体制的危機に行き着いた経済移行の20年
市場金融に深く依存した移行と成長は完全に破産 |
欧州建設が呼び起こした民衆の希望は、実際に起こっていることとは根本的に異なっていた。それは民主的、社会的、エコロジー的な連帯の論理に基づいた、反社会的政策に抵抗する、世界に開かれた大陸という希望であった。これは特に、東欧で願望されたことであった。東欧では、民衆はより良い、より自由な生活を送ることを熱望していた。彼らの希望は深く裏切られ、排外主義的潮流の基盤をつくり出した。民衆が選択をやり直し未来を選び直すには、ものごとがうまく行かなかった歴史の変転を理解し、現在の危機を理解することが不可欠である。
新世界秩序への組み込み
一九七〇年代は、利潤の危機と世界秩序の危機が資本主義中枢諸国を襲った十年間であった。中・東欧では、チェコスロバキアの例が示すように、ソ連の経済的「支援」(戦車で補完された)への依存が続いていた。ソ連に対するコメコン内のバーター取引の枠内の(コメコン=相互経済援助共同体、計画経済をとる諸国間の交換を支配)交換性のないルーブルによる負債のほかに、今や第二の負債が加わった。これは交換可能な通貨による負債で、重い債務になっていった。
ソ連はこの債務には関与しなかった。ソ連は金融と産業の両面で依然として冷戦によるボイコットを受け、一九一七年以降先端技術の輸入を阻止されていた。そこで、西側のボイコットを受けていなかった東欧諸国は(ソ連の同意を得て)特定の近代技術の獲得を目的として西側からの輸入を開始した。このことはまた、体制側にとっては、一九六〇年代の経済改革の行き詰まりの後の民衆の不満をなだめるための西側の消費財の輸入の追及とも一致していた。また、東欧の輸出の品質と生産性を改善するために特定の西側の技術を獲得する問題でもあった。
輸出は外国通貨による負債の返済を可能にするはずであった。しかし、官僚的保守主義のために効果的な技術輸入はほとんど行うことができず、債務は着実に増加し、一九八〇年代初めの金利上昇によって債務増加はさらに深刻化した。
しかし同時に、ソ連のアフガン介入後、レーガンが権力の座についたことにより、軍備拡張競争の最終局面が始まり、これが一九八〇年代前半のソ連に重くのしかかった。反対に米国にとっては、これは自らの多元的危機の複数の領域で攻勢を取ることを可能にした。国内的レベルにおいては、軍備への公共支出が研究と技術革新を支え、(80年代初めには不況の中にあった)経済を再浮上させた。同時に国際的レベルにおいては、これは次の十年間の軍事介入を保証する政治軍事的および技術的ヘゲモニーの再獲得の第一段階であった。
米国および一般に先進資本主義諸国で進行していた技術革命は、支配階級にとって社会的関係と世界秩序を再構築するための不可欠の要素であったが、ソ連および東欧との差を広げつつあった。この差は、第二次世界戦争後、一九七〇年代までは歴史的に縮小していたのである。
一九八〇年代の十年間は、このように複数の東欧諸国、すなわちルーマニア、ユーゴスラビア、ハンガリー、ポーランドおよび東ドイツの債務危機によって特徴づけられる。これらの諸国は、大規模な反官僚的社会的改革なしには根本的な改革は不可能であったが、その前の十年間に西側技術の輸入を開始し、民間信用による融資を受けた(注1)。この債務危機が新たな歴史的局面を開き、ソ連のゴルバチョフ政権が外部干渉政策放棄に向かって転換しようとしたその瞬間に、東欧社会に真の外部的圧力となってのしかかることを可能にした。債務は自らの近代化のために必要な西側の信用を獲得することを目的としたものであった。輸入に対して支払うための交換可能通貨の追求は、このようにして一九八〇年代の終わりにはコメコン内に新たな圧力と緊張をもたらした。
これ以後、ソ連は期限が来た債務の返済を求めるようになり、可能な場合は交換可能通貨による返済を求めるようになり、外交政策の優先度を西側の金融と技術に置くようになった。かくして、あらゆる干渉政策から「撤退」した。その例が、コール西ドイツ首相との交渉による合意であった。 その間、五つの東欧債務国は異なる政治経済的方向を経験したが、それらはすべて一九八〇年代初めの、体制の変化に向かう「移行」の歴史的転換点において、決定的役割を演じた。
