資本主義からの脱却のあり方を
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読書案内
セルジュ・ラトゥーシュ著 中野佳裕 訳 作品社刊 二八〇〇円+税
『経済成長なき社会発展は可能か?』
〈脱成長〉と〈ポスト開発〉の経済学
成長へのオルタナティブとは?
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「成長」への
懐疑映す反響
フランスの経済哲学者セルジュ・ラトゥーシュの「脱成長」(デクロワサンス)論が注目を集めている。昨年来日した彼は各地で講演を行い、朝日新聞は彼のインタビュー記事を掲載した(一〇年七月一三日夕刊)。七月九日に東京でATTAC japan(首都圏)も彼を招いた公開学習会を行った(本紙一〇年七月一九日号掲載)。
集英社の季刊言論誌「kotoba」第二号(二〇一一年冬季号)の特集は「『脱成長』の経済を生きる」であり、そこには昨年七月にラトゥーシュが日仏会館で行った講演要旨・ならびに本書の訳者・中野佳裕によるラトゥーシュ理論の紹介も掲載されている。「人民新聞」など左派系メディアも「脱成長」論を大きく取り上げるようになった。
リーマンショック・世界的金融恐慌以後、新自由主義を「唯一の選択」としていたエコノミストたちの間でも「経済成長」論への懐疑がますます広がっている。実際、前掲「kotoba」誌では、意外なほど多くのエコノミストたちや学者たちが「脱成長」経済に肯定的な反応を見せている。
資本主義世界経済の成長が中国・インド・ブラジル・ロシアなど「新興諸国」の発展と旺盛な消費意欲に依拠したものであり、先進国自身の成長がもはや見込めなくなっていること、そして気候変動問題と金融・経済危機の深まりにより、「成長」パラダイム自身が疑問に付されはじめていることもその背景にあるのだろう。さらにもっと突っ込んで言えば「成長」を不断に追求する以外にはない資本主義経済・社会システムの限界・危機への直観がそこには認められる。
財界主流にバックアップされた菅政権の「新しい成長戦略」は、こうした一部エコノミストたちの危機感からさえも決定的に立ち遅れたものである。
われわれの
理念の転換
本書はもともとATTACフランスが編集・発行した二つの著作『〈ポスト開発〉という経済思想』(二〇〇四年)と『〈脱成長〉による新たな社会発展』(二〇〇七年)を邦訳にあたって二部構成として合本にしたものである。第一部は「脱成長」という理念を資本主義に内在した「成長」「開発」理念への批判を通じて明らかにしようとしたものであり、第二部は「脱成長」社会に至る道筋を、そのための政策を含めて提示することを中心に論述している。
著者は、本書日本語版まえがきで問題意識を簡潔に提示する。「脱成長」の主張は、「『悪い経済』を『良い経済』に置き換えること――つまり、経済成長や開発・発展を環境に優しいものにしたり、社会的なものにしたり、あるいは公平なものに塗り替えることで、悪い成長・悪い開発・悪い発展を、良い成長・良い開発・良い発展に置き換えること――ではなく、経済から抜け出すことである」と。
したがって彼の「脱成長」論とは「オルタナティブな」「もう一つの」あるいは「持続可能な」成長や開発論とも明確な一線を引くものである。「もう一つの」「持続可能な」成長・発展や開発の主張は、行き詰まりが明らかな資本主義的「成長、開発」の論理を真に克服するものではなく、むしろそれを延命させるものであるということになる。そしてこの点ではオルタ・グローバリゼーション運動の中に見られる「もう一つの」「持続可能な」発展論や、開発論と鋭く対立することになる。
彼は語る。「現実に起こっている発展は、人間同士の様々な関係や人間の自然に対する関わり方を商品に転換することを目論むプロジェクトであると定義することができる。……自然と民衆に猛威を奮う開発プロジェクトは、それ以前に存在していた植民地化、そしてその後に現れたグローバリゼーションと同じく、支配と征服を行う経済的かつ軍事的行為である」と。「発展」とは「持続可能な」や「オルタナティブな」という形容詞をいくら付けたとしても、その「西洋化」の論理から抜け出すことができない、というのである。
第一部の結論においてラトゥーシュが主張しているのは、資本主義近代における「成長・発展」の破滅的神話から脱却し、「脱成長」のパラダイムを獲得するための「われわれの想念の根源的な脱植民地化と精神の脱経済化」である。
ローカルを基
礎とした探究
それでは、どのように「脱成長」の循環プロセスを構築していくのか。第二部は、ここに焦点が当てられる。ラトゥーシュは「経済成長を目的としない自律社会の構築が要請する一大転換は、それぞれが互いに補強しあう相互依存的な八つの変化の体系的かつ野心的な接合によって表現される」としている。
それは@「再評価する」A「概念を再構築する」B「社会構造を組立て直す(再構造化)」C「再分配を行う」D「再ローカリゼーションを行う」E「削減する」F「再利用する」G「リサイクルを行う」の相互に連関する「再生プログラム」からなっている。その具体的内容については本書を読んでいただくしかないが、「成長・開発・消費」に囚われた資本主義近代の根底にある自然と人間に関わる価値観の体系を「地域に根差したエコロジカルな民主主義」の創造を通じて根本から変えていくプログラムだと言えるだろう。前掲・朝日新聞のインタビューの中でも彼は「グローバル経済から離脱して地域社会の自立を導くこと」が本質的な解決につながると強調していた。
