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    かけはし2011.5.23号

資本主義に必至のモデル転換を革命的転換へ

シリア

アサドの抑圧と公然たる抵抗

ユセフ・クハアリル

 反独裁のアラブ革命の波は遂にシリアに達した。このシリアは、バース党による民衆抑圧がもっとも頑強に築かれた国と言われている。ために、アラブ革命が明確に姿を見せ始めた今年初頭でも、いわゆるアラブ専門家の多くも、シリアには波及しない、とコメントしていた。そのシリアで今、アサド体制は深刻な危機に直面させられている。以下は、この間の闘いの発展について具体的に伝えている(「かけはし」編集部)

 シリア全土をおおうまでになった抗議の高まり、そしてブシャル・アルアサド大統領の政権による残虐な弾圧について、ユセフ・クハアリルが報告する。

民主主義を求める抗議の大波

 「偉大な金曜日」――聖金曜日はアラブ世界ではこのように知られている――、モスクと教会双方での祈りに続いて、国中いたるところでは、厳重な警備態勢と町々に通じる道路の封鎖をものともせず、何万人ものシリア人が通りに繰り出した。
 しかしこれら抗議を示した人びとは、再度殺人的な暴力に遭遇した――この日以前この国で半世紀も続いてきた非常事態法の長く待ち望まれた凍結、および他の一連の改革があったにもかかわらず――。報告によれば、非武装の平和的なデモ参加者の一〇〇人を超える人びとが、流血の弾圧の中アサド政権の治安部隊によって殺害された。
 補足すれば、四月二四日早朝、治安部隊が反政権活動家の住宅を襲い、そこで逮捕が行われた。逮捕者の数は分かっていない。ロンドンに拠点を置く、シリア人権監視団によれば、逮捕者数は何十という数字になった。
 シリアにおける大衆的抗議はダラア市で三月初めに始まった。それは、チュニジアとエジプトの革命のスローガンをもじって反政権的な落書きを書いたかどで十代の若者と少年たちが警察により逮捕され拷問された後に起きた。
 最初は、抗議は押さえ込まれるものと見えた。しかしながら、その動きには他の市や町が合流し、その抗議は民族的境界と宗教的境界を越える支持を集めた。政権は抑圧と改革の約束を組み合わせることで支配を取り戻したと考えたが、その後四月一五日の金曜日に起きた巨大な決起が政権を揺り動かした。
 次の週、首都ダマスカスでは、アラブ革命の共通の特徴となったもの、つまり金曜日の正午の祈り後にさらにふくれあがる決起に対する準備として、早くも水曜日には大量の治安部隊の展開が始まった。当日には、あらゆる抗議が、あるいはある程度人が集まり始めただけでも、即座に催涙弾と実弾の攻撃を受けた。それにもかかわらず、ダマスカスと周辺の町々には、何千という民衆がなお登場することができた。
 三月の十代の若者と少年たちの逮捕と拷問の地である南部のダラア市では、デモが続いた。近くのホウランの村々でもまた、無視できない抗議が、そして治安機関の弾圧があった。中でもっとも注目されるのはイズラアであり、そこでは少なくとも一〇人の民衆が殺害され、そこには七歳の子どもが含まれていた。
 ホムス市もまた、もっとも怒りのこもったデモのいくつかがあった都市だ。それは、今自由広場と呼ばれているところで行われた平和な座り込みに向けられた政権の実弾攻撃に対する反応だった。シリアの政権と公認報道機関は、手ひどい弾圧に侮辱を重ねるように、デモをサラフィストと特徴づけることでこの殺人行為を正当化した。ここに挙げられたサラフィストとは、ムスリム以外だけではなくより穏健なムスリムにも不寛容を向ける、として知られたイスラム原理主義潮流のメンバーを指す。
 いくつかのニュースソースによれば、市民たちは、政権の部隊による攻撃から隣人を守るために委員会を組織した。しかしそれらがあっても、少なくとも八人の人びとが殺害された。ある種急速な発展の中で、何人かの目撃者が以下のことを報告している。つまり、略奪を行い国家治安部隊を挑発することで抗議に立ち上がった人びとのイメージを汚すために送り込まれたサラフィストを装う治安要員を見た、というものだ。
 ホムスの北では、アルラスタンの女性と子どもたちが、電力、水、あるいは通信を何日も断ち切られ包囲下に置かれた近くのタルビセ市と連帯し立ち上がった。
 しかしすべての民衆が抑圧を受けたわけではなかった。沿岸部のタルトウスやバニヤスのようないくつかの地域では、人びとは政権の干渉を受けることなく行進しデモを行うことができた。クァミシュリでは、腐敗に反対するアラブ人、アッシリア人、クルド人=\―シリアにおける闘争を特徴づけてきた連帯と統一の精神を留める重要な提示――という横断幕の下に、およそ六〇〇〇人が共に行進した。

