大相撲の八百長事件
密約・談合と同様の「日本的
文化」が新しい時代と衝突
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事件の発覚と
今日までの経過
今回の「大相撲八百長問題」は、力士の野球賭博事件を取り調べていた警察が文部科学省に大相撲の八百長疑惑情報を報告したと毎日新聞が二月二日付朝刊でスッパ抜いたことが発端であった。
この八百長情報とは昨年元大関の琴光喜などが摘発された野球賭博の捜査中に押収した携帯電話のメールの中に、八百長に関与したと思われる一四人の名前が残っていたというものである。これまで日本相撲協会はメディアが八百長疑惑を指摘したり報道しても「八百長はありません」の一点張りで滑り抜けてきた。二〇〇七年の元宮城野親方が告白した「証拠テープ」が発覚した際にも、〇八年から始まった『週刊現代』の裁判でも北の湖や朝青龍が意見書を提出してまで「八百長は存在しない」と強弁し続けた。大麻事件で解雇したロシア出身力士若ノ鵬が八百長問題に言及すると、突然掌をかえし退職金を支払い口を封じた。
唯一認めたのが、〇九年五月場所で史上最多一三回目の大関陥落のカド番を脱出した千代大海と把瑠都の一戦だけであり、これとて「故意の無気力相撲」ではなかったとして注意処分でお茶を濁した。
だが現在公益法人問題を抱えている日本相撲協会は旧来のように「トカゲの尻尾切り」で逃げるにしても一定の格好と体裁を取り繕う以外になかった。それが事件発覚直後に立ち上げた「外部有識者らで構成する特別調査委員会」の設置であった。しかし調査を始めるや否や協会の思惑ははずれ、一四人のうち三人が八百長に関ったことを認めた。
この事実が公表されると翌日、自らへの「飛び火」を恐れたNHKは福祉大相撲の放送中止と本場所の放映にも慎重姿勢であることを明らかにした。追い詰められた協会は春場所のチケット発売日の二月六日、「全容解明まで本場所の開催を中止する」と発表せざるを得なかった。
調査委員会は一カ月にわたり力士七〇人と面談を重ねたが、幾つかの疑わしい事実は浮上したものの新しい進展は得られなかった。三月に入るとあまり聞き覚えのない協会の諮問機関である運営審議会の安西邦夫会長(東京ガス特別顧問)が、「五月の夏場所から再開を望む」と発言し、翌日には横綱審議会の鶴田委員長も「八百長は『してはいない』と言われれば、それ以上調べようがない。……(調査を)幕引きし、五月場所開催に向けて全力を挙げてほしい」と発言。これを受けて調査委員会は三月三一日、北の湖、九重、陸奥の三親方を監督責任で理事から降格させ、二三人に対し出場停止二年と引退勧告の処分を下した。この処分は引退勧告を受けた力士が引退届を出さなかった場合には退職金のない「解雇」とするという強圧的なものであった。
処分の主な判断材料が携帯メールと関与を認めた者からの証言だけという極めて強引な手法である。そして決定的に重要なことは大相撲興行を維持するために重要な柱である横綱と三役の処分は含まれていないということである。文科省が公益法人の許可を容認するかわりに、相撲協会が処分を受け入れるという裏取引きがあったことは明白。震災・計画停電の中で五月場所がどのような形で開催されるかは依然として微妙ではあるが、八百長問題の幕引きが始まった。
警察の思惑と
公益法人化問題
警察が八百長メールの存在を文科省に報告した背景には警察の思惑だけではなく、公益法人に向けた改革案を作成している日本相撲協会の第三者機関「ガバナンス(統治)の整備に関する独立委員会」(以後、ガバナンス委員会)の働きかけがあったと報じられている。法改正によって日本相撲協会は一般法人か公益法人になるのかせまられている。これまでのように税制上の優遇にとどまらず、より多くの恩恵が受けられる公益法人として存続することが今やあらゆることに優先する。なんら法律的な裏付けのない「国技」という看板も世に通用するのは公益法人という実体に支えられてこそである。そしてこの公益法人化に対する生殺与奪の権を握っているのがガバナンス委員会であり、監督官庁である文科省である。
