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    かけはし2011.6.13号

「恐れもない」と若者が決起

スペイン

何事も以前のままでは済まないだろう―

既成の運動指導は突き破られた
教条とセクト主義を排した運動へ

ミゲル・ロメロ

 五月、スペイン全土を、若者を中心とする今までにない運動が席巻し、スペインを揺るがすと共に、ヨーロッパで大きな関心を集めている。将来を閉ざされたとの思いを抱く若者の憤りが爆発した。フランスの六八年五月になぞらえて「二〇一一年五月」と呼ぶ論者もあり、インターネットを通した結集、広場の占拠(キャンプ)など、アラブ革命を思わせるスタイルも注目されている。以下はその背景や政治評価。運動の最新情報も併せて掲載した。いずれも『インターナショナルビューポイント』五月号より。(「かけはし」編集部)

 以下は、反資本主義左翼(イスキエルダ・アンティキャピタリスタ、第四インターナショナルスペイン支部)のメンバーであり、同時に『ヴィエント・スル』誌編集者であるミゲル・ロメロへの、二〇一一年五月二一日に行われたダニエル・タヌロによるインタビュー。

労働組合の屈服への消沈と怒り

―スペイン国家を揺るがした今回の非常な動員の源は何なのか?

 それを理解するためには、提案されていた年金改革に反対した、二〇一〇年九月二九日のゼネストに戻る必要がある。それ以前に知られてきたこととの関係では、このストライキはある種の成功だった。全住民のおよそ四分の一が参加した。スペイン国家では近年、ストライキ数が落ち込んできていたことを知る必要がある。現在では、賃金や他のすべての問題について、雇用主と労働組合の間では、ある種常設的に対話が行われている。それゆえストライキは、社会的な再動員という特徴を示した。
 しかしその運動に後退との意味を与える形で、メディアの攻撃が即座に始められた。労組指導部はこのキャンペーンに強く動揺させられ、動員は続くものがないまま放置された。新たなストライキの呼びかけが成功をもたらしたかどうか、それは確実ではない。しかしそれは、「われわれは、政府の計画に反対を堅持する」として、決意と勇気を示すメッセージを送ったはずだ。その代わりに組合は、政府と交渉し、いくつかのささいな修正と引き換えに、年金改革を受け容れた。
 この決算書は、労働者の世界にとっては極めて重いものだった。今四〇歳〜四五歳の現役の者たちが退職したとき受け取る年金は、現在の退職世代よりも二〇%低いものとなるだろう。この協定は、欲求不満の、しかしまた労働運動における消極性の原因をも作り出した。しかしながらそれは、ピケットに連帯するなど、ストライキを支援した若者の間に怒りをつくり出した。多数派労組から期待できるものは何もない、との考えが広がっている。CGTなどの少数派労組について言えば、それらの比重は低い。それらは参照点となる強みをもつかもしれないが、彼らのセクト主義路線がそうなることを阻んでいる。彼らはいわば声明で満足している。こうして諸条件は、若者それ自身から出現する主導性に向け整えられた。

若者がまったく新しい回路を

―運動の基礎となっている部門はどのようなものか?

