10・23通達を
全面的に擁護
東京高裁(都築弘裁判長)は、一月二八日、東京都教育委員会の「日の丸・君が代」を強制するために校長の職務命令に従わなければ処分するという10・23通達(〇三年「入学式・卒業式等における国旗掲揚及び国歌斉唱の実施について」)に抗議して教職員三九五人が従う義務のないことの確認などを求めた「国歌斉唱義務不存在確認等請求訴訟」(「日の丸・君が代」強制反対 予防訴訟裁判)で一審(〇六年九月)の勝訴判決を取り消す逆転不当判決を出した。
高裁判決は、改悪教育基本法下、都教委のグローバル派兵大国建設と連動して愛国心教育と新自由主義的教育改革を押し進めるために「日の丸・君が代」を強制し、抵抗・抗議する教職員の排除をねらった10・23通達を全面的に擁護するために、一審勝訴の難波判決をことごとく打ち消す性格となっている。都築判決を厳しく批判し、最高裁で勝利判決をかちとろう。
1審難波判決
に敵対丸出し
最初に一審判決(東京地裁・難波孝一裁判長)が画期的な判決であったことを再確認しておく。難波判決は、10・23通達を憲法一九条が保障する思想・良心の自由を侵害するものであると断定し、違法と判断した。その骨格は@原告らに卒業式等における国歌斉唱の際に、起立・斉唱・伴奏の義務がないことを確認A「日の丸・君が代」は、未だに「価値中立的ではない」B起立・斉唱・ピアノ伴奏をしないことを理由にいかなる処分もしてはならないC違憲違法下では公務員の職務の公共性による制約はできないD学習指導要領は「大綱的基準」であり一連の強制は違法E10・23通達によって原告らが被った精神的損害に対する慰謝料の支払いを命ずる判決を言い渡したのである。
また、都教委の「不当な支配」の下で出された校長の職務命令は、教職員の思想・良心の自由を侵害し、旧教育基本法十条1項で定めた「不当な支配」に該当し違法だとした。
控訴審判決は、一審の10・23通達が思想・良心の自由を定めた憲法と「不当な支配」を禁じた教育基本法に違反して無効だとした判決を取り消すために動員してきたのが、ピアノ伴奏強制拒否最高裁判決だ(〇七年二月)。
ピアノ裁判とは、一九九九年四月、校長が音楽科教諭に対し同校の入学式において国歌斉唱の際にピアノ伴奏をするよう発した職務命令に対し、ピアノ伴奏を拒否したことを理由に、都教委が懲戒処分を強行し、その違憲性が争われた事件である。最高裁は、ピアノ不伴奏教諭の思想・良心に基づくものと認めながらも、ピアノ伴奏強制そのものは憲法一九条違反でないとした。
高裁は、このピアノ裁判最高裁判決を引用し、「職務命令は公務員の職務の公共性に由来する必要かつ合理的な制約として許される」として、都教委の立場を防衛した。10・23通達以前の一九九九年時の職務命令に対する判断をしたピアノ判決を、そのまま強引にあてはめたのである。
とんでもない
解釈の連発だ
さらに高裁は言う。国旗掲揚と国歌斉唱について「個人に自身の歴史観や世界観を否定する行為を強制するものではない」などとうそぶき、「従来、全国の公立高校の式典やスポーツ観戦では一般的に起立・斉唱が行われている」から認められるのだと居直った。しかも起立して斉唱しても、「通常想定され、期待される行為で、教職員が特定の思想を外部に表明するとは言えない」というサービス付だ。これだけではない。「日の丸・君が代が国家神道と不可分な関係にあるとは認識されていない」と主張し、わざわざキリスト教徒の教職員の「信教の自由」を害さないと規定してきた。とんでもない解釈のオンパレードである。
この延長において難波判決が「日の丸と君が代」を「終戦まで軍国主義思想の精神的支柱だったのは歴史的事実」だと規定したことを国旗国歌法制定(一九九九年)の前から日の丸が「国旗」、君が代が「国歌」であることは「慣習法」として確立していたと階級的憎悪に満ちた姿勢でデッチ上げ、「一律に起立、斉唱するよう求めた都教育長通達には合理性があり、思想・信条・良心などの自由を定めた憲法に反せず、教育基本法が禁じる『不当な支配』にも当たらない」とする暴論を展開してきた。
一審の難波判決が旭川学力テスト事件最高裁判決(一九七六年)を引き継いで「教育内容に対する国家的介入についてできるだけ抑制的であることが要請される」、「子どもが自由かつ独立の人格として成長することを妨げるような内容の教育を施すことを強制するようなことは、憲法二六条(教育を受ける権利、学習権の保障)、一三条(個人の尊重)の規定上からも許されない」という判断を放り投げだしてしまったのである。
