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    かけはし2011.5.23号

エネルギー多消費社会の強制にNO!

4・24〜26「原発なしで暮らしたい100万人アクションinヒロシマ」

核兵器も原発もなくそう福島・広島・上関を結ぶ行動


ライブで反原発
のメッセージ
 四月二四日(日)、広島市内のハノーバー庭園で、「原発なしで暮らしたい一〇〇万人アクションinヒロシマ」が開催された。主催者は「原発なしで暮らしたい人々」。午前の部はライブ中心。司会は、らんぼうと堀永州平さん。絵美さんと石岡敬三さんが開会のあいさつ。集会中の電源が太陽電池・ソーラーパネルと廃食油であることが紹介された。被災地支援として、東日本大震災「つながりぬくもりプロジェクト」に義援金を送ることが訴えられた。
 ミュージシャンは、SAYAN、NOB、EGO COLO、隼人、タケル、en、三宅洋平。脱原発のメッセージを思い思いに表現した。
 アピールは、上関原発反対を訴えて山口県庁でハンガーストライキを行った青年の金ちゃん、ピースマザーウォークの呼びかけ人の徳岡真紀さん。

思いを東北の
被災者に届ける
 午後二時メイン集会が開催。最初に、東日本大震災被害者に心を寄せるために沈黙(黙祷)した。いろんな気持ちを持って集まってきた皆の願いを福島・東北に集めて、今まだ燻り続ける原発に今までお疲れ様、ゆっくり休んでという気持ちを込めて。
 最初の発言者は、「上関・田の浦を守りたい」と現地に移住し生活しているジャーナリストの東条雅之さん。海上埋め立て工事を阻止し続けている虹のカヤック隊のメンバーでもある。中国電力の新規原発の建設阻止を訴えた。
 次の発言者は、入市被爆した豊永恵三郎さん。豊永さんは、一九七〇年代から在韓被爆者救援に奔走してこられた在外被爆者支援運動の中心の方であり、修学旅行生徒らに年間六〇回以上の証言をされている。反原発の姿勢を鮮明にしてきた広島県原水禁の隊列の中でも語り部として原発に触れる被爆者は少ない中、豊永さんは、収束しない福島原発事故を契機に明確な脱原発宣言をこの集会でされた。
 シスターの山本紀久代さんは、自らも仙台のカトリック被災地支援センターに駆け付け、その思いを語りつつ、上関原発に反対するための歌(「愛は勝つ」の替え歌)を披露した。
 石岡敬三さんは、「つながりぬくもりプロジェクト」について説明した。
 田村順玄さんと共に岩国から参加した「愛宕山を守る会」代表の岡村寛さんは、愛宕山の更地となっている造成地を、原子力空母艦載機部隊の米兵のための住宅として建設させてはならないと訴え、このたびの被災地住民のための仮設・恒久住宅用地として活用するように山口県に提案し運動方針化したことを報告した。

