パレスチナ
民族運動の将来についての考察(上)
植民地秩序の強要を狙う
イスエラルとどう闘うか
ジュリアン・サリンゲ
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米オバマ政権による「和平交渉」の宣伝にもかかわらず、イスラエル政府によるパレスチナの不法な軍事占領・併合は既成事実として進行している。二〇〇八年一二月〜〇九年一月の空爆で破壊されたガザは封鎖状態にあり、昨年末にもイスラエルによる爆撃が行われた。エルサレム、ヨルダン川西岸地区では、パレスチナ人住居の破壊がさらに進んでいる。ファタハが主導するパレスチナ自治政府はイスラエルの占領支配を補完する存在となっている。欺まんに満ちたオスロ協定以後の経過の見直しと解放運動の戦略的再構築が求められている。筆者のジュリアン・サリンゲはパリ第八大学の政治学教員でフランスNPA(反資本主義新党)のメンバー。彼は二〇〇一年以来、定期的にパレスチナを訪問し、活動家たちとの討論・交流を続けている。
パレスチナ情勢分析の視点
一〇月三日、事実上のパレスチナ大統領であるマフムード・アッバス(彼の任期は公式には二〇〇九年一月で終わっている)は、西岸への入植凍結が延長されないならばイスラエルとのすべての対話を拒否すると述べた。同日、イスラエルの退任する主席担当官ガビー・アシュケナージは、ベツレヘムを「訪問」し、パレスチナ治安当局の公式代表と会合した。この二つの明らかに矛盾する出来事の一致は、ながいこと休止状態のまま葬りさられていた「平和プロセス」を復活させる外交的ポーズと、イスラエルの拡張主義政策が継続しパレスチナ自治政府が植民地的弾圧機構においていっそう強力に統合されている現実との同調的結合が、ますます目に余る形で失われていることを分かりやすく示している。
私はここで、パレスチナ地域の情勢の完全な構図を描こうという願望は持たないにしても、主な座標について見きわめようとしている。しかしそれは、根底にある流れと現実の基本的なところでの分析を推し進め、ラマッラーのパレスチナ自治政府(PA)と左翼の側に焦点をあててパレスチナの側で動いている論理を明確化することによって、今日の出来事をその文脈と歴史性において再定義するところにまで行き着く。左翼、とりわけパレスチナ解放人民戦線(PFLP)は、PLOを出自とする諸勢力が採用した悲劇的路線を意識し、現実にオスロ協定以後の年月についての批判的再検討を行っている。その結果、最近PFLPは、アッバスによる直接対話の再開に抗議するしるしとして、PLO指導部の会議に参加することを停止すると発表した。PFLPがこうした決定を行うのは初めてのことではないが、それは重要な事態である。
しかし私が強調したいのは、第一に、この一七年間の「平和プロセス」の遺産の検証を通じた、近年そして現在の発展の意味である。それから私は、事実上の首相であるサラム・ファイヤド(ファイヤドが代表するリストは二〇〇六年の総選挙で二・四%の得票を得ただけであり、二〇〇七年以後彼が主導している政府はパレスチナ議会で信任に必要な票を得られなかった)の政策の特殊性を確証し、最後にその他の「非イスラム主義」的パレスチナ民族運動の現在の力学を検討したい、と思う(このことは、ハマスの重要性を過小評価するものではない。しかしイスラム主義運動の内的メカニズムの研究は全面的論文に値する)。
1 「平和プロセス」の一七年間
「平和プロセス」というフィクション
言葉が意味を持って以来の「平和プロセス」という概念に疑問を提起することが適切だろう。それは中東の現実の中で繰り返される言葉として戻ってくる。最も常識的には、「イスラエル・パレスチナ平和プロセス」は一九九〇年代初めに開始し、オスロ協定(一九九三〜一九九四年)の調印で発効した。多くのコメンテーターや外交官の見解では、それは「イスラエル・パレスチナ紛争の終焉」を約束するものだった。この「平和プロセス」は繰り返し「中断」されたが、依然として存在しており、さまざまな事件によって停止されたが、「復活」を待っている、ということになっている。