もはや体制の終焉が要求に


 しかし今では多くの人に知られることとなった一巡の中で、治安部隊は次の日銃火を開き、金曜日の犠牲者を弔っていた少なくとも一二人の人びとを殺害した。二日間に一二〇人の殺害という昨週末の弾圧のひどさは、アサド政権からの最初の辞任を導いた。ここでダラア選出の二人の議員が身を引いた。「これらの不実な攻撃から私の民衆の息子たちを守ることができないならば、私が人民議会に席を占める意味はない」、議員の一人ナセル・ハリリはこのようにアルジャジーラに語った。
 アサドと彼の政権は、恐るべき暴力をふるいつつ一方でまた変革を行うと約束することで、反乱のうねりを切り抜けようと試みている最中だ。もっとも待ち望まれていた改革は、非常事態≠フ期間に政府に一時的な権力を与える非常事態法の凍結をもって、四月二一日にやって来た。この一時的な*@律は、実際は過去五十年間続いてきた。それは国家に、市民を拘留し、デモを禁止し、メディアを支配し、私的な通信を盗聴し、人びとを尋問する、そのようなとんでもなく広がる権力を与えている。
 しかし先に見た政権の動きは高度に条件付きだ。何よりも、非常事態は凍結されたとしても、非常事態法は依然法令集上にあり、いつでも再び作動可能だ。さらにそれに代わって、一つの永続法がデモを厳しく制限する形で実施に移された。抗議する権利は公認されたとはいえ、この新法は、少なくともデモの五日前までに内務省からの許可を得ることをデモ計画者に求めている。そしてこの省は、求めを拒否するか、あるいは日付け、時間、場所、デモ継続時間、デモコースを変更する権限をもっているのだ。その上この法律の条文は、どのようなデモも集会も、事前に当局の許可を受けていないものは暴動≠ニ見なされ得ることを、暗示しているように見える。不吉な兆候として、デモの許可を求めた最初の請願者は数時間の間拘留された。
 抗議行動を組織するグループのネットワークであるシリア地域調整委員会は、金曜日の抗議行動に先立って、統一の軸になる要求を明確にする最初の声明を発した。委員会が求めたものは、平和なデモに対する殺害、拷問、逮捕、暴力に終止符を打つことであり、さらに、あらゆる政治犯と良心の囚人の牢獄からの解放だ。それはさらに、大統領任期を制限し、議会の権限を拡大し、憲法八条を撤廃する、そのような憲法改正をも要求した。最後に挙げた条文は、バース党をシリアにおける唯一の支配党と認めている。
 五〇年も続いた独裁制という背景の中では深く急進的だとはいえ、表面的にはとても急進的とは言えないこれらの要求から分かるように、体制は、意味のある改革を行うことには無能であることを、その一方自身の市民を殺害することにはまさに有能であることを、自ら明らかにすることとなった。これまで政権からの譲歩が何一つ示されなかったことは、民主主義を支持する運動の火に油を注ぎつつある。
 体制の傲慢さは、抗議に立ち上がった人びとの要求のかさ上げに帰着することとなった。実際その要求は、小規模な改革とより多くの自由という点から始まったのだ。シリアでは革命的結論に向かう意識の移行が進行中だ。それは、チュニジアやエジプトで達成された転換点にまさに到達しなければならない。とはいえその軌跡は間違えようもない。都市に次ぐ都市で、町に次ぐ町で、抗議の人びとは体制の終焉を求めている。
▼筆者は、アメリカの「国際社会主義組織」のウェブサイト機関紙、ソーシャリストワーカーに寄稿している。
(「インターナショナルビューポイント」二〇一一年五月号) 