▲ユーゴスラビア連邦は、一九八〇年代にはIMFの圧力の下にあり、体制の全体的統一性の消失を反映して、社会的民族的対立の高まりと三桁のハイパーインフレによって麻痺していた。ユーゴスラビア連邦と体制の解体をともなった民族浄化戦争と、ヨーロッパと国連による和平計画の行き詰まりは、ワルシャワ条約が消滅した後にNATOを再配置するために米国によって利用された。ユーゴスラビア危機は、この地域の欧州・大西洋統合に向けての決定的段階であった(注2)。
▲ハンガリー共産党の指導者たちは、外部債務危機に対応するために自国の最良の企業を外国資本に売却することを決定した唯一の共産党指導者たちであった。当初は、これによって国内緊縮政策を緩和することが可能になり、その後十年間の「移行」の最初の数年間は外国直接投資の主要受入国となった。それだけでなく、ゴルバチョフが新しい欧州関係を確立した後、彼らは、一定の代償を得て、壁を倒す手助けに躊躇しなかった。
▲他方では、独裁者チャウシェスクは、ルーマニアの負債全体を人民の犠牲によって返済しようとした。ルーマニアのノーメンクラツーラ(特権官僚層)が最終的に決定したことはまことに過激であった。擬似「革命」を扇動し、一九八〇年代の最後に独裁者の死を演出した。
▲同時に、ドイツ民主共和国(東ドイツ)のドイツ連邦共和国(西ドイツ)による吸収が、ソ連の同意を得て決定された。ソ連はドイツの債権者たちを受け入れ、軍隊を撤退させた。
▲最後に、ポーランドのヤルゼルスキ将軍の政権の下でのソリダルノスチ(「連帯」労組)弾圧の後、妥協協定によってポーランドにおけるリベラルなショック療法の導入が可能になった。これは、一九九〇年代初めに米国が決定したポーランドの負債免除によって支えられた。権力の座についた新たな「エリート」たちを取り込んで、民営化に、そしてNATOに引きずり込むための費用は惜しまれなかった。
しかし、EUへの加入に先行する時期に、(外部の基準と金融への従属という意味での)周辺化の条件の下で、このようにして旧体制の崩壊から出現した「成長」はどんな種類のものであったか。
二〇〇八〜〇九年の政策の逆転が起こる前の二つの主要局面を区別し、スロベニアの例に注目する必要がある。
経済移行―雇用の権利の消失
一九九〇年代は、全体として旧体制の崩壊(民営化、管理の基準の変化)の十年間であり、それは二つの段階に区分される。この十年間の前半は、経済のすべての部門の二〇〜三〇%に及ぶマイナス成長によって特徴付けられる。その後、不均等に回復が起こったが(注3)、失業をともない所得格差が拡大した。「経済の移行のあらゆる面で不平等が広がり」、「世界の最低水準の経済の中で不平等をともなう移行が開始された。」(注4)
旧体制に対して勝ち取った主要な成果である複数主義的選挙の枠組みの中で、一九九〇年代の最初の数年間、民衆の票が旧共産党に向かったことは、ソース・データがなければ理解することはできない。これは一党支配国家への郷愁の問題ではない。一党支配国家は根底的に拒否された。これは雇用の権利の問題であり、基本的生活必需品やサービスを手に入れる権利の問題であった。
ただし、「旧共産党」はもはやこれらの権利を防衛しなかった。これらの権利は、古いヨーロッパが唱えたような種類の成長と「集中」から除外されていた。これ以後、「追いつく」ことの宣言はGDP成長率の(東対西の)比較のみに基づいて行われるようになった。GDPはいかなる意味でも福祉の指標ではない。体制の集中の「指標」は、民営化であった。
しかし、カネ=資本はどこにあるのか。旧体制では、蓄積は可能ではなかった。かって一党国家を支配していた人たちは民営化の引き受け手になりたがった。かくして「大衆的民営化」が発明され、企業の民営株式会社への法的転換の形態としてさまざまな形で行われた。「社会的資本」は株式に分割され、仮想的に無償で分配され、一部は労働者や市民へ、残りは国家へ分配された。ハンガリーとエストニアだけが、「移行」の最初に、最良の企業を「本物の」金融資本に、言い換えると外国資本に売却することを選択した(注5)。
スロベニアはなぜ「落第」か