パレスチナ人がこの一〇年間に少なくとも二回――二〇〇〇年九月にガザと西岸の住民がイスラエルの占領、植民地化、弾圧の継続への怒りを表現するために反乱に立ち上がった時と、二〇〇六年一月にパレスチナ民衆が、交渉プロセスに公然と反対し、イスラエルに対する軍事的抵抗をふくむ抵抗闘争の継続を支持する政治組織であるハマスが大きく優位を占める議会を選出した時――にわたってわれわれに思い起こさせたように、現実は全く異なったものだ。
パレスチナ人は常軌を失してしまったのか。違う。外交官たちとは違いパレスチナ人はパレスチナに住んでいる。かれらは、一九九三年から二〇〇〇年の間に西岸とエルサレムのユダヤ人入植者の数が二倍になったことを見ている。かれらは、イスラエルによる道路封鎖と数十に及ぶ入植者専用道路が、イスラエル当局の善意へのほんの僅かな動きをも抑え込んでいることを見ている。かれらは、エルサレムが西岸の他の地域から切り離されているのを見ている。かれらは、ガザ回廊が世界の他の地域から切り離されているのを見ている。かれらは、二〇〇〇年九月以来のかつてないほどのイスラエルによる弾圧、幾千・幾万もの家屋破壊、幾万件もの逮捕、幾千人もの死者と幾万人もの負傷者を見ている。かれらは、かれらをゲットーに囲い込む壁を見ている。かれらは、平和もそのプロセスも見てはいないのだ。
オスロ協定:占領の別の形態
「そもそもの初めから、われわれはオスロプロセスの根底にある二つの概念を明らかにすることができる。第一は、このプロセスは、アラファトがイスラエルの安全に責任を持つ警察部長としての役割を果たすパレスチナ人かいらい政権を通じて、占領のコストを削減すべきものだということである。もう一つは、このプロセスはアラファトとPLOの破綻・崩壊に導くべきものだということである。アラファトの屈辱、彼のいっそう目に余るほどの屈服は、徐々に民衆的支持の喪失をもたらすだろう。PLOは崩壊するか、内部的いさかいで倒壊しつつある。……そして敵がファナティックなイスラム主義組織である時には、最悪の弾圧でも正当化することはよりたやすくなるだろう」(T・レインハルト「Detruire
la Palestine」 editions La Fabrique 2002 p.42 からの翻訳)。
イスラエルの学者、ターニャ・レインハルトが一九九四年二月に書いたこうした路線は、後から見て予言的なものとして現れている。しかしレインハルトは「お告げ」を行う神の使いではなかった。彼女は他の人に先だって、オスロプロセスが本当のところ何であったのかを理解していたのである。一九九三年から調印された諸文書を読む人のほとんどすべてが、それらが「平和協定」とはまったくの別物になっていることを良く理解している。エルサレムの将来、パレスチナ難民の苦境、イスラエル人の入植などの決定的問題は協定には書かれておらず、仮説的な「最終的地位に関する交渉」にまで引き延ばされている。占領地域からのイスラエル軍の「撤退」は言及されておらず、「再配置」としているだけだ。
パレスチナ側の交渉者の意向あるいは幻想が何であろうと、仮説的な「パレスチナ国家」の形成に関しては、オスロ交渉の真実はそれとはまったく別物である。パレスチナ全域を占領しているイスラエルは、パレスチナ最大の諸都市から徐々に撤退し、それらの管理を適当な時期にパレスチナ自治政府(PA)として構想された行政組織に委ねることに合意した。PAは、こうした地域の管理を引き継ぎ、「強力な警察力」という手段で平静を保つ能力を示すことになっており、交渉プロセスの「前進」は、治安分野におけるPAの「実績」によるとされた。PAがパレスチナ社会における秩序の維持に責任を持つ中で、占領と入植が続いた。したがってそれは植民地秩序であった。