警察はこの間「裏金問題」や「自白強要問題」で大きく信頼を失ってきた。これを取り返すために力を入れてきたのが暴力団対策であった。だが暴力団内では山口組の一人勝ち構造がつくり出され、山口組対策が焦眉の課題となり、組をけん引する最強・最大勢力である弘道会にターゲットをしぼった。昨年の名古屋場所でテレビ中継に映るために、桟敷中央に陣取った暴力団幹部がいたことを記憶している人もいると思う。この集団こそ刑務所に服役中の「組長」に自分たちの健在を知らせようとした弘道会系の幹部たちに他ならない。これを契機に警察はあらゆる方面から相撲協会と暴力団の関係を洗い直した。地方場所の宿舎問題、地方巡業をめぐる暴力団の介在、この捜査の中で手にしたのが相撲界に蔓延する野球賭博であり、裏で暗躍するのが弘道会であるという情報であった。だが警察は暴力団と相撲界を仲介した数人を起訴しただけで弘道会本体にはたどりつけなかった。
他方「ガバナンス委員会」は八百長の再防止策も含め「日本相撲協会の組織を近代的に変え、相撲文化を守っていく」最終答申を二月一七日に発表する準備を進めていた。この答申の中には年寄株の金銭授受の禁止、部屋数の大幅削減などが盛り込まれていた。このため「マワシ組」と呼ばれる親方・年寄などの反対にあい、逆に答申は葬り去られる危機に陥った。一門―部屋は政治的には派閥であり、経済的には利権に群がる運命共同体、理事の数も一門ごとに割り振られ、一門から横綱でも生まれようものなら地方興行では人気でも入場者数でも全く違い、土俵入り、弓取り式があるかないかであらゆる点で格段の差が出る。昨年、貴ノ花が協会改革を掲げ一門の意向を無視し理事選に立候補して二所ノ関一門から破門された内部反乱は記憶に新しい。
こうした観点でみると、八百長疑惑問題は前近代的で閉鎖的な体質を温存したまま「国技」の看板を掲げ公益法人として生き残ろうとする日本相撲協会と時代の要求に合わせて多少なりとも「近代的」なポーズを取ろうとするNHKなどの取り巻き利権集団との攻防ともいえる。「再出発しようとしているところに水を差す形になるが、握りつぶすわけにはいかなかった。今回のことを再生にぜひ役立て、うみを完全に出し切ってほしい」という捜査の失敗を隠した歯の浮くような警察の談話は一連の経過と問題の性格を鮮明にしている。
勧進大相撲と
八百長の歴史
春場所の中止を発表した記者会見で放駒理事長は、「過去に八百長はなかった」と発言した。理事長自身は現役時代ガチンコ勝負に徹し、大関陥落まで味わった人だが、今の大相撲に対しては誰一人としてそのようには思っていないだろう。警察にしても競輪・競馬などの公営ギャンブルで、カネを賭けさせてわざと負けるのと違い身内の星のやり取りだけでは犯罪として逮捕・起訴はできなかったに過ぎない。
逆に大相撲の世界には八百長を表現する「注射」「出来山」「ガチンコ」などの言葉が数多く存在し、落語や芝居でも人情話として語り継がれてきた。落語の有名な「佐野山」は、江戸時代の名横綱谷風が親孝行の十両佐野山に負けてやる話であり、また勧進相撲の興行主(現在の相撲協会)があまりにも雷電が強過ぎて相撲の人気が上がらないので「負けろ」と圧力をかけたという逸話も残っている。明治になると「国技館」の名付け親の一人でもある板垣退助が、八百長が多過ぎると当時相撲界に君臨していた友綱部屋に怒鳴り込んだという話もある。
