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釜山アジア大会                  かけはし2002.10.21号より

「感動の祭典」と言うには不十分南北統一チームは作れなかった

本当の平和と和合の契機となるのか

 イベント専門MCのメン・ソンジェ氏(35)は98年バンコク・アジア競技大会の「ハンギョレ南北共同応援団」の応援部長だった。彼は、バンコクの空の下で南北がともに歌うアリランやケンガリ(鉦)の音が響きわたることを望んだ。けれども彼の期待は期待に終わってしまった。
 南北韓はバンコクのスリナカリンウィロット大学競技場で相前後してハンドボール競技を行ったけれども南北の応援団は遠く離れて座らなければならなかった。「引き裂かれた祖国を実感しました。そんなにも近くにいながら肩を組んで同胞愛を交わすことができなかったとき、それは惨めな思いでした」。
 そして2年後、シドニーで南北が同時入場する様子を見守った。「コリア選手団」180人が韓半島旗(統一旗、白地に青で朝鮮半島を描いたもの)を掲げて入場した瞬間、電光板には「KOREA」という鮮明な字幕が浮かびあがった。それはバンコクでのもどかしさを充分にすすぐほどの感動だった。

 さらに2年の歳月が流れたいま、メン氏の夢は「アジアの自負心」へと続いていった。6月の神話を呼びおこした700万人のかん声が「夢の1勝」や「宿願の16強入り」に結びついたとするなら、釜山のかん声はアジアの和解と協力そして平和と統一に向かうものと期待する。北韓チームのサポーターとして参加するメン氏の願いも一層強烈だ。「勝負の世界でメダルへのこだわりは捨てられないことです。けれども今回は必ずや南と北そしてアジアの各国がさまざまな形で一緒になる祝祭の土台を築くことを切に望みます」。
 第14回釜山アジア競技大会は各国を代表する選手たちだけの舞台ではない。代表選手らがテールン選手村や各施設で汗を流すとき、「彼らだけの競技」を「アジア人の宴」へと浄化させるために、また別の汗を流した人々が数限りないほどいる。大会準備のために延べ人員15万人が参加し、大会期間にはメン氏のように数万人がサポーターとして活動する。
 アジア競技大会が開かれる釜山は名実ともに国際都市へと変貌した。現在、釜山に結成された市民サポーターだけで北韓への3千余人をはじめ44カ国4万人に達する。一部種目の競技が行われる蔚山、昌原、馬山、梁山などにも別個にサポーター集団が結成された。北韓へのサポーターは「ともに進もう統一へ、アジアへ、世界へ」、「One Korea One Asia」などを公式の応援のかけ声とし、コメ1000包と1億ウォン相当の毛布、焼酎などの品々まで準備した。9月28日、万景峰92号に乗って釜山の港に着いた北韓の応援団を迎えた彼らは北韓選手団と応援団とを支援するために40億ウォンの支援を受け、募金活動も活発に行っている。
 今回の釜山アジア競技大会はアジア人の祝祭として不足しているものは何一つないように思われる。9月29日から10月14日まで16日間、開かれる今大会は選手6647人(男4642人、女2005人)と役員3141人(男2793人、女348人)など全部で9788人で史上最大の規模だ。そのうえアジア競技大会50余年の歴史上、初めてアジアオリンピック評議会(OCA)傘下の加盟43カ国のすべてが参加する。米国の砲撃による廃虚から立ちあがっているアフガニスタンをはじめ、4年前のバンコク・アジア競技大会に不参加だったサウジアラビアやイラクも合流した。非加盟国の東チモールもが準会員の資格で参加する。
 これまでアジアの和解と連帯は、空しいこだまだった。一方では銃声と火炎が絶えなかった。アフガニスタンは23年間の戦争と米国の空襲などによって死亡者は150余万人、難民は350万人に達する。イラクはOCA加盟国の資格停止によって1990年の北京大会から「アジアの和合」(広島大会)や「国境を超えた友情」(バンコク大会)をともにできなかった。イラクは、ジョージ・ブッシュ米国大統領の先制攻撃の脅威にさらされている。インドネシアやインドの分離運動、ミャンマーやフィリピンの内戦、中東紛争などが続いているアジアは地球村最大の紛争地域に挙げられる。
 このような状況で釜山アジア競技大会はアジアの本当の平和と和合の契機となるのだろうか。米国と中国が70年代初めに「ピンポン外交」を通じて交流の水路を開き、南アフリカ共和国のマンデラ政権はラグビーを通じて「黒白和合」を図った。スポーツが平和の架け橋の役割を果たしたわけだ。
 ガンジス河用水問題でインドと緊張状態にあるバングラデシュ出身の移住労働者で安山で働いているモハメド(28)は依然として根深い被害意識を持っている。「どんなにスポーツを通じて親善を図っても、その時だけだ。それにもかかわらず今回、釜山で互いに友達と認め合えるさまざまな出会いができれば、と思う」。