さらにラトゥーシュは労働時間の大幅な削減を通じた、ワークシェアリングによる雇用の保障・「余暇」の拡大をも主張している。また「脱成長」社会への移行期における様々の政策――輸送・燃料・広告・包装などの「中間的消費」の削減、環境税、農民による農業の再生、ATTACが提案する金融取引税、タックスヘイブンの撲滅と銀行機密の廃止などについても、その有効性を認めている。
彼の主張は、ポランニー、イリイチ、アンドレ・ゴルツ、カストリアディスらの先行するイデオローグたちの「ポスト開発」理論を継承しつつ、「成長主義者」たちの言説を根底的に批判する中から、ローカルに基礎を置いた自主管理的・エコロジー的社会主義の理念を継承したオルタナティブの構想を描き出そう、とするところにあるのだろう。
政党を否定す
る道は可能か
ラトゥーシュの語る「脱成長」プログラムと資本主義システムとの関係はどうなのか。
「筆者が提案する<脱成長>社会という考えは、過去への不可能な回帰ではなく、また資本主義との妥協でもない。それは近代の(可能ならば適切な方法による)『超克』である」「<脱成長>は断固として反資本主義の立場をとる。それは資本主義の矛盾や生態系ならびに社会における限界を非難するという理由のみにとどまらず、何よりもマックス・ウェーバーが『資本主義の精神』を資本主義社会の実現の条件と捉えるまさにその意味において、<脱成長>は『精神』を根本から問いただすからである」。
このように語る彼は「反資本主義」をまさに理念と精神における「資本主義からの脱出」の構想と捉えるがゆえに、政治的な「反資本主義」綱領に疑問を呈している。「一部の極左活動家たちによる伝統的な応答は、要するに、あらゆる停滞とわれわれのあらゆる無力の源泉を『資本主義』という実態に起因させ、そうすることで打倒すべき城塞の場を定義するというものであった。しかし現実問題として、敵と正面衝突することは今日においては問題含みである」。
しかし今日における「反資本主義」のプロジェクトを敵との無謀な「正面衝突」と戯画化することは、歪曲そのものといっていいのではないか。
彼は「生産手段の私的所有と資本主義を真っ向から廃止せずとも、資本主義の精神――なかでも(利潤の増大にみられるような)成長への執着心――を放棄することに成功すれば、<脱成長>社会は徐々に資本主義的なものではなくなってゆくであろう」とも述べている。
ここでは「資本主義の真っ向からの廃止」という言葉で、論点がずらされてしまっている。いかに革命的な反資本主義派といえども「資本主義」を「真っ向から廃止」することなど夢想しえないことは言うまでもない。労働者権力の下での過渡期社会は商品・市場・貨幣などとして表現された資本主義的価値法則を強力的に「廃絶」することはできない。それはさまざまな所有形態が併存する経済・社会であり、生産手段の社会化と民主主義的統制・計画化を通じて、社会主義へと移行する相対的に長期に及ぶ過程である。
しかしこの移行は、労働者・民衆による政治的権力の獲得という「革命」を決定的な契機とする。そこでは政治闘争、政党の役割が鍵となる。
ところがこの点でもラトゥーシュは「脱成長」運動にとって政党は必要ない、と主張するのである。
「<脱成長>の政党を結成し、今から<脱成長>運動を凝固させる必要があるのだろうか。筆者はそのようには思わない。政党の存在を通じて<脱成長>プログラムを未成熟なままで制度化することは、われわれを政党政治の罠に貶める危険がある。そのような政治は、政治アクターによる種々の社会的現実の放棄を意味し、<脱成長>社会の構築を実行に移すことを望むための諸条件が整備されないうちに、そして<脱成長>社会が国民国家を超克した枠組みの中に効果的に含まれることがはっきりしないうちに、<脱成長>の政党を政党政治のゲームに閉じ込める」。
私も、「脱成長」を結集点とした政党の建設が有効か、可能かといった問いについては、むしろ否定的に答えるしかないと考えている。「脱成長」の構想はラトゥーシュ自身が本書で述べるように、まさに今日の資本主義システムのトータルな変革を射程に入れた政治・社会・経済・文化の闘いであるからだ。しかし彼の「政党不要」論は、「資本主義の精神」からの脱却を政治と切り離す「哲学」そのものに深い根拠を持っているのであり、私はそれには与しない。
われわれは、マルクス主義の生産力主義的観点や自然と人間との関係における理解の問題点を批判的に総括しつつ、「エコロジー社会主義」の綱領的明確化に向けた論議を現実の運動の中から進めていきたいと考えている。そのためのさまざまな諸要素は、すでに地域を基盤にした無数ともいえる実践の中で浮上している。「脱成長」社会の考え方も、そうした取り組みの一環として検証すべきだろう。 (河村 恵)
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