 二〇一一年早々、大学の中では一定の緊張を感じることができた。しかし反資本主義左翼という側面では、われわれはまったく悲観的だった。われわれは何よりも展望の欠如に注意を向けていた。社会的袋小路が続いていた。三月、ポルトガルで、「不安定な青年」の訴えがインターネットで始められ、リスボンで二五万人が結集する巨大デモに導いた。しかしそのデモには、政治的中身はほとんどなかった。「われわれは侮辱されている」「われわれは最良の訓練を受けている世代だが、失業しているか非正規の仕事しかない」と。しかしデモの数は印象深いものだった。
 この例はスペインの大学に、特にマドリードですぐさま影響を及ぼした。失業は住民の二〇%近くに、あるいは四九〇万人の人びとに及んでいる 、ということを言うべきだろう。二五歳以下の者の失業率は、四〇・五%だ。二〇歳から三〇歳の間の若者はほとんどが、はした仕事に頼って、月六〇〇ユーロで生き延びている。したがって彼らは、家族から自立した生活を送る状況にはいない。
 こうして約一〇〇人の学生が「Jovenes sin future」(未来なき若者)というグループを形成した。その政綱は、若者たちへの働きかけ「Sin curro sin casa sin pension sin miedo」(職なし、家なし、年金なし、そして恐れもない)として、自身を表現した。先の列記の中で最も重要なものは、「恐れもない」だ。私はその時、『ヴィエント・スル』誌として、これらの若者たちにインタビューした。彼らは知的で控えめな人たちだ。彼らのグループは、四月七日にデモを呼びかけた。結集の腹づもりはせいぜい数百人という所だった。ところが実際は、四〇〇〇人から五〇〇〇人のデモが出現した。
 四月七日のデモの成功がその組織者たちを、もう一つ、五月一五日を呼びかけるよう導いた。他方でもう一つのグループ、「Democracia real ya」(真の民主主義を今)が出現した。その政綱は、政治的には極めて弱いものだった。社会的側面では、失業、市場の独裁、その他を強く非難していた。しかし政治的側面では、彼らは自身を「右でも左でもなく」と描いていた。急進左翼から見ると、この働きかけは非常にうさんくさく見えた。なぜならば今日スペイン国家でわれわれは、非常に攻撃的な右翼を前にしているからだ。その上、このグループの主導者を誰も知らなかった。
 「真の民主主義を今」は当初、もっぱらマドリードを基盤としていた。アピールは同時に他の町々でも出された。集会は他では非常につつましかったが、マドリードのデモは二万人から二万五〇〇〇人の人びとを引きつけた。それは戦闘的かつ楽しい行進であり、退屈な伝統的デモとはまったく違うものだった。デモはプエルタ・デル・ソルで終わったが、付随したスピーチは極めて左翼的な、多数派労組に非常に批判的なものであり、若者たちではなく有名人、特に無政府主義者知識人のカルロス・タルボによって行われた。
 デモには、しばしばあることとして、ブラックブロックの小グループが参加した。彼らはいくつか事件を引き起こした。しかし弾圧は非常に強硬だった。彼らの内の一四人が逮捕された。しかしそれは直ちに警察に反対する連帯に導いた。その点で、まったく知られていず組織されていない一連の人びとは、翌日プエルタ・デル・ソルでキャンプを組織するという、すばらしい考えをもっていた。その主導性は非常にみごとなものだったが、異様に見える可能性もあった。その場に留まった人びとは辛うじて二、三〇人だった。それでもその働きかけは雪だるまのようにふくれあがった。当初は警察によって広場から移動させられ、五月一六日朝には約一〇〇人が法廷に連れて行かれた。しかし午後には、数百人が、実際には数千人がプエルタ・デル・ソルに集まった。
 人びとの共感は巨大だった。毎晩八時の集会は、一万五〇〇〇人、次いで二万人とふくれあがった。すぐさま、選挙集会は完全に形を変えられた。集会は数百を超える町で組織された。むしろ右翼の町であるヴァレンシアのような町にも、五月二〇日には一万人の集会が出現した。このようなことは、長い間見られたことがなかった。直近では、バルセロナで一万五〇〇〇人、マドリードで三万人――それほど多くが広場を利用するなどということはもはやありそうもないと思われていた―のデモがあった。金曜日の集会は選挙管理委員会から禁止された。次いで内務相が、人びとを解散させる命令を出した。しかしそれは不可能だった。この大臣、ルバルカバは、原則をもってはいないが知性は持っている政治家だ。彼はフェリペ・ゴンザレスに近くGAL(注一)出身だった。「警察の機能とは本当は問題を解決することであり、問題を起こすことではない。三万人のデモを解散させることはもっと大きな問題を引き起こすことだ。警察はただ紛争の場合にのみ介入すべきだ。ところが実際は、紛争は一つもない」、こう彼は語った。ルバルカバは、自身が選挙の候補者であった以上、自身の個人的なカードとしても役立てつつ、知的に振る舞った。人びとは午前零時を過ぎてからのデモ排除を心配した。しかし午前二時、警察は撤退した。喜びの爆発があった。留意すべきもう一つの事実があり、それは、世界中の五三八の町で連帯集会があったということだ。

欠落も残す素朴な反資本主義

―この運動を率いたのは誰か? 今その内容はもっと鮮明となっているのか? 女性の、また移民の役割は?

