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    かけはし2011.5.30号

被災者支援国際カンパのお礼とわれわれの決意

日本革命的共産主義者同盟(JRCL)
国際主義労働者全国協議会(NCIW)

 三月一一日に東北地方を中心に東日本の広い地域を襲ったマグニチュード九・〇の大地震の死者・行方不明者は二万五〇〇〇人、住居を失い避難所などで暮らす人々の数はなお一二万人に達している。またチェルノブイリなみのレベル七にまで達した福島第一原発の事故は炉心溶融・爆発を引き起こし、放射能を陸・海・大気に放出し続け、いまだ収束の道を見出すことができないままである。
 地震・津波・原発震災が複合した空前とも言える規模と質をともなったこの悲劇は、ブルジョア政府や電力資本の無能力と無責任、ならびに搾取・抑圧・差別されてきた人びとに被害が集中する階級社会の根本的矛盾を明るみに出した。新自由主義的グローバル化がこの矛盾を絶望的なレベルにまで拡大したのである。
 岩手・宮城・福島のわれわれの同志たちは自らも被災しながら、多くの被災住民の支援、震災に伴う解雇撤回、原発被害の拡大防止とすべての原発の停止・廃炉、地域社会の再建のための闘いに奮闘しており、全国の仲間も支援にかけつけている。また青年たちをはじめとしてかつてない規模で広がりを見せている反原発の運動に積極的に加わっている。
 こうした活動に向けてわれわれが呼びかけた全世界への支援のアピールは、ESSF(国境なき欧州連帯)を通じて大きな反響を呼んだ。すでにわれわれのもとにはアジア・欧州・北米・アフリカ(台湾、香港、フィリピン、パキスタン、スリランカ、イギリス、ドイツ、フランス、ケベック、コンゴ共和国)の一〇カ国の同志・友人たちから一万一七四五ユーロ(約140万円)におよぶカンパが寄せられた。こうした国際主義的連帯の熱情にわれわれは被災者住民とともに心からの感謝を表明したい。とりわけESSFの同志たちの活動に感謝する。
 この国際カンパの半額は、東北全労協に送られた。東北全労協の労働者たちは、被災者の支援、震災にともなう解雇など資本の攻撃に反撃する労働者民衆の闘いの新たな組織化を支えるためにこの国際カンパを活用している。
 国際カンパの残りの半額は、福島原発の惨害に関する政府や東電の虚偽のキャンペーンに対抗し、放射線被害の実情を詳細に日々市民・被災者に伝えるための独自の放射線量測定活動に必要な機器の購入、広報活動等に充てられることになっている。いわき市の労働者・市民たちがこの活動の準備を進めている。
 われわれは、国際カンパに託された世界の同志・友人たちの連帯をつねに心にとめながら、われわれの活動を強化していくことを決意している。このきわめて困難な状況の中で寄せられたすべての仲間たちの支援に、再度「ありがとう!」。

  二〇一一年五月一七日


大震災と4月統一地方選の結果

歯止めかからぬ民主党の後退
根本的変革への論議と闘いを


投票率は戦後
最低となった
 四月二四日投票の統一自治体選挙後半戦の結果は、四月一〇日の前半戦と同様に民主党の大幅な後退、自民党の回復=「保守回帰」を印象づけるものとなった。何よりも、三月一一日の東日本大震災と福島原発災害による「自粛」ムード、「がんばろうニッポン」のナショナリスト的キャンペーン、そして菅民主党政権の災害への対応の遅れや民主党内部の混乱・対立が拡大し、政権の求心力が日を追って失われ、自治体選への人びとの政治的関心が後退したことが民主党大敗の大きな要因として上げられる。
 そのことは投票率の低下に端的に示されている。前半の道府県議選につづき後半の市区町村長選、市区町村議選でも平均投票率は戦後最低となった(前半の知事選の平均投票率は戦後二番目の低さ)。前回の二〇〇七年選挙と比較すれば、市長選が〇・五三ポイント減の五二・九七%、市議選は六・六二ポイント減の五〇・八二%、町村長選が三・四四ポイント減の七〇・五六%、町村議選が四・九二ポイント減の六六・五七%、東京都の区長選が〇・八〇ポイント減の四四・五一%、同区議選が一・二八ポイント減の四三・二三%という数字である。
 こうした全般的な選挙への無関心・忌避のムードは大震災の影響と二〇〇九年に燃え広がった国政レベルでの「政権交代」への熱気が、民主党政権の無残な体たらくと保守政治への全般的回帰、そして終わることなき党内抗争によって急速に失われ、ついに民主党への支持率が自民党を大きく下回ったことと関連している。この中で、自民党から離反を見せ始めていた旧来の業界・地域の利益団体を自民党が再度掘り起こし、ある程度巻き返しに成功したことが、選挙結果に示されている。
 民主党は東京都で自民党との実質上の対決となった八つの市区長選で推薦した六人が全敗した。二年前の東京都議選で民主党が大勝し、政権交代のさきがけとなった情勢と比べると完全な再逆転状況である。二九三の市議選で民主党が立てた公認候補の四八七人のうち当選は三八九人で当選率は八〇%。前回の九二%を大きく下回った。他方自民党は五五〇人の公認候補のうち五一四人が当選し当選率は九三%。前回の八九%を上回った。ここにも自民党が伝統的保守基盤を、再度必死に固め直したことが示されている。

