り)サウジ王国であるという事実を忘れている、ということだ。しかしこの国は、すべての西側の諸国家からおべっかをもっとも使われている国なのだ。もっとも極端なイスラム原理主義的諸制度によって導かれ巨額の冨をもつ国家、そして実際にはアメリカの保護国であるサウジ王国は、ムスリム世界における原理主義の広がりの主な源だ。少なくとも二〇年間、アメリカはサウジ王国との同盟の中で、左翼への対抗として――左翼民族主義や共産主義、その他に対する対抗として――イスラム原理主義を使い続けてきた。
 西側のイスラム嫌悪は主に、反西欧イスラム潮流についての恐れだ。それは西側の利害に対する恐れであり、この地域の民衆にふりかかる恐れではない。地域の民衆を大事に思う人は誰であれ何よりもまず、独裁が結論的に打倒されようとしていることに、デモやその他のことを行うことが今や可能となっていることに、非常な喜びを感じると思われる。そして次に彼らは、ある政権が西側諸国と協力しているという事実はその政権が啓発されていることを意味しているわけではない、ということを理解するだろう。サウジ王国こそその最良の証明だ。

平和の鍵はイスラエルの転換


H 繰り返し表明されている一つの特別な恐れは、今回の動乱がイスラエル国家の安全保障に及ぼすかもしれない結末だ。同時に、パレスチナ民衆の生活条件が今こそ意味のある形で改善されるかもしれないという希望が浮上しつつある(つまり、ガザに対するエジプトの国境の先頃の開放をもって)。あなたの意見では、イスラエル・パレスチナ紛争に対するもっともあり得る結末とはどのようなものだろうか。

A イスラエルこそまさに、アラブ側の民主主義を恐れる西側の姿勢を映し出している国の一つだ。この国はこの間、地域における民主主義を求める蜂起に際して、大きな不安が生まれている印を数多く示してきた。さてここには、「中東における唯一の民主制国家」と豪語することに慣れきった、同時にその周辺すべてに民主主義を求める動乱があるが故に今や不安に打ちのめされている、そのような一つの国が繰り出す大仕掛けな見せ物がある。
 アメリカと並んでイスラエルは、この地域で独裁者を除けば友人を見つけることができない、ということを完全によく知っている。ある政権が何らかの形で民衆の熱望を反映するつもりであれば、その政権は、イスラエルとアメリカに敵対的になる必要があるだろう。民衆が人種主義的であったりこだわりが強すぎたりするからではなく、アラブの領域を共に占領しているイスラエルとアメリカのせいで彼らが苦しんでいるからだ。
 イスラエルは最終的には、ネタニヤフ政権によって極めて高度に典型化されている道、つまり傲慢と非妥協の道にとどまることはできないということを実感するだろう、少なくともこのような希望を現在の動乱は高めている。この種の姿勢は、それ自身が根の深い侮辱に基礎を置いているが故に、大いなる憎悪を生み出している。イスラエルの姿勢に変化がない限り、この地域に平和はあり得ないだろう。
 近頃アルジャジーラを通して公表された「パレスチナ当局の文書」をよく見れば、パレスチナ自治政府の指導部が考えられる限りの早さで屈服し、イスラエルが望むようにまさに一方的に譲歩し、しかしその代わりとしては何も得ていない、ということが分かるだろう。基本的に、イスラエルが繰り出し、純粋に力に基づくこの「力づくの政治」が導く長期的な可能性はただ、その近隣の住民にとってだけではなくイスラエルの住民にとっても、惨害だけである。

H あなたは、今や反シオニズムの新たな押し上げが定着すると期待しますか。

A イスラエルの政策に対する敵意はすでに極めて高いのだから、新しい押し上げなどほとんど想像が不可能だ。反シオニズムは何か他のものによってではなく、当のイスラエルの振る舞いによって押し上げられているのだ。パレスチナの人びとに関しては今、和解と統一の一つの過程がある。しかし彼らは依然として、平和的解決の遂行に専念している。中心問題は、マムード・アッバスのパレスチナ自治政府が全面的に譲歩しているにもかかわらず、彼らが代わりに何も得なかった、ということだ。

米中東戦略の見直しの範囲

H アメリカの対外政策は、近頃の蜂起に取り組む点では頼りにならずまさに決定力もない、ということをあらわにしまった。われわれはおそらくは、アメリカの強力な影響力の地域における終わりを指すかもしれない、ある種の歴史的な局面に入り込みつつあるのだろうか。あるいはあなたの考えでは、もっと大きな地政学の地図は近い将来も大部分同じ状態を維持する、というものでしょうか。

