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    かけはし2011.3.14号

世界の民主化の歩みと導火線
となった事件、大規模な抵抗

市民革命、我慢できない民衆の熱情


 1960年4月11日、慶尚南道・馬山沖合い。1人の高校生の遺体が浮かび上がった。催涙弾が目から後頭部まで貫通した凄惨な状態だった。3・15馬山デモの当時、強制解散を命じた警察と投石戦を繰り広げた後に行方不明となった馬山商高の学生キム・ジュヨルだった。凄惨な彼の遺体は3・15不正選挙に沸き立っている国民の怒りに火を付け、4・19革命の導火線となった。「第2馬山デモ」に続き、ソウルで学生2万余人が総決起に乗り出し、4・19革命は燃え上がった。4月26日、イ・スンマンは国民への談話文を発表する。「私は何事であれ国民が望んでいるものがあるのであれば、民意に従って行動しようと思うものであり…報告を聞けば、わが愛する青少年学徒をはじめとして、わが愛国・愛族の同胞たちが私に幾つかの決心を要求しているのだから…国民が望むのであれば大統領を辞任しよう」。イ・スンマンは5月29日、亡命の道を歩んだ。
 中東・イスラム圏の市民革命は、イ・スンマン大統領を追い出した4・19革命を様々な点から思い起こさせる。キム・ジュヨルの死は、1948年に初代大統領に就任して以降、12年という長期執権をしつつ、1954年には大統領の3選禁止を免除するという、いわゆる四捨五入改憲まで通過させたイ・スンマンと自由党独裁に対する不満が爆発する、その契機となった。市民革命を振り返ってみるならば、このようにキム・ジュヨルの死と同様の「偶然の」起爆剤が、長きにわたる暴政に対する抵抗という「必然」を引き出した。

死や死のうわさと一連の革命

 今回の中東・イスラム圏市民革命の出発点となったチュニジアの「ジャスミン革命」は、果物と売り台を奪われた1人の青年露店商の抗議の焼身自殺が導火線だった。大学を卒業しても職場を得られなかった20代青年による抗議の焼身は、独裁とひもじさとに苦しめられている国民の怒りの火に油を注いだのであり、23年の独裁にけりをつけた。彼の焼身抗議はエジプトなど隣国などの反独裁抵抗へと広がり、何人もの指導者が危機に追い込まれている。
 1979年のイラン・イスラム革命の導火線は、1978年にイランのある映画館で数百人が焼死した、むごたらしい事件だった。その頃、パーレビ王朝の腐敗と貧富の格差の広がり、西欧化に対する反発によって王政体制は危機を迎えていた。1978年8月、反国王デモが全国に拡大していたが、その中でアマダンでの映画館放火事件が仕掛けられた。デモの群衆が警察を避けて入った劇場に火が出て400人余りが亡くなると、デモ隊は当時の秘密警察の仕業だと疑った。
 この事件によってパーレビ王朝に対する抵抗は燎原の火のように広がっていった。その年9月、テヘラン広場のデモ隊に対する無差別発砲によって2千余人が死ぬという「黒い金曜日」はパーレビ王朝の没落を予告した。その時まででさえパーレビ王朝と交渉を通じた改革が可能だと信じていたイラン人たちも、背を向けた。反王朝デモはもはや収拾できないまでに広がっていった。結局、国王はエジプトに逃げ去り、1979年2月11日、革命政府がすべての権力を掌握した。
 数多くの市民革命において犠牲者たちの葬儀は革命の熱気と抵抗の力を打ち固めてきた。1998年のインドネシアにおける民主化デモでも同じことが現れる。スハルト大統領に抵抗していた市民らのデモは1998年5月に学生4人が銃に撃たれる事件が起こった後、さらに激しくなり千人を超える犠牲者が発生する大規模デモへと広がっていった。
 1989年、チェコで共産党政権を打倒した「ベルベット革命」は実際の死ではなく「死のうわさ」が起爆剤となったケースだ。1989年11月17日、暴動鎮圧の警察が、プラハで起きた平和的なデモを鎮圧したが、その際に2人の学生に暴行して死に至らしめたとのうわさが出回った。以降、デモがさらに広がり結局11月28日、共産党は権力を放棄し一党制を廃止すると発表した。12月初めにはオーストリア、西独とチェコとの国境で鉄条網が取り除かれ、その年の末にバチュラフ・ハベルがチェコ大統領となった。
 振り返ってみれば1987年の6月抗争の火種となったのはパク・ジョンチョル拷問致死事件だ。その年1月、大学生パク・ジョンチョルが治安本部の対共捜査団南営洞分室で水拷問を受けて亡くなった事件は、チョン・ドゥファン政権に対する国民的怒りに火をつけるとともに6月抗争を呼び起こした。1987年6月9日、延世大で行われたデモの途中で戦闘警察(機動隊)が撃った催涙弾で頭をやられ亡くなったイ・ハニョルの死も6月抗争を激化させる契機となった。当時の、イ・ハニョルが催涙弾で頭を撃たれ仲間に支えられたまま血を流している写真は、独裁政権の暴挙に対して市民たちを決然として立ち上がるに至らしめた。

