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    かけはし2011.9.26号

希望は旧世代の敗北超えよみがえる青年

香港7月1日民主化デモ

香港特区政府の民主主義抑圧に
青年の新しい運動が転換を強制

解説

 香港では一九九七年七月一日にイギリスから中国に施政権が返還されて以降、民主化要求の大衆的デモが行われてきた。今年の七月一日は、これまでで最多の二一万人が参加した。デモの要求項目は、二〇一二年の全面的な普通選挙の実施、曽蔭権(ドナルド・ツァン)行政長官の辞任、補欠選挙を繰り上げ当選に変える選挙制度改悪の撤回、物価高騰と財閥系不動産業界による政治支配の反対などである。
 とりわけ、本紙二〇一〇年五月三一日号でも報道した立法会の補選で民主派が圧勝した事態を受け、香港政府は、議員が辞職した場合は補選ではなく繰り上げ当選にするという選挙制度改悪案の採択を強行しようとした。これが香港市民の反発を招き、デモ参加者が二一万人に膨れ上がった。その後、香港政府は二カ月ほどの諮問期間を設けて再検討する旨を発表せざるを得なかった。今年の七・一デモではデモ終了後も一〇〇〇人近くの市民が街頭に座り込み要求貫徹を訴え、二三一人が逮捕されるという大弾圧に発展した。逮捕者はその後まもなく全員が釈放された。以下に、急進化する香港の青年運動についての香港・先駆社の同志の論評を紹介する。 (H)

ラディカル化という新しい変化


 七月一日、民主化を求める二一万人もの市民の勢いを目の当たりにした香港特区政府は、それまでの強硬な主張を転換し、補欠選挙の廃止を定めた法案の採決を延期し、公開諮問を行うことを宣言した。法案採決を予定していた七月一三日に民衆が立法議会を包囲することを恐れた結果だ。
 七月一日のデモの終了後、一〇〇〇人もの参加者が解散せずに、中心街の大通りに座り込み、最終的に二〇〇人以上が街頭からの撤退を拒否して逮捕された。この二〇数年来、大きなデモの際には、ごく一部の人々が抗議行動の継続を求めて解散を拒否し警察と衝突することはあったが、人数はせいぜい数十人ほどであり、抗議の内容も公安条例や抗議スペースを巡るものであり、市民の共感を得ることは難しかった。数十人では民衆の心情を代表するとは言い難いが、一〇〇〇人ともなると事は違ってくる。
 公安法に反対した二〇〇三年の七月一日デモ(訳注1)以降、一つ目の変化は、抗議する焦点が定まったことである。つまり香港特区政府に対する抗議であり、香港政府が画策する民主主義縮小への反対であり、香港政府が主導する政財界の癒着への批判である。近年になればなるほど香港政府に対する不満は高まっている。
 二つ目の変化は、三〇歳以下の青年たちが、ひとつ前の世代の非政治化的状況から解放され、毎年行われる天安門事件追悼集会や七月一日の民主化デモに参加しているということである。去年一月の高速鉄道建設反対運動がひとつの指標であり、今年の七月一日民主化デモで新たな高まりを見せた。これはとても喜ばしい現象である。
 三つ目の変化は、ラディカルな青年がたちが登場し始めていることだ。これが今年の七月一日民主化デモの後にあれほど多数の参加者が路上封鎖を行った理由のひとつでもある。
 もちろんその他の理由もあいまってこうした効果が現れた。理由の一つは〔ラディカル民主派の〕社会民主連戦(社民連)の分裂に関係している。社民連から分裂したグループが「人民力量」を結成したが(訳注2)、両者の宣伝対象はほぼ重なっており、またその主張にも実際にはほとんど違いはない。こうした状況から両者は、実際の行動を通じて競争せざるを得ず、テレビや新聞のカメラの前でその急進性を競い合ってきた。「人民力量は口先だけ」と批判されてきたこともあり、今回の行動で人民力量はこれまで以上に「市民的不服従」を実践せざるを得なかった。
 急進政党を名乗るこの二つの政党が今後も競争を続ければ、さらに多くの青年たちが、現政治体制に対して闘いを進め、「青は藍より出でて藍より青し」が如く、行動と綱領においてこの二つの政党を超えるかもしれない。今後の動向に注目すべきである。

