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「人の死」をめぐる様々な評価と「営利優先の医療」との絡み合い |
はじめに
脳死判定が社会的に重要な位置を占めるに至ったのは、臓器移植が行われるようになってからである。しかし、一方で医学の発展に伴い、「人の死」をどのように捉えるべきかをめぐっては、より複雑な判断が求められるようになっていることもまた事実である。
世界医師会のシドニー宣言「 死に関する声明」(後述)や終末期疾患に関するベニス宣言は、脳死は人の死という立場をとる一方で、脳死判定の難しさを端的に表明している(資料1)。この小論は、脳死や臓器移植の是非を正すことが目的ではなく、むしろ、現状をまとめることで、問題点を整理し、この問題を検討するときの共通の前提になることをめざした。事実誤認や重大な視点の欠落などあれば指摘していただきたいと思っている。
1 人の死の判断について
(1)死喧S判断の
変遷について
従来の医学的な死亡判定は、心臓と呼吸が停止し、心肺蘇生を行ってももはや回復できないと判断した時に行われてきた。心肺蘇生を行うかどうかは状況により判断される。例えばガンの末期で死を迎えつつある者に対して心肺蘇生を行うことはない。原因不明の呼吸停止・心臓停止に対しては何はともあれ可能な限り心肺蘇生が行われる。
心肺蘇生によって心臓が再び規則正しい動きを始めても脳細胞は回復することなく自分で呼吸もできない(呼吸中枢が働かない)ことがある。頭蓋内の出血などにより急激に頭蓋内圧が亢進し、脳への血液が流れなくなって脳細胞が壊れても同じような状態となる(こちらの方が圧倒的に多い)。「脳死」と言われる状態である(資料2)。
なお、脳死で自発呼吸があるかのように表現している「かけはし」の論文(資料3)や全国交通事故遺族の会の主張(資料4)は、この点では事実誤認(あるいは誤解を与える表現)といわなければならない。
脳死では、人工呼吸器を外すと呼吸が止まり、間もなく心臓も止まるが、呼吸器を外さず栄養を補給し続ければ一定の期間、体は生き続ける。臨床的に脳死状態のとき、自発呼吸がないことをもって最終的に脳死と確定することが世界的に行われてきたが、この根拠の一つとして、このような例に延命治療を行っても数日中に心臓死に至るという、当初の医学的経験があった。
しかしその後、臨床的に脳死状態となった後に年余にわたって生き続けた例が数多く報告されてきた。人工呼吸器をつけ、管から栄養を与え続けることで長期にわたって体が生き続ける例が本当に「すべての脳が活動停止した意味での脳死」なのかについては議論のあるところであるが、これは、脳全体の完全な非可逆的機能停止を医学的に確定できない現状を反映している。
つまり、生体を維持するのに必要なホルモンが分泌される程度には脳の一部が活動している可能性以外に、脳が完全に活動を停止しても各ホルモンを分泌する臓器が自立性を獲得する可能性、脳以外の組織が脳由来のホルモンを出し始める可能性なども指摘されている。(資料5)。
また、「脳死」と判定される状態でも視床下部が生き残っていれば意識が残っている可能性があることが、一部の医師から指摘されている(資料5、6)。ただし、この場合の「意識」とは、大脳が失われた世界、すなわち言葉は理解できず、外界からの刺激を五感としては感じることが出来ない世界での「意識」であると言わなければならない。これらは大脳が司るからである。
「脳死」を「人の死」として受け入れるか否かは、それぞれの死生観によって変わってくる。人体の細胞は心臓・呼吸が停止してから徐々に「死んでいく」。脳細胞は数分だが、皮膚は心臓が停止してから数十時間は移植可能な程度に生きているといったように。従来の「人の死」の確認は、動かなくなり心臓も呼吸も停止したと思われる人を一定期間見守ることでなされてきた。しかし脳死を人の死とすると、このような死生観と相いれないことになる。呼吸器に繋がれてはいるものの、心臓は規則正しく動き、肌は温かく、時には自発的に動きさえする状態を「脳死なのでこの人は死んでいる」と言われても納得しがたいものがあるであろう。