側近の背反と外部の圧力

 市民革命と独裁政権の崩壊には側近勢力の「背反」が一定の位置をもっている。9月の次期大統領選まで退陣を拒否していたホスニ・ムバラク・エジプト大統領が2月11日に退陣を電撃的に発表したのには、彼が頼りとしていた軍部の圧力があった。軍部は辞任を拒否するムバラクに「引き下がらないならば追い出す」と最後通告を行い、これが早期辞任を拒否する演説をしてから数時間にもならないうちにムバラクが辞任へと変わった背景だと伝えられる。軍部は没落直前のムバラクを支持するのに代えて彼に背を向け、自分たちの既得権を守る道を選んだ。
 ルーマニアのニコラエ・チャウシェスクの場合も同じだ。彼は1989年12月21日、首都ブカレストの共産党中央委員会の建物のバルコニーから10万人を超える群衆に向かって騒乱の事態を批判した。けれども軍は彼の発砲命令に従わなかったし、彼は信じていた軍部によって軍事裁判にかけられた。チュニジアでも軍部が発砲命令を拒否し、ベンアリ大統領に背を向けた。パク・チョンヒ体制は最側近だった中央情報部長キム・ジェギュの銃弾に倒れた。
 米国など外部の圧力も長きにわたる政権の没落に拍車をかけた。ムバラクの土壇場での退陣には、彼がもはや耐え難いと判断したバラク・オバマ米国大統領などの繰り返される辞任要求が作用した。長い間、支援していた親米独裁者とて没落が明らかとなった瞬間に背を向けたのは、これまで米国が何度も選択した道だった。
 旧ソ連も1989年の東欧民主化の当時、ミハイル・ゴルバチョフ大統領が、もはやソ連軍として東欧の共産党体制を支援しないと語り、共産圏の解体を催促した。ひもじさによって死んでいく国民の声を聞くことのできない長きにわたる独裁者たちの「動脈硬化」も政権没落直前になってやっと事態を理解させ、どんなにあがいても事態を後戻りさせることはできない状況を演出した。
  革命の後には政治的断罪が伴いもする。マーク・エルマン英国オックスフォード大学歴史学教授はメディアへの寄稿で「革命後、大衆は没落した統治者への処罰を望み、後任の指導者たちも政権交代だけでは解決しない経済・社会的問題に対する関心をそらすためにも前任者の断罪に乗り出しもする」と分析した。

市民革命とクーデターの歴史

 市民革命が民主化を保障するわけではない。多くの市民革命が独裁者を追い出すことには成功したものの、革命が追求した民主主義や自由をもたらすことができなかったり、ひもじさを解決できなかったケースも少なくない。米国の人権団体「フリーダムハウス」が2005年に発表した報告書を見れば、1972年以降に権威主義政権が倒れた67カ国を分析した結果、35カ国だけが「自由国家」に分類された。アルバニアやウガンダなど23カ国は「部分的自由国家」、「ベラルーシやジンバブエなど9カ国は「非自由国家」に分類された。
 またエジプトやチュニジアでのように非暴力市民連帯を通じた政権交代が、エリートらによる下向式政権交代よりもはるかによりよい結果を生んだ。67の体制転換ならびに政権交代国のうち50カ国で非暴力市民抵抗が非常に大きな影響力を行使した。このような50カ国の中で32カ国では政治的権利や市民の自由が相当なレベルで保障されるに至った。ラトビア、リトアニア、エストニアなどスカンジナビア半島に近いバルチック諸国家はソ連から分離した後、成功裏に民主化を実現したモデルに挙げられる。反面、マケドニアやウズベキスタンなど下向式政権交代をはたした14カ国の場合、3カ国だけが2005年の調査で「自由国家」に分類された。
 現在のエジプトも成功のうちに民主化を実現するとはとても言いがたい状況だ。ムバラク大統領の下野後、国家の運営を担っているエジプト軍最高委員会は2月13日、憲法の効力を停止させ議会を解散するとともに、改正憲法に従って大統領と議会選挙が行われる時まで6カ月間に限って国政を運営する予定だと発表した。軍最高委員会は「軍部はエジプトを統治しないであろうし、民生国家に向かう道へとまい進するであろう」と強調した。
 約束は守られるだろうか? 韓国の4・19革命は5・16軍部クーデターによって水の泡となった。4・19革命からわずか1年後の1961年、2軍司令部の副司令官だった少将パク・チョンヒらがひき起こした軍事クーデターによって第2共和国は崩壊し、韓国は長い独裁の時代に踏み込んだ。
 ダニエル・ソア米国ジョンスホプキンス大学国際関係大学院教授は2月13日、〈ロイター通信〉のインタビューで「エジプト国民がムバラク追放を軍部の力に頼った面がある。従って軍部が、革命を完遂できるように許容するのかを見守らなければならない」と指摘した。
 エジプトが1987年の韓国の事例に従うのであれば、それは成功だ。1987年には民主化抗争を通じて直選制改憲の要求を貫徹したし、ノ・テウという「過渡期」を経て文民政府を発足させた。インドネシアも軍出身のスハルトが追放された後、民主主義の安着に成功した。革命以前に民主主義を経験したことがあるのかどうかも政権交代の成功に重要な影響を及ぼす。
 フィリピンでフェルディナンド・マルコスが1986年に追放された後、民主化が相対的に安定して進められたのは、ともかくもマルコスが選挙を通じて2度、大統領に当選するなど、民主主義の経験があったことがプラスとなった。1970年に世界で初めて選挙を通じて社会主義政府たるサルバドール・アジェンデ政権が樹立されたチリは1990年3月の大統領選挙を経てアウグスト・ピノチェトを追放して民主主義を取り戻した。

