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    かけはし2011.5.16号

大森林火災が人々に社会の根源的変質を暴露

ロシア グローバルな危機の中のもう一つの矛盾(上)

技術・工業大国化成功故の
世界経済への植民地型統合

ボリス・カガルリツキー

 左翼の複数の有力な世界的アナリストの呼びかけによりニューデリーで開催された「グローバルな危機と覇権主義のジレンマ」に関する重要な国際会議の機会をとらえて、ボリス・カガルリツキーとのインタビューが行われた。このインタビューは現在のロシア社会で現実に起こっていることに対する深い洞察を与えてくれるだけでなく、現在のグローバルな危機のロシアの学者による分析と展望を示している。以下はインタビューの抜粋である。

政府の解体の程度が広く露見

―― 新自由主義の受容の結果として、ロシアでは根源的な変化が起こりました。その影響はロシアの印象全体が変わるほどで、社会政治的側面や経済的側面だけでなく、社会のあらゆる側面に及んでいます。そのもっとも劇的な例が、二〇一〇年夏に大規模な惨禍をもたらした森林火災です。八月だけで五五四件、一九万ヘクタール以上に及ぶ火災が発生したと報告されています。望むらくは、インドではこの劇的な例を教訓にし、国家が完全に撤退し何もかも市場にゆだねる危険に対する警告として受け取ってほしいですね。

 夏の森林火災は、真の意味で、モラルと文化の転換点でした。森林火災は、ロシアが過去一七〜二〇年間におちいった恒久的な惨状を暴露しました。これらの火災を純粋の自然災害と表現するのはまったく誤りです。もちろん、政府はそう言いくるめようとしました。興味深いことに、ロシアではだれもそんなことを信じませんでした。最終的には皮肉なことに、政府でさえこれが人災であったことを認めました。火災は、地球温暖化、気候変動と気温上昇の結果ではありません。森林火災はいたるところで一般的に発生しますが、それがこのように大規模に燃え広がり制御不能になったのは、民営化のせいだったのです。新しい森林法の形をとった新自由主義が、ロシアの森林資源の民営化をもたらしました。これは、国や国家機関が森林に介入できないことを意味したのです。
 森林民営化の結果として、このような状況に対処するためにかつて存在した構造は解体され、以前に存在していた管理機構、技術、機器はもはや利用できなくなりました。さらに悪いことに、現在の民営化の状況の中では、国の支配下にある消防隊や消防機関は、民間所有者の要請がなければ森林に立ち入ることができません。したがって、森林火災はいったん発生したら、それは制御されないし、制御できない状況になったのです。これは国際的なメディアによる森林火災報道でまったく触れられなかった事実です。
 火災から二〜三キロメートル圏内の村全体が壊滅しました。人々はまっしぐらに逃げ、一部の人々は国境を超えてベラルーシ側に逃げ込みました。人々はそこで、気候は同じで気温も同じであるのに森林火災はなく、火事が起こったとしても、ただちに、ほとんど数分で消し止められることを発見しました。人々が知ったのは、旧ソビエト体制の森林国家管理制度が維持されているからだということでした。これは、森林が定期的に監視され、国家森林サービスの要員によって管理され、このような災害を防止するために油断なく見張られていることを意味します。
 森林火災の状況を写した有名な衛星写真があります。東側ではいたるところに火災が燃え広がっており、西側には火災はありません。国境をくっきりと見て取ることができ、ロシア側で森林火災が猛烈に拡大しているのです。ロシアのエリートが支配する国家の完全な破産と地方レベルにおける政府の解体の程度をロシアの公衆に明らかにした点でこれは非常に重要でした。
 地方レベルにおける腐敗の広がりと不服従には中央政府でさえショックを受けました。プーチンは破壊された村を実際に訪問し、腐敗の横行を目の当たりにし、腐敗を減らすために再建の進行をビデオカメラやウェブカメラで記録することを命令し、地方当局に与えられた資金がこれらの村の再建に実際に使用されることを確保しようとしました。続いて何が起こったかはご存知の通りです。ウェブカメラやビデオカメラはほとんど盗まれました。これが物語の結末です。森林火災も、状況をコントロールしようとする試みも、巨大なスキャンダルになりました。

