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    かけはし2011.7.4号

われわれは一切払わない

ギリシャ

すべてのことを可能とする民衆的決起

問題は、全システムへの憤怒とかち取るべきものをつなぐ能力


ヨルゴス・ミトラリアス

 前号に引き続き、ギリシャで今展開中の民衆反乱について、現地報告を紹介する。今回の報告は、運動の息吹をより生々しく伝えている。前回のより分析的な評価を検討する上で、事実の側面で一つの参照点を提供している。(「かけはし」編集部)

 ギリシャの「怒れる者たち」数万人がストライキに立ち上がり、新自由主義の圧制者に対する戦争に取りかかっている。

支配階級に恐れを抱かせる決起

 それが始まってから二週間経って、「怒れる」民衆が生み出したギリシャの運動は、すべての都市の主要な広場を怒りを叫ぶ群集で溢れさせ、パパンドレウ政権並びにその各国と国際機構の支援者を身震いさせている。今やそれは、単なる抗議運動以上のものとなり、それどころか緊縮政策に対決する巨大な決起となっている。それは、国中に吹き荒れる真性の民衆反乱へと転じた。完全な混乱の中にある政治の世界全体に、というわけではないとしても、新自由主義の二大政党にへどを吐きつけつつ、「やつらの危機」あるいは「やつらの債務」の弁済、これに対する拒絶をあまねく知らせる反乱だ。
 国会議事堂のまさに正面に位置するアテネ中心部のシンタグマ広場(憲法広場)に、二〇一一年六月五日、どれほどの人がいたのだろうか? それに答えることは困難だ。と言うのも、そのような民衆的集結の特徴的姿の一つが中心となるイベント(スピーチあるいはコンサート)の不在であり、人びとの自由な出入りであるからだ。通行人の数をいかに数えるかを知っているアテネ地下鉄関係者によれば、その記念すべき夜にシンタグマに向かって集まった人びとは、少なくとも二五万人だった! 実際、他のギリシャの都市の主な広場で行われた「歴史的な」集会を加えれば、数十万人が立ち上がった。
 この重大局面に際してしかし、われわれはある疑問を提起する必要がある。つまり、ギリシャ政府(そこにEUは特別な利害関係をもっている)を震えあがらせているこのような大衆運動が、西側のメディアに登場させられないでいるということは、いかにすれば可能なのか、という疑問だ。そこには最初の一二日間、IMF、EU委員会、「トロイカ(IMF、EU委員会、ヨーロッパ中央銀行)」、さらにメルケルや新自由主義の国際的指導者連に対する怒りを叫ぶ先のような史上空前の群集について、事実上一つのことばも、一つの映像もなかったのだ。ギリシャのいくつかの労働組合による呼びかけの後でアテネの街頭で行われた数百人のデモがたまに二、三行出たことを除けば、まったく何もなかった。これは、労働組合官僚のやせこけたデモに対する奇妙なえこひいきを証明するものだ。というのもその一方で、そのわずか二、三百ヤード先では、巨大な群集が何日も何週間も絶え間なく夜遅くまでデモを行っていたのだから。
 これは実際、検閲のある種の新しい形態だ。このギリシャの運動がヨーロッパの残りに伝染するかもしれない、このような恐れに突き動かされた十分に組織された政治的検閲がここにある! われわれは、現代の神聖同盟が使用するこの新たな武器に面と向き合わされている以上、この薄汚さを暴露すること、さらに世論への情報提供を禁じるこのような策の裏をかく道を見出すこと、この双方で共に対応する必要がある。その経路は、ヨーロッパ中の社会運動の中で情報交換を発展させ、同時に運動自身のオルタナティブメディアを創出し強化する……などの道だ。

