| フィリピン ルポルタージュ・密林の中のRPM―M大会(上) かけはし2010.11.15号 |
世代間でバトン引き継ぎ、過去と決別し新しい現実に挑む
ジョエル・フレンチマン |
今年八月末、ミンダナオ島の山中で、革命的労働者党―ミンダナオ(RPM―M、第四インター・フィリピン支部)の第二回党大会が開催された。二〇〇一年の結成大会以後九年を経てかちとられた第二回大会は、同党が非合法政党であり、かつミンダナオがフィリピンで最も軍事化された地域という困難な状況を考えれば、画期的な成果である。党の軍事部門によって防衛された大会は、きわめて民主的な運営で活発な論議が交わされた。ここに掲載する党大会ルポは、欧州から第四インターナショナルを代表して参加した同志の一人が書いたものである。フィリピンの同志たちの厳しい中での明るい気分が描かれている。(「かけはし」編集部)
革命的労働者党―ミンダナ
オ第2回大会 歴史的覚書
ピエール・ルッセ
革命的労働者党―ミンダナオ(RPM―M)は二〇〇一年に創設された。しかしそれは、その十年前の一九九二年〜九三年におけるフィリピン共産党(CPP、毛沢東主義者)の危機にまでさかのぼる歴史の産物である。この危機は、党活動の諸部門を取り扱う特定の委員会や党の地域組織を含む全一連の分裂をもたらした。こうした事態はフィリピン群島の南部では中部ミンダナオ地方委員会(CMR)にあてはまる。
さらに少し時間をさかのぼってみよう。一九八七年九月、共産党はミンダナオでの勢力を再組織し、中部ミンダナオをふくむ五つの地方委員会を創設した。とりわけ中部ミンダナオ地方は、モロ(ムスリム)とルマド(先住民)に向けた活動――この群島の最南端の大きな島の「三民族連帯」に責任を負うことになった。三つのコミュニティーはミンダナオで現実に隣り合わせに暮らしている。
「多数派民族」は、最近の「国内植民地化」のプロセスの枠組みの中でミンダナオにやってきたキリスト教徒の入植者の子孫で構成されている。二十世紀を通じてフィリピン政府は、この群島の北部、南部の住民(多くは農民)をミンダナオへの移住と入植に追いやった。モロは、十六世紀のスペインによる植民地化以前にイスラムに改宗したムスリム住民、ルマドは、イスラム化されなかった山岳部族、先住民族である。
「国内」植民地化のプロセスと大企業(外国ならびにフィリピンの)の到来は、多くの経済的・社会的・地域的対立を生みだし、それは容易に氏族(コミュニティー内の)を超え、あるいはコミュニティーを超える形となった。モロの歴史的抵抗は重要な武装運動を勃興させた。モロ民族解放戦線(MNLF)、そしてモロ・イスラム解放戦線(MILF)がそれである。他方、ルマドの抵抗運動は地域的なものにとどまった。
中部ミンダナオ地方委員会(そして現在のRPM―M)の主要な地域的基盤は、ラナオ(北ラナオ、南ラナオ)、東ミサミス、北コタバト、マギンダナオの各州にある。そこにはイリガン、マラウィなどの都市センターも含まれている。しかしそのネットワークはモロやルマドの住むあらゆる所、すなわちスルタン・クダラト、ザンボアンガ、そして最南端の諸島にまで広がった。さらに中部ミンダナオ地方委員会は、ビサヤ地方(群島の中部)やマニラといった遠く離れた場所に作られたモロやルマドのコミュニティーに向けた活動にも責任を負うようになった。
フィリピン左翼の中で、中部ミンダナオ地方委員会の経験はきわめて独特のものだ。かれらは、この群島の中の主要な軍事紛争地帯で活動しており、モロの中では限られた基盤しか持っていないが、そのメンバーの多くが「多数派民族」であるにもかかわらずルマドの住む州の拠点では、ルマドの山岳部族の間ではるかに重要な活動を行っている。
一九九三年の党分裂以後、中部ミンダナオ地方委員会はその境界を超えた活動に乗り出した。かれらはフィリピン群島全体のレベルでの新しい革命組織の建設を望み、ビサヤ、マニラにおいてCPPの危機が生み出した他の組織と合同し革命的労働者党を創設した。不幸なことにこの構想は失敗し、一方では「フィリピン」の革命的労働者党(RMP―P)、他方では「ミンダナオ」の革命的労働者党(RMP―M)を登場させることになった。