ソビエト体制成功が導く力学


―― あなたは著書『周辺部の帝国:ロシアと世界システム』の中で、ソビエト体制の崩壊以前から、ペレストロイカ自体の下で、ロシアは単なる原料輸出国に後退し、ロシア経済は原料への依存を純化させたと述べています。この理由は、ペレストロイカに至るまでの数年間に、ソビエト連邦がすでに巨額の負債を抱える国になっていたからですね。

 実際には巨大な負債が転換点でした。多くの人々がペレストロイカが転換点だと思っていますが、私が分析で示そうとしたのは、転換点がもっと早くに、一九六〇年代後半から一九七〇年代前半に起こったということです。一九六〇年代には、社会にとって、指導部にとって、ソビエト社会が根本的な変革を必要としていることが明らかになっていました。私の見解では、皮肉なことに、ソビエト体制は失敗によってではなく成功によって厳しい課題に直面させられることなりました。体制が崩壊と思われている方向に突き進んだのは、民主主義の欠如などのためばかりではなく、実際には成功と成果のためでもあったのです。これは一種の歴史の弁証法です。
 ソビエト体制は、国を急速に発展させて工業化された社会と経済に変えるようにデザインされていました。そして実際に二世代を経ずして、ソビエト社会は、農村的な、農業的な、多くの面で遅れた弱い社会から、途方もない工業大国に変身しました。ちなみに、重要な工業大国となったこの成果は、科学と技術への投資とこの分野における重要な躍進によって実現したとも言えます。
 科学技術の躍進には、興味深いことに、ソビエト地質学の成功も含まれます。これによって、この国が鉱物や原料にいかに富んでいるかを示すことができました。これはまさに、冷戦の情勢下に、旧ソビエト連邦が原料や鉱物資源の入手と供給を優先させなければならなかったことによって起こったことです。一九三〇年代初頭から戦争の時代にかけて、特に一九五〇年代に、膨大な努力が行われ、この国は資源の豊かな国になったのです。
 しかし、これは一九二〇年代と同じような路線で続けることはできませんでした。一九六〇年代後期には、官僚は体制を固めるために保守的な選択を行いました。これにはある種の物質的実現可能性の裏づけが必要でした。状況を一変させたのは一九七三年の危機でした。石油価格が高騰し、西側および世界中で原料需要が高まりました。石油資源に恵まれたソビエト連邦は突然の収入と短期的な繁栄を得ることになり、ソビエト指導部は国内で生産できないものは何でも買うことができると考えるようになりました。たとえば、国防と軍事を除くソビエト科学技術に関しては、政府の政策は、技術に問題があれば、石油と引き換えに外国から買うことでした。社会が消費財の不足になれば、外国から手に入れる、といった調子です。
 この時点での問題は、ソビエト連邦が、かつてそうであった高度の科学的発展を遂げた成功した工業国としてではなく、原料生産国としてグローバルな資本主義経済に統合され始めたと言うことです。これは、半植民地型の統合を意味します。
 私は著書の中で、ロシアの歴史の多くの部分が、帝国主義的エリート自己植民地化であることを指摘しました。エリート自己植民地化時代にソビエト社会が支払った対価は非常に高いものでした。彼らは問題を自覚せずに自然発生的にそれを行ったのです。しかし問題は、この自己植民地化の論理がその独自の構造と展望を発展させ、エリートとその行動様式を作り変えたことでした。
 一九八〇年代末から一九九〇年代初めまでに、エリートたちはグローバルな体制の一部となり、グローバルなブルジョアジーの一部となることを目指すようになり、ソビエト時代の成果の多くを犠牲にしてグローバルなエリートのクラブで良い位置を手に入れることが、エリートの自覚的な努力となりました。あるロシアの政治家は、われわれの夢は「世界」という会社の役員会の一員になることだ、と言っています。

―― ゴルバチョフはそんなエリートの代表だったのですか。

 ゴルバチョフは自分のしていることを自覚していませんでしたが、彼の側近たちは自覚していました。エリツィンは非常によく自覚していました。彼らがゴルバチョフを交代させなければならなかった理由はそこにあります。彼は自然発生的にこの方向にかじを切りましたが、自覚的にではありませんでした。しかし、彼らが犠牲にしなければならなかったのは、ソビエト時代の成果の一部、工業化の多くの成果、超大国の地位だけでなく、ソビエト連邦自体でした。このようにして国は崩壊したのです。