オスロ協定:占領の別の形態
オスロ協定は、その論理において、「アロン・プラン」として知られているイスラエルの古い計画の焼き直しだった(「アロン・プラン」についてはジルベール・アシュカル「シオニズムと平和――アロン・プランからワシントン協定まで」参照。Gilbert
Achcar “The Eastern Cauldron” ,Monthly Review, 2004所収)。労働党員の将軍の名から取り、一九六七年七月にレビ・エシュコル首相に提出されたこのプランは、イスラエルが他の地域とともにパレスチナ全土を征服した一九六七年七月戦争が作り出した新しい情勢に対処しようとするものだった。イガル・アロンは多くの人に先だって、イスラエルとシオニストの構想が遅かれ早かれ直面することになる諸矛盾を明確にし、それらをできるだけ実務的に解決するよう提案した。
一九世紀末に初期のシオニスト運動がその目標をパレスチナでのユダヤ人国家の設立に定めた時、この土地の住民の九五%は非ユダヤ人だった。欧州の反ユダヤ主義はユダヤ人と欧州諸国民との共存が不可能であることを暴露した、と確信したシオニストたちは、ユダヤ人がパレスチナの多数派となり、かれら自身の国家の樹立を可能にするためにパレスチナへの移住を主張した。したがって第一回シオニスト会議(一八九七年)は、エスニック基盤のナショナリズムと植民地主義が帆に風を受けていた時代において「パレスチナの系統的植民地化」の原則を擁護したのである。
一九四七年一一月、国連はユダヤ人国家(領域の五五%)とアラブ人国家(四五%)に「パレスチナを分割」するという原則を採択した。その時点でユダヤ人は人口の約三分の一だった。イスラエル新国家の武装勢力は民族的にアラブ人国家に割り当てられていた多くの土地を軍事的に征服した。一九四九年までにイスラエルはパレスチナの七八%を支配した。国家のユダヤ人的性格を保持するために、非ユダヤ人は系統的に追放された。パレスチナ人の八〇%、約八〇万人が亡命を余儀なくされた。かれらは自分たちの土地に戻れなかったのである。
一九六七年の戦争(第三次中東戦争)は、一九四八年の戦争に比べると成功とはいえなかった。イスラエル軍の勝利は否定しがたいものであり、イスラエルは今やパレスチナの一〇〇%を支配することになったが、今回、パレスチナ人は土地から離れなかった。イスラエルは「ユダヤ人の民主主義国家」であることを主張している。パレスチナ人に権利を付与することは国家のユダヤ人的性格を放棄することだった。パレスチナ人に権利を付与しないことは、その民主主義的見せかけを捨て去ることを意味していた。アロンは、征服した地域の大部分の支配を維持しつつ、パレスチナ人人口が最も濃密な地域を放棄して、それらに自治の見せかけを付与するよう提案した。つまりイスラエルという大海に浮かぶパレスチナ人の島である。
石の戦争から選挙による反乱へ
それは、パレスチナ人に若干の権利を付与する時期をできるだけ引き延ばすものではあったが、一九七〇年代と一九八〇年代にイスラエル政府を導いた哲学だった。最初のインティファーダ(一九八七年後半に勃発)――西岸とガザの住民の大規模で長期にわたる決起――は情勢を変えた。一九九〇年代の転換期においてパレスチナ問題は、ソ連邦の崩壊以後米国が掌握したいと望んだ戦略的地域である中東における不安定の要因であった。米国政府は、イスラエルに対してオスロ協定交渉を強制した。それは最も人口が密集した地域において自治の見せかけをパレスチナ人に「提供」するものだった。