それ以来、RPM―Mはその活動をミンダナオ全体、とりわけ東部、ダバオ(ミンダナオ最大、フィリピンで第二の都市)に拡大したが、当面のところ首都(マニラ市・ケソン市)、群島北部のルソン、中部のビサヤでその組織を確立することに成功していない。RPM―Mは、きわめて「ミンダナオ的」アイデンティティーを持った組織のままである。より一般的には、CPPの分裂が作り出したフィリピンの革命的諸党は、地域や社会部門に応じたきわめて不均等な基盤を持っているのである。
RPM―Mのメンバーは多くの場合合法的な活動を行っているが、RPM―Mは依然として非公然組織である。RPM―Mの古い世代のカードルのすべてが毛沢東派党の党員だった。同様にRPM―Mの政治・軍事組織である革命的人民軍(RPA)のメンバーはCPPの新人民軍(NPA)出身である。しかし一九九三年以来、多くのメンバーはRPM―Mに参加し、毛沢東派の運動には加わらなかった。
RPM―Mの若返りは、まさに驚くほどである。RPM―Mは第四インターナショナルに加盟し、そのフィリピン支部となった。(「インターナショナルビューポイント」10年10月号)
自力で切り開いた山中の会場
午前三時起床。三時半に出発。四時十五分に山のふもとの村で、コーヒーのためにストップ。それから革命的労働者党―ミンダナオ(RPM―M)の大会が開催されるキャンプ・ウスマンまでの夜間行進。
少なくとも計画としてはそうだった。
だが実際には、私たちのために用意されることになっていた車は、女性を病院に運び込むために緊急に使われなければならない。午前二時、私たちは新しい車を探さなければならなくなった。その車はみごとに壊れていた。ヘッドライトもなかった。私たちは車の前の窓から外に出された懐中電灯で道を照らしながら、真夜中のドライブをすることとなった。こんなことは初めてだ! そのためもちろん私たちは遅れてしまい、夜が明けることになった。そして、ゲリラキャンプに着くために夜の闇に守られるという便益を十分に享受できなくなった。時間が切迫したため、お約束のコーヒーを飲むこともできなくなった。
RPM―Mは政府との和平交渉を行っているが、非合法の地下政党である。フィリピン群島の南部にある大きな島・ミンダナオはフィリピンで最も軍事化された地域であり、国軍はとりわけMILF(モロ・イスラム解放戦線)と対立している。RPM―Mは多くの敵対的な武装グループ、すなわち政府軍、政府軍が設立した民間部隊(CAFGU)、「ビジランテ」(自警団)、極右私兵、地主のお雇い武装勢力、軍閥の私兵、ギャング集団、誘拐犯グループなどから自らを守らなければない。最も悲劇的なことは、主要な脅威の一つが以前の同志、すなわちフィリピン共産党(CPP)とその新人民軍(NPA)だということだ。かれらはこの二十年にわたって超セクト主義路線に従ってきた。
こうした条件の下では、町や、普通の集会室で大会を行うことは不可能だ。とりわけ党の多くのカードルは今なお「お尋ね者」であり、さらに深刻なことにその多くがNPAの戦闘指令の対象に上がっていることだ。機会が来ればかれらを暗殺する許可が発せられている。
したがって大会は、RPM―Mが多くの民衆的支持を得ている地域の山岳部で行われなければならない。選ばれた場所に到着するのは非常に簡単だ。地域の代議員たちが次々に、多くは食料持参で到着する。大会のために用意されたキャンプを作る作業は、まだ完了していない。「キャンプ・ウスマン」――二〇〇八年に亡くなったベテランの革命戦士の名を取って命名された――は、それほど多くの人びとの宿泊のためには使用されていない。うっそうと茂った葉と巨大な緑の防水布に覆われて、大きな調理場、木造の小屋と会議室がすでに建てられていた。なお私たちは、針療医用の小さな診療所(きわめて初歩的な)を組み立て、トイレを掘り、「シャワー」コーナーを設置し、導水用のパイプを並べ、危険で滑りやすい小道に足場を刻み、竹の舗装を強化し、カモフラージュを改善するといった仕事をしなければならない……。
