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    かけはし2011.4.11号

人々はアラブの革命に熱い視線を注いでいた

パレスチナ
ガザ現地報告
届けられた希望を新たな闘いへ
―熱気の中浮上する切実な課題

キース・ダーウィン



 チュニジア、続いてエジプトの、民衆による独裁者追放は、中東・アラブ地域全体の民衆に巨大な励ましを与えた。特にそれは、絶望的な苦境下におかれたパレスチナ民衆にとっては格別な重みがある。以下は、ガザ、西岸における二月はじめの空気を伝えている。(「かけはし」編集部)

 ベン・アリをチュニジアから追放しムバラクをエジプトから追放した大衆決起は、いたるところで民衆に衝撃を与えたが、パレスチナの占領地域ほど大きな衝撃を受けたところはない。そこでは民衆は今なおアルジャジーラ・テレビ放送に見入り、カイロの軍部「引受人」体制を疑わしげな目で評価し、ヨルダン、バーレーン、イラク、イエメン、オマーン、アルジェリア、リビア、ジブチ、クウェート、モロッコ、イランにおける大衆的抗議と凶暴な弾圧に、興奮し苦悶している。オーストラリア人の第四インターナショナル・サポーターであるキース・ダーウィンが現地報告を送ってくれた。(IV編集部)

意気上がる民衆とハマスの限界

 毎日イスラエルと自分たちの「体制」の両方から屈辱を受けているパレスチナ人にとって、チュニジア、エジプト、そして中東の大衆の尊厳の回復は、巨大なインスピレーションを与えるものであった。
 二月一一日金曜日の夕方、一九七九年にイランの憎まれていたシャーが打倒された記念日にムバラクが打倒されたのを目撃した人々は、東エルサレムのサラヘディン通りで、また一九四八年のイスラエル内のパレスチナの諸都市で、自然発生的な(あるいは携帯電話のメッセージで呼びかけられた)デモ行進を開始した。
 ガザ地区では一六〇万の人々が厳しいイスラエル人による包囲とエジプトによるラファ国境の完全な閉鎖に苦しんでいるが、そのガザ地区ではガザ市とハーン・ユーニス市、そしていくつかの大きな難民キャンプで、その日の夕方、祝賀デモが行われた。人々は、すぐ近くの国境の向こうにいるエジプトの民衆にお祝いを言いたいと考え、結婚を祝うときのように空に向かって銃を発射した。ハマス政権はすぐさまムバラクの失脚歓迎を表明した。その理由は、彼らがエジプトのムスリム同胞団と歴史的に関係があるからだけではない。彼らは、国境がすぐに開かれ、エジプトはキャスト・レッド作戦後の再建に圧倒的な援助を行うだろうという楽観主義を表明した。ハマスは自分たちの集会以外の集会を許可することはめったにない。この前のエジプト連帯抗議行動は中止させられた。政治的抑圧は主としてファタハを対象としたものであるが、街頭にはハマスの旗とともに、民主戦線や人民戦線の旗もひるがえった。ハマスのテレビ放送はラマラのパレスチナ自治政府(PA)のテレビ放送よりプロフェッショナルで民主的であるが、民衆はレバノンからのマナール・テレビにも敬意をはらっている。そして何よりもカタールからのアルジャジーラに敬意をはらっている。アルジャジーラの経営者の一族は、ハマス政府の主要資金提供者である。エジプトの通信衛星がアルジャジーラの回線を止めたとき、それが復活するまで視聴者は絶望的な気分を味わった。
 ハマスが依然として強力な投票を指令する力を持っているかどうかは分からない。ハマスの政権はクリーンとみなされているが、また、彼らのサービス提供におけるパーフォーマンス、たとえば医療や学校についてはPAより明らかにましであるが、トンネル輸入のライフラインは限界に近づいており、彼らの戦略的限界が見え始めている。新鮮な食料が不足しているにもかかわらず、イスラエル人入植者が残したガザ地区の土地の四〇%は利用されていないし、漁業はイスラエルによって禁止されている。これまでに旧イスラエル人入植地に唯一建設されたのは、刑務所であった。

