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    かけはし2011.3.21号

再審で無罪となった裁判の
国家賠償金を大幅に削減

韓国はいま 国家暴力の犠牲者を愚弄する最高裁



 再コハプ、再ノ、再ド…。
 裁判所の刑事事件の中で、判決が既に確定したものの再び調べる理由があって、重ねて審理することになる事件には「再」が付く。地裁は大概「再コハプ」、高裁は「再ノ」、大法院(最高裁)は「再ド」という言葉で再審事件を分類する。裁判での既存の判決が誤った可能性があると認め、審理を経た後で別の結論の宣告を下す可能性が高いので、裁判所が「再審開始」を決定するまでには厳格な審理を経る。先輩判事たちの既存の判決を覆すことになるからだ。

奪われ踏みにじられた人生

 2000年後半から再審事件が著しく増加し、裁判所の日程に登場している。大概は(軍事政権時にかかわる)「過去史」の事件だ。全国民主青年学生総連盟(民青学連)、人革党、〈民族日報〉、アラム会など有名な諸事件が再審の過程を経て数十年ぶりに無罪を宣告された。
 名もなき個人が苦痛を味わった事件は、さらに多い。維新時節の末期に、うっかり言葉をすべらせて緊急措置違反によって処罰された人から、日本に行ってきたという理由だけで在日本朝鮮人総連合(朝鮮総連)系のスパイに仕立てられ拷問された人、魚を採りに行っていて拉北(北側に拉致されること)された後、故国に帰ってきたのに逆にスパイとして追いこまれた人に至るまで、実に多様だ。
 裁判の日程で「再」が付いた事件名を見ると担当の取材陣は、まず緊張する。法廷に入れば、水拷問、トンタックイ(原義は鶏の丸焼き)拷問でエレベーター式に急下降する衝撃を与える拷問、性器に電気を流す拷問まで、むごたらしい話が判事の口からあふれでる。そして最後に、その口から「無罪」という単語が出てくると、口をきっと結んで被告人席で静かにしていた、髪には白いものが混じった人々が「くっくっ」と泣き始める。
 判決への思いをたずねるインタビューが始まり、記者たちも泣く。ある記者は涙を浮かべたのがきまりが悪いのか顔をあげることができず、またある記者は判決文を書き取っているノートにボロボロと涙を落とす。「インタビューをしっかりやらなくては」とがんばってはみるが、それはたやすいことではない。
 10〜20分という短いインタビューで出会う人生は、なおのこと想像不可能だ。2重スパイとして追い込まれ死刑になったイ・スグンのスパイ行為を手助けしたとの理由で20年余りの監獄暮らしをし、再審で無罪を宣告されたイ氏の妻の親族ペ・ギョンオク氏(73)。その息子はアボジ(父)がスパイ罪で刑に服したということを悲観して自殺した。彼の妹はこの事件のせいで離婚したし、陸軍中尉だった弟は転役措置を受けた。
 民青学連事件を取材しにやってきてスパイとされ、やはり懲役暮らしをすることになった日本人記者・太刀川正樹(66)。事件のショックで妻は精神疾患を被り、妻が目を離した隙に3歳の息子は水に陥って亡くなった。病を患っていた太刀川の父は「やりきれない」という言葉ばかり繰り返していたが、再審の宣告にも出合えないまま亡くなった。
  「今も村の人々は私をスパイだと思っている」「今こそ息子らに堂々と、そうではないのだと話せるだろう」と語る老いたる漁師、「事件の後、親戚らもみんな私を避け、故郷にも1度も行けなかったが、今度の名節(盆や正月など)には行けるようになった」という老人もいる。
 このように奪われ踏みにじられた人生を誰に補償してもらうのか? 所詮しがない運命として受けいれなければならないのか? 当時の「捜査機関では(無罪だと話してみたところで)ダメだろうなと思って」起訴された後「判事さんに会える日だけを指折り数えて待ち」、ついに法廷で「拷問を受けてウソの自白をしたもの」だと吐露したが有罪を宣告された。そしてその判決を下した判事は高位の司法官となり、あるいは有名な弁護士となった。国会議員になった当時の公安検事、エリートコースを歩み最高裁の幹部をしている、当時の事件担当陪席判事もいる。どのみち忘れてしまっているかも知れない。スパイ・ペ・ギョンオク、スパイ・太刀川正樹、スパイ・ソ・チャンドク(拉北漁師)、死刑囚チョ・ヨンス(〈民族日報〉社長)……。