一九九九年にEUが行った東欧および中欧十カ国の加盟承認の決定(注6)は、実際には民衆の不満の増大を封じ込めることを目的としていた。不満は現在に至るまで、選挙における高い棄権率や排外主義票に表現されており、また多数派政権の構築が政治的に困難であることに示されている。EU拡大の選択は、このように地政学的なものであった。しかし、この選択には社会的政治的安定を確立する手段はともなっていなかった。
欧州連合内の最貧国と最富裕国の一人当たりGDPの格差は、一九八六年のスペインとポルトガルの加盟によって四・九に広がった。二〇〇七年のルーマニアとブルガリアの加盟によって二〇・一に広がった。しかし、南欧諸国およびアイルランドの加盟には欧州予算の「構造基金」の増加がともなっていたが、EUの「アジェンダ二〇〇〇」の決定には反していた。ドイツは厳しい予算規則を実施してドイツマルクを放棄したが、中・東欧諸国の統合のために支払うことは望まなかった(注7)。しかし、EU拡大はドイツへの「払い込み」をもたらした。EU拡大は職場の東欧への移転をもたらし、ドイツの賃金に対して下方圧力として作用し、二〇〇〇年代の十年間の(弱い)成長と輸出超過の基礎をもたらした。しかし、欧州予算の上限は欧州域内GDPの一%に固定されている(これに対して米国連邦予算は約20%である)。マーストリヒト条約は、債務と公共財政赤字を厳しく制限しており、さらに(ユーロ圏に加入するには)中央銀行による国への利率ゼロの融資を禁止している。
したがって、加盟した諸国は民間金融に向かうように促される。民間金融機関は効率的で、資本の移動の自由に結びついているのは当然である。
外国直接投資(FDI)を引きつける方法とは何か。社会的ダンピング(賃金と社会的保護の削減)と財政的ダンピングである。二〇〇〇〜〇九年の間に法人税率は八・四%引き下げられ、東欧は最低税率となった。特にラトビアは一五%であった(EU加盟二十七カ国の平均は23・5%である)(注8)。「基準」を尊重するために、租税収入の縮小は、一般に福祉支出の削減をともなった。ハンガリーは、二〇〇三〜〇六年には教育および医療予算の増額を考えていたが、九%に達した財政赤字を埋めるために金融市場に迎合せざるを得なくなった。
しかし、全体として資本の移動の自由によって別の民間資金源が開かれた。すなわち、銀行である。資本なき民営化の後の十年間は、EU加盟によって助長された銀行への系統的な従属の十年間であった。二〇〇八年には(注9)、スロベニアを除く新規加盟十カ国においては、銀行債務は主として外国銀行が引き受けていた(ラトビアおよびポーランドでは65〜80%、他の七カ国では82〜100%を占めた)。スロベニアは、度重なる欧州委員会、世界銀行、OECD(経済協力開発機構)やEBRD(欧州復興開発銀行)の非難にもかかわらず、銀行活動の約七〇%とインフラストラクチャーの大部分(エネルギー、運輸など)を公共の支配の下に置くことに固執した(注10)。何度もゼネストを組織した(スロベニア固有の)労働組合が、租税と賃金の削減を制限するのに重要な役割を果たした。スロベニアは、このようにして、すべての中・東欧諸国の中で、賃金に関して「比較優位性」が最も低く、一九八九〜二〇〇八年の一人当たり外国直接投資が最も低い国になった(1500ドル、これに対してハンガリーは約4500ドル、エストニアは6500ドル以上であった)。しかし、一人当たりGDPはこれらの諸国の中でもっとも高く、スペインに匹敵した。それにもかかわらず、対等でない者の間での純粋で完璧な競争の「規則」を守っていないがゆえに、「落第点」をつけられることを逃れることはできなかった。
本質的に持続不可能なプロセス
全体で一兆七千億ドルに上る東欧諸国の借入は、実際には、西欧の銀行が引き受けている(オーストリア、イタリア、フランス、ベルギー、ドイツおよびスウェーデンが約84%をしめている)。しかし、民間銀行は、公的債務の買取と消費者金融を優先し、多国籍企業の小売業部門へのアクセスと不動産投資を容易にすることを優先した。このようにして最近の急成長(特にバルト諸国)を支えたのは、このような(貧困化の文脈の中での)借金に頼る消費の狂乱であり、それは貿易収支の深刻な不均衡をともなった。これは特に、通貨がユーロに対して固定されているために外国為替レートが「安定化」された諸国(特にバルト諸国)で顕著であった。
