かけはし重要記事

frame01b.html

もどる

                         かけはし2002.10.28号より

教育基本法改悪を阻止しよう(上)

新自由主義的グローバリゼーションの時代的要請に対応した国家主義教育に突き進む

 十月十七日、教育基本法の「見直し」を検討している中央教育審議会は「中間報告の素案」を公表した。それは、新自由主義的グローバリゼーションの進行によって、旧来の企業主義的国民統合が崩壊するとともに「国民国家」の枠組みがゆらぐという状況に対応し、天皇制を軸にした国家主義的国民統合を強化しようというねらいを、露骨に表現したものである。それは有事立法と憲法改悪に直結している。



 昨年十一月に遠山文部科学相が中央教育審議会に教育基本法の見直しを諮問して以来、中教審総会と基本問題部会において論議が進められてきた。そしてこの秋にまとめの作業に入り、十一月中旬にも中間報告が出されると言われている。教育基本法は、一九四七年に制定されて以来、日を置かずして政府与党にないがしろにされ「改正」攻撃にさらされてきたが、中教審という公的機関で正式に見直しが議論されるのは初めてである。答申されれば、来年の国会に法案として出されることになる。
 一連の国家主義化の流れに今回の教育基本法「改正」もある。少年法の改悪、国旗・国歌法、日米安保新ガイドライン―周辺事態法、住民基本台帳法改悪―住基ネットによる国民背番号制、メディア規制法、有事三法案という「戦争のできる国家づくり」の法整備のひとつとして、また、「新しい歴史教科書をつくる会」の運動と並び重なった右からの運動として教基法改正は進められている。 
 文科省の諮問は二〇〇〇年十二月の教育改革国民会議(森前首相の私的諮問機関)の報告「新しい時代にふさわしい教育基本法を」をベースにしている。その要点は「新しい時代に生きる日本人の育成」「伝統・文化など次代に継承すべきものの尊重・発展」「教育進行基本計画の策定」の三つである。
 二月から中教審の総会および基本問題部会で論議がなされてきたが、日教組(故横山元委員長、渡久山前副委員長が参加)からの情報などをみると、それぞれの委員が意見を出しているだけでその中から全体としての方向性やまとめがなされる段階にはない。しかし、レールはすでに敷かれており若干の幅はあっても改正派と文部科学省官僚の用意した結論に向かって「まとめ」「答申」「法案」は発表されるだろう。

「求める会」の「六つの提言」

 「改正」派は論議に先駆けて彼らなりの「ゴール」を用意している。そのひとつに「新しい教育基本法を求める会」が二〇〇〇年九月に森首相に出した「新しい教育基本法へ六つの提言」がある。
 この会は西澤潤一岩手県立大学長を代表として、稲葉日商会頭などのブルジョア、草柳大三や中西輝政、西尾幹二、三浦朱門、渡部昇一、高橋史朗など「新しい歴史教科書をつくる会」幹部とほぼリンクする右派イデオローグで構成されており、「GHQの強い指導のもとに作られた教育基本法の中で……公共に対する奉仕の精神が失われ、欲望放恣社会の情勢を見るにいたりました」という認識のもと、@伝統の尊重と愛国心の育成A家庭教育の重視B宗教的情操の慣用と道徳教育の強化C国家と地域社会への奉仕D文明の危機に対処するための国際協力E教育における行政責任の明確化の六点を提言した。
 @の内容として「古来、私たちの祖先は、皇室を国民統合の中心とする安定した社会の基盤の上に、伝統尊重を縦軸とし、多様性包容を横軸とする独特の文化を開花させてきました。教育の第一歩はそうした先人の遺産を学ぶところから発しなければなりません」と皇国史観を学ばせることが教育の第一歩であるとその意図を隠さない。
 伝統・愛国心については現行学習指導要領に記述されているが、教育基本法にも明記せよと迫っている。奉仕活動はこの勢力があらゆるところで強調している点であり、教育改革国民会議の報告書では「小・中学校では二週間、高校では一カ月間」「将来的には、満十八歳前後の青年が一定期間……行う」と示している。
 この会議の委員で作家の曽野綾子は「奉仕活動はボランティアではなく国家に対する義務である」と言い、前文部科学相の町村は、奉仕活動の例として、自衛隊の体験入隊をあげ、「自衛隊の人に聞くと、三カ月で間違いなく変わる……びっくりするほど礼儀正しくなり、身のこなしがしゃきっとしている。昔の軍隊は(大人への)通過儀礼だった」とあけすけに語っている。
 Eは教育基本法がその第十条で政治勢力や行政権力の上からの「不当な支配に服することなく」と謳っている事に対する攻撃である。いわば教育基本法の真髄ともいうべき項目を消し去ろうというのだ。