私たちは小さな渓谷の底にいる。すべてが斜面、しかも急峻な斜面だ。最も小さなテント(ヨーロッパからのゲストにはそれぞれ小さな個人用テントが与えられた)を建てるにも平坦なスペースを切りだすことが必要だ。土掘り、木の伐採、枝落とし、さまざまな資材の組み立て、小道の区画、そしてまた土掘り……。多くの労力を要するこうした作業は、革命的人民軍(RPA)の部隊によって行われた。かれらは私たちの宿泊の場を整えるとともに私たちの防護を確実なものにしなければならない。私たちがキャンプに着いた時、戦士たちは疲れており、コーヒーのおかげでなんとか体をもたせていた。幸いなことに新たな増援部隊の到着で、かれらはささやかな休息を取ることができた。
キャンプの建設と調理場への毎日の薪の補給は、きわめてわずかながら木を切り倒すことを意味する。同志たちは、自分たちが使った木の替わりとなるように計画的に再植樹している。
峡谷の底では雨が降ればすべてが恐ろしいほど滑りやすくなる。地面はどろどろの粘土だ。フィリピン人たちはバランスを保つのに苦労している欧州人を、転んでしまうかどうか横目で見ている。かれらは私に同情し、歩行用の杖を切り出してくれた。自慢じゃないが、私は転ばなかった!(1)。私は、仲間の一人に、雨季がすでに始まった時に大会を組織するのは必ずしもいい考え方ではないのではないか、と指摘した。彼は、そうしなければ十分に水を供給できる適切な場所を見つけるのは難しい、と答えた……。
電力は小さな発電機とソーラーパネルで供給された。代議員たちは、優先されるべきは個々人の携帯電話への充電ではなく、ラジオ(とりわけRPAの部隊間の連絡を可能にする)とコンピューターであることを繰り返し再確認した。フィリピン人はSMS(ショート・メッセージ・サービス)の多用など携帯の野放図な使用で知られているが、ここでは送信は安全上の理由から規制されている。
大会の開会は二人の最年長の参加者(男性と女性)によって宣言され、数日後一番若い参加者によって閉会が宣言された。世代間でバトンを引き継ぐという象徴性に満ちたいい考え方だ。誰もが一時限りの変名を使用するよう求められた。それはしばしば、大きな白紙にその名前を書き取る任にあたっていた同志を当惑させる風変わりな名前となった。参加者の一人は、地域の警察に捜索されている者の名を選んだ。それは変えるように要請された。
困難な大会組織化は完遂された
RPM―Mは二〇〇一年に創設され、規約は三年ごとに大会を開催しなければならないと明記している。したがって二〇〇四年に第二回大会が開催されるべきだった。しかしここ数年はきわめて不安定な激動の時期だった。ミンダナオに広がる諸条件は、大会や準備討論の組織化を困難にさせた。皆さんは大きな安心感を得たに違いない。私たちはついにそれをやりぬいた、と。
討論と地域の予備的集会、真剣な熟慮、集団的な政治的決定、全国指導部の選出を伴う大会の開催は、決してお決まりのものではない。それは軍事化された状況下での非合法という条件だけによるものではない。それはCPPが支配した一九七〇年代、八〇年代のフィリピンの革命運動の伝統の最悪の側面の一つからの決別なのである。CPPは創設以後大会を開催せず、大会を開催するというそぶりすら見せなかった(2)。この決別は、RPM―Mの歴史的カードルたちがCPPと毛沢東主義の出身であるという事実のために、なおさら重要なのである。
大会は、毛沢東主義者のCPPとの決裂後十七年を経て開催された。それはかれらがたどってきた政治的距離を測定する機会でもある。第一セッションはセミナーに類似したものであり、大きな議論を引き起こすことはなく、二〇〇一年にRPM―Mが結成された時点ですでに記された理論的・戦略的発展を要約的に再確認するものであった。
フィリピン社会は、もはや「半封建的」「半植民地的」ではなく、帝国主義に従属しているとはいえ資本主義社会と見なされた。この時期の性格がどのようなものであれ、武装闘争はもはや必ずしも闘争の主要形態だとは見なされない。活動のすべての部門は、もはや地下カードルの警戒心に満ちた権威の下に置かれない。ルマド(先住民族)がとどめ置かれていた従属的諸関係は、自決権を尊重する関係を支持することにより放棄される。党内、党と諸運動の関係、闘争の中での民主主義が、大きな関心事とされるようになってきた。