二〇〇〇年代の十年間の初めには、外国為替レートが有利であったので、金利の国際的低下が外貨建て借金を助長した。二〇〇六年以降、ハンガリーの抵当証券の九〇%近くはスイスフラン建てであり、スイス国外でのスイスフラン建て貸付の総額は五千億ユーロに相当すると推定された。ハンガリーの不動産ローン市場全体の五五%、すべての消費者ローンの四〇%は、自国通貨のフォリント建てではなくスイスフラン建てであり、このことが、スイスフランの金利が上昇したときに落とし穴となり、資本逃避によりフォリントの価値の低下をもたらした。
(特にオーストラリアおよびスウェーデンの金融機関によって)承認された貸付額は、チェコ共和国、ハンガリーおよびスロバキアのGDPの二〇%、バルト諸国のGDPの九〇%に相当する。これらの諸国は、二〇〇九年には四千億ドル相当を返済するか借り替えなければならなかった。これはこの地域のGDPの三分の一に相当する。
二〇〇八年九月以降、資本の流出と輸出の縮小が複数の国に影響を与え始めた。これらの諸国はIMFに助けを求めた。まず、その成長が外部の貸付と融資に最も依存していた国々である(ハンガリー、ウクライナ、およびバルト諸国)。しかし、二〇〇九年にはポーランドのみがわずかにプラスの成長率を記録した(注11)。他の諸国では、マイナス成長の範囲は三%から一〇%を超え、バルト三国が最もひどく、政治的社会的危機をともなった。
次のような疑問が提起され始めている(注12)。「中・東欧諸国は、危機が影響を及ぼす前から、その成長モデルに固有の不均衡によって弱体化していた。したがって、描かれていた統合は、おそらく、本質的に持続可能なプロセスではなかったのではないか。しかし、この点について危機が明らかにしたことを明確に示すことが必要である。」(注13)
しかし、EBRDの二〇〇九年報告書に表明された関心は、「移行」を具体化した民営化と市場金融の擁護にもっぱら向けられている。これらの諸国に系統的に関与した西欧の銀行が単なる投機基金のようには行動せず、この地域から撤退したことは喜ばしいことであり、それは当然であった。しかし、関連するリスクに直面して金融の収縮が存在する。
欧州の「寛容な統一」の真実
一九八九年のベルリンの壁の崩壊は、東ヨーロッパにとって歴史的な局面を開いた。しかし、同時に、新自由主義的グローバリゼーションと欧州建設の核心における転換点でもあった。
一九九二年のマーストリヒト条約は、世界で最も豊かな国(日本、米国、など)においてさえ適用されていない厳格なマネタリズム的基準によって加盟国の社会経済的、政治的不均質性を封じ込めようと試みた。すなわち、公共財政赤字の制限、およびユーロ圏の中央銀行に課した加盟国への融資の禁止に関連する債務の制限である。取り決められたこのかなり恣意的な基準の背後には、ドイツのドイツマルク放棄と、周辺諸国のいい加減さに対する不信があった。実際には、中・東欧諸国はEU加盟には程遠い状態にあったので、ユーロの創設と欧州中央銀行(ECB)の将来の地位に関連してドイツが信用しなかったのはEUの南部周辺部諸国であった。ECBが困難に陥った加盟国を支援することは問題外であった(ドイツはこのことをドイツ憲法に書いている)。しかし、各国予算は均衡に向かわなければならないが、この制約を補償するために欧州予算を増加させることには疑問はなかった。
南部諸国への先行する拡大は、欧州共同体平均より低いGDPの諸国を助けるために欧州予算の増額(特に「結束」基金と呼ばれたもの)をともなったが、新しい拡大は最小限の欧州予算に基づいて行われた。仏独枢軸は、東欧への「歴史的」拡大の二〇〇〇年代の十年間に、欧州GDPの一%という欧州予算の上限を課した(米国の連邦予算はGDPの約20%であるのに)。かくしてEUは不均質な総体に対して単一の金融政策を持つことになり、それはさまざまな効果を及ぼした。それは、非対称性を再分配政策によって補償できる予算を持たず、連帯と社会的保護の原則より優先する競争の権利を共通の「価値」として押し付けるものであった。