 東南アジア出身の移住労働者たちは久し振りに故国への郷愁にいやされるとの期待をふくらましている。あるいは彼らは「アジアは友達」というスローガンを膚で感じて生きているのかも知れない。3年前パキスタンから韓国に来たネイム(33)は隣国出身の友達らとともに応援合戦を繰り広げる予定だ。
 「一緒に働いている人々は、それぞれ別の国から来たけれども互いに友達になった。一緒に自分の国を応援すれば一層、仲良くなれると思う」。早々に故国を応援するためのフレーズも決めた。彼は「パキスタンよ永遠なれ!」Pakistan Zindabad)を、インドネシアの友達は「やり遂げようインドネシア」(Ayo Indonesia)を声高く叫ぶ。
 ソウルでは釜山アジア競技大会とからませて多様なアジア文化の行事が催される。21世紀に入り新たな秩序を模索するアジアの夢を「汎〜アジア」に込めてみようというものだ。10月17日には市民意識に表れた外国文化、アジア各国の文化の違いと葛藤克服の方案など、アジア文化をテーマとするセミナーが、10月27日には漢江公園汝矣渡し場でアジア文化の祝祭が開かれる予定だ。
 今回の行事を用意したパク・ウォンスン・美しい財団常任理事は「W杯の赤い悪魔の熱気は排他的民族主義にあるのではない。わが社会にも移住労働者たちが増加するとともに多民族の文化に関心を寄せなければならない。アジア競技大会もまた、アジア各国を改めて理解し、地球村の一員であることを確認するとともに、アジア共同体を作りあげる場とならなければならないだろう」と語る。
 アジアの連帯は単に希望事項であるだけではない。南韓で開かれる国際大会に北韓が全面的に参加したのは韓(朝鮮)半島の平和の定着やアジアの連帯に示唆するところが少なくない。アジア競技大会が分断を飛び越え銃声を沈黙させたのだ。釜山アジア競技大会組織委員会チョン・スンテク委員長は「北韓の参加によって大会の位置が大きく高まった。東チモールやインドネシア、アフガニスタンと周辺諸国の葛藤に気を使うのは事実だが、スポーツを通じてアジアの力を結集できるだろう。21世紀にアジアが世界を先導する契機になるものと信じている」と語った。
 それにもかかわらず、理念的枠にとらわれた論争が葛藤の火種を残しているのは事実だ。統一旗論争がそれだ。統一旗は北京大会を前にして89年に開かれた南北間の体育会談で初めて論議された。90年大会では実現できなかったが、大会が終わった後、11月に南北共同の旗として白地に空色の地図を描いた統一旗を採択した。そして日本の千葉で開かれた世界卓球選手権大会で初めて登場した。
 このように南北を連結する鳥鵲橋(天の川の橋)の役割をする統一旗が同時入場を前にして、開催国で論議をかもしたのはアイロニーと言わざるをえない。人共旗(北朝鮮の国旗についての韓国での呼称)論争も同じだ。加盟国の国旗の指定場所、競技場での掲揚はOCA憲章に則った当然の権利であるのに、大会の公式ホームページにさえ「朝鮮民主主義人民共和国」の国旗は見えない。
 事実、釜山アジア競技大会に対する関心はオリンピックやW杯とは全く異なる。オリンピックは拉致、テロ、国際ボイコットなどの災難が絶えないにもかかわらず、スポーツの最高の栄光を象徴する大会として確固として位置を占めた。選手たちは富や名誉も手にする。金メダルを1つもぎとれば月100万ウォンの年金がもらえる。けれどもアジア競技大会では少なくとも金メダル2個を取って、月30万ウォンだ。W杯では、たった1勝だけでも国運上昇を云々し、「4強神話」で予定にもなかった兵役免除の恵沢と数億ウォン台の報償金まで与えた。
 アジア競技大会は金メダルを獲得した男子選手に兵役の恵沢が与えられるだけで、非人気種目は報償金が、はなからないケースが少なくない。国民の参加の熱気も煮えきらない。けれども、それだけでアジア競技大会を、けなすことはできない。

 いまや釜山で統一と平和のアジアードの幕は上がった。白頭山と漢拏山でそれぞれ採火さえ、臨津閣望拝壇で合わされた南北韓の聖火と42カ国で採火した聖火を1つにする合火式もあった。ハングルの字母順にしたがってネパールが最初に入場し、開催国である韓国は北韓とともに最後尾の順序で同時入場した。まだわれわれにとって「感動の祝祭」と位置付けるには不充分な点が多い。南北が手を握り、一緒に応援する姿は相変わらず願いにすぎず、南北が競争の終止符を打ってともに一丸となる単一チームを実現することはできなかった。それにもかかわらず今回の釜山アジア競技大会は、その元肥えとしての役割を果たすだろう。韓半島の平和とアジアの連帯、その初々しい希望を示したからだ。ついにアジアの祝祭は始まった。(「ハンギョレ21」第428号、02年10月10日付、キム・スビョン記者)


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