民主労働党代表・李正姫さん講演会
現実政治を動かす進歩政党へ「統合と連帯」かちとろう |
本紙「韓国はいま」欄では、民主労働党と進歩新党の統合問題をめぐって、民主労働党主流の「覇権主義」的体質を批判する立場からの論考を掲載してきた(8月1日号、8日号、15日号)。今回掲載するのは民主労働党主流派を代表する李正姫代表の講演報告である。検討していたただきたい。(「かけはし」編集部)
【大阪】関西講演実行委員会主催の韓国民主労働党代表・関西講演会が七月二四日大阪PLP会館で開かれた。永久睦子さん(アイ女性会議大阪代表)が司会をし、加来洋八郎さん(闘う第三極作りを目指す近畿会議世話人)が主催者あいさつをした。
加来さんは、「日本では、社会党・総評が解体され、実質上二大政党制にかわり、財界が思うとおりの日本になってしまったが、韓国では進歩政党が李明博政権に対抗するほどの力をつけてきた。日本の進歩勢力はこれをどう考えるべきか。今日の講演会を参考にしてほしい」と述べた。
辻恵衆議院議員が
歓迎のあいさつ
続いて、辻恵衆議院議員(大阪選出、民主党)があいさつをし、「せっかく政権交代して、東アジアの人々との連帯を大きく前進させる第一歩を築けたと思ったのに、あに図らんや一向に進まない状況だ。お詫びしたい。今の執行部の対米追随については必ず変えていかなければならないと決意している。二〇〇九年に平和フォーラムのパネリストとして韓国国会に招かれた。二〇一〇年にも国会に招かれ、韓国国会議員七一人が署名した韓国併合一〇〇年の無効宣言を預かり、帰国して官邸と交渉したが、姿勢がぴりっとしない。今本当に東アジアの平和を築き上げなければいけない」と述べ、韓国民主労働党代表団を歓迎するあいさつをした。
民主労働党代表団の紹介に続いて立本真二さん(ヨンデネット大阪事務局長)が花束を贈呈したあと、李正姫(イ・ジョンヒ)代表の講演に入った。
学生運動・弁護士
から政治の道へ
李正姫さんは八七年ソウル大法学部に入学し在学中は自治会長として活躍、〇〇年から弁護士活動をはじめ、民主社会のための弁護士会(民弁)で活躍、〇〇年一月三〇日に結成された民主労働党には〇七年入党、翌〇八年国会議員に当選、〇九年与野党二九九人の国会議員の中「もっとも活躍した議員」一位に選ばれ、一〇年七月民主労働党新代表に選出された。「民主労働党の歩み」(DVD)上映に続いて講演が始まった(別掲)。
講演の後質疑応答があり閉会。その後交流会が開かれ、山元一英さん(全港湾大阪支部書記長)の司会で進められた。大川一夫さん(大阪労働者弁護団代表幹事)の音頭で乾杯、服部良一衆議院議員(大阪選出、社民党)があいさつをした。
(T・T)
李正姫さんの講演から
イ・ミョンバク政権の危機
東北アジア平和への道を
民主政権の年
間の結果は?
民主労働党は〇四年の廬武鉉大統領に対する弾劾政局でハンナラ党に対する審判の世論が頂点に達する中で行われた総選挙で一〇議席を獲得し、国会に進出した。しかし、金大中・廬武鉉と続く民主政権の一〇年間に韓国の民主運動は以前と異なる困難に直面した。財閥大企業の強大な力と影響力、IMFによる構造調整政策により、整理解雇・企業合併の要件が大きく緩和され、セーフティ・ネットのないまま職場を追われた労働者は六〇〇万人の巨大な中小零細自営業階層を形成し、以後一〇年の間に低所得層・極貧層へと没落した。
李明博政権の登
場と新しい挑戦
廬武鉉政権時代に労働者は、ストライキなどに対する使用者側の莫大な損害賠償・仮差し押さえ攻撃をうけ、農民は一方的に進められる韓米自由貿易協定(FTA)により深刻な被害を受けた。また、米国が起こしたイラク戦争への大規模な派兵が行われた。廬武鉉大統領は、退陣後「権力は市場へ移動した」と言った。まさに、この時期の民主政権の無力感を克明に表している。
保守陣営はこの間隙をついて巻き返しを図り、〇七年一二月李明博政権が登場し、民主・進歩陣営は惨敗した。それを契機に進歩陣営の一部は従北論争を展開し、党は分裂した。
しかし、〇八年五月に始まったBSE(牛海綿状脳症)の危険がある米国産牛肉の輸入に反対するキャンドルデモ抗争の中で、人々は民主主義を作り出す底力を見せ、現政権の民主主義破壊と労働者弾圧、南北関係の後退に反対して闘ってきた。
国民の変化への熱気は、一〇年六月の統一地方選挙で爆発的に確認された。民主労働党は、野党圏の連帯を最初に提起し、成功のために努力し、国民の信任を得て、三人の区長と一二四人の地方議員を当選させ、大きく躍進し、一一年四月全羅道順天市での補欠選挙、蔚山市での区長選挙にも勝利した。