革命に露骨に背を向けるPA

 西岸地区最大の市であるナブルスにおいては、人々はモスクや教会や家庭においてしか祝うことができなかった。しかし、ラマラにおいては、パレスチナNGOが、何度も拒否されながら、二月五日にマナラ広場において一〇〇〇人が参加するエジプト人民連帯のデモを呼びかけることができた。近年、抗議行動はPAによって禁じられてきたが、この集会は直前になってようやく認められた。一部のファタハやPAの指導者はその前日までに親ムバラク集会の呼びかけさえ試みて失敗していたのであった。
 労働組合活動家や進歩的政党のメンバーはこの最初の集会に参加したが、デモには政党や労働組合の旗も横断幕もなかった。参加者たちは小さなエジプト国旗を持ち、マナラのモニュメントのライオンの上で米国の国旗一枚が燃やされた。宗教的なシュプレヒコールはなかった。あるグループの叫ぶスローガンは最初はナセルを思い出させるものであったが、その後はタリル広場やアレキサンドリアの人々との連帯を叫ぶもので、たとえば、「人民は侮辱されない」、「ムバラクはCIAだ」、「人民は体制を追い出したいのだ」、「第一に、ムバラクは出て行け、第二に、(ヨルダンの)アブドゥラ国王は出て行け、第三に……」(アッバースか、PAか?)、その後、だれかがシュプレヒコールを変えた。「PAはCIAだ」、「人民はオスロを追い出したい」。後になって、二月五日のデモでムバラク、アメリカ、PAやオスロ反対のシュプレヒコールを先導した若者七名は逮捕され、PAの米国の訓練を受けた治安部隊の暴行から罰を受けた。
 二月一一日金曜日の夕方、勝利の知らせを聞いて、人々は自然発生的にラマラの街頭に戻ってきた。エジプトの労働者の断固たる行動への参加に刺激されて、労働組合員の数が増えていた。次のような叫びがあがった。「ベン・アリ(チュニジア大統領)はムバラクやジェッダ(サウジアラビア)の盗人どもを道連れにしている」、「エジプトに続いて、近所の独裁者どもも打倒されるぞ」。人々は、しばしば繰り返されるイスラエルの主張「イスラエルはこの地域の唯一の民主主義国である」をからかった。今やイスラエルや西側の指導者の多くがアラブ諸国における民主主義についての言辞を逆転させているからである。
 二月一七日には、パレスチナNGOがさらなるデモを呼びかけることができた。これにはラマラでは数千人が参加した。表向きは、これはファタハとハマスに対立をやめて国民的統一を再建するように呼びかけるものであったが、その底にある力学は反PAであった。一方、ガザの当局は、このような集会を行えば、彼らは「骨を折る」ことになると語った。