いい加減な最高裁の利子計算

 再審の無罪判決後にも謝罪のひとことも聞けない被害者たちが大多数だ。国家を相手にした損害賠償請求訴訟以外には、補償を受け慰労を受ける方法がない。もちろん簡単ではない。検察は刑事再審とは違って、民事訴訟の場合には例外なしに控訴し、上告してきた。無罪が多くなるとともに近頃では刑事の再審もまた控訴・上告で対抗するが、民事の訴訟の件についての不服は当初の検察の方針でもある。名誉を回復してやることはあってもカネを出してやることはできない、との態度だ。
 結局、最高裁は国家賠償を判決した様々な事件の原審判決をすべて破棄した。今年の1月だ。争点は「慰謝料を遅ればせに支給することについての遅延損害金の起算点(適用時点)をいつからとするのか」だった。拷問や苛酷行為など過ちが発生した時から賠償判決がなされた時まで年5%の利子を計算し、総賠償額が算定されてきた。1、2審を担当した地裁や高裁で、賠償金額はそのように算定されてきた。
 最高裁は、賠償額は多すぎるとの立場だ。自ら「不法行為がなくなったのならば、被害者がその損害を被った法益を継続して完全に享有することができたという点から、不法行為による損害賠償の債務については、原則的に公平の観点に照らして、不法行為時から遅延損害金が発生しなければならない」と「原則」を明らかにしながらも、「例外」を置くべきだ、とした。「(不法行為の発生時点から)長時間が経過し、顕著な過剰賠償の問題が提起される」という理由だ。遅延損害金の起算時点を30〜40年前の不正行為発生時ではなく、該当損害賠償訴訟を出した後、弁論が終結した時と見なければならない、とした。事実上、利子がなくなるようになった。
 チョ・ヨンス元〈民族日報〉社長の遺族ら、事件関連の被害者10人は、1、2審判決の結果、100億ウォンほどの補償を受けられることになったが、3審後に30億ウォンへと大幅減額された。利子が700億ウォン内外から2万余ウォンに減ったことが大きい。他の事件の被害者たちも状況は同じだ。
 だがこのような判断は重大な矛盾をかかえている。
 高裁の各判決は大概「不法行為時から遅延損害金が発生するという事情まで考慮して」当初、慰謝料を算定した。利子が多くなることを勘案して慰謝料自体は少なく決めた、というわけだ。〈民族日報〉やアラム会事件の被害者、拉北漁師ソ・チャンドク氏らはそのような論理やそのように算定された原審の賠償金額を受けいれた。上告はしなかった。
 最高裁も分かっている。判決文では「不法行為時から遅延損害金が発生するのを前提として慰謝料を算定し、結果的に合計額が大幅に減ることになった事情を考慮してみる時、慰謝料の元金の額自体が多少、少ないと見る余地があり得る」と語る。それにもかかわらず「原告らが(少ない慰謝料の額自体に対して)不服だとせず、その部分まで破棄(して新たに算定)することはできない」と語る。上級裁判所は下級裁判所に対して当事者が不服な部分だけ再び審理できる、という法の論理に従ったものだ。

賠償金が「借金」になった人々

 このように金額が削られるものだから、国家から既に受けとった賠償金が「借金」になってしまった人々まで続出する。2審段階で賠償金を「仮執行」された人々だ。裁判所は「人革党」の被害者などの請求を受けいれて3分の2程度の金額を仮執行という形で、前もって支給を受けられるようにした。被害者たちはこのカネで常々援助してくれた恩人に恩返しをした。一部を公益の寄付金として出した。これを再び国家に返さなければならないというのだ。
 1、 2審の損害賠償判決を得た被害者たちが、いまだ再審を請求できていない他の拷問被害者たちの権利救済を助け、拷問治癒の会などを作ろうとしてカネを集めて作った財団などの進路にも支障が生じることとなった。
 最高裁の判決をめぐって法曹界の解釈は分かれる。ソウル高裁の一判事は「既に長時間経過し、拷問を加えた人々に刑事的責任を問うことが不可能な状況にあって、被害者たちの権利を救済するために、国家賠償が一種の懲罰的意味を帯びているとの側面を積極的に考慮し慰謝料算定などをする必要がある」と語る。遅延損害金を不法行為時から起算するのは基本だと考える。
 反面、ある弁護士は「法理的にも納得がいき、国家が担ってきた負担を考えるときも最高裁が合理的に整理したようだ」と語る。こまで一部の保守メディアでは「利子問題によって国家の賠償金額が余りにも大きく、負担が加重されている」という趣旨の記事を展開してきた。
 「国家の負担が大きいからとして被害者たちの権利救済を縮小するのではなく、不手際をなした人々に責任を取らせるべきだ」との意見もある。拷問をした保安司(国軍保安司令部)の捜査官、検察公務員など実際に間違いを犯した人々を追跡し、賠償金額についての「求償権」を請求すべきだ、との論理だ。国家賠償法には公務員の誤りによる違法行為によって国家が被害者に賠償をすることになった時、該当公務員からその分を還収できるという求償権が規定されている。けれども国家は「過去史」の事件で求償権を行使してはいない。