 

工業能力の四〇%が奪われた

―― あなたは著書で崩壊の時期を取り上げています。私が注目したのは一九九一年の崩壊の時期、特にロシア社会の賃金レベルのソビエト時代と比べた突然の劇的な変化です。あなたは著書で、賃金レベルの差のような数字を示しています。そのほかに指摘されている重要なことには科学の世界で起こったことがあります。あなたが以前に言及されたように、ソビエト時代には、科学分野の知識人は、冷戦の制約の中で知的権力、技術革新権力の面で重要な役割を演じていました。一〇年に満たない非常に短い期間中に、二つのタイプの科学知識人が登場し、一つは西側に結びついて特権化し、もう一つは完全に排除され貧困化しました。インドでも多くの類似点が見られます。一九九一年の崩壊についてもう少し詳しく述べてください。

 一九九一年の後、経済の開放にともなって、世界市場が必要としない製品はまったく存在する価値がないという階級的イデオロギー的考え方が広まりました。ある意味では、これを少し拡大すれば、ロシアのエリートのしたことは、世界市場で需要のない人は生きる価値がまったくないと人々に対して言ったようなものでした。これは誇張ではありません。支配的エリートたちは、政府に所属しているか、企業幹部か、オリガルヒ(新興財閥)かにかかわらず、まさにこのように考え、機能したのです。
 それにもかかわらず、それらの商品はそれを使用している人々やそれを生産している人々にとって必要でした。なぜなら、それは雇用を生み出し、その結果発展が生み出されたからです。製品がグローバル・レベルで市場化されなければ、製品が必要であることを意味しません。しかし、経済の完全な開放とあらゆる種類の産業保護の廃止は、多くの工業能力の破壊をもたらしました。
 さらに、市場開放とルーブルの高い為替レートによって多くのことが達成されました。まず、ハイパーインフレが出現し、民衆の貯蓄のほぼ完全な破壊をもたらしましたが、エリートは何の困難にも直面しませんでした。なぜなら、民営化は売却ではなく自分たちの友人への譲渡に基づいていたからです。人民の実際の貯蓄は破壊されましたが、民営化のプロセスには害を与えませんでした。そして、ハイパーインフレは、民営化と市場開放の過程の中で、どん底からの競争の排除をもたらしました。エリートは別にして、人民は最小限の市場開放政策の利点を活用することはできませんでした。市場開放政策の中でさえ、人民は不利な状態に置かれていました。彼らは民衆の貯蓄を一掃した後で、物価を上昇させ、ルーブルの安定化を始めました。これは、資源を蓄積し、資金/資本の蓄積を開始していたものが今や有利な位置についたことを意味します。
 これは、社会の大きな部分を抑圧し、一方でブルジョア的上層階級の新たな登場に都合の良い条件を作り出して、非常に平等主義的であったソビエト社会に比べて社会的にいっそう分化した社会を作り出す意識的な政策でした。しかし、開放市場と過大評価されたルーブルをともなったこの政策の副作用は、工業の競争力を奪い、売ることができるのは世界的な需要のある鉱物や石油のような天然資源だけになることを意味しました。他の資源は損失に直面しました。たとえば、この時期を通じて、炭坑の経営は損失を出し続け、世界銀行はシベリアの炭坑を閉鎖するために五億ドルのクレジットをロシアに供与しました。一九九八年、ルーブル切り下げの直前に、世界銀行はロシアにオーストラリアから石炭を買うように要求しました。ロシアは大きな石炭埋蔵量を持っているにもかかわらず、オーストラリアの方が安かったからです。世界銀行はロシアの炭鉱を閉鎖するために五億ドルのクレジットを供与しました。しかし、ロシアにとって幸いなことに、世界銀行の資金は省庁や政府の一部の人々によって盗まれ、使わなければならないシベリアには一銭も届きませんでした。
 数カ月後に、政府は世界銀行にさらに資金を要求しましたが、世界銀行は今回は資金供給を拒否し、最初に与えたクレジットがどうなったか明らかにするように迫りました。そのとき、ルーブルの崩壊が起こりました。一ドルが六ルーブルであったものが、ルーブル崩壊後は一二ルーブルになり、数カ月後には一ドルが二四〜三〇ルーブルになりました。ちなみに、『モスクワ・タイムズ』紙は多少の誇りをもって、今やルーブルは世界でもっとも速く下落している通貨である、と報じました。崩壊の直後に、人々はロシアの石炭が突然競争力を回復したことを知りました。同じ鉱山、同じ労働者と経営者が、まったく突然に、ルーブル切り下げのおかげで、非常に生産性が高く高収益であることになったのです。
 特定の人々や製品が世界市場で競争力がないと言われた場合、それはその製品や人々の技量や作業方法に関することではなく、その人々とはまったく独立したことなのです。それは、金融機関がどのよう操作しているか、彼らがどのように通貨の交換レートを操っているかによるのです。したがって、ロシア経済は開放市場と金融安定化政策の両方から苦痛をこうむり、大きな損害をこうむりました。ロシアは一九九〇年代の工業能力の四〇%を失いました。この悲惨な数字は、平時において知られている最悪の歴史的大惨事の一つです。さらに悪いことには、失われた工業能力はけっして回復しませんでした。二一世紀の最初の一〇年間は高度成長の成功した一〇年間であったとみなされていますが、工業能力の多くはいまだ回復していません。

