2010年に3千人そして今
下請け含め千人の追加合理化
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大韓民国造船1番地。釜山駅の裏側に出て右側に首を回せば数万トン級のコンテナ船が頭を突き出している。ここに影島がある。1937年、わが国初の造船所がここに作られた。そして初めて390トン級の鉄鋼船を製作した。「最初」は、これにとどまらない。国内で初めて輸出鉄鋼船を建造し、警備艇(軍艦)を作ったのも最初だ。冷凍船を作ったのも、石油ボーリング船を作りデンマークに売ったのも影島造船所が最初だ。
70mクレーンに上り抗議
1月11日、韓進重工業影島造船所は冷え冷えとしていた。零下の天気よりもさらに厳しいのは海風だった。造船所の正門に立つと船舶を作っているクレーンが見える。100トン級、高さ70mほどの超大型クレーンは6万トンクラスのコンテナ船を作っていなければならなかった。5番目のこのクレーンは動いていない。1977年に建てられて錆付いた模様がそちこちに付いているものの、数十個のクレーンをなぎ倒した台風「メミ」の際も生き残った奴だった。巨大な動きを止めたのには理由がある。
その人物も影島造船所にも似て「最初」という呼称を持っている。その人は、わが国最初の造船所女性溶接工だ。わが国で最も長い間、解雇者として過ごした女性労働者でもある。影島造船所で溶接を学び、解雇され、復職のために闘った。30年の時間だった。民主労総釜山支部キム・ジンスク指導委員(52)が35mのクレーン調整室に上ったのは1月6日のことだった。そのまま手ぶらで上ったので誰も気づかなかった。彼女は、400人を整理解雇するという韓進重工業の決定に立ち向かう高空デモを展開している。
「2010年2月26日、構造調整を中断することで合意して以降、韓進では3千人を超える労働者が首切られ、設計室が閉鎖され、蔚山工場も閉鎖され、多大浦も必ずやそうなるだろうし、300人を超える労働者が強制休職されました。ところが、さらに400人を首切るというのです。下請けも含め千人余りが切られることになるでしょう」(キム・ジンスク委員が残した手紙の中から)。
クレーンに上る前、自分が言いたいことのすべてだとして後輩に残した手紙の一部だ。彼女はすでに大分以前に解雇の刃を受けていた。韓進重工業の前身である大韓造船公社時代の1986年、「会社への名誉棄損、上司の命令への不服従」という理由で解雇された。以降、復職闘争を繰り広げた。共に復職闘争をしていた17人がすべて会社に復帰した2003年にも彼女だけは復職できなかった。民主化運動関連者名誉回復保障審議委員会は2009年11月に「解雇は不当だ」と判定したけれども、韓進重工業は復職させなかった。会社は復職させないキム委員を「第3者」と呼ぶ。第3者が事業場に入ってきて篭城しているのだから、直ちに退去せよ、と要求している。35mの高さの調整室を遥かに見上げながらキム委員に電話をかけた。彼女は記者に向かって屈託なげに手を振った。
クレーンの階段を昇り始めた。高空クレーンは下から見ると押し潰されるように恐く、昇って下を見ると転げ落ちるかと思うほどに恐ろしい。震える足で62個の階段を昇ると甲板のように広い平たい場所が現れた。それ以上、昇り進むことはできなかった。調整室に向かう鉄扉が固く閉ざされていた。そこからさらに15m昇らなければ調整室にはたどりつかない。さらに昇ろうとするならば、キム委員に開けてもらわなければならない。扉は開かなかった。扉の前には「糾察隊」という名称の赤い帽子をかぶった同僚パク・ソンホ氏(51)がいた。パク氏はキム委員と一緒に解雇された後、2003年に復職した。彼は「扉を守っているのではなく、キム委員の安全を守っている」と語った。
キム委員が篭城している85号クレーンはキム・ジュイク元・韓進重工業労組支会長が129日間の占拠篭城後、自ら命を断った所だ。2003年のキム元支会長の死は社会的イシューとなった。韓進重工業は構造調整を中断した。8年の歳月が流れたが、悲劇は繰り返されている。当時、650人の整理解雇の方針を発表したように、今回は400人の整理解雇の方針を明らかにしている。1月12日、希望退職を申請した110人を除く290人に解雇予告通知文を一斉に発送した。今、キム委員は8年前のキム元・支会長がそうしたように、会社側の整理解雇を全身で中断させようとする。キム・ジュイクの英霊が宿った1坪余りの空間には、くつろいで身を横たえる場所はない。扉を閉め鍵をかけたまま、ひとりぼっちで大変な高空篭城中のキム委員の安全を、同僚たちは大いに心配している。