70年代青年運動の敗北


 この数年来の青年の政治化現象は、四〇年前の一九七一年七月七日のビクトリア公園デモ(訳注3)を想起させる。一九六七年に共産党が呼びかけた香港暴動(訳注4)の敗北後、人々は政治について議論することを恐れた。だがわずか三年も経たないうちに、青年世代による新しい社会運動が登場するなどとは、誰も想像できなかった。前史として一九七〇年の中国語公用化運動(訳注5)があり、そして一九七一年の釣魚島〔尖閣諸島〕防衛運動につながった(原注)。青年の政治化はますます明確になっていった。
 しかもそれは当初からラディカルな兆候を持っていた。それゆえ、ビクトリア公園でのデモでは数千人の青年たちが「市民的不服従」を敢行し、デモ禁止令を打ち破った。もちろん流血という代償は支払ったが(多くの参加者が警官の警棒で頭部を殴られ流血した)、事態は好転し、流血事件はさらに多くの青年たちを覚醒させ、もともと非常に政府に好意的であった新聞やテレビなども政府のやりすぎを批判した。その結果、当時の植民地政府(訳注6)も市民の平和的デモの権利を認める宣言を迫られ、ビクトリア公園など公共空間を集会場に認めるようになった。
 この運動は青年の急進化をさらに推し進めた。植民地主義と資本主義の関係を再認識する青年も登場し、初めて共産党以外の左翼団体(無政府主義やトロツキストやその他の左翼等)が誕生した。七・七デモの流血がなければ、市民によるデモの権利はなかった。七〇年代の青年急進化運動がなければ、一九七三年の「汚職反対・ゴッパーを逮捕せよ」運動(訳注7)もなかったし、おそらくは〔汚職捜査機関である〕廉政公署も設立されなかっただろう。
 運動は普通選挙(訳注8)と植民地支配の終了も要求したが実現はできなかった。当時はこうした立場を主張すれば、逮捕されることすらなかったが(皮肉なことに、中国共産党による民主化運動弾圧に抗議する集会で逮捕されることの方が多かった)、当局から罰金や嫌がらせを受けたことから、普通選挙と植民地支配問題をあえて提起しない傾向もあった。とはいえ、この一世代が政治的自由化と社会運動の発展に風穴を開けた先駆者であった。
 香港の民主化運動についてブルジョア民主派は、つねに一九八六年の高山大会(訳注9)から語りはじめる。正確に言えば、それは軟弱なプチブル民主派のはじまりである。つまり普通選挙を要求することを恐れ、議席の半分を普通選挙で選出することを要求する運動であった。そして普通選挙を主張する潮流を排除したことがこの偉大な会議の「功績」であった。この会議がもたらしたものは、普通選挙の実施を少なくとも十年先送りにしたことである。普通選挙を要求する運動は敗北したが、プチブル民主派は、議会に議席を得て議員になり成功した。

依然、中国資本主義の活力が壁


 しかし、七〇年代の左翼青年運動が敗北し、プチブル民主派が(議席の上での)成功を果たしたことについては、客観的な要素もあるだろう。一九七九年から中国は資本主義にむけて歩みだし、香港資本主義もその恩恵を受けた。この情勢のなかで資本主義に挑戦しようとする試みが、大きな壁に突き当たることは避けがたかった。それに加え、当時の青年運動は理論的にも、また個人の世界観をとってみても未成熟であり、長期に渡る運動の減退期を乗り切ることは難しかった。フランスのことわざ「二〇歳で革命を目指し、三〇歳で使いものにならなくなる」を実践した。左翼青年の沈滞の後、プチブル民主化運動がそれに取って代わった。かれらは、前者によってもたらされた政治的自由を享受しながら、すばやくその功績を自らの成績簿に書き加えた。
 四〇年後の今日、香港の政治状況は大きな変化に直面している。資本主義の危機は日増しに市民を貧困に追いやりつつ、プチブル民主派の脆弱無能さをますます暴露している。これがプチブル民主派から左翼(社民連/人民力量)が分裂した客観的な原因である。この左翼プチブル民主派は、不満を持つ市民らの受け皿となったが、目指すべき目標は従来のシステム、つまり資本主義制度の枠内にとどまっている。そのうえ、現実の闘争において、指導的人物同士の奇妙な連合と分裂によって、彼らの掲げる新しい旗印の背後にある旧態依然の政治があきらなになっている。つまり親分子分関係、私的人脈による派閥、異論の排除、手段を選ばない強引な選挙活動、見た目の過激さは単に選挙での得票を増やすためだけ、等々である。
 だが、新しい世代が行動だけでなく思想的にもこのような現状を突破することが容易ではないことは確かである。七〇年代の頃と異なるのは、香港では昔に比べて代議制民主主義が発展しているということである。つまりプチブル政党が選挙への立候補を通じてこれらの青年活動家を獲得してしまうのである。そうして支配的政治の一部分にはならないまでも、支配的システムである資本主義の一部分を担うことになる。とはいえ、「体制の一部分」に納まることに甘んじることなく、反資本主義の道を進もうとする青年たちも存在する。これらの青年がどれだけの力を持っているのかを知ることは難しい。しかし新しい世代のなかで、資本主義を支持(あるいは黙認)するのか、それとも反対するのかについての議論は、かつてと同じく避けることのできないテーマである。三〇代以下の青年の世代が二一世紀の最初の一〇年から二〇年のうちに社会を変革する力量を発揮することができるか否か、七〇年代の青年が実現することができなかったことを実現できるか否かは、街頭によって決するであろうし、また資本主義をめぐる論争において実を結ぶことができるか否かにかかっているだろう。
 (二〇一一年七月七日)