被爆者治療経験
と原発被災者
 次に、被爆医師であり、六〇〇〇人の被爆者治療をしてきた九四歳の日本被団協原爆被爆者中央相談所元理事長の肥田舜太郎さんは感銘深い話をされた。
 「原子爆弾は放射線のエネルギーをもとにした爆弾です。どんな兵器とも全く違う、その被害を受けた人は、火傷をしたり、強い爆風で吹き飛ばされたりする被害の他に、放射線が人間の体をいろいろと壊します。直接爆発した下にいた人は、頭の毛が抜けたり、血を吐いたり、体に、他の病気では出ない紫色の斑点が出たりという特殊な五つの症状で、頭の上で爆発した放射線を浴びて直後に死にました。ところが、放射線は、爆発したその町に残っていて、ひとつは地面の上に降り積もっていた放射線の粒子、粒を、人間がさわったり、歩いて飛んできた埃として吸い込む。また水源地が侵されて、水の中にたくさんあるのを飲む。それからあのキノコ雲は、爆発のときに酸化しなかった、生のままのプルトニウムとかウラニウムという放射線の粒が、あの中にいっぱい詰まっていて、それが一度成層圏まで舞い上がります。しかし小さな粒でも重みがあるので降ってくる。あとから親父を探しに町に入った、四日後に妹や弟の様子を見に入った。自分は爆発とは何の関係もない人は、後から町に入ったために、広島でも長崎でも、今の医学では診断もできない不思議な病気が起こって大変苦しみました。
 落としたアメリカは直接ピカを浴びて火傷をしたり、大けがをした人たちが、強い放射線で殺されることは隠すことができないのでそのまま認めた。ところが後から町に入った人が、今の医学ではわからないいろんな病気で苦しんだということを聞いても、それはその患者やその患者を診た医者が、原爆のことを悪く言うためにデマをとばしているんだと言いました。
 アメリカが日本に原爆を投下したことも大変な害悪ですが、それにも増して戦争が終わって、自分の落とした爆弾で、医学で治しようもない大変な病気を負っている被爆者に、生きる道を閉ざすような大変悪いことをアメリカはしました。それは自分だけが持っている原爆という新しい爆弾の秘密が、よその国に漏れることを恐れたからです。
 私が皆さんに言いたいのは、東北の福島の原発が事故を起こして、たくさんの人が家にも帰れない目にあっています。原発から漏れてくる放射線も、原子爆弾で浴びる放射線も放射線は同じもの。全然違わない。プルトニウムとウランという二つの放射性分子を燃料にして、熱をつくって電気を起こしている。事故を起こしてもこれを止められない。日本の東北という部分が破壊されてしまった。
 私たちは『核兵器はもう二度とつくってもいけない、使ってもいけない』と言います。でもこうなってみれば、原発だって許すことはできない。私たちの仲間が、何百万人という人が、今、東北で苦しんでいる。あの姿が皆さんの明日ではないということはだれも言い切れない。だから放射線というものは、まだ人間が自由にコントロールできないエネルギーなのだから、掘り出すこともやめる。使うこともやめる。人類が全体で長生きするためには、世界中がこれをやらなくてはならない」。
 ひときわ大きな拍手が起こった。

大地・水・空気
が奪われた福島
 最後の発言者は、「福島」からの報告として、大塚愛さん(ハイロアクション福島原発40年)。
 「三月一一日まで、福島県双葉郡川内村に住んでいた。福島第一原発から三〇キロ圏内。岡山県出身で自給自足の生活をしようと一九九九年から選んだ農場がたまたまそこであった。電気、電話、水道、ガスが通っていない山の中で小屋を作り、田んぼや畑を育てた。大工になりたくて修業をして設計士の夫と出会い二〇坪の木と土壁の家を作った。原発城下町の中でチェルノブイリの教訓を忘れずに生活した。原発タブーであったが人々は危険性を肌で感じていた。原発に働きに行く人が亡くなるから。そんな中三月一一日がやってきた。心配していたことが起こってしまった。地震は震度六強であったがうまく揺れてくれて家にあまり被害がなかった。割れた物を片付け、もともとライフラインがないから井戸から水を汲み釜でご飯を炊きいつも通りの生活を再開した。ここまでが川内村で暮らした時間でした。
 暗くなった頃のニュースで冷却水ストップと流れた。ほんのちょっとの情報だった。大きなことなのに。何か起こっているんだと思った。一、二時間後、三キロ圏内避難指示のニュースが出た。五歳と一歳の子どもを連れて夫と家を出た。四〇キロ離れたところで一晩を明かし、次の日一〇〇キロ離れて様子を見ていた。自分の好きな場所は大丈夫と思っていたが夫が離れようと言ってくれた。私が住んでたところにも放射能は来たのだと悲しくて認めて実家の岡山に帰ろうと決めて帰って来た。三月一三日岡山に着いた。
 私たちの命を支えるものはこの大地と水と空気。それを福島の人たちは奪われてしまった。この教訓からエネルギーシフトへ、転換に向けて人がつながっていきたい。廃炉をめざしてそれぞれがやれることをやっていこうというハイロアクションが去年始まったとき、私はジョン・レノンのイマジンをフラダンスで踊る=『アロハでハイロ』と名付けて福島の仲間と練習していた。後で皆さんと一緒に踊りたい」。
 次に下関からフラダンスを踊る方が二人紹介され、「故郷」の歌に合わせて踊られた。そして、圧巻の「イマジン」の曲に合わせて大塚さんの音頭で参加者全体で踊った。