これ以上、接近することができずキム委員に声をはりあげて聞いた。激しい風がその声を吹き消すようだった。「寒くないですか?」「ご飯はちゃんと食べていますよ」「必要なものはないですか?」「ウリ チョハブォン(わが組合員)」「はい?」「ウ、リ、チョ、ハプ、ウォン」。キム委員は厚い外套を幾重にも着ていた。下から電気カーペットを上げて送り入れたけれども実際に使っているかは確認できない。12時になると昼食が上げられた。豆腐2丁と飲料水のボトル、これがすべてだった。実際にはご飯を食べられない状態だった。下にいる人々の心配は高まっている。「しっかりがんばっているから心配するな」というキム委員のあいさつを背にして戻った。85号クレーンには占拠篭城を表示する垂れ幕1つ掛かってはいない。
年老いた「潜水艦労働者」の涙
2日後の13日、キム・ジンスク委員と再び電話でインタビューした。前日の晩は風がひどく吹き眠ることができなかったと語った。「生きて降りるだろう」と彼女は語った。降りる日を聞いた。「(整理解雇の)名簿が出てくる前に、それを阻止しようとして上ってきました。名簿が出るのを阻止できませんでしたね。いつ降りることができるか、今は分かりません」。キム委員は篭城が終わる日についての予想よりも、整理解雇対象者とそうでない者とに分かれ労働者同士で葛藤が起きないかを心配した。
昨年12月15日、構造調整案が発表されると、労組は12月20日から無期限全面ストに突入した。会社側の立場には変わりがなかった。キム委員が高空篭城を始めた1月6日以降も会社の方針には変わりがなかった。会社は7日、釜山地裁にキム委員の退去仮処分を申請し、裁判所は会社側の請求を認め、10日の退去断行ならびに出入り禁止の仮処分の決定を下した。
キム委員が上がったクレーンの前を守っているスト労働者の中にはキム・ギョングン氏(52)もいた。ぎこちない行動が目につくほどに頸椎ヘルニアを患っていた。「私が解雇順位1番」だと語る。彼は労災で2年間、病院にいた。復職してから2カ月しかたっていない。彼はわが国最初の潜水艦を作った。電子通信設備を解体したり設置したりする仕事のパート職を20年間やってきた。
彼は目を閉じても自分が作った軍艦や潜水艦の構造を覚えている。外では自分は軍艦を作っているという話をすることなく暮らしてきた。それは自負心でもあった。10年間、海軍下士官の生活をしつつ、わが国最初の駆逐艦だという忠武艦に乗ったこともある。彼が最後に電子通信装備を設置した船が、わが国最初の砕氷船であるアラオン号だ。キム氏の人生は韓国軍艦・特殊船の歴史だ。「解雇対象者である290人のほとんどが、みなそうだ」とキム氏は語った。
非正規職となり造船所に戻る
現在の状況、今後の生計対策を聞いたけれども、彼はしきりに過去を語る。5mを超える構造物に衝突して海に落ち、不自由な体で「月給は少なかったにもかかわらず幸せだった時節」であるとして自分の労働を反すうした。だが突然、激しく泣きだした。
「キム・ジュイクは私が殺したも同然です。私が殺したんだ」。キム氏は2003年の韓進重工業整理解雇反対ストの当時も、現在のように85クレーンの前にいた。彼は当時、馬山の韓進重工業造船所で働いていたが、スト支援のために釜山事業場に来た。だが警察による解散の圧力、会社側の損賠・仮差し押さえの脅迫のせいでスト参加人員が多くはなかった。結局、馬山側の労働者たちは馬山に戻ることが決まった。「撤収した翌日、電話を受けました。支会長が亡くなった、と」。自分がスト現場を守っていたならばキム元・支会長がそんな決心をしなかっただろうという罪悪感がキム氏を苦しめている。涙はとまらなかった。のどが張り裂けるほどに激しく泣く訳がキム・ジュイクに対するすまなさなのか、過ぎし日々に対する悔恨なのかは明らかではなかった。彼は12日、解雇予告通知を受けた。
これらの人々にとって解雇は命を断たれる痛みだ。カン・ソンヒョン氏(仮名)は「私が、まさに整理解雇された人々の未来」だと語る50代の労働者だ。カン氏は2009年に整理解雇の方針が決定されるとすぐ希望退職を申請した。通常賃金を基準に1年分の月給をまとめて受けとったけれども1億ウォンにもならないカネでできる仕事はなかった。フライドチキン店を開くカネにもならず」選んだのは「再び造船所の溶接工」だった。「20年以上も造船所で溶接の仕事をしていた人間が他に何ができるでしょう」。
ただし彼は影島からなるべく遠く離れた造船所を探した。就職するのは難しくはなかった。「大きな船を作ったノウハウがあったからです。溶接はみな同じだと思われがちだけれども、そうではないんです。鉄板が船のどの部分に使われるのかによって違うんですからね」。だが身分は非正規職だった。1年契約をした。月給は100万ウォンにしかならなかった。溶接をしたのは、わずかだった。入った事業場の仕事が終わり次第、別の事業場に配置されるという話を聞いた。そこは影島造船所だった。「本当に、行きたくはなかったのに…」。