しかし、これらの基準の背後には、国家が持つ権力に関する、特に欧州憲法条約草案に規定されている「ドイツの例外」に関する、巨大な非対称性が存在した。すなわち、十年以上にわたるドイツ連邦共和国から新しい州への予算移転は年間一千億ドイツマルクを超えた(この期間に中・東欧に投資された年当り民間資本の総額より多い)。この十年間に、この桁外れの資源は東ドイツの福祉を改善するためには使用されず(それは政治的不満と選挙の投票に示されている)、社会的状態の解体と民営化の促進に、また賃金を近隣東欧諸国の賃金レベルとの競争の圧力の下で置くことに使用された。
欧州連合の拡大によって産業の移転が促進された。また、ドイツは東欧の新加盟国に近接していることを利用して劇的な賃金抑制政策を課した。二〇〇〇〜〇七年に、名目単位労働コストはドイツでは年当り〇・二%下落した。これに対してフランスでは二%の上昇、英国では二・三%の上昇、イタリア、スペイン、アイルランドおよびギリシャでは三・二〜三・七%の上昇であり、周辺諸国ではインフレがより高率だったから名目労働コストの上昇ははるかに高かった。
また、この建設にはもう一つの大きな不安定化要素が存在した。ドイツの(弱い)成長率は、低いインフレ率と弱い国内需要およびドイツの職場の東欧への移転によって助長された賃金の鋭い低下による輸出超過に基づいていた。しかし、ドイツの輸出超過は南欧および東欧の周辺部諸国の赤字の増大に対応している。ただし、これらの諸国を均質な実体として表現することはできないが(注14)。
全体としては、「新しい欧州」の従属的状態が長い加入局面を特徴付けているが、それとともに、ユーロ圏の南部周辺部は「古い非対称的な欧州」の「弱い環」を代表している。ドイツはフランスとともにマーストリヒトの基準を決定したが、これを尊重しない筆頭であった。ドイツは予算の財布の紐を握り、予算への寄与度を強調するが、輸出からどれだけもうけているかは言おうとしない。ドイツは、賃金および社会的緊縮政策に関する自己のオプションを強化するために、ユーロへの投機や、ギリシャ、スペインや最も脆弱な諸国の公共債務への投機によって、現在の危機を利用している。
公共債務を食いものにする論理
公共債務の管理の基準を決めるのは、事実上、国家間の権力闘争、各国家の権力、そして国内の社会的抵抗である。言葉の上では市場や民間貯蓄のために「国家は手を引く」ことを説いている主要国は三十年間に公共財政赤字の増大を経験した。これらの赤字は、米国においても、旧ヨーロッパや日本においても、戦後ブーム期よりはるかに大きかった。戦後ブーム期の赤字は、国家の社会的介入によって記録されたものであった(注15)。収入に関しては、成長率の低下と資本に対する税免除の新自由主義的選択のために租税収入が低下した。福祉支出は減少したが、失業の増大と社会的抵抗のために消え去りはしなかった。冷戦の最後の十年間であった一九八〇年代および二〇〇〇年代の十年間に、米国は軍備支出の増大によって赤字を法外に増大させ、成長を支えた。また、一般に、(中央銀行が赤字を埋める代わりに)公共債務のために国債発行に頼ることは、投機的資本をひきつけるために金利の上昇(したがって、国債費の上昇)をともなった。
言い換えると、公共債務危機の新しい局面は、自由主義の失敗が深く刻印されている長期的枠組みにあてはまる。しかしまた、二〇〇七〜〇九年の銀行の危機の新しい局面にも表現されている。米国を震源地とする銀行危機は世界的危機となった。特にヨーロッパに影響を与えた新しい危機を助長したのは、自らの貪欲さと金融証券の犠牲になった民間銀行の大規模な救済策と、世界的景気後退に直面して開始された景気刺激プログラムであった。中央銀行による民間銀行の救済策と国家が開始した景気刺激プログラムは、成長率低下を阻止したが、解雇や投機の論理を阻止したわけではない。それらは依然として機能している。今日、銀行はごくわずかな利率で受け取った金額を、彼らを救い出した国家に対して使っている。公共債務に関するイデオロギー的言辞は、一方では、緊急性と緊縮政策の必要性の「明白さ」の背後に隠れて、この「必要性」がいかにえたいが知れないものかをカムフラージュすることをねらっている。また、他方では、一九八〇年代の初めから行われてきた改革に関連する債務の真の原因を覆い隠そうとしている。圧縮すべき費用とみなされる賃金の低下に付加される価値の分け前の変化に、消費を維持するための家計の負債の増加が加わる。特に不動産に関しては、再投資されない利潤部分の増加が、種々の金融操作や資本の移動の自由に関連する投機的投資に向けられている。効率と自由をもたらすという自由主義的約束は、今日では、労働時間の延長、社会的保護や環境の破壊を意味し、教育、住宅および健康へのアクセス(何百万の農民にとっては土地と水へのアクセス)に対する全能のカネの支配を意味している。