さらに、前述したように脳死にもある幅がありそうなこともまた事態を複雑にしている。世界医師会は、シドニー宣言で、脳幹を含む全脳の機能の不可逆的停止の確認が死亡判定の必須条件としながら、「医学の現状では、完全に満足できるような死の判定のための単一の技術的基準はないし、また医師の行う総合的な判断に代わる単一の技術的な方法もない。臓器移植の場合に提供者の死亡を確認するには、移植の実施に直接関係をもっていない二人以上の医師が行わなければならない」としている(資料1)。
つまり、完全な脳死を「人の死」として受け入れることを求める一方でその判定にはまだ確定的な方法がないことを表明していると言わなければならない。
死生観の問題については、自分の子どもが交通事故で脳死状態になり臓器提供をした医師の主張は重い。彼は、脳死状態の子どもたちが「栄養管理のためのチューブ栄養と呼吸援助の人工呼吸器がついているだけの支援」のもとで、在宅で育てられ続けている従来の日本の現実とそのあり方に共感し、自らの子供の人工呼吸器を外して臓器提供をしたことを悔いている(資料7)。
(2)「脳死」状態の
人体の管理・判定
一般に「脳死状態」と評価した時は積極的な治療(手術など)は行わない。このとき、脳死状態との医師の判断を受け入れるかどうかは家族に問われることになる。脳死状態との判断を家族が受け入れた時、日本では、二〇〇九年に変更された臓器移植法に沿って、脳死判定をするかが問題になる。脳死状態との判断を家族が受け入れない場合や、脳死判定を希望せず延命治療を希望する場合は、現在の日本の病院では基本的には延命治療が続けられる。脳死状態との判断を家族が受け入れた時、本人が生前「臓器の提供は拒否する」を明言していなければ、家族の同意のもとで脳死判定を行い、「脳死」と確認した上で臓器を摘出・移植が行われる。
しかし従来、脳死判定をめぐっては、いくつかの問題点が指摘されている。人々の死生観の多様性を無視して一律に脳死を人の死とすることに伴う問題は前述した。また、移植臓器の不足から、脳死判定が拙速に行われたり強引な臓器提供の誘導が行われたりする可能性が心配されているがこの点については後述する。
そのほか、臨床的に脳死状態の時に、全脳の機能の不可逆的停止を安全・確実に把握する方法がないことに関連して以下のようなことが挙げられている。
まず、脳死判定は二回行われることになっているが、人工呼吸器を止めて自発呼吸が起きないか見る検査が含まれているため、まだ脳が一部でも生きている場合はさらに障害を与える可能性があることが指摘されている。
また現在の無呼吸テストでは本当に呼吸中枢が機能していないか確認できない可能性が指摘されている。また、現在の脳死判定方法は世界的に統一されたものでないため、「脳死」の判定基準が国によって異なることが挙げられる。さらに、急性期に使用された薬物が血液循環の激減により脳内にだけ大量に残留し、一時的に脳死判定の基準を満たす状態になる可能性も指摘されている。また、特に小児は、脳死判定基準を満たしても、その後に脳死状態から回復する例が報告されている(資料5)。
延命治療の進歩により相当期間、「脳死者」の体の生存を保つことが出来る可能性が高くなってきている。実際に、脳死判定後に臓器を取り出すまでの間、「積極的な延命治療」によりいかにして長く、元気に臓器を保つかは、移植医療にとって焦眉の課題になっており、その技術は進歩し続けている(資料8)。
仮に臓器移植とは無関係に延命治療が積極的に行われるなら、将来は多数の脳死患者を抱える医療機関が必要になってくるであろう。しかし今の日本の現実はその逆であり、臨床的な脳死患者への積極的な延命治療は行われず、脳死判定をして脳死を「確定」し臓器移植の提供者(ドナー)となったときは、出来るだけ健康な臓器を得るために、摘出までは積極的な延命治療が行われるという、これはこれで何とも皮肉な現象が起きている。