死ぬまで闘い続ける

 過去史の被害者たちは最高裁判決に対して再審を請求した。〈民族日報〉事件の遺族と拉北漁師ソ・チャンドク氏がまず最高裁に再審を請求した。2月11日のことだ。再審請求は、さらに増える気勢だ。刑事事件で困難ながらも再審を請求し、控訴・上告を経て無罪が確定したのに、今度は民事でも再審を進めることになったのだ。「(利子時点の期間についての)それまでの最高裁判決を変更しているにもかかわらず、全員合議体ではなく全員の3分の2にも満たない最高裁判事だけで構成された『部』で審判したのは民事訴訟法の再審の事由に該当する」と彼らは説明する。
 最高裁の民事再審事件には「再ダ」が付いた。最高裁が請求を受けいれて再審開始を決定することになるのか、そして別の結果を導き出せるのか、国家が求償権を行使できるのかは分からないけれども、いずれにせよこれらの人々は再び法的闘いを続けていくこととなった。
 2月24日、過去史事件の被害者たちの遺家族は最高裁前で再審開始と国家の求償権行使を追及する記者会見を行う予定だ。人生のどまんなかを濡衣によって失い、晩年には再審また再審を繰り返しつつ「死」へと一歩一歩近づいている。被害者たちは「死ぬまでにすべての訴訟を終えたい」と語った。(「ハンギョレ21」第849号、11年2月28日付、ソン・ギョンファ記者)


コラム
「帰宅難民」

 「観測史上最大」で阪神淡路大震災の約千倍と言われるマグニチュード9・〇。発生から三日が経過しても被害の全容が明らかにならない大惨事。そして恐れていた原発の炉心溶融と水素爆発。
 千葉地裁の三里塚一坪共有地裁判を傍聴した仲間は、裁判終了後地裁のエレベーターに乗る直前地震に遭遇。一人は駅に停車していた電車の中で夜を過ごし翌日の昼近く東京に戻った。また他のグループは夜通し歩き続け、午前二時に東京に帰り着いたという。
 私は東急東横線の渋谷から五つ目の都立大駅目前の電車の中で直撃された。まるで車が急ブレーキを踏んだように電車は急停車。同時に車両は左右に激しく揺れる。網棚からは荷物が落下し、床に置かれたカバンなどが車内を飛び交う。「震度5強の地震です。ポールや吊り革にしっかりつかまって下さい」「揺れが収まりましたら次の駅のプラットホームに移動させます。それまでそのままでお待ち下さい」というアナウンス。しかし揺れはなかなか収まらず電車から脱出できたのは急停車から二〇分も経ってから。震度5強、車両の中で振り子のように揺さぶられた記憶が体感として残り、頭の中は完全に「関東大震災」モード。
 ドアを開くと乗客は駅員の誘導で駅から八分程の公園に連れて行かれ、ここで待機するように指示される。誰もが携帯電話を出して連絡を取ろうとするがつながらない。公衆電話にはたちまち一〇〇人に近い列。午後四時半、電車が動かないことを知らされた群衆は三々五々、川崎、渋谷、蒲田方面へとそれぞれ移動し始める。私もどんな地震なのかさっぱり像が結ばないまま渋谷をめざして歩き始める。頭の中に「帰宅難民」という言葉がよぎる。
 午後七時過ぎ中目黒。駅近く同郷のおやじさんがやっている居酒屋でトイレを借りる。店は帰宅できないで職場に泊まることを決めた人で混雑していたが、テレビの前に座らせてもらう。テレビは千葉のコンビナートの炎上を映す。ここで初めて東日本の太平洋岸が巨大な津波に襲われたことを知る。
 午後八時二〇分、礼を述べ再び渋谷をめざす。私の進む方向とは反対に渋谷から中目黒に下って来る人が何倍も多い。白いヘルメットを被っている人もかなりいる。誰かが「サッカーに負けたチームのサポーターが会場を後にするのに似ている」と言っていたが、暗い道を黙々と歩いている。どの道路も車があふれ全く動かない。代官山近くで所持金が三千円しかないことを思い出しコンビニに入るが「現金が入っていないので使用できません」の貼紙。パンも飲料水もすでに売り切れ。
 午後一〇時五分渋谷駅に着くとシャッターが降ろされ、駅周辺は人であふれかえっている。新時代社まで再び歩くか、宿泊の場所を提供している青山学園大に行くか決断がせまられる。しゃがみこんで水を飲んでいると東急線が動くというアナウンス。歩かず最寄り駅で待っていればよかったのかと一瞬は思ったが、とにかく急ぎ一一時一〇分動き出した三本目の電車に無事に乗り込む。家に帰り着いたのは一二時三五分。暗い道を歩き続けるのも大変であったが、「事件」の概要を知らず歩くのは不安を増大させるものだとつくづくと思い知らされた八時間の「帰宅難民」経験であった。
 今回の惨事で亡くなった人に対し心から合掌。(武)


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