支配勢力変遷の客観的性格

―― ロシア資本主義が、ソビエト連邦の管理体制をベースにして、その後の一九九〇年代の出来事とオリガルヒ(新興財閥)資本主義の出現を通じて登場してきた過程は、ある意味でインドにおける新興財閥資本主義の発展に似ています。これはインドを含むアジアの多くに当てはまり、インドやアジアの民主主義がどのようにして新興財閥民主主義になったかを見ることができると思います。ソビエト連邦後のロシアにおけるオリガルヒ(新興財閥)資本主義の勃興の文脈の中で、ボリス・エリツィンやビクトル・チェルノムイルジンからエフゲニー・プリマコフへの移行を簡単に説明していただけませんか。

 そこには二つの段階がありました。第一段階は、エゴール・ガイダルやもっとも急進的な自由市場主義者が国を運営し、やがて退任させられた二年足らずの期間です。彼らの政治的位置は一九九三年一〇月の対立以前に弱まり始めていました。チェルノムイルジンは以前から台頭していましたが、チェルノムイルジンは当初は移行の論理を変えるだけの力を持っていませんでした。そこで一九九四年までに、実業家/経営者層と、党機構および共産青年同盟(コムソモール)機構から出現した新しい金融オリガルヒの間で妥協が成立し、彼らは共同して民営化を管理しました。一般に党内の人々が状況を演出している間に、多くの場合、旧コムソモール出身のジュニア・パートナーによって特殊な金融構造が作りあげられました。どちらのグループも、急進的な自由市場主義者であり、新自由主義者でしたが、実業家たちは、産業の破壊を望んでいなかったという点で、やや穏健でした。
 一九九三〜一九九八年の時期に、民営化は達成され、財産はオリガルヒと党管理者の間で分配されましたが、国の資源の恒久的略奪は途方もない規模の経済危機をもたらし、国はひどい状態に置かれました。そして一九九八年にルーブル崩壊が起こり、これによって、プリマコフその他が導入したある種のケインズ主義政策への突然の強制的な転換が行われました。これは、可能な限り産業を守ろうとするロシアの管理者階級のもっとも現実主義的、進歩的部分を巻き込んだ社会的妥協であり、彼らはそのことに成功しました。
 したがって、プリマコフ政権は、なんとか流れを食い止め、経済成長を開始させたので、ポスト・ソビエト・ロシアの歴史でもっとも成功した政権となりました。しかし、他の改良主義者の場合と同様に、労働組合や労働運動に強力な基盤を持たない社会民主主義的政権は、資本主義体制を技術的に修正し、仕事を終えるや、ただちに、資本主義体制にとってもはや必要なくなります。プリマコフはくびになり、空位期間を経た後、プーチンが新しい最高管理者となりました。
(つづく)
▼ボリス・カガルリツキーはモスクワのグローバリゼーション研究所所長。
初出:インドの全国隔週刊誌『Frontline』
(「インターナショナル・ビューポイント」二〇一一年四月号)

 


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