動揺深い地域の支配的諸勢力

 パレスチナ人は、ヨルダン情勢を非常に意識している。ヨルダンでは、警察は一月二九日のアンマンにおける大規模な前例のないデモを許可した。これは、エジプトを支持しヨルダンにおける民主主義を求めるものであったが、しかしアブドゥラ国王の追放を明確には要求しなかった。アブドゥラ国王は、エジプトの出来事におびえ、急いで南部のベドウィン族指導者を尋ねる旅行に出かけ、燃料価格や食料価格を値下げし、公務員の給料を引き上げ、今一度政府を解散させた。二月一八日には、さらに大規模なデモが起こり、闘いの力学は終息するどころではないことを示している。
 レバノンは依然として政治的危機の中にあり、ヒズボラ・ブロックの全体的な積極的な力関係、民主的エジプトの可能性、ヨルダンにおけるパレスチナ多数派民主主義の悪夢の可能性に、イスラエルの指導者はひそかにパニックに陥っている。三回目のインティファーダが起こったら(それは起こりそうであるが)、彼らはバーレーン・スタイルまたはリビア・スタイルのパレスチナ若者虐殺を計画しているといううわさが流れている。
 イスラエルの協力者パレスチナ自治政府(PA)の寿命は深刻に脅かされている。PAは西岸地区の四〇%の切り離されたパレスチナの市や町を統治し、西岸地区の一七%の市に対して限定された治安管理を行っている。西岸地区の土地の大部分、水資源の八〇%、経済やすべての境界やチェックポイントは、依然としてイスラエル人の支配の下にある。
 ファタハとPLOは衰退してPAに混じりこみ、ラマラを拠点とする小さな買弁階級の二〇のビジネス・ファミリーを代表しイスラエルと米国の利益を代表する存在となっている。CIAの訓練を受けた治安サービスはパレスチナ人を守ることができず、ますます抑圧的な方法でイスラエルのために抵抗に対応し、援助からの予算の三二%を受け取っている。
 アッバース大統領とサラム・ファイヤード首相の選挙による付託は、何らかの付託を受けたとしても、ハマスによって打ち負かされ、パレスチナ立法評議会は実際に開催されたことはなく、当選した一三二名の議員の三分の一はイスラエルによって逮捕され、二〇〇九年一月に任期切れとなった。アッバースは友人ムバラクの失脚にショックを受け、アブドゥラ国王に見習ってPA内閣を解散し、新自由主義的テクノクラートのファイヤードを留任させた。ファイヤードの党の二〇〇六年の選挙での得票は二・五%であった。しかし、政府の解散は西岸地区のパレスチナ人の間に何の信頼性もつくり出さず、ファタハの長老支配の間の競争を悪化させただけであった。アッバースは明白な後継者を持っていない。治安長官のモマメッド・ダーランやジブリル・ラジュブはあまりにも信用がない。ファタハのマーワン・バルグーティや人民戦線(PFLP)指導者アーメド・サダトはイスラエルに囚われている。ナセル・アルキドゥワ(国連代表)についての憶測もあるが、アッバースは彼には敵意を持っている。
 アルジャジーラが公にした交渉のリークは、PAの裏切りについてパレスチナ人が抱いている疑いを取り除くものではなかった。PAはイスラエルの交渉人の完全な強硬姿勢に直面し、不法入植地の拡大によって毎日締め付けられ、エルサレム、避難民、捕虜、および西岸地区の飛び地の独立国家の引き渡しから注意をそらすための何らかの「イチジクの葉」あるいはお土産を求めていた。PLOの交渉人、ジェリコ出身のサエブ・エレカトは辞任せざるを得なかった。

左翼諸勢力の活力回復は未だ

 PAは、対敵協力を通じて、取り込みによって、またむき出しの抑圧によって、西岸地区の民衆の生活を確実に非政治化した。人々はただ生き延びるために努力し、家族しか頼りにできなくなった。偉大な指導者たちは去った。アラファトは国の象徴として、死後時間が立つにつれて、今から思えば良き存在になっていった。尊敬を集めたガザのハイダル・アブデルシャフィ博士は、一九九一年のマドリード会談を主導したが、アラファトに足元を掘り崩され、腐敗に怒って一九九七年に辞任し、二〇〇七年に亡くなった。ジョージ・ハバシュは、二〇〇〇年にPLO内の第二党PFLPの指導部を離れた後、二〇〇八年に亡くなった。彼の後継者アブ・アリ・ムスタファは二〇〇一年にイスラエルによって暗殺され、次の後継者サダトはPAによって投獄され、さらにその後イスラエルによって投獄されている。
 左翼政党は依然として取るに足らない存在であり、PAに対するオルタナティブを提供することができず、農村や都市の貧しい人々や混雑した難民キャンプの人々を引きつける力を欠いている。彼らはPAやオスロ・プロセスに関与することによって評判を落としている。オスロ・プロセスは入植地を増加させただけであった。二〇〇六年の選挙においては、人民戦線の得票は四%であり、民主戦線はパレスチナ人民党(旧パレスチナ共産党)とオルタナティブ戦線を結成して一議席を獲得した。左翼指導者ムスタファ・バルグーティとハイダル・アブデルシャフィによって二〇〇二年に結成されたムバダラまたは国民イニシアティブはわずか二・七%しか獲得できなかった。
 左翼政党は農業、医療、青年、女性のための大衆的サービス組織をガザ地区と西岸地区の両方に維持している。パレスチナ労働組合総同盟(PGFTU)は、それまでのファタハ外部の労働者戦線とファタハ、PFLP、民主戦線および共産党系組合の合同によって一九九四年に結成され、パレスチナの民間部門に一三の加盟組合を持っているが、ノルウェーや他の欧州の組合から国際労働組合連合を通じて広範な資金を受けて生き延びている。国際労働組合連合はイスラエルのヒスダトルート(労働総同盟)との和平のレトリックを口実とする条件的支持を行っている。ヒスダトルートは政府の占領や包囲されたガザの爆撃を批判したことがない。PAと同様、PGFTUの指導者シャヘル・サエドは入植地の製品のボイコットを呼びかけているが、資金提供者を防衛するために、イスラエルに対するボイコット・投資引き上げ・制裁(BDS)の呼びかけには躊躇している。壁を越えて入植地やイスラエルで働く労働者はほとんどいないので、失業率は非常に高く、ほとんどのパレスチナ人は家族ビジネス、農業、NGOまたはインフォーマル・セクターで働いており、PGFTUは深刻な制約に直面している。独立組合の新たな連合や公共部門労働者の組合がオルタナティブを提供し、こちらの方が一般にPA反対のキャンペーンを行う能力を持っており、イスラエルに対するBDSに明確に全面的に賛成である。