「平和をもたらしうる人物」としてしばしば描きだされたイツハク・ラビン(当時のイスラエル首相)は、きわめて賢明だった。
「イスラエル国は英国の委任統治時代のイスラエルの地のほとんどを統合し、西岸とガザに住むパレスチナ人の多くの郷土となる実体としてのパレスチナをその傍らに置くことになる。われわれはこのパレスチナの地が国家以下のものであり、その行政権の下にあるパレスチナ人の生活を独自に統治することを望んでいる。……イスラエル国の境界は六日間戦争(一九六七年の第三次中東戦争)以前に存在した国境を超えたものになるだろう。われわれは一九六七年六月四日以前の境界には戻らない」(イスラエル――パレスチナ暫定協定に関するラビン首相のイスラエル国会での演説、一九九五年一〇月五日、イスラエル外務省のウエブサイトより)。彼は、イスラエルが入植地の多くを併合し、「単一不可分の首都」エルサレムとヨルダン峡谷への主権を保持すると付けくわえた。
パレスチナの住民は、イスラエルが実質的にパレスチナ全土への支配をあきらめる意思がないことに直ちに気付いた。入植は加速され、追いたてが増大し、パレスチナ人は軍と入植地に取り囲まれた地域にますます封じ込められた。住民の状況が悪化する一方で、特権的少数者、新しいパレスチナ行政機構指導部の近親者たちはきわめて豊かになり、治安や経済の分野において共謀的なやり方でイスラエルに協力した。二〇〇〇年九月、パレスチナ人は再び決起した。
「第二次インティファーダ」は、イスラエルによって押し潰され、それにより最終降服協定への調印にあまりにも消極的と見なされたヤセル・アラファトはいっそう周辺的存在になってしまった。イスラエルと国連は、マフムード・アッバス(アブ・マゼン)の台頭を支持した。一例をあげれば、アッバスはアラファトがラマッラーに閉じ込められていた二〇〇三年六月に、ブッシュ、シャロンとの首脳会談に参加したのである。古い指導者(アラファト)の死によって、アブ・マゼンは二〇〇五年一月にパレスチナ自治政府の大統領に選出された(比較的低投票率で、かつハマスの候補が不在の下で)。アブ・マゼンは、イスラエルとの協定を受け入れるために議会的正統性を必要としたために、二〇〇六年一月に議会選挙が行われた。ハマスの勝利は、疑問の余地のないものだった。人びとはこの投票によって、あらゆる降服を拒否し、闘争を継続するという意思をはっきりと示したのである。
オスロの幕間は終焉した
ハマスの勝利は、イスラエルと融和的で、正統性と安定性を持った土着の政府が統治する地域の設立によってパレスチナ問題を解決する可能性として理解された「オスロ構想」の非現実性を暴露することになった。しかし「国際社会」は、それを聞こうとはしなかった。ハマス政権のボイコット、イスラエルのガザ封鎖への支持、西岸でアブ・マゼンが指名した「緊急政権」の承認などが続いた。米国と欧州連合は、「オスロへの回帰」が可能であり、望ましいことであるかのように行動し続けている。
しかし、すでに見てきたように、「第二のインティファーダ」をもたらし、当時、民衆への物質的支援と交渉プロセスへの批判、そしてイスラエルへのさらなる抵抗を結びつける能力を持った唯一の組織であるハマスによる政権獲得をもたらしたものは、まさしく「和平プロセス」だったのである。「二〇〇〇年九月以前の情勢への復帰」を語る人に対しては、二〇〇〇年九月の決起を引き起こしたのはまさに二〇〇〇年九月以前の情勢ではなかったのか、と問いたいものだ。