2 経済的側面について
資本主義経済の中で生きているわれわれは、生産活動の多くが営利を目的に行われていることを日々実感している。人間の死の判断や臓器の利用が営利を目的に行われるのではないかという疑念は当然のものと言える。そこで、次に経済的側面についてみてみよう。
(1)医療機関・医
療従事者の心中
日本では、医療政策は、基本的に利益誘導で行われてきた。平均すると医療機関は慢性的に経営が厳しいので、仕事を続けるためには、経営を気にしなければならない。「経営は大事」という感覚は医師だけでなくすべての医療従事者の心に入り込んでくる。この感覚は、「利用者第一の仕事」とは矛盾する。
よく知られている例は介護の現場である。食事や下の世話など、相手のテンポに合わせて行うのが最も喜ばれるのに違いないが、時間を気にして行われる時、相手は二の次になる。営業の観点からは、従来の出来高払い制では短時間で多くの医療行為をすることが収入に直結するので、医療労働者の意識下(意識的な人もたくさんいる)でも同じようなベクトルが働いてきた。
この結果生まれる過剰検査・過剰投薬などを止める目的で導入されたDPC(Diagnosis Procedure Combination;診断群分類包括評価)という制度が、急性期の患者を診る病院に、現在急速に広がりつつある。この制度では、入院中は検査や投薬をできるだけ控えて治療した方が経営上有利になり、外来診療での出来高払いとはまったく反対の経営方針が求められることになる。また、入院期間が長引くと収入が減少する仕組みになっているため、早期の退院が求められることになる。
DPCでは、脳死状態となっても(心臓をはじめ体が)生き続ける場合は体の管理にかかる費用はすべて持ち出しとなる。脳死状態の人に直面した時、医療従事者の心に、「脳死なのにこのままでは赤字になる」とか、「無駄な検査や治療はしたくない」とか、「早く部屋を空けて欲しい」という気持ちが働くことはむしろ「当然」のように思える。
このように、無駄な医療費(過剰検査や過剰投薬)を抑制することを大義として導入されたDPCは、一方では脳死判定と臓器移植を推進する作用をもたらすであろう。DPCは政策的に変更できるので、さらに臓器移植の推進を加速させるために利用できる。例えば脳死状態の人への医療行為や入院により病院がもっと赤字になるように誘導し、臓器提供が大きな病院収入になるようにするだけで、各医療機関はこぞって早期の脳死判定を推進しようとするであろう。
病院経営に心を奪われた職員の中では患者の経済的な利害や脳死者の意思は二の次となるのは当然であり、さらに患者の健康にとっての利害でさえ、病院の利害に従属する可能性がある。現にDPCの導入に伴って、経済的理由で多くの医療行為に変更が行われている。(以上の評価は、ちょっと厳しすぎるかもしれない。このような過酷な環境の中でも患者の体やお金の心配を第一にして仕事をしようとしている医療労働者もいることを付け加えておきたい)。
このように、日本の医療は、出来高払いにせよDPCにせよ、医療機関に対して収益を動機にして医療内容の方向付けが行われている側面が大きいため、脳死判定や臓器移植が現場の経済的利害に絡みながら推進される可能性が高い。そのため、臓器提供者の生前の意思が生かされる可能性は危うくなる。
(2)患者の家族
の経済的心中
脳死状態との説明を受けた家族の中にも、経済的な判断は大きく作用する可能性がある。本当は脳死判定を望まなくても、介護の負担や経済的負担が長期間になる可能性を心配する時、家族は脳死判定に同意するかもしれない。
このような家族の一部は、意識の上では「体の一部でも生き続けるなら」と考えて臓器移植にも同意するであろう。このように、家族が支払う医療費・介護の負担は、家族が脳死判定を受け入れる、大きな要因になりうる。
(3)キューバの
例をどう見る
以上見てきたように、脳死や臓器移植にも、他のすべての生産活動と同様に、経済的な利害が大きく影響する。