 共同調整グループには約六〇人がかかわっている。彼らは二五歳から二八歳だった。高い専門資格をもつ大学の卒業生だが、失業中か非正規職にあり、劣悪な労働条件に苦しんでいる。一方政治的経験や政治組織への加入経験はない。この中に学生は一人もいなかった。集会には、人口の多い都市周辺から来た若者は極めて少なかった。都市中心部の運動、というイメージが張り付くことを避けるために、共同調整グループは、都市周辺街区に出かけることを決定した。政綱宣言について言えば、それはまったく健全だった。それは、銀行の国有化、失業者の保護、その他を支持している。選挙法にも反対している。それは、民主的かつ社会的な改革綱領だ。周辺化されているとはいえエコロジーもある。巨大とはまったく言えないとはいえ、そこには反資本主義の意識がある。「a-a-a-anticapitalista」というスローガンがデモの中ではしばしば上げられている。ただし大きな意味の思想的な中身はない。
 運動にはたくさんの女性が参加しているが、フェミニズムの要求と同様、フェミニズム運動は不在だ。たとえば、六八年五月に関連するポスターやプラカードはたくさんあるが、フェミニズムの問題にかかわるものはない。これは懸念材料だ。これはおそらく、スペインのフェミニズム運動がここ三〇年、女性に特有に関連する諸問題に集中してきたことの結果だと思われる。政綱宣言には、「女性」という言葉すら出てこない。同じことは、移民の若者についても言える。彼らは運動の中に多数いる。しかし共同調整グループの中にはいない。スポークスパーソンのすべては、スペイン土着の者だ(注二)。

統一の維持と他との結合が鍵


―この運動の先行きをどう見ているか?

 予想外のことがない限り、今回の選挙は、多くの地域圏と自治体で勝利すると思われる右翼(国民党、PP)の大勝利、社会党(PSOE)の敗北となるだろう。統一左翼(IU)の結果がどうなるかは興味深い。IUは、この運動の政治的表現と見えるよう試みた。IUはいわば制度の中の左翼であり反資本主義派ではないが故に、極めて機会主義的だ。世論調査ではこの党の得票率は六から八%だ。この党がもし八%以上得票するならば、それはこの運動の影響となるだろう。IUは運動の指導部との会合を計画している。そこには一定の危険性がある。IUは活動家組織ではなくむしろセクト主義的制度主義的組織であるが故に、この運動に指導的影響力を発揮する可能性はまったくない。しかし制度にもつ重みは、運動指導部の興味を引く可能性があると思われる。議会の中に声を得るのでは、と彼らが信じる可能性があるのだ。それは、決起の自立性と急進主義にとって一つの危険を意味する。労働組合もまた会合を求めている。事実上運動は、あらゆる者にとって一つの政治的参照対象となっている。
 今提起されようとしている問題は、「キャンプにとって次は何か」ということだ。それは提起される必要のある問題だが、論争の対象ともなるだろう。また、別の働きかけが、特に人口の多い都市周辺部に的を定めた働きかけが力を得る必要があるだろう。社会学者と同様に、メディアは「運動は終わった」と語っている。それを信じてはならない。私はおそらく楽観主義者なのかもしれないが、私には、運動が消え去ることはありそうにないと見える。この運動は、あまりに多くの人々を、これは「私の運動」と考え、「闘争の継続」を願うあまりに多くの若者を巻き込んでいるのだ。
 ポルトガルでは、二五万人の大デモはその後が続かなかった。ここでは、選挙期間中の運動という創意に独創性があり、運動のもっとも人気あるスローガンは、「PSOE, PP, la misma es」(PSOE、PP、どっちも同じ、くそったれ)であり、運動は民衆多数にとって一つの参照点となっている。極度に高まった熱は巨大だ。何事も以前のままでは済まないだろう、何があっても前よりはいいだろう、との(正当な)考えがある。わが潮流(若く、セクト主義ではなく、教条的でなく、社会諸運動に密接に結びついている)にとっては、これは好機だ。とはいえ、運動の継続は困難だろう。
 運動が継続するための鍵となる条件の一つは、それが成長し他の社会運動と、たとえば女性運動、環境運動、さらにもちろんだが労働運動と結びつくことだ。それは、一定の中期的展望、力の蓄積、運動の外側からの力の取り込み、それらを必要とする。われわれには、住宅問題をめぐる二〇〇九年の非常に強力な運動という、苦い経験がある。その運動は、セクト主義者が巻き起こした内部的な意見の衝突のため、継続が不可能となった。この型の運動は、統一を条件としてのみ存続が可能なのだ。