BDSキャンペーンの強化を

 エルサレム内および周辺、ヨルダン渓谷内、および西岸地区の岡の上への不法なイスラエル人入植地の大規模な拡大、この地域の米国の同盟政権が民衆の攻撃を受けていた二月一八日における国連安全保障理事会の入植反対決議に対する米国の拒否権は、PAに残されていた唯一の交渉戦略を危機に陥れた。約一〇〇人の若者が、ラマラにおける抗議の自由を新たに再獲得する機会をつかんだが、デモ参加者はすぐにアッバース大統領の写真を掲げたファタハの忠実な支持者に圧倒され、ファイヤード首相は国連に動議を持ち出す正しいタイミングではなかったという声明を出した。
 過去数年間に、アッバースは地方選挙を呼びかけ、続いて九月の立法評議会選挙を呼びかけたが、二〇〇六年のような自由で公平な選挙の条件は、PAやハマスが統治する飛び地の四百万の人々にとっても、イスラエルが統治する東エルサレムにおいてももはや存在しない。ハマスは、国の政治的統一なしには新しい選挙はあり得ないと言っており、これは正統な国民的指導部としての包括的なPLOの再建の必要性を指摘するものであり、イスラエル内部、占領地域、および近隣諸国の難民キャンプのパレスチナ人に、誰の記憶の中でも開催されたことがない新しいパレスチナ国民評議会のための公民権を与える選挙を想定している。
 オスロ・プロセスや「二つの国家」による解決策が、ラマラの信用を失った売国奴の一族に導かれたバントゥスタン(アパルトヘイト政策におけるホームランド)とともに自然死に行き着いたので、またイスラエル・アパルトヘイト反対のグローバルなボイコット・キャンペーンに向けたパラダイム転換が起こっているので、多くの人々が一九四八年国境内のパレスチナ人へのイデオロギー的指導部の移行、特に左翼世俗派ナショナリスト組織のタジャム/バラドと現在は追放されている指導者アズミ・ビシャラへの指導部の移行が起こっていると見ている。この転換は人口統計学的変化に裏付けられている。五八〇万人のユダヤ系イスラエル人は、もはやヨルダン川と地中海の間のイスラエル統治下の人々の多数派を構成していない。
 汎アラブ的または汎中東的な民主的インティファーダとの連帯行動の文脈の中で、パレスチナ市民社会が呼びかけているようなイスラエルに対するボイコット、投資引き上げ、制裁のための国際的な草の根運動や労働組合の努力を強化する必要がある。ラバトからテヘランに至る独裁者たちに死の恐怖を味合わせ、長年かかわってきた同盟者の打倒によって何十年も続いたパックス・アメリカーナをずたずたにした民衆の力とともに、パレスチナは依然としてアラブ大衆と植民地主義の間の断層線である。

▼キース・ダーウィンはオーストラリア人の第四インターナショナル・サポーターで、二〇一一年二月にはガザにいた。



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