債務支払い拒否の組織化の中で


 ギリシャの「怒れる者たち」に戻れば、この運動が下層の諸階級内部に日を追って根付きつつあるということに注目しなければならない。そしてこれらの諸階級は、すべての物事を商品へと変えた、ある種冷たく、民族主義的で人種主義的、かつ個人主義という、新自由主義イデオロギーの絶対的支配の二五年が形作ったギリシャ社会、それに対決しているのだ。これこそが、諸理念と諸行動の中の最良のものと最悪のものをあるがままに混ぜ合わせながら、結果として生じているイメージがしばしば矛盾している理由だ。例を挙げれば、今にも人種主義になろうかというばかりのギリシャ民族主義をあらわにするその同じ人物が、その一方で、チュニジア国旗を、それらの人びとに対する国際主義的連帯を示すために打ち振るのだ。
 そのようなことからわれわれは、このようなデモに決起している人びとは支離滅裂な精神状態に陥っている、と結論づけるべきなのだろうか? もちろんそうではない。奇跡などというものがまったくあり得ず、あるいは政治的に「純粋な」社会的反乱などもまったくあり得ない以上、運動は徐々により急進的になりつつあるその一方で、道徳と社会の惨害に彩られたこの二五年の名残が、そこにはまだ痕を留めているのだ。しかし心しよう。その欠点すべては、主要な相貌の中に包み込まれている。その相貌とはつまり、「覚え書き(資金援助の)」に対する、トロイカに対する、公的債務、政権、緊縮策、腐敗、虚構的な議会制民主主義、ヨーロッパ委員会、つまり全システムに対する、徹底的な拒絶だ!
 過去二週間、デモに決起した人びとが、「われわれは何も借りていない、何も売っていない、一切払わない」、「われわれは売らない、自分自身を売るようなことはしない」、「覚え書き、トロイカ、政権、債務、それら全部をたたきだそう」、あるいは「やつらがいなくなるまでわれわれはここに留まる」、このようなことばを叫んでいるとすれば、確かにそれは偶然ではない。このようなキャッチフレーズがすべてのデモ参加者をひとつにつないでいる。実際すべてが、公的債務弁済への拒否に関係しているのだ。これこそが、公的債務監査委員会要求キャンペーンが国中で大成功を収めている理由だ。シンタグマ広場の真ん中にあるそのブースは、要求への署名や自発的な協力者として助力を申し出る……などのことを熱望する一群の人びとで、いつもごった返している。
 シンタグマの「怒れる者たち」は、最初は完全にバラバラだったが、次第にある種の組織を発展させた。そしてその組織はついに、毎晩九時に開かれ、何千という熱心な聴衆の前に数百人の発言者を引き出す、そのような民衆総会となった。論争はしばしば真に質の高いものとなり(たとえば、公的債務について)、実際に、主要なテレビチャンネルで見ることのできる何ほどかよりもはるかに良質だ。しかもそれは、周辺を取り巻く騒音(われわれは、四〇〇万人の人口をもつ都市の真ん中にいるのだ)、常に動き回っている何万人という人びと、そして時々は何かバベルの塔のよう見えるある種永続化した野営地のど真ん中の特に極めて多様な構成の巨大な聴衆、これらにもかかわらず起きていることなのだ。

政治的配列が次第に明確に

 シンタグマで日ごとに経験されているような直接民主主義にいくつもの質の高さがあるとしても、われわれは、その弱点、あいまいさ、あるいは政党や労働組合あるいはいわゆる選良集団を思い起こさせる何ものかに対する初期の毛嫌いのようなまさに欠陥を、見ずに済ましてはならない。そのような拒絶感は、全体としての政治の世界を拒否する傾向の「怒れる者たち」の中で有力な特色である。それは知られるべきことがらである。しかしその一方でわれわれは、アテネとテッサロニキ双方の民衆総会の劇的な発展に注目しなければならない。これらの総会は、労働組合の拒絶からその招き入れへ、つまり彼らは来るべきであり、シンタグマで共にデモを行うべきだ、との観点へと移行したのだ。
 時が過ぎるにつれ明白に、シンタグマの政治的光景は濁りがとれたものとなった。そこにあるものは、議事堂正面の小高いところに陣取る民衆的右派あるいは極右、広場そのものには、民衆総会と永続化した野営地に対する影響力を備えた無政府主義者と急進左翼、という光景だ。もちろん、急進左翼が優勢であり、シンタグマで行われるデモとイベントのすべてに深い赤の色を帯びさせている。とはいえこれは、ポピュリストから民族主義者、人種主義者またネオナチにいたるまでの右翼のさまざまな構成部分が、この民衆運動をハイジャックしようという試みをこの先仕掛けない、ということを意味しているわけではない。彼らは辛抱するだろう。そしてその試みの成否は、この運動の前衛部分の能力、巨大な直接の必要とシステムに対する消えることのない憤怒の間に橋を架ける明確な目標を定めつつ、運動を居住地区にまた職場や学園に適切に根付かせるその能力に、まさに多くかかっている。

歴史上の転換点となる闘い


 シンタグマの運動は、その諸側面、社会的構成、急進的な本性、さらにその政治的な異質性などを貫いて、スペインでの類似した運動とはかなり違っている。とはいえそれは、新自由主義の横柄で非人間的な時代に横領を行い、ブルジョア民主主義から何らかの意味を抜き取りすっからかんにした経済と政治のエリートに対する同じ憎悪を、カイロのタハリール広場やマドリードのプエルタ・デル・ソルと共有している。この運動は、非暴力の民主的かつ参加型の同じ推力によって動かされている。そしてこの推力は、二一世紀始めのあらゆる民衆反乱の中に見出すことができる。
 われわれの結論は暫定的なものでしかない。つまり何が起きるとしても(そして結末は大変動となるかもしれない)、現在のギリシャの運動はこの国の歴史における一つの転換点を作り出した、ということになるだろう。これ以後すべてのことが可能だ。そして同じことが再び起こることは決してないだろう。(アテネ、六月八日)

▼筆者は、「債務と対決するギリシャ委員会」の創立メンバー。この組織は、「第三世界債務帳消し運動(CADTM)」と連携している。(『インターナショナルビューポイント』二〇一一年六月号)
 

 