民主化の転換期における攻防

 米国最高のシンクタンクであるブルッキングス研究所のスティブン・グランド局長は2月10日、「市民革命後、東欧などの事例に見られるように、既存の政権内部者の極端主義者、政治的機会主義者などが転換期を自分たちのために活用した事例がある」し、これをエジプトなどの民主主義定着の過程において警戒する要素として指摘した。フリーダムハウス報告書は「権威主義の統治が崩れた後、多くの政権交代が堅固な民主主義へと結びつくことができなかった。転換期に幅広い支持を得ている非暴力市民連帯が登場するように国際社会が支援することが避けられない」のであり「市民活動を繰り広げることのできる政治的スペースが作られるように国際社会が外交的圧力などを行使しなければならない」と指摘した。けれども外部の支援は制限的であらざるをえない。今やエジプトの民主化が成功するかどうかは、ムバラクを追い出したエジプト人の手に再びかかっている。(「ハンギョレ21」第849号、11年2月28日付、キム・スンベ記者)


コラム
続ドブロク

 友人宅で御馳走になったあのおいしいドブロクの味が忘れられない。普段はもっぱらウィスキーを寝酒にしてきたのだが、あれからドロドロの純米にごり酒を購入するなどして、欲求を押さえ込もうとしてきた。しかし二〜三本も飲めば飽きてしまう。そんななか「生にごり酒」があるという情報を耳にして、帰宅途中の酒屋に入った。
 「生にごり酒は置いてますか!」。「今年は二〇〇本入れたんだけど、一週間で完売してしまいましたよ」。「次の入荷は……」などとグズグズしていると、「しょ〜がね〜客だな!」とでも思ったのだろう、店の主人が空ビンを持ってきた。岐阜県産の生にごり酒である。どうもこの手の酒は新年の「祝い酒」として飲まれているのかもしれないな〜などと思いながら店を後にした。
 やはり自力で挑戦してみるしかないのか! そして材料探しが始まる。問題は麹菌だったのだが、できあいの乾燥冷蔵された米麹をついに発見する。
 いよいよ「実験」が始まる。中高生時代の理科の実験のときのようなワクワク気分で米麹をもどし、米を蒸し、米ぬか乳酸菌とイースト菌、そして水を空ビンに入れる。三日目くらいでブクブクと泡が出始め、発酵が始まったようだ。
 毎朝晩、わが子を育てるようにやさしくビンを揺すり混ぜる。最愛の娘が家を出てから四年。一三年目のミドリガメも一一月から冬眠中。いま孤独な一人暮らしの私には、ビンの中の麹菌が愛する家族の一員になったように思えてくる。人間とはおかしなものである。おかしいのは私だけか!
 こうして一週間で醸ができ、米麹と蒸し米と水を追加する。完成まであと二週間。発酵は順調に進んでいるようだ。
 そして完成の日がきた。ビンをよく振り、湯飲み茶碗に「ドブロク」を注ぐ。しかし、ドロドロという感じではなく、白く濁った水の中にふやけた米粒が浮遊しているという状態なのだ。「何だこれは!」と思ったが、飲んでみないことにはわからない。人体実験である。
 匂いは悪くない。エイヤーとその液体を口に含む。ピリピリッとハイボールの炭酸のようなしびれが舌の上を走る。飲み込むと次に苦みがくる。「まずい!」。酒を飲んだという感触ではない。もうひと口飲んではみるも同様である。「実験は失敗か!」と思いながらも、発酵を止めねばならないので、ビンを冷蔵庫の中に入れる。
 捨てるのはもったいないし、どうして飲むべきか。まさか飲み方まで考えなければならないとは予想外である。舌の感触から「りんごジュース割りか!」と考えたが、トマトジュースとカルピスも購入して試す。やはりリンゴジュースが正解だったようだ。
 よくわからないが、ピリピリ感は米ぬか乳酸菌とイースト菌の影響で、苦みは過剰発酵からだと決め込むことにした。できあがったあの「まずい」液体は、「ドブロク」だったのかどうか……。いずれにしろ楽しい実験ではあった。     (星)


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