 

コラム
小沢の復権?

 去る四月一三日、「小沢氏の見解」が公表された。メディアは倒閣運動の再開と評している。その主要部分を見てみよう。「…地震、津波による被災者の方々への対応は遅々として進んでいません。また、福島第一原子力発電所事故の初動対応の遅れをはじめ菅総理自身のリーダーシップの見えないままの無責任な内閣の対応は、今後、更なる災禍を招きかねない状況となっています。政治家が最後に責任をとる覚悟を持てないのであれば、何のための政権交代だったのか。統一地方選挙の前半戦での大敗は、国民からの菅政権への警告であると強く受け止めています」
 本来は、鳩山元首相との共同声明の予定だったが、土壇場で、鳩山が豹変したらしい。小沢は、時を逸することはできないと判断したようである。民主党内では、「岩手出身の小沢氏を復興に使うべきだ」として小沢の党員資格停止を凍結する「恩赦論」も浮上していると報じられている。加えて、小沢直系の「一心会」は倒閣を決議したという。
 なぜ小沢は動いたのか。東日本大震災は、営々と築き上げてきた「小沢王国」をも壊滅させた。小沢の力の源泉である「王国」の再構築は待ったなしの急務だ。間違っても、自民党に土足で踏み込まれたのではたまったものではない。そのためには、膨大な規模になるであろう復興事業の中軸を形成する公共事業の配分権を一手に握らなければならない。
 そして、その中に、政治資金規正法の網の目をかいくぐって、巧妙に資金源を埋め込む必要がある。まさに「王国」は、単なる復旧ではなく、焼け太りをして復興しなければならないのである。これが第一の理由だ。第二は、このことを実現するためには、民主党内で、幹事長と選対委員長を小沢派+鳩山派が独占する必要がある。民主党財政と選挙での「公認権」を背景に、反対派を削ぎ落とし、絶対的な多数派を形成することである。折しも、統一地方選での民主党の大敗は、菅―岡田ラインを退陣に追い込む好機である。まさに時を逸してはならないのだ。
 菅内閣のイニシアチブの下で、復興事業が押し進められたならば、小沢の入り込む余地がなくなるであろうことは間違いがない。小沢「小国」では意味がないのだ。
 旧「田中派」的政治の焼直しでしかない小沢の「復活」は、大震災からの復興のために努力している心ある人々の思いを踏みにじることになるだろう。自民党、公明党、その他のブルジョア小政党の政治も小沢と大差はない。
 大震災からの復興には二つの柱が重要だ。一つは、「人間の復興」を基本に据えることである。いくら立派なコンクリートの道路やビルを造っても、人々が、この町が自分の「終の住処」だと実感出来なければ、それは本当の復興ではない。人間生活のあらゆる問題に関する自決権に基礎を置いた住民自治の新たな創造が必要不可欠だ。
 二つは、ありとあらゆるセイフティネットを社会の隅々にまで張りめぐらせることである。憲法第二五条の「健康にして文化的な最低限度の生活」を保障するために、人々の現実の苦しみに寄り添い、その中から新たなセイフティネットを生み出していくために闘うことだ。
 阪神・淡路大震災からの復興の過程では、この二つとも切り捨てられてきた。今なお後を断たない「孤独死」の背景にはこのことがある。 (灘)


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