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不破哲三『科学的社会主義を学ぶ』批判(3)       かけはし2002.10.7号より

「資本主義の枠内での改革めざす国民政党路線」の理論的粉飾

樋口 芳広(日本共産党員)



4 帝国主義について

帝国主義めぐる「新しい情勢」

 レーニンは帝国主義の指標として五つの特徴――@独占体、A金融資本と金融寡頭制、B資本輸出、C国際独占体による世界の経済的分割、D列強による地球の領土的分割完了――をあげた。不破は、今日では新しい情勢が発展してきており、レーニンのあげた帝国主義の諸特徴がそのままでは当てはまらない事態が生まれているとして、以下の四点をあげている(一三〇ページ〜)。
 第一。植民地支配がほぼ完全に崩壊したこと。
 第二。植民地体制の崩壊により、「あれこれの国や地方でどれだけの影響力を持つかをめぐる国際的な争いはあっても」、世界再分割のための帝国主義戦争が問題になる条件はなくなったこと。
 第三。二つの世界大戦をへて国際連合が生まれ、国連を中心とする国際平和秩序が形成され、「まだ決定的な力にはなりえないにしても」、帝国主義の侵略を抑止する一定の力が生まれていること。
 第四。発達した資本主義国からの投資は、「それがきちんと必要な条件にかなう形でおこなわれるならば」、南北問題の解決など、世界的な進歩の流れに役立ちうる可能性が生まれており、「発展途上国への投資を食い物にするとか、世界の環境を破壊する多国籍企業の傍若無人の活動とか、アメリカの戦略的重点にそったODAの悪用とか」の問題点はあるにしても、「資本輸出イコール経済侵略」といった古い公式が、単純には成り立たなくなっている。
 以上の提起をした不破は、「独占資本主義国のすべてで、独占資本や金融資本が本来もっている侵略性、支配欲などが、そのまま、その国の行動原理となっているかというと、問題は、そう単純ではなくなっている。独占資本主義の侵略性が、他国への侵略行動、抑圧政策として現れるには、いろいろと制約と困難がある、そういう時代になっているというところが、大事なところだと思います」(一三一〜一三二ページ)と述べている。