立ち向かうべきは危機の根源
三つの危機(グローバル化した体制の心臓部である米国を震源とする二〇〇七〜〇九年の危機、ユーロを脅かしている弱い環の危機、二〇〇九年に東欧に影響を与え始めた危機)の影響が結合しているが、三つの危機には共通点がある。米国、ギリシャ、バルト諸国のいずれの危機も非常に不均衡な成長の反動であり、所得や租税収入の弱さが大量の負債によって埋め合わされ、それが金融利潤の源になっていた。債務の熱病的増加は、十九世紀以降のすべての資本主義的危機と同様、金融操作と株式操作によって助長され、自由な資本がそれを利用した。
欧州連合の二つの周辺部(南欧および東欧)におけるIMFへの依存は、この構造を守ることを目的としている。欧州建設の最中にこれが適用されたことは、欧州連合の脆弱な性格を暴露し、強調することになった。行われようとしているのは、民間金融を保護することによりマーストリヒト条約のマネタリズムの拘束衣を復活させることである。しかし、民間金融こそ、危機の直接的な犯人であり危機から利益を得ている者である。目的は、危機に乗じて、これまで行ってきた政策の新たな過激化を押し付けることである。倒されなければならないのは、福祉支出、世代間連帯を基礎とした年金、公共部門の賃金、社会的保護の最後の形態である。集団的権利、所得、まともな生活条件の論理に反対して導入される仕事の極端な柔軟性の目的は、追加の利潤を生み出すこと、そして失業者、低賃金労働者、不安定雇用労働者に「要求が多すぎる」という「罪」を負わせ、彼らを分断し、押しつぶし、アトム化し、抵抗できないようにすることである。
進歩的なオルタナティブの不在の中で、ハンガリーやオランダの選挙における極右への投票は、悲しい未来を指し示している。
資本の自由へのオルタナティブ
欧州建設は「前進し続けて」いる。なぜなら、政策決定者たちは(信頼できるオルタナティブ不在の中で、住民も)、これまでの各局面におけると同様に、継続をやめて立ち止まると事態を悪化させることを恐れているからである。ナショナリスト的反動や排外主義的反動は、考えられるオルタナティブの中でも最悪のものである。しかし、今日IMFと欧州制度によって押し付けられている緊縮計画は、著しく社会的に不公正であり、事実上、あらゆる反欧州主義的排外主義への道を準備するものである。
なぜなら、危機におちいっているのは、グローバル化した資本主義の枠組みの中での特定の欧州建設だからである。権力の座にある諸国政府は市場に奉仕し(すべての欧州条約は、一九八六年の単一欧州議定書以降、この方向に進んできた)、市場は支配的国家に奉仕する。これらの国家は、匿名の市場の「判断」の背後に逃げ込み、条約(署名したのは彼らである)の背後に逃げ込み、従うべき正しい政策は宿命論であるかのように、常に同じことを指摘する。すなわち、福祉支出の削減、公共サービスを解体して民営化の新しい分野を開くこと、そして金融投機である。それらを決定した欧州条約と経済政策は破産している。それらは多様な形態をとって人民に重荷を負わせ、その名に値する民主主義の上に築かれたものであった。守る必要があるのは人間の移動の自由と自由な選択であって、資本の移動の自由や選択の自由ではない。決定が行われるレベルにおいて、特に欧州レベルにおいて、条約、金融、必要と基本的権利を満たすことに関する最終的状態に異議を申し立て、スケープゴート(「外国人」)の論理、社会的獲得物の破壊をともなう法と秩序の政策の論理に反対する、連帯に基づいた抵抗を下から築き上げることが必要である。貧困の犯罪化と社会的問題の民族化は、抵抗の抑圧を容易にし、人々が危機の真の原因を理解し危機に責任がある者たちを見分けることを妨げることを目的としている。