脱原発運動の
広がりの中で
 昨年の参院選で躍進したみんなの党は、有力国会議員の地盤である栃木、神奈川、そして東京都江東区などで議席を拡大したものの、それ以外の選挙区では前評判とは異なり落選が目立った。また二月の愛知県のトリプル選挙(知事選、名古屋市長選、名古屋市議会リコール)で圧勝し、地方選前半の愛知県議選も第一勢力となった河村名古屋市長の「減税日本」は四月二四日の衆議院愛知六区補選で自民党候補に完敗したのをはじめ、公認候補を立てた三市長選(静岡市、神奈川県平塚市、愛知県田原市)でも全敗した。
 こうした結果は、議員定数削減・公務員削減・給与カット・民営化の新自由主義的な「変革」のプログラム自身が、大震災がもたらした社会的・経済的危機の深化と人びとの不安の高まりの中で、人びとを獲得し得ていない現実を示すものである。
 共産党、社民党もまた大きく後退した。共産党は四月二四日の自治体選挙後半戦において一般市議選で一一五議席、東京の区議選で九議席、町村議選で三四議席、計一五八議席を減らす敗北となった。得票数も前回比八七・七%と後退した。全体としての党勢の衰退・高齢化が敗北の最大の要因であり、この点は社民党もまた同じである。民主党への有権者の幻滅は、共産・社民の伝統的革新勢力からの離反に歯止めがかからない状況としても現れている。
 こうした中で、各地の市民派候補の結果は一様ではなかった。一九八〇年代から九〇年代にかけて地域政党として大きく注目された生活クラブ生協を母体とする生活者ネットは、とりわけ神奈川で「みんなの党」の躍進を主要な要因として大きく後退した。本紙で支援を呼びかけた静岡県三島市議選に立候補した堀考信さんは惜しくも一七票差で次点となり再選を果たすことができなかった。
 「みどりの未来」の「エコフェア宣言」に賛同した候補をはじめ、各地の無所属市民派も健闘したが、現職の落選もあった。その要因は地域によって一様ではないが、東京の世田谷区長選で前社民党衆院議員の保坂展人さんが激戦を制して当選したことに示されるように鮮明な「脱原発」の主張が、人びとの注目を集める切り口になった例も見られる。新潟県議選柏崎選挙区で告示当日の午後に立候補届を提出した原発反対運動のリーダーで元刈羽村議の武本和幸さんが定数二の選挙区で当選まであと一歩というところにまで健闘した。
 あらためて統一自治体選の結果について討論を深めよう。人びとの生命と生活を奪った東日本大震災と、収束のメドがたたず放射能被害を拡大しつづける福島原発の惨事は、政治と社会・経済のあり方を根底的に変革する方向性について人々が否応なく意識せざるをえない局面の端緒を切り開いている。脱原発運動への人びとの参加、「復興」をめぐる論議は、その具体的な攻防戦である。
貧困・格差・環境破壊、戦争と民主主義・権利剥奪をもたらすこのシステムを変革する運動と政治勢力のための闘いへ。   (純)