PHP総研による新教育基本法私案

 もうひとつは、PHP総合研究所の新・教育基本法検討プロジェクトが二〇〇一年二月に発表した「新・教育基本法私案」(別掲)である。ぜひ現行法と比べてみていただきたい。ここで注目すべき点として四点挙げたい。
 ひとつは第一条「教育の目的」を「立派な日本人を作る」ことにあるとしていること。二つ目は第四条「教育の義務」に、一項で「子女もまた努力し、一定の水準に達しなければならない」、二項で「日本国民が国民として……公徳心と知識・技能を身につけること」と教育される側の義務を明記していることである。三点目は同じ四条三項で「授業料はバウチャー制度による」としていることだ。
 教育バウチャー制度とは公立学校への財政支出をなくし、その分の金を授業料バウチャーという形で親(保護者)が受け取る。子どもが通う学校は学区ではなく親が決める。親がいいと思うような人気のある学校の資金が増え、人気のない学校は存立できなくなる。要するに学校を市場経済に組み込もうというものである。東京都品川区で行われている「学校選択制」はその前段階としての一例である。四点目は、第九条「教育行政」一項において「学校長」をわざわざ登場させたこと、二項において国家と地方公共団体が上下関係にあることを示したことである。
 以上のように、改正派の目的が、「天皇を頂点とする国家のための、国家に奉仕する国民=日本人育成」にあることがはっきりと示されている。このグローバル化の時代になぜ! アイヌなど先住民族、外国人が多数存在し滞在者も増しているどうして教育の目的が「日本人の育成」なのか? とわれわれならずとも疑問を抱くであろう。
 また、中央省庁官僚・大銀行・大企業幹部といったエリート層を頂点とする構造的な不正・腐敗の事実が日々繰り返し明らかにされている今、それらの仲間である政治家や資本家、学者どもが道徳を説くなど、何を言うか! と怒りに駆られるだろう。だが、改正派の視点は、あくまでも支配階級としてのものであり、われわれの素朴な思いなど一顧だにされないことを「改正」の動きと内容は、また示しているのだといえよう。
 この教育基本法「改正」にどのように対抗していくのか。今、日教組も、全教も運動の主軸をそこに据えようとしている。しかし今、教育をめぐって論議をにぎわしているのは「学力低下」問題であって、教育基本法問題ではない。
 新学習指導要領がこの四月から実施され公立学校は完全五日制となった。授業日が減るとともに「総合学習」が導入され、教科内容が削減された。「自分の子どもは大丈夫か」から、グローバル化の中で「大競争」に勝ち抜く日本人育成の強調までの幅を持って、また、金持ちの子どもは授業時数の多い私立学校へ、そうでないものは公立へとなり、経済的格差がますます学力格差を生むことになるという観点からもこの「ゆとり教育」への批判が加えられている。これに対して、文部科学省は「学習指導要領」を越える学習をしてもよいと朝令暮改的に姿勢を転じた。「学力低下」を実証するデーターが新聞の一面を飾り、一斉学力テストが各県で実施されようとしている。学校現場はこれらに振り回され、多忙化は深刻の度合いを増している。
 「改正」反対の闘いを困難にしているのはこの状況だけではない。それは、教育基本法はあまり読まれてこなかった、という歴史的現実である。教員の間でも採用試験のために学んで以来、見ていない人が多い。教組の組合員手帳には掲載されているが、よほど意識的な人でない限り見ていない。それは、教育基本法自体が現実の教育政策の中で疎んじられ、邪魔にされてきた歴史によってもたらされてきた。
 教育基本法制定から十年も経たぬ一九五六年「地方教育行政の組織および運営に関する法律(地教行法)」制定によって地方自治体の教育委員会の公選制は廃止され首長による任命制に切り替えられ、都道府県教育長も文部大臣の承認制となった。これ以降、地方教育行政は独立性を失い、文部省官僚が強力な権限をもつ中央集権的教育行政体制が確立され、教育委員会の重要ポストには文部省キャリア組が派遣され席を占めているところが多く教育長の天下りがなくなったのはごく最近である。
 一九九九年、日の丸君が代強制問題で広島県の校長が自殺したが、文部省派遣の県教育長の強硬な姿勢の下でであった。教育政策は文部省が選んだ中央教育審議会によって審議され、その時々の政権勢力の意向を反映した「答申」に基づいて法整備が行われるか、文部(文部科学)省の「広報」「告示」「通達」が都道府県に下りて来る形で示されるものであった。根本法である教育基本法は、それを墨守すべき当の政府文部省によってないがしろにされ空文化されて来たのであり、その下で反動的教育改革が強行され、教育荒廃が生み出されてきたのである。
 また一方、日教組も文部省の反動的攻撃に対して闘いを展開してきたが、「憲法・教育基本法」をスローガンとして掲げても、具体的に「教育基本法に照らしてどうなのか」という問題の立て方をしてはこなかったというのが実際であった。こうした経緯の中で、残念ながら教育基本法の理念と精神は、現実の教育と教育を受けた人々の心身と生活に確かな存在として浸透することはできなかったのである。