(原注1)当時の釣魚島防衛運動と今日の釣魚島防衛運動を同列に論じることはできなくなっている。当時の運動は進歩的であったが、今日のそれはすでにそうとはいえない。このテーマは本論の趣旨とは異なるのでここでは触れない。
(訳注1)二〇〇三年七月一日デモ:中国政府の意向に配慮した香港政府が「反逆、国家分裂、反乱扇動、中央政府転覆、国家機密窃取、海外の政治団体との連携を禁じる」香港基本法二三条の法制化をもくろんだが、民主主義の後退を懸念する五〇万人のデモなどでそれを断念させた。本紙二〇〇三年八月一一日号記事参照。
(訳注2)社民連と人民力量:社民連は二〇〇六年に民主派主流の民主党よりもラディカルな大衆路線を掲げ、立法会議員や社会運動の活動家などを中心に結成される。八〇年代末に解散したトロツキスト組織「革命的マルクス主義同盟」の活動家だった現職立法議員なども参加している。二〇〇八年の立法会選挙では、現職二人を含む六人の候補を立てて三人が当選する。その後も議会や街頭行動で急進的な言動で注目を集めるが、労働組合の幹部メンバーによる組合経費使い込みや指導部のセクハラ事件や指導部間の対立などスキャンダルもつづいた。二〇一〇年五月の立法会補選で勝利し影響力を保つ(立法会補選については本紙二〇一〇年五月三一日号記事を参照)。その後、組織内の権力闘争に敗北した立法会議員二人を含むグループが今年初めに分裂し、他の政治潮流と選挙ブロック「人民力量」を結成する。「人民力量」は、二〇一二年に行われる立法会選挙に関する改革案の審議で、全六〇議席を普通選挙で選出するという案に賛成しなかった民主派の主流派などを攻撃対象とする選挙活動を行うことを目標にしている。
(訳注3)一九七一年七月七日ビクトリア公園デモ:一九七二年に沖縄の施政権がアメリカから日本に返還されることに伴い、釣魚台(日本名:尖閣諸島)の領有権も日本にそのまま委譲されることを懸念した香港学生連盟が一九七一年七月七日に「釣魚台を防衛する七七デモ」を呼びかけ、多数の市民らがビクトリア公園に集まったが、英植民地警察による暴力で多数の参加者が負傷し二一人が逮捕された。七月七日は、一九三七年に日本軍が中国大陸に全面侵略するきっかけになった盧溝橋事件の記念日。
(訳注4)香港暴動:一九六七年五月の労働争議に対して英植民地政府の警官隊が導入され、労働者や支持者らが大量に逮捕される事件を発端に、香港全土に広がった反英植民地闘争。文革初期の中国共産党はこの闘争を「香港市民による反英植民地闘争である」として支持を表明するとともに英国政府に抗議、香港にある中国政府系銀行の屋上に設置したマイクから革命スローガン放送するなどした。香港の親共産党の労組、社会団体などが反英闘争委員会を結成、抗議行動を展開、香港島全土で夜間外出禁止令がだされた。六月に入り「人民日報」が闘争支持の社説を掲載、香港の親共産党系労組は公共交通、工場、学校、商店主などにゼネストを呼びかけた。七月に入り「北京政府が香港を取り戻す」という噂が流れたことなどもあり闘争は手製爆弾、火炎瓶、塩酸などで警備車輌や警察署を襲撃するなどエスカレート。英植民地政府は軍隊を使って労働組合や学校など闘争委員会の拠点への弾圧を拡大する。八月には英軍が闘争委員会の拠点を急襲し、大量の武器を押収、緊急指令に基づき闘争委員会系の学校や新聞社などを閉鎖。闘争委員会は爆弾闘争をエスカレート、警官だけでなく市民にも犠牲者が出る。北京のイギリス代表部が紅衛兵に焼き討ちされ周恩来が謝罪。ここにいたり香港市民の間に闘争委員会への反感などが生まれ、テレビなどでも反対キャンペーンが組まれるなか、闘争委員会を揶揄した人気キャスターが個人テロに遭い死亡する。一〇月には英植民地政府主催のイベントに爆弾を仕掛けるという脅迫などが行われる。一二月に入り北京から爆弾闘争をやめるよう指示があり闘争は収束していく。この闘争で死者は少なくとも五二人(当局側の一三人を含む)、負傷者八〇〇人以上、起訴一九三六人に上った。ニセ爆弾八〇七四個、本物の爆弾一一六七個が押収された。その後、英植民地政府は労働法制の整備、民生局の設置など中国系住民に一定程度配慮した政策をとることになる。