これらの多くはフィクションであろうが、長い大相撲の世界では観客の中に勝負よりも人情を優先することを良しとする空気があったのではないだろうか。千秋楽の結びの一番で無敗同士でぶつかり水入り相撲となった栃若戦、石原慎太郎が鬼の首でも取ったように騒ぎ周りから浮いてしまった柏鵬戦、「憎らしい程強い」北の湖を破り座布団が舞い続けた先代貴ノ花の優勝、多くの人がテレビに釘付けになった若貴の兄弟決戦。歴史に語り継がれる名勝負も裏側ではいつも八百長のうわさが流れた。しかし観戦している誰もが手に汗握る「優良コンテンツ」として承認したが故に八百長のうわさを退けてきたともいえる。
八百長疑惑をスッパ抜いた毎日新聞は翌日「相撲は競技か、興行か」というタイトルの社説で、「今回の疑惑は角界が神聖視する土俵を自ら汚し、真剣勝負を堪能してもらおうと日々鍛錬を積んでいる多くの力士の努力を踏みにじるものである」と論じた。これ以降、朝日・読売・各スポーツ紙を巻き込んでけんけんごうごうの論争が始まっている。おもしろいことに毎日の社説を暗に批判する記事が一番多いのが毎日新聞である。
ここで私から見て多数派と思われる識者の見解を紹介する。相撲に精通する劇作業の山崎正和は、「賭博と結びついていない限りは、どっちが勝っても面白ければいい……相撲は今も生きている興行営業」。現在も柔道や空手の修練に励み武術家でもある東京大学の松原隆一郎は、「興行の道を選んだプロレスに対し、米日では九〇年代真剣勝負を追求する総合格闘技の動きが盛んになった。日本でも……強くて真剣勝負なら人気が高まる、と単純な図式にはならないのが興行の世界」「大相撲は世界の格闘技の興行の中で最も限界までガチンコをやっている方。……それを年間九〇日もやるなんて他にない。八百長問題はこんなことになる前に協会が内々解決すべきだ」と述べている。相撲好きで知られる音楽家の吉田秀和は、「(昔からあった勝負よりも人情という側面は多少残るにしても)相撲も他のスポーツ一般と歩調を合わせ、勝敗の帰すうに焦点を合わせ、次第に変容変質すべき」と発言している。
カネが動き星が買われ、今やシステム化された八百長。自身の地位を維持するために日常化した八百長。そして部屋――一門というシステムがそれを見逃し、利権のために利用する。一門出身の審判委員や監査委員長が行司の判定まで覆すと聞けばなにをかいわんやである。かつては「人情」に対する「寛大さ」の中で許されたものが、誤った方向に膨れあがり「時代と衝突」し始めているのが今日の八百長疑惑の本質だ。
大相撲を食い物
にする「谷町衆」
今日の大相撲は江戸時代の中期、江戸の深川で勧進興行として始まったといわれる。それ以降現在まで何度となく「時代」と衝突・格闘して生き延びてきた。時には積極的に「時代」に応えようとする部分が内部から反乱さえ起こしてきた。「大正・昭和」に入ってからも記録されている事件は幾つもある。一九二三年の「三河島事件」では当初外部から封建的だ、前近代的だと批判されたが最後には力士たちが立ち上がり待遇改善を迫ったといわれ、一九三二年の「天竜事件」では勝負判定や運営の公明正大を要求し、ついには力士の集団脱退にまで発展している。
この「天竜事件」を経てそれまでの年間二〇日間の興行日数から、一場所一五日制、年六場所、計九〇日の本場所制という現在の大相撲の骨格が形成された。背景には多くの識者が指摘するように大所帯を経済的に支えるために九〇日間の本場所に加えて地方興行がプラスされ、過酷なスケジュールがつくられることとなった。戦後も分裂・脱退等の危機と紆余曲折を繰り返し、時には衰退を叫ばれながら栃若、柏鵬、北の湖・輪島、千代の富士、若貴という時代のヒーローともいうべき「優良なコンテンツ」を生み出して人気を維持してきたといえる。多くのスポーツが重量制を導入する中、小さな者が巨人を投げる痛快さは、小兵舞ノ海の三所攻めをあげるまでもなく一〇〇万人を超すファンをテレビの前に釘付けにした。