 教育基本法は、「民主的で文化的な国家を建設し、世界の平和と福祉に貢献し……この理想の実現は根本において教育の力に待つべき」「個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を帰するとともに、普遍的にしてしかも個性豊かな文化の創造を目指す教育を普及徹底」すると前文で謳っている。改正派が示す狭量な「日本人主義」とは格段に違う。
 そして第一条「教育の目的」に「自主的精神」を、第二条「教育の方針」では「自発的精神」を、育成、養うべきものとして記している。憲法理念に基づく新しい社会をつくるには自主的・自発的精神を持つ存在こそ必要であり、その主体=主権者づくりを「教育の力にまつ」、そのためには「不当な支配に服することがなく」教育は行われるべきと、教育基本法は明確に示したのだ。
 人を支配し、思うがままに動かして自らの利益を得ようとする支配的勢力からすればこれほど邪魔なものはないと葬り去りたくなるのも理の当然かもしれない。
 支配勢力の攻撃は成功し、自主的自発的な主権者を育成する教育は中途でおしとどめられた。学校は「従順な人間」づくりの場に舞い戻らされた。
 私たちは学校、企業、労働組合、町内会などさまざまな場で「長いものに巻かれろ」「よらば大樹の陰」の意識が蔓延し「上意下達」がまかり通っていることを身にしみて感じてきた。疑問は口に出さず、批判はせず、上からのお墨付きの方針を多数決で決めることが民主主義であるかごとき風潮さえ堅牢なもののように見えている。その意識状況の上に人々は分断され人権侵害、首切りがやすやすと行われ、一方、社会の上層部ではとめどない不正・腐敗が進行してきた。
 教育基本法「改正」との闘いは、こうした社会体制の維持を強力な国家意識への国民の結集によって切り抜けようとする策動に対する闘いであり、空洞化されてきた教育基本法を教育現場に社会生活に再度持ち出し再生させ、活用していくことである。
 逆説的ながら教育基本法は「改正」攻撃によって、日の目を見ることになった。その理念実現の道半ばの教育基本法を、学校現場で、社会運動の中で押し出し、教育と社会・政治の変革の運動に積極的に利用していくことが求められている。     (つづく)
(荒川紀一)


もどる

Back