現に見られるためらいと外交的見せかけは、実際には失敗の自覚を反映したものである。だれもがオスロの幕間の終焉に次第に気付くようになっており、一部の者が我を忘れて死体を生き返らそうと必死になる一方で、他の者は代案を追求している。国境なきパレスチナ国家の宣言、パレスチナの小区画のヨルダンによる統治、ガザへの国連部隊の配備――登場しているこのようなアイデアはいっそう空想的なものになっている。「解決を求める」こうした意向は、部分的なものではあるが、現に機能している二つの論理を実際的に理解している。とりわけ植民地抑圧機構におけるパレスチナ自治政府のいっそう強力な統合を通じたイスラエルによる西岸とエルサレムの掌握の強まり、そしてパレスチナ住民の再動員と国際連帯運動の発展である。
イスラエルによる支配の強化
最初にエルサレムについて語ろう。この間、二三八の新しい住居建設計画の提出に注意が注がれている。それがどうしたのか。われわれは二〇万人の入植者がエルサレムとその郊外に住んでいるのを忘れてしまったのか。この数カ月で幾十ものパレスチナ人家屋が追いたてられ、破壊されたのではないか。二三八の新住宅は偶然の話ではなく、一九六七年以来一貫している論理に適合したものだ。それはエルサレムへのパレスチナ人の主権の主張に対抗するために、エルサレムのユダヤ人化を進め、残ったパレスチナ人地域を孤立化させようとするものである。
次に誇らしげに見せびらかされる「経済発展」を含めて、西岸について語ろう。国際援助の流入によってラマッラーのパレスチナ自治政府が公務員への給与を支払うことが可能になっているとしても、真の経済成長や実質的で持続的な住民の生活水準向上について語ることは余りにも言い過ぎである。二〇〇九年にはパレスチナのGDPは全体として増加したが、一九九九年に比べると三五%低い。さらにこの全般的増加は、全体の不均衡を覆い隠すものである。建設産業は確かに二四%増加したが農業生産は一七%低下した。
さらに西岸に対するイスラエルの支配は疑問に付されてこなかった。
「パレスチナ人の生活の全側面に影響を与える能力の面で、支配機構はいっそう洗練され、効率的になっている……。許認可システム、物理的障壁を含む支配の機構により……西岸の多くの部分に入ることは禁止されている。……西岸はお互いに孤立させられた経済的・社会的飛び地のセットになった」(「チェックポイントと障壁:西岸とガザの暮らしについての調査」、世界銀行のサイトより)。これが二〇一〇年二月の世界銀行の報告書で語られている言葉である。
さらに昨年(二〇〇九年)一一月以来の入植の一〇カ月間「暫定的凍結」期間中に、イスラエルは三六〇〇の住居建設を許可し、昨年(二〇〇九年)に見られたようにイスラエルの人口増加総数が一・八%の中で西岸の入植者は四・九%増加するという政策を追求している。最後に重要なことは、今年(二〇一〇年)三月三日ネタニヤフは、パレスチナとの合意が成立してもイスラエルはヨルダン峡谷への支配を放棄しない、と述べたのである。
おしまいにガザについて語ろう。ガザの市民は封鎖下においてかつてないような経済的・社会的悲惨に満ちた生活を送っている。この二年間で九五%の企業が閉鎖され、民間企業の九八%の雇用が破壊された。今なお輸入が禁止されている製品には、書籍、茶、コーヒー、マッチ、ろうそく、セモリナ(粗小麦粉、パスタの原料)、鉛筆、靴、マットレス、シーツ、コップ、楽器などが含まれている。セメント、化学薬品の輸入禁止により、二〇〇八〜二〇〇九年の爆撃で破壊されたインフラの再建は阻まれている。居住・汚水処理施設の現状が健康にどんな影響をもらすかを想像できる。
こうした条件下で、多くの村落での「民衆的抵抗」の構造の発展、「壁」と入植への抵抗を伴ってパレスチナ人の大衆的動員が再開していること、そしてパレスチナ人の多くが「交渉の再開」に幻想を持っていないことは、驚くべきことではない。(つづく)
(「インターナショナルビューポイント」二〇一〇年一二月号)
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