「制約と困難」とは何のか


 不破は、現代の世界においては、独占資本主義の侵略性や支配欲はあるにしても、それへの「制約と困難」こそが主要な要素となってきている、と言いたいわけである。不破の指摘した四つの点がその根拠になりうるのかどうか、それぞれ検討してみよう。
 第一と第二。第二次世界大戦後の民族解放闘争の高揚により、地球を覆っていた植民地体制が崩壊したことは事実である。しかし、このことから直ちに、独占資本主義は他国を従属させる力を失ってしまったという結論を引き出すことはできない。第二次世界大戦後の独占資本主義国は、旧植民地諸国や途上国と対「社会主義」を標榜する軍事同盟を締結して軍事基地を設けたり、経済援助などで開発と工業化を促進することによって、これら諸国が「社会主義」圏へ接近することを阻止し、同時に資本の市場として形成することをねらった、「新植民地主義」だとか「開発帝国主義」と呼ばれる支配を行ってきたのである。植民地支配や併合といった露骨な形態での支配はなくなっても、より粉飾された形態での支配が続いているのであり、だからこそ「あれこれの国や地方でどれだけの影響力を持つかをめぐる国際的な争い」が問題になるのである。不破のように、植民地体制の崩壊による「制約と困難」を過大に評価することは、こうした現実を覆い隠してしまうことにしかならない。
 第三。確かに、国際法や国際連合といった「国際秩序」は、独占資本主義の侵略性への一定の制約となっている。現在のように、アメリカの「対テロ戦争」が国際法や国連の枠組みを完全に無視して行われている場合には、「国際秩序」に依拠した批判が一定の有効性を持ちうる。しかし、そういう「国際秩序」を、純粋に中立的なものと見なすことはできないのである。
 そもそも政治の本質は、経済的利害を異にする二大階級へと分裂した社会において、経済的に支配する階級が、自らの特殊な利害をあたかも社会全体の「共同」の利害であるかのように偽装しながら、特殊な意志を幻想的な「共同」意志として成立させ、経済的に支配される階級への支配を貫徹するところにある。例えば、大銀行救済のための公的資金投入が「金融システム安定のため」とされるように、である。
 このような政治の過程的構造は、近代以降の「主権国家」間の関係においても見られる。一国的な特殊利害を貫徹するには、それをあたかも世界全体の「共同」の利害であるかのように偽装した形で押し出されなければならないのである。例えば、日本帝国主義のアジア侵略が「大東亜共栄圏」のスローガンのもとに行われたように、である。国家間の結びつきがあらゆるレベルで深まっていくにつれて、特殊利害の「共同」利害化には、より粉飾された形態が必要とされるようになるものの、基本的な構造は変わらない。
 現実に存在している国際法や国連も、こうした政治の過程的構造をふまえて考察されなければならない。国連を中心とする「平和秩序」は、独占資本主義の侵略性と全く無関係な形で存在するわけではない。国連は、アメリカをはじめとする北側大国の特殊意志を幻想上の「共同」意志として成立させる機関としての要素を色濃くもっているのである。
 もちろん、北側大国の特殊意志が「共同」意志として成立する過程における闘争如何によっては、途上国政府の意志や世界の労働者人民の意志も一定の範囲において反映するし、「共同」意志が一度規範として成立すれば、それは逆に北側大国をも拘束するという点で、独占資本主義の侵略性への制約となる。そうであるからこそ、アメリカはいざというときには自国の利害を貫徹するために「国際秩序」を無視することも辞さないのである。しかし、現在の「国際秩序」が、全体として見れば、北側大国の利害を反映したものであることに変わりない。
 独占資本主義の侵略性と国連を中心とする「平和秩序」は、このように有機的に絡み合った形で存在しているのだが、不破は頭の中で両者を機械的に引き離したうえで、後者を前者に対抗させているにすぎない。不破は、「国際的な平和秩序」が、なぜ「まだ決定的な力になりえない」のかを、真面目に考えてみるべきである。
 第四。「それがきちんと必要な条件にかなう形でおこなわれるならば」とは驚くべき表現である。確かに、発達した資本主義国からの投資が南北問題の解決に貢献する形でおこなわれるならば、それは南北問題の解決に貢献するであろう。私が風邪をひかない条件にかなう生活をしておれば、私は風邪をひかないであろう。正しい考えかもしれないが、あまり内容があるとは言えない。問題は、「必要な条件」とは一体どういう条件であり、現代の資本主義システムを前提にして、その「必要な条件にかなう形でおこなわれる」ことが可能かどうかというところにこそある。しかし、不破はこの点に関して何の説明もしようとはしない。理論の根幹にかかわる問題について新たな提起をするにしては、極めて不誠実な態度だと言わざるを得ない。
 新自由主義的グローバリゼーションの進行が南北問題をいかに激化させているかは、国連の報告からも知ることができる。国連開発計画(UNDP)の『人間開発報告書』(九九年)は、「所得と生活水準の世界的な不平等はグロテスクなまでに膨らんだ」、「最も豊かな国々にすむ世界人口の五分の一と、最も貧しい国々の五分の一の人々の所得の差は、六〇年の三〇対一から、九〇年には六〇対一に、九七年には七四対一に拡大した」、「世界の億万長者の中で最富裕者三人の資産は、四十八カ国の後発開発途上国のすべてとそこに住む六億人の全GNP合計よりも多い」と指摘している。発達した資本主義国から途上国への投資が南北問題の解決に役立つ条件が生まれているという不破の主張が事実ならば、なぜこのような事態が起きているのであろうか?
 不破は、「発展途上国への投資を食い物にするとか、世界の環境を破壊する多国籍企業の傍若無人の活動とか、アメリカの戦略的重点にそったODAの悪用とか」が、あたかも第二義的な問題にすぎないかのようにサラリと流してしまう。しかし、実際にはこれらの問題点こそ決定的に重要な意味をもっている。独占資本主義国から途上国への投資が、これらの問題点を不可避的にともなっていることは、「資本輸出イコール経済侵略」という古典的定式が現代においても基本的に妥当することを示しているのである。
 以上、四点にわたって検討してきたが、要するに、不破のいわゆる「制約と困難」とは、せいぜい帝国主義の支配の形態の変化を意味するものであって、それを過大に評価することはできないということなのである。