(訳注5)中国語公用化運動:イギリス植民地下の香港では法的効力をもつ公式文書はすべて英語で表記され、議会は英語で審議が行われ、政府機関への陳情その他もすべて英語を用いなければならなかった。一九六〇年、唯一中国語で大学教育を行っていた香港中文大学が植民地政府の許可を得た。六七年の香港暴動などを経て支配層内部に中国語重視の傾向が強まるなか、六八年に大学生の間で中国語の公用語化を求める委員会が結成される。政府も七〇年ごろから検討を初め、七二年には議会ではじめて中国語を公式発言として使用する議員も登場。広範な世論や運動の押し上げもあり七四年に中国語を英語と同じ地位にすることを定めた法律が制定される。
(訳注6)香港植民地政府:香港はアヘン戦争の結果一八四一年にイギリスによって占領され、一八四二年の南京条約で香港島が、一八五六年第二次アヘン戦争後の一八六〇年の北京条約で大陸側の九龍市街地が、イギリスに永久割譲される。一八九八年の条約では九龍半島および周辺島嶼が九九年間の期限でイギリスに租借された。一九四一年から四五年までは日本軍が占領・支配する。日本の敗戦後はイギリス植民地として復帰。一九八四年にサッチャー英首相とケ小平共産党中央委員との間で香港返還を定めた「中英共同声明」が発表され、一九九七年七月一日に中国に返還。
(訳注7)「汚職反対・ゴッパーを逮捕せよ」運動:汚職容疑をかけられていたイギリス人総警司(日本の県警本部長級に相等)ピーター・フィッツロイ・ゴッパーが一九七三年六月にシンガポール経由で英国に逃亡したことに対して巻き起こった抗議運動。学生組織、市民団体、労働団体などが参加した。運動の盛り上がりに危機感を感じたイギリス政府は七四年四月にゴッパーを逮捕、香港に送還した。七五年二月香港の裁判所は四年の実刑判決を下した。汚職に対抗する独立委員会である廉政公署がゴッパー事件を契機に一九七四年に設立された。
(訳注8)香港の普通選挙の歴史:一八四三年に立法局(議会)が設置される。香港総督をふくむ四人の植民地政府官僚が議員を務める。その後、議員は漸次増加していくが一九八五年までは全議席が任命制。一八八四年に一二議席中はじめて一人の中国系議員が誕生。一九八五年五七議席中一二議席で職能別の間接制限選挙が導入される。一九八八年の選挙では直接選挙を求める世論が高まるが、実施は見送られた。一九九一年九月の選挙では六〇議席に拡大され、はじめて直接選挙枠が一八議席設けられた。選挙の結果、民主派が直接選挙枠のうち一六議席を独占した。九五年に行われた植民地体制下での最後の立法局選挙は、直接選挙枠二〇議席に拡大され、任命制議席は全廃された。選挙の結果、全六〇議席のうち民主派が三一議席を獲得。九七年の返還直前に中国共産党は、立法会とは別に移行議会である臨時立法会を間接選挙で選出し、返還までに必要な立法を行う。返還後、立法会と名称を変更し、返還後の九八年から二〇〇八年まで四回の立法会選挙が行われており、現在は六〇議席中、直接選挙枠と職能別選挙枠がそれぞれ三〇議席ずつで、民主派は二三議席を占める。先駆社などラジカル民主派は二〇一二年に行政長官と議会の全議席を直接選挙で選出することを要求している。現在、香港特別行政府の首長である行政長官は各級議員や各種団体から選ばれる八〇〇人の選挙委員会によって選出されている。
(訳注9)高山大会:一九八四年に「中英共同声明」が発表された後、返還後の香港の政治体制を巡り世論的にも大きな焦点となっていた。八八年の立法会選挙で直接選挙を実現することを大きな結集軸として運動が進められ、一九八六年に高山劇場で高山大会が行われた。「新しい香港をつくり、民主主義を再出発させよう」というスローガンのもと、民主主義をもとめる広範な勢力が参加し、八八年選挙における直接選挙の実施を求める署名を二二万筆集めて政府に圧力をかけたが、実現はしなかった。その後九一年の選挙で一部議席の直接選挙が実施された。高山大会の主流派はその後のブルジョア民主主義政党の民主党へとつながっていくが、当初から直接選挙の全面的実施には消極的であった。先駆社は八八年選挙当初から全議席の直接選挙を訴えていた。



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