大会は進行中の社会的変化への措置をも取り上げた。RPM―Mが活動してきた工場の多くは閉鎖された。部族コミュニティーは商業的秩序に包囲されている。農民は、農村からの脱出によって掘り崩され、弱体化している。フィリピンは労働力を大量に輸出しており、経済を背負っているのは移住労働者たちであるが、家族たちはこの人的流出に苦しめられている。こうした残酷きわまる激変にどう対応するのか。おそらくこうした不安感、崩壊感覚は、ミンダナオでは自然災害や、住処を奪われた人びと・「国内難民」の続出をもたらす軍事的紛争の繰り返しによって際立ったものになっている。
第二回大会は、ここ数年間の経験を再評価する中で、第一回大会で採択した文書に立ち返り、それを修正し、来るべき時期の任務を定義し、新指導部を選出しなければならない。
安全措置・軍事的保全
大会の雰囲気はなごやかなものであり、大会期間中を通じてそれは変わらないだろう。しかしキャンプの責任者は、この周囲から孤立した地域に到着する参加者が事前の注意にもかかわらず気付かれずにすむことはない、と恐れていた。夕刻、襲撃の際にはどうするべきかの指示がなされる。警告のホイッスルが吹かれてどこから危険が迫っているかが知らされる。幾つかのグループに分かれて急速にキャンプから逃れ、再結集地点に集まることが示される……。私はこのポイントについてよく分からず、早めに就寝していた。男性用「シャワー」の前が列をなして混雑することを避け、夜明けすぐに体を洗うことができるようにするためである。そこで次の日に私への指示が繰り返され、何かが起きた場合には私に小規模の護衛がつくことを知った。
大会は、少し高い場所に配置されて一帯を調査している数十人の戦士たちの防護の下で行われている。近くの村落の活動家のネットワークが警戒し、何か疑わしい動きがあった場合は危険情報を出さなければならない。さらに大会参加者のごく少数も武装している。会議場のある一帯ではすべての弾丸はローディングクリップにまとめられ、銃に装てんされてはならない。
私はフィリピンの移動ゲリラの古典的武器を見る。そのほとんどは弾丸の補充が容易なようにアメリカ製である。30口径のM1ライフル(私の記憶では「チェ・ゲバラ」の武器だった)。米軍の標準的攻撃ライフルであるM16、あるいはM1ガランド(第2次大戦中の米陸軍の銃)より強力になったM14。M16に手投げ弾発射装置を結合したM203。エキゾティックなタッチで、繊細な引き金を持つシンガポール製の軽機関銃ウルティマックス……。腰にさした拳銃については言うまでもないことだが。
大会は状況が比較的に穏やかな地帯で開催されている。軍閥勢力との公然たる衝突はない。政府との和平会談が行われているために、国軍はRPM―Mを攻撃してはならない(理論的には、であるが)。NPAがかれらの基地からこれほど離れた場所で危険な作戦を行うのに必要な大量の物資を集積するということを想像することは、私にとって難しかった。攻撃の可能性はきわめて少ない。しかしミンダナオでは確実なことはなにもない。
新大統領の選出は、全国レベルでの交渉手続きが再確認されなければならないことを意味する。地方的には、自治体の首長は自らの手で事態を取り扱い、メディアのトップを飾ることに熱心である。これほど多くの武装集団が展開しているこの地域では、大会とは全く関係のない出来事が、私たちの安全にとって危険な軍の動きを引き起こすこともありうるのだ。そこで私たちは防御のレベルを引き下げることはできないが、ありそうもない事件は起こりそうではない。(つづく)
(注1)欧州人のRPM―Mでの苦労は、コミック映画の題材になりうる。とりわけある一シーンはフィリピン人を死ぬほど大笑いさせるだろう。腹の突き出た巨体の白人男性が小さな地面に掘られた便器の上の大きく不安定な石の上におずおずと腰を下ろす。声をひそめ、泥の海に取り巻かれた漆黒の闇を突き刺す懐中電灯をつける……。その後、賢い奴がやってきて最も不安定な石を取り除き、ネオンの明かりを点灯するために電源を入れ、トイレへの行き来は危険ではなくなった……。
(注2)一九六八年に行われたCPP結成大会の出席者はわずか十二人だった。それはなお建設されるべき党の建設過程を主導した。一九九二〜九三年の分裂は、指導部の多数派ブロックが大会開催を拒否したためにまさに不可避となった。CPPは結成以来四十年以上になるのに、いまだ大会を開催していない。
(「インターナショナルビューポイント」10年10月号)
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