「大綱的基準」である学習指導要領も「式典の国旗掲揚、国歌斉唱を指導すると定めている。一方的な観念を子供に植え付ける教育を強制するものではない」などとウソを隠そうともせず、「通達の目的・内容は不合理とは言えない」と強引に断定した。通達や職務命令が「教職員に一方的な理論や観念を生徒に教え込むことを強制するに等しい」「公共の福祉の観点から許される制約とは言えない」とする一審判決の違憲判断を覆したのである。
原告側は通達違反を理由にした懲戒処分などの事前差し止めの予防訴訟も求めたが、「本件通達の発出によって重大な損害が生じるおそれがあるとはいえないし、その損害を避ける他に適当な方法がないとはいえない」などと手前勝手な解釈を披露し、「通達の取り消し訴訟や無効確認訴訟の方が適切」などとすり替え論理まで使ってきた。
そのうえで「したがって、被告人らの提起する無名抗告訴訟としての本件公的義務不存在確認訴訟は、重大な損害を生ずるおそれがあり、かつ、その損害を避けるため他に適当な方法がないとはいえないので、確認の利益が認められないというべきである」と反動主張を持ち出してきた。つまり、
行政事件訴訟法改正(〇四年)で「行政庁が一定の処分又は裁決すべきでないにもかかわらずこれがされようとしている場合において、行政庁がその処分又は裁決をしてはならない旨を命ずることを求める訴訟」の権利救済としてある「差止めの訴え」も否定してきたのである。このような高裁の民衆への弾圧強化を許してはならない。
都教委の居直り
を許さぬ闘いを
すでに原告団は、高裁に対して都教委が10・23通達を根拠とした大量処分乱発、人権侵害の繰り返しを積み重ね、しかも裁判でその被害実態も具体的に証拠として提出してきたが「通達の発出によって、その思想・信条・良心等の侵害を受け精神的・人格的な苦痛を被ったとはいえない」と排除し、「公的義務不存在」の「確認の利益が認められない」と断定するのだ。この高裁の人権感覚は最悪であり、石原都知事、都教委、反動勢力の意志を忠実に代弁したものとなっている。
このように高裁判決は、「日の丸・君が代」強制反対・抗議をめぐる諸裁判での反動判決の定着を狙い、絶対に難波判決の存在を許してはならず、「抹殺」するために強行したのだと言わざるをえない。都教委の大原正行教育長は、「都教委の主張が認められたことは当然のことと考える。今後とも、学校における国旗・国歌の指導が適正に行われるよう取り組んでいく」と全面賛美だ。また、枝野幸男官房長官も「卒業式等の国旗掲揚・国歌斉唱の指導は各学校で適切に行われる必要がある」などとバックアップしていくことを強調した。「日の丸・君が代」強制推進の菅政権を許してはならない。
すでに都教委は、四三〇人にもおよぶ不起立・ピアノ伴奏拒否した教職員に対して戒告・減給・停職などの懲戒処分攻撃を強行している。また、定年退職後の再雇用職の採用・継続拒否など悪質性を深めている。都教委の居直りを許さず、粘り強く闘われている「日の丸・君が代」強制反対闘争、諸裁判闘争などを支援していこう。その一環として予防訴訟上告審闘争に連帯していこう。
(遠山裕樹)
投書
東京都青少年健全育成
条例改悪に反対する
SM
東京都の青少年健全育成条例改悪案が一二月一五日、都議会本会議で可決、成立した。民主、自民、公明が賛成した。共産党、生活者ネットワーク・みらいは反対した。改悪案は、六月の議会で否決された案を手直ししたものだ。
〈新案は、マンガ・アニメなどで、「刑罰法規に触れる性交もしくは性交類似行為、または近親者間の性交もしくは性交類似行為を不当に賛美し、または誇張するように表現すること」を規制の対象としている。この条例案の陣頭指揮をとる、都青少年・治安対策本部にも問題がある。現在、都青少年・治安対策本部長を務める倉田潤は、二〇〇六年に公職選挙法違反の架空調書をデッチあげた志布志(しぶし)事件(二〇〇三年)が発覚した際に、鹿児島県警本部長を務め「自白の強要はなかった」と県議会で答弁していた人物だ。
当初からこの問題に取り組んできた民主党の松下玲子都議は言う。「新案は、魚が泳いでいる池に爆弾を落とすようなものです。池には駆除したい魚だけでなく、良い魚もたくさん泳いでいるにもかかわらず一網打尽にすることになる。つまり、行政が規制をすることで、表現活動全体が萎縮してしまうおそれがある。ましてや、東京は大手出版社を多く抱える発信地。その影響は全国的に波及する」。戦前、治安維持法下による言論規制は、マンガ本などの「エログロ・ナンセンス」の取り締まりから始まった〉。――社民党の保坂展人(ほさか・のぶと)さんは、『週刊朝日』(二〇一〇年一二月一七日号)で、以上のような意味のことを述べている。