過去のあやまち
を繰り返さない
民主労働党は李明博政権が登場した後の総選挙で民主・進歩勢力が敗北した後、新しい道に入った。「統合と連帯の道」がそれだ。進歩政治の一〇年間に蓄積してきた成果を基盤に、韓国社会全体を責任を持って牽引する計画を立てた。一〇年間の過誤を繰り返してはいけない。一二年の大統領選挙で進歩政党が主導する連帯によって、進歩的な政権交代が実現しなければならない。
一一年五月進歩新党(〇八年民主労働党と分裂)と民主労働党代表を含む進歩陣営代表者連席会議は、新しい統合進歩政党建設に関する最終合意に達し、民主労働党は六月一九日政策党大会で最終合意文を全員一致で承認した。進歩新党の承認は当初の合意と異なり八月末に予定されている。これに加え、国民参与党(廬武鉉の周辺中心で結成)は七月一〇日中央委員会でこの合意文を採択した。
統合進歩政党
の九月結成へ
統合進歩政党は労働者・農民・民衆が中心となり、市民と知識人が幅広く結集する政党だ。韓国の進歩勢力は、政治的民主主義と経済的平等、南北の和解と平和統一という価値のもとで活動してきたし、国会での進歩政党の活動もこれに基づいて実践される。
統合進歩政党の北側に対する立場は明確だ。それは六・一五南北共同宣言の立場である。相互に体制を認めて、対話と協力の相手として対する。南北のどの政権の政策でも平和と統一のためのものなら支持するし、これに逆行するものなら批判する。民主改革勢力とともに政権の一員として参加するかどうかは慎重に検討されるべきで、進歩陣営の多数の共感が必要だ。重要なのは、進歩政党は一二年の総選挙で院内交渉団体(二〇議席)以上を確保し実際に政策を実現させる力を持つようになることだ。
民主党も最近、野党圏統合委員会を発足させたが、民主党を含む統合は、現時点では望ましくないだけでなく、不可能だ。進歩大統合議論に参加している政党は、党員民主主義を採択し、これに基づいて党運営をしているが、この点で民主党は構造が異なる。
一〇年六月の統一地方選挙で、無償給食がすべての野党圏の地方自治体首長・進歩的教育長候補の公約になり一一年六月の選挙では大学生の授業料問題が大きな関心事となった。ハンナラ党は〇七年の大統領選挙の公約で授業料半額化を掲げたが、この公約を実現せよとの大学生の運動に、多くの市民・学生の両親らが支持し集会デモが行われている。
統合進歩政党に関する最終合意文には、一二年の総選挙と大統領選挙で、ドイツ式の政党名簿制導入をはじめ選挙制度の民主的改革を重要事項として定めている。支持率に基づいて議席が配分されるように改めなくてはならない。憲法裁判所の違憲決定に伴う公職選挙法の改正で、一二年の選挙から在外国民にも投票権が与えられた。
対北強硬策と
朝鮮半島の未来
〇七年の一〇・四宣言を通じて廬武鉉大統領の任期が終わるときまで、南北関係は持続的に発展してきた。しかし、李明博政権になって「非核・解放・三〇〇〇」を対北政策の根幹にして、北朝鮮の核放棄を対話と協力の前提とすることで、南北関係は一切の進展もなく冷却し始めた。
北との関係が決定的に悪化したのは、一〇年三月の天安号沈没事件だ。
李明博大統領は軍事境界線付近での対北宣伝放送装置を再度設置し、誹謗放送を再開した。
その後、韓米合同軍事演習が一一月まで西海(黄海)東海(日本海)で間断なく行われ、一一月延坪島砲撃事件がこのような状況下で発生し、南側の国民に反北対決意識がよみがえる契機となった。李明博政権と米国は北側の権力継承過程で内紛や自然災害が発生した場合は、平壌・西海岸に進駐して北側の最高位層をとらえ、北の領土を武力占領する作戦計画(「五〇二九」)を立て、これを公開した。
一月の中国との首脳会談を通じて米中関係の発展を協議し、まず南北対話を行い、米朝対話を通じて六者協議に進もうという三段階接近法を採用した。これは米中合意のもとで、中国が北朝鮮を、米国が韓国を説得して推進しようとするものだが、李明博政権の下では対北政策の変化は期待できない。
過去、六者協議で日本政府は、東北アジアの平和のための実質的な寄与をすることができなかった。朝鮮学校に対する日本右翼の攻撃は、韓国人に日本社会の極端な断面を見せつけた。その後、政権が代わったにもかかわらず、自民党と違う日本の対北政策を見ることが未だできていない。日本政府と市民社会が東北アジアの平和について、以前とは異なる接近法と情熱を見せることを期待する。(発言要旨、文責編集部)
読書案内
丸浜江里子著/凱風社刊/3500円+税
『原水禁署名運動の誕生』