青春を捧げたかつての職場に1年ぶりに帰ってきたものの、いろんなことが余りにも変わっていた。まず担当する仕事が変わった。溶接ではなく、資材運びの仕事が当てられた。その仕事でなければ、もはや働き口が与えられないようだったので、気のりのしない仕事でも拒むことはできなかった。影島造船所で働いている非正規職は現在千人余りで、正規職の数とどっこいだ。多い時には2千人を超えもしたけれども最近のように働き口が減れば、声をあげることもなく減りゆくのは非正規職だ。建設現場と同様に、工期が終わるか契約した業務が終了すれば他の働き口を求めて去らなければならない。
造船所の非正規職はそれで「ポッタリチャンス(行商人)」と呼ばれる。出退勤をするものの日雇い職と変わらない。「停年を迎えて退職すること以外には、特に望むことはありませんでした」。「今年5月になればカン氏が影島造船所でしている仕事が終わる。その後は付近の造船所のまた別の、どこかで働くことになるだろう」と推測するばかりだ。カン氏の未来において確定的なものは何ひとつない。若い非正規職は全国を渡り歩きもするけれども、50を過ぎた歳で釜山を離れるのは困難だ。「がんばれるところまでがんばってみろという以外には言いようがないですね」。スト中の同僚たちに伝えた言葉だ。がんばらなければ彼らすべてが日雇い職となるだろう。
まだもっと稼がなければ
希望退職を申請したということのゆえにカン氏は他の同僚たちにすまないという気持ちを抱いている。彼らの目を避けて電話でカン氏と対話をかわしていると、受話器の向こうに警笛音が響く。資材を運ぶ重装備を運転する時間だ。「もう電話をしないでくれ」と彼は頼んだ。運転を始めれば彼は鋭敏になる。慣れてはいないので事故の危険がある。だが、あれこれとえり好みする立場ではない。大学生の息子がいる。まだもっと稼がなければならない。さらに稼がなければならない老いたる労働者が影島造船所にはたくさんいる。彼らは今、解雇の刃に立ち向かいつつストライキ中だ。(「ハンギョレ21」第845号、11年1月24日付、釜山=ハ・オヨン記者、写真チョン・ヨンイル記者)
比スービック造船所をめぐる争点
会社「受注単価のため必要」、労働者「まず国内の再生を」
韓進重工業が整理解雇を進めている裏面にはスービック造船所がある。韓進重工業は2007年、フィリピン・スービックに70万坪規模の造船所を建てた。スービック造船所の建設はフィリピンの国策事業であるだけに、大きな期待を集めた。だが2008年の金融危機は船舶分野に致命打を加え、受注物量は急減した。1億ドル前後だった船舶の受注単価は半分に急降下した。
結局、2009年に韓進重工業は構造調整計画を発表した。希望退職を受けるという会社側の方針が公表された。当時、会社側の希望退職の提案によって会社を去った職員は500余人(非正規職を含めると3千余人)で大部分は設計分野など事務職だった。以降、人為的構造調整なしに労使間の協議によって整理解雇はけりがつけられた。10カ月が流れた。再び構造調整が始まった。今度は主として現場労働者が対象だ。
会社側は「受注がなく、どうしようもない」との立場だ。韓進重工業蔚山造船所は昨年7月から休業中であり、多大浦側の韓進重工業造船所も状況は変わらず、部分休業中だ。この2年間に受注した物量8雙は、すべてスービック造船所に配置された。
労組の立場は簡単だ。スービックに対する投資を、国内の労働者を犠牲にして回収しようとはせず、国内受注量がないのならばフィリピンの物量を韓国に持ってくればよい、というものだ。本来、海外事業場の設置は労使合意事項なのに、会社側は当初の約束を守らず、スービック造船所の建設を労使合意なしに推進したのだから、その被害を労働者に押しつけるのは不当だという主張を繰り広げている。
韓進重工業チョン・チョルサン部長(企業文化チーム)は「船舶単価を決定する過程で最も多く反映されるのが人件費」であり、「影島造船所で受注する時の入札単価は7千万ドルだが、競争各社は普通5500万ドルから6000万ドルという状況で、人件費全体の20%程度を減らさざるをえない」と語った。スービック造船所の物量を韓国に移転する問題についても「フィリピンで5500万ドルで受注した物量を(人件費が高い)影島造船所で作るのは難しい」と語った。
けれども韓進重工業労組は反論資料を通じて「スービックや他の造船所の受注単価は影島造船所と同じで、大部分は6千万ドル水準」であり「会社側が主張している(スービック造船所と影島造船所の)単価は縮小されたり水増しされたりしたもの」だと指摘した。(「ハンギョレ21」第845号、11年1月24日付)
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