カウツキー的な帝国主義=政策説


 不破は、レーニンの時代には、独占資本主義段階に達した国は必ず侵略的政策をとっていたから、独占資本主義国をすべて帝国主義国と規定してもなんの不都合も起こらなかったが、現代の世界における独占資本主義国を帝国主義と規定することが妥当かどうかは、「他民族に対する侵略と抑圧などを対外政策の総体として評価できるかどうか」に大きくかかってくると言う。帝国主義であるか否かは政策のレベルで判断されるべきだと言うのである。
 かつてレーニンは『帝国主義論』において、カウツキーが帝国主義を独占資本主義の体制ではなく政策であるととらえ、資本主義のもとでも恒久平和が可能だとの幻想をふりまいていることを厳しく批判した。不破は、レーニンの時代は例外なく「独占資本主義国=帝国主義国」であったと言うことで、帝国主義を独占資本主義の体制であると喝破したレーニンと正面から対決することを避けながら、カウツキー的な「帝国主義=独占資本主義の政策」論を実に巧妙な形で採用しているわけである。
 不破は、「制約と困難」とやらを過大に評価することによって、帝国主義の政策を独占資本主義という経済的基礎から事実上切り離し、侵略性や支配欲をたんなる対外政策上の問題に矮小化してしまう。その結果、独占資本主義が、より侵略的でなくより抑圧的でない行動様式と両立しうることになるのである。本書における帝国主義についての提起は、資本主義の枠内であっても平和で公正な世界をつくることは可能だという幻想を、「科学的社会主義」の理論によって根拠づけることをねらったものなのである。

帝国主義的世界秩序の擁護者へ


 不破は、それぞれの独占資本主義国の対外政策の総体が他民族に対する侵略と抑圧という性格を持っているか否かを、帝国主義か否かの評価基準にすると言う。しかし彼が、独占資本主義の侵略性や支配欲への「制約と困難」を、ほとんど理由にもならない理由を持ち出して過大評価していることは、それぞれの独占資本主義国を帝国主義と規定することに関して、極めて高いハードルを設けていることを意味する。
 不破的な観点からすれば、現代の世界において帝国主義国という規定に値するのは、国際法や国連という「国際的な平和秩序」を無視して他国への干渉と侵略をすすめ、自国の多国籍資本に有利な経済秩序を世界中に強引に押し付けているアメリカ合衆国ただ一国だけということになろう。不破にとっては、帝国主義と闘うということは、結局のところアメリカの一極支配と闘うということを意味するにすぎないのである。
 事実、最近の日本共産党による世界情勢の描き方は、二つの国際秩序の衝突――アメリカが横暴をほしいままにする戦争と抑圧の国際秩序か、国連憲章にもとづく平和の国際秩序か――という見方を基調としている。経済のグローバリゼーションについても、資本主義の国際化は「さけられない固有の傾向」であってこれに反対しても仕方がない、問題なのはアメリカが自国の巨大資本に都合のよい経済秩序を押しつけていることだ、という立場である。
 アメリカが世界の独占資本主義国の中でずば抜けて強大な力を保持しているのは事実であるにしても、こうした描き方は事態を著しく単純化するものである。世界中の独占資本主義国は、アメリカ帝国主義を盟主とする政治的・軍事的同盟に結集することにより、同盟の内部ではさまざまな対立を含みながらも、全体として旧植民地や途上国への支配をつづけ、世界の労働者人民の闘いを抑圧しているからである。
 不破のように、アメリカの一極支配こそが問題であるという立場からすれば、帝国主義陣営に属する諸国の立場が全体として一致している問題や、陣営内部のアメリカ以外の国の独自の動きに関しては明確な反対の態度がとれなくなったり、帝国主義陣営内部からアメリカの一極支配に抵抗する動きが出たときにはそれを進歩的なものとして評価したりすることにもなりかねない。日本共産党が、対アフガン戦争に関して、アメリカが単独でやる戦争には反対しながらも、国連による「軍事的措置」ならばかまわない、という立場をとったことはその一つの現れである。
 また、日本共産党が、先の通常国会において、日韓投資協定の批准に賛成しテロ資金規制法に賛成したことも、こうした観点から評価する必要がある。日韓投資協定は、多国籍企業本位の新自由主義的グローバリゼーションの一環であり、労働運動弾圧規定が盛り込まれている。しかし、アメリカ主導のグローバリゼーションこそ問題だという立場からすれば、韓国政府から提案され、日本と韓国の二国間で結ばれる協定に反対する理由はないのである。
 一方、テロ資金規正法は、「テロ」との対抗という口実のもとに、現在の世界秩序に抵抗しようとするあらゆる勢力を抑え込むことを目的とした弾圧・治安立法である。しかし、こうした立法が帝国主義陣営全体の利害を反映するものであり、アメリカだけが要求しているわけではない以上、日本共産党としては反対する理由はないのである。
 つまり、日本共産党の最近のこうした行動の根は極めて深いのであり、そもそも帝国主義をどのようにとらえるべきかというレベルからの批判を行っていくことが極めて重要なのである。