しかし、キューバではどうであろうか? 実は、キューバの脳死判定や臓器移植の現状については、短いレポート(資料9、10)しか資料が見つからないが、それでもある程度のことは想像できる。資料によると、キューバでも脳死に基づく臓器移植は積極的に行われているようである。ただ、ここでは、脳死状態とされた者の家族のほとんどは臓器提供を希望し、他の医療行為と同様必要なコストは国家が負担し、臓器移植もまた無料で行われているという。
ここでは、利益誘導の医療は行われておらず、医療機関はキューバの憲法に従って無料で患者の健康を守ることを目標に活動し、自らの収入を目標にすることはない(外国人の移植は別扱いで有料とのこと)。このような医療であれば、人々は信頼して脳死についての判断や臓器移植を任せられるのかもしれない。
おわりに
私自身は自分が臨床的に脳死状態となったら、人工呼吸器をはずしてもらいたいと考えている。また臓器は提供しない。臨床的に脳死状態となった時は、自分らしい意識が回復する可能性は一〇〇%ないと考えてのことである。また自分の臓器提供は、今の体制下では拒否する。これはあくまで私個人の死生観・人生観からの判断である。体の一部でも生きているうちはその人はまだ「死に切ってはいない」から、その体を切り刻むようなことは拒否すると考える人もいるであろうし、逆に、体の一部だけでも生き続けることができるならと臓器提供を望む人もいるであろう。
しかし、もしも自分の子どもが脳死状態となったら、どのような医療を望むであろうか? 実際、すでに六十歳になろうとする自分自身(あるいは自分の親)についてなら、「脳死状態」なら「死」を望む。しかし、自分の子どもが「脳死状態」なら、「生」を望むかもしれない。少なくとも、自分の子供の体が、本人の強い臓器提供の意思がないまま内臓を切り取られるのは心情的には耐え難いと思う。万が一の回復を期待しながら消極的な延命治療を望むのが家族の自然な気持ちではないだろうか。
(谷野草路)
資料1:「時の法令」 第1602号1999年9月30日発行。『民主化の法理』 58 「終末期・死をめぐる世界医師会の宣言集」
(星野一正)
http://cellbank.nibio.go.jp/information/ethics/refhoshino/hoshino0007.htm
資料2
:「救急医学から見た脳死」 島崎 修次
http://www.medi-net.or.jp/tcnet/tc_3/3_1.html#TC_41_03
資料3:2010年9月6日号「かけはし」「『脳死者』臓器移植を批判する」佐藤隆
http://www.jrcl.net/frame10906c.html
資料4:全国交通事故遺族の会のHP
http://www.kik-izoku.com/noushi-isyoku.htm
資料5:守田 憲二氏のHPhttp://www6.plala.or.jp/brainx/index.htm
資料6:「脳死者に本当に意識はないのか?」 古川哲雄 『生存科学』NO2、12、61―66、2002
資料7:「″脳死″は『死』でいいのか〜小児神経専門医、ドナー・ファミリーの視点から〜」杉本健郎 難病と在宅ケア Vol・15
NO7 2009・10
資料8:「わが国の脳死臓器提供におけるマージナルドナーの現状:ドナー評価と管理の実際」 福嶌教偉Organ Biology,
16(4) : 439-447, 2009.
資料9:「キューバ医療事情視察記」
http://www.geocities.co.jp/NatureLand/3252/Cuba1.htm)
資料10:「キューバ革命50周年記念・科学技術交流の旅」細川誉至雄(談)
http://www.dominiren.gr.jp/modules/news1/print.php?storyid=521
http://www.medi-net.or.jp/tcnet/tc_3/3_1.html
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