分別もち、出すぎず共に進む


―労働組合部門からは、何らかの力の投入はあったのか?

 大労組内部には左派潮流は一つもない。そしてCGT(注三)は周辺的だ。したがって不幸なことだが、運動を支持する指導者の声明がいくつか以外、何もない(彼らはそれ以外やりようがなかった)。職場委員会やストライキ中の職場の連帯声明も、一つもなかった。このように運動は、現存の諸動員とはいかなるつながりもない、完全に新しい運動だ(注四)。

―反資本主義左翼はどう行動すべきか?

 諸行動には、われわれは始まりの時から存在してきた。それ以前既に、われわれは「未来なき若者」の中にいた。「真の民主主義を今」との関係では、それとは逆にわれわれは完全に外にいた。それはあらゆる政治潮流も同じだった。われわれは、政綱宣言の起草にも参加してきた。われわれは、まさに今運動の中にいる非セクト的かつ自律的な潮流とは、非常に良好な関係にある。特に自己主張との関係では、旗やステッカーその他を含め、高度に分別のある出しゃばらない姿勢が必要だ。
▼ミゲル・ロメロは、マドリードに基盤を置く雑誌『ヴィエント・スルー』の編集者

一)バスクの独立運動グループであるETAの活動家とそのシンパの暗殺に責任がある非公然準軍事組織。
二)ミゲル・ロメロの情報によれば、プエルタ・デル・ソルには、五月二一日以降、モロッコ、サハラ、ラテンアメリカなどからの移民出身の諸個人による、極めて意義ある参加があった。
三)無政府主義派労組連合
四)CGTは、カタロニアのCCOOと同じく、運動支持のいくつかの声明を出した。アストゥリアスでは占拠は、その地域の主な二都市、オヴェイド、ギヨンから、勤労階級の闘争の強力な伝統のある、鉱業で知られる盆地の小さな町々へと広がった。
 