ピースウォークに
一五〇〇人が参加
 皆が福島への気持ちを一つにしてピースウォークに出発した。先頭の隊列はピースマザーウォークの親子連れだ。集会中は、ピースキッズエリアに張り付いていた人がほとんどであったが壮観であった。初めてのデモ参加者がほとんど。
 二番目のグループは、山口県上関反対運動に結集する若者たちの音楽を中心とした隊列。三番目がシュプレヒコールの隊列。集会参加者は一〇〇〇人。ウォークの参加者は一五〇〇人と長蛇の列であった。解散地点の原爆ドーム前に到着し、最後に、森瀧春子さんがイラク戦争後の劣化ウラン弾被害調査の経験を踏まえ、今後も内部被曝の問題に注視することを訴えた。二日後の二六日にこの地点に再度集まることを確認して解散した。

上関原発をつくるな
中電本社行動に千人

 四月二六日正午、原爆ドーム前にはチェルノブイリ原発事故二五周年のこの日に脱原発を訴えるためのデモに参加するために平日にもかかわらず、福岡からのバス一台での参加をはじめ各地から三〇〇人が結集した。
 司会は石岡真由海さん。最初に上関原発に反対する地元の運動拠点、祝島から五人が紹介された。ラビラビと三宅洋平さんの歌、虹のカヤック隊の原康司さん、写真家の福島菊次郎さん、玄海原発に反対している人がアピールした。三宅さんの音頭で原爆ドームにむかって皆が手を取り合って沈黙(黙祷)した後、デモが一時に出発した。
 デモ隊は、まず経産省の出先機関、中国経産局のある合同庁舎に向かった。敷地内に五〇〇人が整然と進入し待機し休憩した。その間に申入れ行動を一五人が行った。敷地外に出ると“いい仕事しようぜ経産省”のラップ調のコールが始まり、文科省の出先機関に対しては二〇ミリシーベルトを撤回せよのシュプレヒコールをたたきつけた。次にデモ隊は、広島県庁、広島市役所に行き、申入れ行動を見守った。島根原発や四国電力の伊方原発は広島市民にとっては、重大な問題であることを訴えた。
 午後四時中国電力本社前に到着した。一〇〇〇人の隊列になっていた。デモ隊は本社を一周し正面玄関入り口に張り付き、抗議の声が圧倒した。日曜日にはいなかった機動隊がこの日はデモ隊に張り付き中国電力前を固めた。警察と中電と交渉し中電敷地内への座り込みを整然と行い、四時半に申入れ行動を行った。読み上げはプルトニウム・アクション・ヒロシマの西塔文子さん。上関原発のための埋め立て工事阻止行動での中電側の態度を糾弾するくだりでは、参加者の怒りの声が席巻した。島根原発2号機の運転を停止せよ。上関原発計画を白紙撤回せよ。とうとうと三〇分読み上げて手渡した。
 中電担当者が六、七人なら社内で対応するというので七人が社内会議室に入った。目標は原子炉設置許可申請のあと昨年一二月から行われ三・一一以降も続いている追加地質調査活動の中止を求めることであった。工事は海域も陸域も完全にストップしているにもかかわらず、この推進のための地質調査、発破作業は続いているのだ。代表の七名が発破作業の中止を求めて交渉に入ったのが五時。終了したのは八時半だ。
 その間、本社正面玄関ではキャンドルナイトが行われ、昼間の申入れ行動の報告が行われていた。キャンドルナイト終了後も一〇〇人以上が残り、交渉団を待った。交渉団の報告によると発破作業継続可否の回答を文書で四月二八日に中電が提出するということであった。原発に関し文書回答を拒否してきた中電が譲歩したのはここまでであった。二日間の発破作業中止も勝ち取ることはできなかった。


中国電力は
ゼロ回答!
 二日後の四月二八日、中電本社に出向いた八人への回答文書は、安全安心の原発建設のための追加地質調査活動の継続というゼロ回答であった。山口県、上関町の申し出による地元住民の不安感対策のために準備工事は一時中断しているものの推進のための地質調査は続けるという。世論を見ながら、いつでも工事再開を狙っているというのが本音だ。引き続き、より大きな脱原発世論の形成と推進勢力の強力な巻き返しをけん制するような大きなデモを各地で巻き起こしていこう。 
 (寄稿:原発なしで暮らしたい人々・久野成章)


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