5 「一歩一歩」主義の克服を


 これまで、不破の「高度な」理論的提起について検討してきたわけであるが、実際のところ、それらは高度なものでもなんでもなく、実にお粗末なやり方で科学的社会主義の理論を歪曲することにより、「資本主義の枠内での民主的改革」路線を「科学的社会主義」の名のもとに正当化することをねらったものでしかなかった。
 最後に、「枠内改革」論の根拠となっている、不破の「段階的発展」論について触れておかなければならない。これは、社会の進歩は国民の合意で一歩一歩階段をのぼるようにすすむもの、というものである。
 確かに、「段階的発展」論はそれなりの根拠を持ってはいる。資本主義経済から社会主義経済への前進は、一朝一夕に成し遂げられるような性格のものではないし、国家権力が社会のあらゆる領域に介入して強固な支配体系を創出している国家独占資本主義段階の革命論として、段階的な改良の積み重ねという発想が重要な意味を持っていることも否定できない。
 とはいえ、「段階的発展」論はやはり極めて一面的な見方なのである。諸階級の政治的意識や階級間の力関係は、しばしば急速に、極めて劇的に変化するものであり、総体として見るならば、社会の発展は、決して一歩一歩階段をのぼるようにすすむものとは言えない。あるときには嵐のような前進を遂げたかと思えば長期にわたって停滞し、あるいは激しい反動の時期を経験する、といったジグザグの歩みを通じてすすむものなのである。不破の「段階的発展」論では、一九一七年のロシアのようなダイナミックな歴史の激変――この年の初めには絶対主義ツァーリの支配下にあったロシアが、この年の終わりには人類史上初の労働者国家になっていた――を正当に把握することはできないであろう。
 共産主義政党が、直接には資本主義の枠をこえない「民主的改革」をどのようにとりあげるべきかは、このような観点から判断されなければならない。改良的課題はもちろんおろそかにしてはならないが、社会の発展をダイナミックなものとしてとらえるか、それとも静的なものとしてとらえるかによって、そのとりあげ方は大きく異なってくるのである。
 前者の場合は、「民主的改革」をあくまでも共産主義社会の実現までを見とおした革命戦略全体のなかに構造的に位置づけることにより、「民主的改革」が資本主義の枠をこえる潜在的な可能性をもっていることが重視され、その枠をこえて発展させることが重要なのだということになる。一方、後者の場合は、党の路線を「民主的改革」を中心に据えて構想しその単純な延長線上に社会主義を展望することにより、「民主的改革」は資本主義の枠をこえないことにこそ意味があり、枠をこえないことが何よりも重視されるようになってしまうのである。
 社会の発展を静的なものとしてとらえる不破の「段階的発展」論は、必然的に後者のやり方を導くが、この場合、資本の利益と衝突する要求は抑制されざるを得ない。とりわけ、資本の生き残りをかけた新自由主義の攻撃が全面化している現在においては、「民主的改革」の要求そのものが、資本主義の枠と衝突せざるを得なくなってきている。こうした状況下で「枠内改革」路線を貫こうとするならば、現実への際限のない妥協と屈服に向かうことは必至であり、ひいては、「資本主義をのりこえる」はずの社会主義の展望にも、修正資本主義的な修正を施さざるを得なくなってしまうのである。
 いま必要なのは、決して、「資本主義の枠内」で「財界人と一致した」政策で「日本を改革」することなどではない。労働者が団結して資本の支配を揺るがすような国際主義的な闘いを展開することなのである。
 かつてレーニンは、革命的理論なくして革命的実践なし、と言った。不破の指導のもとでの改良主義的実践は、科学的社会主義の理論の改良主義的修正を不可避にした。理論の改良主義的修正は、日本共産党の改良主義的国民政党への転換を決定的なものにする。それは社会主義をめざす闘いにとって重大な困難をつくりだすであろう。科学的社会主義の原則を守る闘いを推し進めることが、いま切実にもとめられている。(おわり)


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