なぜ「杉並」だったのか? 伝説化を排し
た掘り起こし
八月一〇日、杉並区教育委員会は来年度からの中学校社会科教科書に関して、歴史・公民とも「帝国書院」に決定(育鵬社・自由社の教科書は不採決)した。市民たちの勝利だった。山田区長の卑劣なやり方によって、「つくる会」系の扶桑社版が採択されたのが六年前。その時市民運動の中にいた著者は、「″原水禁(署名)運動の発祥地・杉並≠ナなぜそんなことがおこるのか」等の声を聞く。それらの声の主たちにとっては、輝かしい住民運動の伝統がある杉並区ではあるはずのない・あってはならない「暴挙」だったのだろう。ところが、「発祥地・杉並」について、知って使っているのかというとそうでもない。また、それについてまとまった記録も残ってはいない。「実態が不明なまま、″発祥の地≠ニいう言葉を一人歩きさせたり、祭り上げることは、他の地域の運動とのつながりや、運動の成果や問題点を見えにくくするのではないか」と思った著者は、伝説化を排し、歴史の事実を掘り起こしていく。
署名運動の「前史」という第一章〜五章は、戦前戦中の杉並から始まる。総力戦体制に組み込まれていく町内会(杉並も含めて多くは、関東大震災の時につくられた自警団をもとにしているという)があり、一方それとは別に、民衆のまったく自主的な相互扶助の組織であった城西消費組合(この地域の住民だった小林多喜二たちも参加していた)は、その活動を通して多くの人々のつながりをうみ、戦後の住民運動を準備していった。その戦後では、女性たちが担った地域の生協運動や古書商や魚商たちによる重税反対運動を、いわば「窮乏」下の生活防衛闘争の歴史として述べている。さらに「逆コース」下の平和運動について、朝鮮戦争での米国の原爆使用を阻止したといわれているストックホルム・アピールと「原子兵器の絶対禁止」を求める国際署名運動の杉並での取り組みを紹介し、これを「助走」だったとしている。また著者が重視していると思われるのが、この間の杉並での革新区長(公選)の誕生及び、活発な社会教育活動と公民館建設である。なぜなら、これらが、いわゆる知識人たちだけでなく、さまざまな人々の出会いと学習の場をつくり、住民運動(署名運動)のセンターとなっていくからだ。著者が「前史」を大切にしている理由が理解できる。 教訓と残され
た多くの課題
ビキニ事件をきっかけとして、杉並から全国に拡がった原水禁署名運動は、約三二〇〇万筆を集めた。なぜ杉並だったのか? 「前史」で触れたことに加えて、「党派を超えた集まり」と「主婦の活躍」を指摘する。そして意義については、@平和運動のイメージを変えた働き、A原水爆禁止世界大会を実現し、被爆者の救済に目を向けるきっかけをつくった働き、B米国の対日政策に影響を与えた働きを挙げる。ただし、運動の出発点となった「杉並アピール」が広島・長崎・ビキニ事件を三たびとして「一緒にくくっている」ことについて、核被害では共通しているが、広島・長崎は日本のアジア侵略戦争ぬきには考えられず、戦争の加害性と責任の問題が曖昧になってしまっていた、と指摘する。伝説化からは、「杉並アピール」に欠けていたものも見えてはこない。つけ加えれば、日本の植民地だったマーシャル諸島の人々も同じ『死の灰』を浴びた事実を、民衆が受け止めるのはずっと後のことになる。
この本を読みながら、福島第一原発事故による放射能被害が広がる現在と重なり、考えさせられることが多かった。例えば、日本気象学会のことだ。ビキニ水爆実験があった当時、放射能の動きを科学的に分析し、その危険性を世界に発信していた。それだけでない、「署名運動が始まると積極的に講師を引き受けると共に、労働組合として署名活動に取り組んだ」という。「原子村」の科学者たちには想像もつかないことだろう。「ビキニ事件」(六・七章)でも、米国の核戦略に沿う日本政府が、(原発を導入するため)被爆した漁民や汚染魚に不安を抱く民衆をいかに裏切っていったかがよくわかる。この構造は、今も変わってはいないのではなかろうか。「政治決着=わずかな見舞金(一九五五年)」の次の年、原子炉が茨城県東海村に運び込まれた。「つまり、ビキニの被災者たちは、日本の原子力発電の人柱にされたのだ」そして、「事件はまだ終わっていない」という第五福竜丸の乗組員だった大石又七さんの言葉は重く、私たちに多くの課題をつきつけている。「署名運動」から五〇年以上がたった。 杉並は「発祥、ではなく発信」の地だった、と著者はいう。 (努)
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