A 決定的にわれわれは、地政学の分野での重要な大変動を目撃しつつある。アメリカは今まで、専横を可能とする同盟を通して地域を覆う支配的な影響力を行使することを常としてきた。今われわれが見ていることは、政治的舞台への民衆の進入であり、しかも大波としてのそれだ。そしてアメリカは、この民衆の要素を考慮に入れることを余儀なくされる状況に直面している。彼らは今や、真に民衆的な影響力を得ている保守勢力との間で連携を築かなければならない。
 そしてこれこそが、彼らが今ムスリム同胞団との取引を見出しつつある理由だ。彼らはこの勢力を、イスラム原理主義の中では相対的に穏健な勢力と見ている。ムスリム同胞団が軍と協力しているエジプトで、これを見ることができる。ムスリム同胞団を鍵となる配役とすることで、アメリカはこの地域に対し、プランBの展開を試みつつある。彼らは同時に、トルコの連携相手にも参加を求めている。
 しかし彼らの戦略の要は、依然として湾岸の君主国と彼らの湾岸企業評議会にある。何といってもそこは原油があるところであり、それこそがこの地域を、アメリカにとって見てきたほどに重要なものとしている。それがなければアメリカは、この地域などには少しも構わないだろう。

新技術の意義は運動の水平型化

H 今回の動乱の異なった側面に移りたい。蜂起を組織する点で、新メディア、特に社会メディア――フェースブック、ツイッター、さらに他の通信ツール――の果たした役割について、多くのことが言われてきた。政治理論家の観点から見た場合、そのような主張にはどれほどの妥当性あるいは現実性があると思いますか。今賭けられているより高度の政治的かつ社会的な近代化の歩みに関して、技術的な近代化の全般的な位置を、あなたはどう考えますか。

A われわれはそのような技術的な手段が何のためにあるのかを見定める必要がある。それらはあくまで手段と道具であり、運動を生み出すわけではない。一八世紀においてのように極めて基礎的な印刷の媒体しかもっていなかったか、今日のようにインターネットがあるか、そのことには関わりなく、抗議運動は近代を通じて常に存在し続けてきた。民衆は組織し運動するために、常に利用できる技術を使ってきた。
 とはいえ一つの重要な側面は、組織のネットワーク的性格であり、それは、新しいメディア技術がもつネットワーク性によって非常に大きな程度で促進されている。それが可能としたものはより水平的な型の組織であり、それゆえそれは、すでに認知済みの指導者のいない運動を促進している。近頃のもっとも民主的な高揚の中にもあなたは、新しくより柔軟な組織形態が闘争の中に登場する同じ傾向を見出す。
 フェースブックのような道具を用いてあなたは、全一連の諸国とは言わないまでも、一直線的に一国全体に及ぼす形で運動を行うことができる。他方過去には、運動は一つの都市で始まり、次に他のすべての都市が先例に従う、というようなものだっただろう。あるいは、すでにあらゆるところに組織をもつ一つの指導的党があった。
 そのように新しい技術は、水平的な組織化というこの型を大いに促進した。しかし今回の運動を生み出したものはそれではない。その意味では、実のところ「フェースブック革命」があったわけではまったくなかった。

慎重な楽観主義に基づく希望

H 六年前の二〇〇五年にあなたは、アラブの春について書いている。そこには、当時あなたが繰り返し使った「遅くまだ冷えている」という条件があった。この比喩的な春が物質化する、あるいは「暖かく」なるまでには、かなりの長い時間を要することになった。あなたの見解では、現在の春がより満開の夏へと発展するおおよその時間枠とはどのようなものですか。

A その論文で私が春という比喩を使ったとき、そこには皮肉が込められていた。事実として春という比喩は、イラク占領の結果および何らかの外面だけの変革に向けメディアとブッシュ政権が行使した圧力の結果として、二〇〇五年にそれが起きようとしている、と彼らが人びとに信じさせたかったものだった。実際何らかの変化はあった。しかしそれは確実に、「民衆の春」ではなかった。
 今日、一九世紀の「民衆の春」がたとえまずい終わり方をしたのだとしても、春という比喩ははるかに正当なものだ。とはいえ一九世紀の春の衝撃は根こそぎにされようもなかった。その遺産は残り、結局は、民主的な変革は起きたのだ。現在私が考えるに、希望のための土台はもっと確かだ。なぜならば、一九世紀にあった世界の支配的な条件は今日あるよりも完全にはるかに専制的であったからだ。
 われわれの現在の世界では、アラブ世界ははなはだしく例外的だ。しかし民衆は、専制の最良の道具である恐れを克服し始めるにいたった。短期的には何が起きようとも、またさまざまな国の選挙結果がどうであれ、今や強力な民主主義の運動を築き上げる真の可能性がある。それゆえに、重大な障害や困難は前途にまったくないだろうといった幻想に陥ることのない、希望と慎重な楽観主義に向けた良好な理由がいくつかある。すでに達成されたものの印象深さは絶対的だ。