▲カトリーヌ・サマリは、パリ大学ドフィーヌ校およびパリ第八大学欧州研究所で経済学を教えている。「ル・モンド・ディプロマティク・アトラス」の共同編集者であった。フランスの反資本主義新党(NPA)のメンバーで、第四インターナショナルのメンバーでもある。東欧に関する広範な著作があり、特にユーゴスラビアに関する著作が多い。
原注
(1) 一九七〇年代には、西側の銀行は石油収入から得たドルを使用して南の諸国に大量の信用を供与することを追及してきたが、それだけでなく、あまり知られていないが、上述の東欧諸国(ユーゴスラビア、ハンガリー、ルーマニア、ポーランド、東ドイツ)にも信用を供与した。次の十年間にこれらの諸国が経験した債務危機は、西側の信用供与者とIMFによる外部的圧力の決定的なベクトルとなった。
(2) 著者のウェブサイトの「world disorder」に関するテーマに関連する記事を参照。
(3) ポーランドは成長に復帰し一九八九年のGDPレベルに追いついた最初の国であった。めったに言及されないがこれは外国債務免除によるものであった。抑圧の十年間のために最初のレベルは非常に低かった。二〇〇〇年には、中欧諸国のみが一九八九年のGDPレベルに回復した。
(4) 世界銀行(WB)の地域概観(Regional Overview 1998)。また、世界銀行の二〇〇二年報告書「WB
Tenyears of transformation」を参照。
(5) 著者のサイトhttp://csamary.free.frに、東欧の「great capitalist transformation」およびEUの東方への拡大に関する分析が展開されている。また、『Critique
internationale』第六号(二〇〇〇年冬)のJean-Pierre Pageの「Europe de l'Est:
economie politique d'une decennie de transition」も参照。
(6) 二〇〇四年にキプロスおよびマルタとともに加盟を承認された最初の八カ国、および二〇〇七年に承認されたルーマニアとブルガリアとは別に、二〇〇三年のサロニカにおける欧州理事会は、EUを西バルカン諸国の候補国(アルバニアおよび旧ユーゴスラビア諸国、すでに加盟しているスロベニアを除く)に対しても開くことを約束した。
(7) ドイツ統一に関連して、十年以上にわたって新しい州に年間約一千億ドイツマルクの移転が行われた。
(8) ユーロスタット、二〇〇九年六月二十二日
(9) 出典:EBRD(欧州復興開発銀行)
(10) 移行報告書二〇〇九、二二四ページのスロベニアに関する報告に、これらの不満がすべて列挙されている。
(11) 中・東欧諸国とは別に、アルバニアも二〇〇九年に三%の成長を経験し、二〇一〇年初めに不況に入った。
(12) Jason Bush、「Latvia's Crisis Mirrors Eastern Europe's Woes」、二〇〇九年三月三日(シュピーゲル・オンラインに再録)を参照。
(13) 『Conjoncture』、二〇一〇年一月、第一号、「PECO, Alexandre Vincent, “la
convergence a l'epreuve de la crise”」
(14) 南の諸国の成長戦略は、ギリシャ(借金による消費の成長)とスペイン(米国や英国の不動産バブルによく似たシナリオに基づいた成長)では異なる。しかし、東欧においては、成長の要因はポーランドにおいてはバルト諸国よりさらに多様である(したがって脆弱さは小さい)。また、中・東欧諸国は(スロベニアとスロバキアを除いて)ユーロ圏に属しておらず、為替政策や予算政策の多様性はさらに大きい。
(15) Alain Bihr、「Que cache la croissance de la dette publique?」、http://www.cadtm.org/Que-cache-la-croissace-de-laの詳細な議論を参照。
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