JAL客室乗務員不当解雇裁判報告集会

異常な職場是正のために一刻
も早い復職を 現役も発言

 四月二七日、JAL客室乗務員七二人の不当解雇撤回裁判の東京地裁第二回審理が行われ、支援にかけつけた多くの傍聴者が見守る中、原告の桑原佳子さん、原告代理人の堀浩介弁護士が証言した。開廷に先立って午前九時過からは、全労連、全労協などの支援と当該の労働者二〇〇人以上が裁判所前に結集、通りを行き交う人たちに不当解雇撤回を訴えた。
 三月一一日に始まった審理は、すでに第三回が五月二十五日、第四回が七月四日と設定され、急ピッチで進行している。乗員原告団(八一人)の場合も同様であり、第一回が三月三日、第二回四月一八日と進み、第三回は五月二三日、第四回は六月二七日と確定している。この進行については、裁判後に開かれた報告集会で山口主任弁護人から、早期職場復帰という闘いの要求に沿うものとの評価が示された。そして山口弁護人はその観点から、闘いはすでに山場にさしかかっている、その認識の下に運動の圧力をより一層高めてほしい、と呼びかけた。
 この報告集会は、早朝の宣伝行動から審理を含んで約二時間をおき場所もかなりの距離を移して行われたものだったが、ここにも一八〇人を超える参加があった。集会では最初にこの日の二人の証人から証言の趣旨が報告された。その中で桑原さんからは、さまざまな事情から原告になれなかった人の思いを今後とも背負っていきたいとの決意が語られた。連帯発言は、新聞労連に結集して不当解雇と闘っているブルームバーグ通信社(この会社の社長は現ニューヨーク市長)の松井記者。経済記者である松井さんはJALを担当したことを明かした上で、増資に関する批判的記事を書いたところ即座にJALの広報から苦情が入ったと自身の経験を語り、批判を許さないJALの体質をまずやり玉に挙げた。その上で取材を通した認識から、JAL破綻の大きい要因として各方面からのJALに対する「たかり」を指摘、たかった方が責任をとるべき、と強調した。
 この後、いい機会だからとして、会場からの率直な発言が求められ、即座に何人もが発言を求めた。客室乗務員、機長、間接部門など、多くが現役のJAL社員だった。不条理なことがまかり通ることへの怒り、辞めたいともらす人が多いとの職場への不安が次々に出てくる。何人かのまだ若い客室乗務員も発言。今月収十七万円だとの悲痛な訴えには、さすがに驚きのざわめきが会場に広がった。あるいは、機内におけるオピニオンリーダーが奪われ異常な環境の中で飛んでいると、それが引き起こすものへの不安と危機感が訴えられ、その是正のためにも一刻も早く職場に戻ってほしいと痛切な願いが語られた。
 この集会でも触れられたが、稲森会長は整理解雇は経営上必要なことではなかったなどと公然と語っている。これ一つでも、現在の日本航空がある種異常な状況にあることを物語る。それは空の安全をも直接脅かすものであり、その点でも不当解雇を撤回させる闘いはますます重要なものとなっている。一層の共同の強化は急務だ。今後とも共同した行動の呼びかけに積極的に応えよう。 (谷)
 

コラム

今文明ハ虚偽虚飾なり


 「真の文明ハ山を荒らさず、川を荒らさず、村を破らず、人を殺さゞるべし。古来の文明を野蛮二回らす。今文明ハ虚偽虚飾なり、私慾なり、露骨的強盗なり」
 これは足尾鉱毒事件被害民を救うために、天皇直訴を決行した明治の政治家田中正造が遺した日記の一文である。日記が書かれたのは一九一二(明治四四)年六月一二日。七一歳で没する前年のことだった。
 晩年の正造は、鉱毒被害により廃村(一九〇六〈明治三九〉年)となった谷中村に入り、一九○七(明治四〇)年六月に強行された栃木県による強制破壊後も、仮小屋を建て残留民とともに居住。残留民の強制立ち退きを狙う河川法準用告示後は、「谷中村復活」と「渡良瀬川改修反対」を唱え、その先頭に立った。
 一九一一(明治四四)年四月七日、政府による「貧民救済」と称した移民政策により鉱毒被害地の旧谷中村や周辺町村六六戸二一三人(大人一五〇人、子ども六三人)は、第一次栃木県北海道移住団としてオホーツク海沿岸のサロマ湖の畔、佐呂間に向かった。出発にあたり吉屋下都賀郡長は、「極力開墾に励んで、故郷へ錦を飾るのではなく、北海の野に錦を飾れ」と激励。正造はこの北海道移住に対し、「谷中村の被害民を北海道に移住させる工作は、闘っている残留民との絆を引き裂く『政府の姦策』だとして、強く批判した(『谷中村村長茂呂近助』谷中村と茂呂近助を語る会編)。
 しかし、移住団を待ちかまえていたものは、やせた極寒の大地だった。「生木を切るとノコギリはすぐ歯が駄目になる。土質は粘土質で石ころが多くクワは歯こぼれしてしまう」と開墾の厳しさを記している(前掲書)。厳しい生活から離農者が続出し、一九一四(大正三)年には当初の半分以下へと激減。栃木地区に電気が通じたのはその三四年後、一九四八(昭和二三)年のことだった。このことからもどれほどの北辺の地だったかがうかがい知れる。
 足尾鉱毒事件に端を発した谷中村廃村、強制破壊、北海道移住と続く一連の動きは、まさしく富国強兵殖産興業政策を背景に鉱毒事件の早期幕引きを図る政府の策謀といってよい。「北海の野に錦を飾れ」とは、まったくの詭弁だった。
 さて、前述した足尾鉱毒事件から始まる一連の経緯をトレースすると、田中正造没後一〇〇年の今日、当時とまったく同様な事件と策謀が見え隠れする。東日本大震災による福島原発事故と周辺住民の強制避難がそれである。「真の文明ハ山を荒らさず」の文言とまったく同じ状況が、現在進行していると言ってよい。
 かつて近代日本の牽引車であった足尾銅山と、今日ある原子力発電所は互いに国力の根幹として不可欠な存在とされてきた。原発は地震列島の日本にあって、度重なる事故やさまざまな警告にもかかわらず「安全神話」のもと、正造の言う「虚偽虚飾」「私欲」「強盗」行為を文字通り繰り返してきたといえる。
 これを機会に正造思想を今こそ改めて学び返したい。      (雨)

 


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