近親者間の性交もしくは性交類似行為を描いてはいけないなら、「オールドボーイ」(パク・チャヌク監督作品/二〇〇三年/韓国映画/第五七回カンヌ国際映画祭で審査員特別グランプリ、第三七回シッチェス・カタロニア国際映画祭でグランプリを受賞した)のような映画も規制されるべきなのか。刑罰法規に触れる性交もしくは性交類似行為を描いてはいけないのは、刑罰法規に触れる行為だからなのか。刑罰法規に触れる行為を描いてはいけないなら、性交もしくは性交類似行為とは関係ないかも知れないが、「復讐者に憐みを」(パク・チャヌク監督作品/二〇〇二年/韓国映画)のような映画も規制されるべきなのか。本当は、性交もしくは性交類似行為を描くこと自体も規制したいのか。映画ならいいが、マンガ・アニメはダメなのか。東京都は、ゆくゆくは映画も規制しようと考えているのではないか。あらゆる表現を規制したいと考えているのではないか。マンガ・アニメが規制されるべきなら、次は他も規制されるべきだ。そういうことになりかねない。東京都は、日本軍の強姦も描いている「キャタピラー」(若松孝二監督作品/二〇〇七年・日本映画/二〇一〇年ベルリン国際映画祭コンペティション部門で寺島しのぶさんが銀熊賞最優秀女優賞を受賞した)のような映画や、「従軍慰安婦」問題を描いている梁石日(ヤン・ソギル)さんの『めぐりくる春』(金曜日)のような小説も規制されるべきだと考えているのではないか。「不当に賛美し、または誇張するような表現」など、どうにでも解釈出来る言葉だ。あれがいけない・これがいけないなどと言っていたら、芸術活動など成立しない。
性犯罪をなくしたいなら、性教育や人権教育を充実させ、社会の男女平等を推進するべきだ。外国人・女性・「障害者」・同性愛者などを差別する石原慎太郎は、都知事を辞任するべきだ。マンガ・アニメの性表現を規制するのは、マスターベーション(相手の合意を必要としない性的行為)を規制するようなものだ。東京都青少年健全育成条例改悪に、私は反対する。(二〇一〇年一二月一八日)
コラム
いろんなオルグがあった
ぼくが学生運動にかかわるようになった一九六五年のころ、われわれには現在の「かけはし」のような全国政治新聞はなかったし、中央機関も地方機関もなかった。だから、国際情勢や日本情勢の分析も、学内の方針やスローガンも、自前で考えるしかなかった。メンバーにオルグするにしても、それぞれが自分で考えて、さまざまなやり方をするしかなかった。
なかでも、ぼくの下宿にやってきたLさんのオルグは、豪快だった。一九一七年の二月から一〇月にいたるロシア革命の経過を、メモなどを見ることなく、二時間ほど延々と一方的に語りつづけるのだ。「すごい」と思ったが、ぼくの目は、彼の膝元の畳の上に釘づけになっていた。
そのころは、風呂に入れるのは、多くても一週間に一回程度だったのだが、Lさんは話しながら首筋のあたりをゴシゴシこすり、指先で丸めた小さな垢の玉を膝元に置いていく。それがどれだけたまるのか、ぼくの興味は話の内容より、そちらに引きつけられてしまった。一〇月まで語り終えると、彼は「じゃあ」と言ってさっさと帰っていった。これがオルグだったとわかるまで、しばらくかかった。
それとは対照的なのは、Pさんのオルグだった。下宿にあがりこむなり、「君といっしょにやりたい。メンバーになってほしい」と、おがむように揉み手をしながら話しはじめた。そのあと世間話になり、その途中でまた同じ言葉を発するという繰り返しになる。ほとんどプロポーズされているような気分だったが、ぼくが必要とされているという熱い気持ちは十分伝わってきた。
「オーソドックス」と思われるのは、Qさんのオルグだった。「ちょっと話がしたい」と、声をかけられ、大学のグラウンド脇の木陰に置かれているベンチにふたりで腰かけた。そこで、Qさんは「いま、繁華街で反戦青年委員会の労働者たちが、ベトナム反戦のために座り込んでいる」と語りはじめた。そして、反戦青年委員会がどのようにして形成され、どのような意義があるのか、ベトナム反戦闘争にとって、革命の主体となるべき労働者の役割がどんなに大きいのかなど、語った。とにかく、ぼくは、座り込みの現場に行ってみることにした。
いろんな集会や学習会に参加したり、デモに行ったり、さまざまな人と討論したり、自分で本を読んだりして、そしてそれぞれに個性的なオルグを受けたりして、ぼくはメンバーになった。そのころは、自分の感性に合う党派を「選んだ」という感じだったように思う。そして、その感性の核をなすキーワードは「インターナショナル」と「労働者階級の革命」だった。
いまは全国政治新聞があるが、それでも各人各様の手づくりの活動は欠かせない。やっぱり模範的といえるようなオルグはない。それぞれが個性をいかしながら、「君といっしょに活動したい」とまわりを誘いつづけることは、ぼくら自身をも鍛えることにつながるのではないだろうか。(岩)
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