今や人気はハワイ、ブラジル、モンゴルと国際化し世界中にライブで放映されるに至った。だが国際化時代は「日本的人情」は通用せず、「八百長」的なものはスポーツと相容れないものになり始めている。政治における「密約」、企業における「談合」、旧来から存在する「あいまい」で「閉鎖的」な「日本的文化」と呼ばれるものはことごとく「新しい時代」と衝突し始めたのである。『週刊現代』の告発者の一人であった板井圭介は、「私が幕内にいたときは、八百長しない力士は七人〜八人、……横綱では大ノ国だけ、それ以降は若乃花、貴ノ花の両横綱……ちなみに両横綱が所属していた二子山部屋は誰も八百長をしなかった」と供述している。彼もまた角界のことを思い古い慣習に反乱したのであろう。そして理事選での貴ノ花もまた板井に続き「平成の改革」をめざしたとみるべきだろう。その意味で一九三二年の改革でつくられた大相撲の組織とシステムが問われているのである。
ガバナンス委員会の最終答申をみると前記した年寄株の金銭授受の禁止、部屋数の削減の他にも理事と親方の関係、幕下以下の力士の研修生扱い、年寄への研修など画期的言及は多いが、核心的な点、一門―部屋をどうするか、研修生扱いの場合の待遇と給料、さらにガチンコ対決を回避する大きな理由にもなっている公休制度問題など何ひとつとして具体案が出されていない。これが公益法人を認めさせるための妥協案だとすれば「改革」とは程遠いと言わざるを得ない。
第二の問題は角界とメディアの関係である。協会は数少ないNHKや相撲雑誌などの「番記者」を認めるだけで、それ以外とは取材に応じないと各方面で指摘されている。閉鎖的ということの本質もここにある。この間毎日新聞のスッパ抜き以来各メディアが「角界の今後」について論評しているが、NHKと相撲専門誌は沈黙したままである。日本相撲協会の年間収入が八六億円であるのに対し、NHKの六場所の放映権は二八億円であり、それに福祉大相撲中継や解説者に支払うカネを含めると三〇億円にも達し、協会の収入の三分の一がNHKに支えられているのである。他方NHKはテレビ、ラジオ、BSという公共電波で年間一〇〇〇時間もの放映権を独占し、加えて解説者や特別取材などを利用し各部屋に影響力を行使している。NHKこそが閉鎖的前近代的組織とシステムを温存させる最大の役割を果たしてきたといえる。前記した山崎正和はこのNHKと大相撲の関係を「国技の名の下に大相撲を権威化、神格化し禍根を残した」(朝日新聞)と指摘している。そして今、「八百長を終わらせる」という目的で二月に発足した文科省対策部たる「新生委員会」が動き出し始めている。
第三は時の政府や政治家の大相撲の政治的利用の禁止である。たしかに大相撲は宗教・儀礼、興行、スポーツという三つの側面を持つが、この興行における「優良コンテンツ」であったものに政治的意義を吹き込んだのは明治以降の政府でありメディアである。日清・日露の戦争を契機に国威発揚の道具・手段として利用し、その出発点が天皇賜杯や総理大臣杯である。日本相撲協会には運営審、横綱審、ガバナンス委員会、特別調査委、監査委など諮問委員会が存在している。彼らこそ大相撲を自らの利権のために利用する現代の「谷町衆」であり、夏場所の開催を要求しているのも、暴力団排除を決めたのも彼らである。
チュニジア、エジプトではインターネットが民衆革命の武器となったが、日本では前近代的大相撲の限界を明らかにする「証拠」となった。なんとも皮肉としか言いようがない。 (松原雄二)
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