キャンプ・バルセロナ政府の弾圧を打ち破る

ヨセプ・マリア・アンテンタス/エゼル・ヴィヴァス

 運動は、弾圧に対して最初の勝利を勝ち取った。五月二七日(金曜日)の、これまでではスペインで二番目の大きさとなっていたバルセロナ・カタルーニャ広場のキャンプ追い立ての試みは、あからさまな失敗に見舞われた。週末の五月二一、二二日の地方選期間中にはデモを禁止するとの中央選挙管理委員会が下した決定を、運動が政治的に打ち負かした一週間後、金曜日朝早く、カタロニア政府はカタルーニャ広場のキャンプを排除しようと試みた。それは、広場の清掃をやり易くするためなどという、ばかばかしくほとんど信用できない口実による介入だった。
 市の清掃チームがキャンプの解体を始めることができるように、配備された圧倒的な警察部隊が広場への接近を閉め出し、広場内に約三〇〇人を閉じ込めた。一〇〇〇人以上の人びとは、キャンプと連帯するために街頭に繰り出し、広場の再占拠を何とかやり遂げ警察を撤退させようとした。追い立て作戦の間に警察が行使したひどい暴力に疑いはまったくない。カタロニア政府の内務相、フェリップ・プイグの嘘にもかかわらず、映像は自ずから真実を語っている。一〇〇人以上が負傷し、その内一人は極めて重い。この結果がまさにその真実だ。
 警官が怒りに駆られたせい? 見込み違い? 事実が何であれ、運動は大きな政治的勝利を達成した。記者会見であらわとなった、ジャーナリストに応じるフィリップの神経質な映像は、カタロニア政府の政治上の、かつ治安政策上の大失態を示す明瞭な印だった。広場の公式的「再占拠」以上に、この最初の弾圧の試みを前にした勝利は、活動家たちにかつて以上の強さとエネルギーを与え、住民の多数から彼らが得ている共感をただただ膨らますものとなった。地方選挙が終わるや否や先週いったんはメディアの注視が消えた後で、バルセロナでのキャンプ対する警察の攻撃は、「怒れる者たち」の運動に再度重要な可視性を与えることとなった。
 メディアが伝える数字によれば、金曜の晩、一万二〇〇〇人以上がカタルーニャ広場に詰めかけた。その前午後五時に、「怒れる者たち」の連合が呼びかけた公的医療削減反対のデモには医療労働者数千人が参加し、コロンブス記念碑を出発点としたこのデモは、カタルーニャ広場への勝利感に満ちた入場で最高潮に達した。この日の終わりを飾った集会は、疑いなく、この運動が始まって以来最大のものだった。最も多く見られたスローガンは、極めて鮮明な政治的メッセージを伝えている。「われわれはカタルーニャ広場を動かない!」「フェリップ・プイグは辞任せよ」「ここに革命がある!」と。スペインの他で見られるキャンプへの結集もまた、この数日さらに数を増した。 疲れの蓄積が見られた一週間を経て、抑圧反対の連帯は、この運動に新しい勢いを与えることとなった。
 広場でのキャンプと集会がどれだけ続くかを知ることは不可能だ。しかし今あるものは一時的で孤立した運動ではない。それは蓄積された社会不安を示す氷山の一角であり、その不安は、ある種の決起となり始めている。キャンプと広場の占拠は、それだけで自己完結するものと分析されてはならない。それらは今、象徴的な参照点、諸行動の基礎、未来の諸決起を推進するある種のてこ、さらに展開中の諸闘争を増幅する拡声器として、相互に同調しつつ作用している。この週を貫いて、闘争に入っているいくつもの部分が、われわれ独自のバルセロナ「タハリール広場」の活動に参加した。そこには、まともな居住の権利と追い立ての脅威の下に置かれている家族を支持する調整委員会、会社による六〇〇〇人のレイオフ公表との闘争に入ったテレフォニカの労働者、高等教育経費削減に抗議している学生と大学職員、などが含まれる。五月二六日に立ちあがった先の最後の層が示した決起は、学期の最後の時期にあり試験前夜にあることを考慮すれば、印象的と言う以上のものがある。
 五月一五日以後のほぼ二週間と、われわれの小「二〇一一年五月」のキャンプ運動の始まりは、いくつかの試練を前にしている。第一に、キャンプ地防衛、居住地域と都市部での民衆集会の建設、民衆的な自己組織の力付けの継続。第二に、労働者階級、闘争に入っている職場、戦闘的労働組合運動との結びつきを追求するための努力を増大させ、大労組に対する圧力を保持すること。その大労組と言えば、彼らが予期していなかった、そして社会対話という彼らの路線に根本的に挑戦している運動に、頭を抱えているのだ。第三に、スペイン全土での、また可能な限り国際的レベルでの、強力な統一的決起に向けた日取りの設定をもって、キャンプの勢いを完全なものとすることだ。こうして、バルセロナキャンプが発した世界的な決起日としての六月一九日に向け、努力を始める必要がある。エネルギーを取り入れ、新たな連帯を確立し、憤りの原動力を倍加する上で、この日は決定的な日となった。次の段階について、今や戦略的かつ集団的に考えることが重要だ。(二〇一一年五月二八日)
▼ヨセプ・マリア・アンテンタスは、『ヴィエント・スル』誌編集委員、かつバルセロナ自治大学社会学教授。
▼エゼル・ヴィヴァスは、ポムピュー・ファブラ大学社会運動研究センター研究員、新自由主義の諸問題に関するいくつかのスペイン語著作があり、『ヴィエント・スル』誌編集委員でもある。

 


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