スペイン

今や具体的勝利の達成が必要

ジョセプ・マリア・アンテンタス/エステル・ヴィヴァス


政治活動の新
しいサイクル


 怒りのレベルはまたしてもあらゆる予測を超えたものとなり、大衆的に街頭を占拠し、怒りに満ちた人びとと政治制度との間のギャップを示すものとなった。五月一五日(15M)から六月一九日(19J)まで、さまざまな勢力が合流して統一が作り出された。それは地区のレベル(抗議のキャンプ、地区グループ)だけではなく、この危機に責任のある政治家連中や金融・銀行システムへのわれわれの強烈な非難を共有した社会のより広範な諸部分の合流・統一であった。「われわれは政治家や銀行家が所有する商品ではない」というスローガンがそれを端的に示すものである。
 indignad@s(人びとの憤怒)は、「市場」の圧力に屈服した連中、そして他人に対してはベルトを締めるよう求めながら自分ではそうしない連中に、いささかのあいまいさもなく向けられている。「月に一〇〇〇ユーロという哀れな給料しか稼がない政治家を見たいものだ」というスローガンは集会で圧倒的な拍手を受けたものの一つだった。この民主主義は、自らの生をコントロールする用意のある民衆にとってますます空虚なものとなっていることが明らかになった。政治は自分たちの権利の、日々の、そして底辺からの日常的行使を含むものでなければならないと主張する人びとにとっては、四年に一度の投票では不十分なのである。
 15J(六月一五日)のカタルーニャ議会前での行動に続く運動を抑え込もうとした当局の目論見は、抗議のキャンプにいた男女の怒りをも超える集団的・社会的憤怒に対処することができなかった。この運動は若い活動家のその時かぎりの通過儀礼的局面だと考える人びと誰もが間違っていた。それを単なる公共秩序の問題と見なしていた人たちも間違っていた。ありきたりの疑念が、大きくふくれあがった。二年九カ月にわたる危機が重い意味をもった。現在の運動は、いつものことだが前ぶれもなく、そして新しい形でついに公然たるものとして現れた深刻な社会的不安を表現している。われわれは循環的でいつか過ぎ去っていく現象の中にいるのではなく、15M(五月一五日)と抗議のキャンプが跳躍台となった政治活動の新しいサイクルの最初の動きを垣間見ているのだ。

抵抗のグローバル化が再生した


 先月(五月)いっぱいを通じて、われわれは集団的行動への確信を取り戻した。最初は懐疑主義と「そうだ、やればできる」へのあきらめが支配していた。アラブ世界の反乱、ギリシャの大衆的デモ、アイスランド民衆の「お前たちの危機のツケを支払わない」という主張が集団的想像力に大きな影響を与え、集団的政治主体としての「われわれ」への確信の復活にはずみをつけた。一〇年以上前にさかのぼる反グローバリゼーション運動の「抵抗のグローバリゼーション」が、危機によって特徴づけられるきわめて異なったシナリオの中で再度復活した。
 正統性をめぐる闘いの中で運動が取り組まれた15m(五月一五日)以後、19J(六月一九日)は運動が受けた攻撃の中で、その強さを示すテストとして提起された。運動が目覚めさせた民衆的支持を街頭での行動に転化することが必要だった。そしてまさにそれが達成された。19J(六月一九日)は、運動の広がり、大衆的動員、しかもきわめて短期間で爆発的な拡大を実現するその能力を示したのだ。15M(五月一五日)以来の運動の成長は、たんに量的なものではなく、社会的基盤の多様性、世代的構成という点で質的な成長である。
 今、何が問われているのか。草の根の基盤の強化、地域的集会の確立、安定した組織的メカニズムの強化を含む基盤の強化に向かう挑戦である。この運動は、労働者階級、闘争している諸セクター、戦闘的労働組合活動家との連携を発展させ、予期し得なかった社会的・政治的情景の変化に困惑している大労組への圧力を保つようにすることも必要である。具体的な勝利を達成することが必要である。小さな、きわめて防衛的な成果であったとしても、幾つかの立ち退き攻撃の阻止は、方向を示し、新たなエネルギーをもたらす。より一般的には、この運動はその全般的性格、現在のグローバルな経済モデルと政治的階級への批判を、危機のコストをその余裕などない人びとに押しつけようとする支出切り下げ攻撃、諸政策に反対する具体的な闘争の強化に結び付ける挑戦に直面している。
 19J(六月一九日)は15M(五月一五日)に始まった最初の局面を終わらせ、始まったばかりの運動の次の局面を準備する転換点となったのである。
▼ジョセプ・マリア・アンテンタスは雑誌「ビエント・スル」の編集部員でバルセロナ自治大学の社会学教授。エステル・ヴィヴァスはポンペウ・ファブラ大学社会運動研究センター(CEMS)のメンバー。彼女は『対外債務に反対しよう』(スペイン語)の著者で『スパーマーケットお断り』、『フェアトレードはどこへ行く』(いずれもスペイン語)の共著者。「ビエント・スル」編集部員でもある。

(「インターナショナルビューポイント」二〇一一年六月号)

 


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