▼ジルベール・アシュカルはレバノンで育ち、現在はロンドンの東方・アフリカンスクールで政治学を教えている。彼のもっとも読まれた著作である『野蛮の衝突』は、中東に関するノーム・チョムスキーとの対話を編んだ『危険な権力』と並んで、二〇〇六年に増補第二版として出版された。彼は、『三三日間戦争:レバノンにおけるヒズボラに対するイスラエルの戦争とその結末』の共著者であり、彼のもっとも新しい著作は『アラブとホロコースト:物語からなるアラブ・イスラエル戦争』。(『インターナショナルビューポイント』二〇一一年九月号)

コラム

原発問題と国策捜査

 先日、『知事抹殺』(平凡社)を読んだ。著者は前福島県知事・佐藤栄佐久。彼は東京一極集中に異議を唱え、原発問題などでは政府の方針に真っ向から反対し「闘う知事」として名を馳せた。彼が心配し指摘した原発の危険性は、福島第一原発の事故によって現実となった。私の中で佐藤栄佐久は世間一般と同様に「闘う知事」と「野心的政治家」というイメージがなかなか統一できないできた。今読み終わってようやく私なりの結論を得たが、ここで書きたいのはその結論ではなく「知事抹殺」のために進められた「国策捜査」の悪どさについてである。
 この捜査も郵政不正事件や志布志選挙違反事件と同様に、検察は最初に「抹殺」すべきターゲットを定め、次にターゲットに有利な証拠を隠したり改ざんし、他方では不利な材料だけを積み上げフレームアップしていく。この手法は「足利事件」などの冤罪事件にも共通している。
 一九九五年「高速増殖炉もんじゅ」の火災事故で核燃料サイクル構想は一挙に危機に突入。この行き詰まりの中で考え出されたのがウランとプルトニウムを混合した「MOX燃料」を使用するプルサーマル。だが計画の開始と前後して各地で事故隠しやデータの改ざんが明らかになり、特に悪質であった東京電力はすべての原発が停止に追い込まれた。この追及の最先頭に立ったのが当時の佐藤栄佐久福島県知事であり、事態の逆転のために仕組まれたのが「知事抹殺」であった。
 詳しい経過は省くが、二〇〇六年知事の弟・祐二は自ら経営する会社の土地売買にからむ収賄罪で逮捕され、県庁の幹部職員や後援会員も次々と厳しい取り調べにさらされ自殺者まで出る。だが不思議にも大げさな捜査や取り調べにもかかわらず、一審も二審も執行猶予付きの懲役刑。さらに有罪といいながら佐藤栄佐久に対し「賄賂の認識はなかった」と判断し、一審が課した七〇〇〇万円の追徴金も免除した。なにが事件でどこが犯罪なのかさっぱり明らかにされないまま有罪が確定し、前知事が県庁を去り、祐二は会社を失う。取り調べ中、ある検事は祐二に「知事は日本にとってよろしくない。いずれ抹殺する」と述べたと接見記録に残っている。これが事件の本質だろう。しかも驚くことに郵政不正事件で証拠を改ざんして実刑となった前田恒彦が特捜検事として名前を連ねている。
 だが、この露骨な国策捜査を可能ならしめたのは大手メディアの沈黙であり、見て見ぬふりであった。大手メディアは「原子力ムラ」と同様に原発マネー・宣伝広告費のために国策捜査を積極的に隠蔽する役割の一端を担ったといえる。三・一一以降、外国のメディアは佐藤栄佐久のもとに殺到した。それは「知事抹殺」の裏にドス黒い動きを見たからであろう。しかし後ろめたさのせいか今も日本のメディアは逃げ続けている。国策捜査はメディアの沈黙に助けられ進められたのであり、その結果成立した国民の無関心に支えられたのだ。
 佐藤栄佐久は本文の中で「原発問題は日本の民主主義の熟度をはかる物差し」と述べている。胆に命ずるべきと思う。(武)

 

 


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