| 関西共同行動連続学習会 かけはし2010.10.11号 |
【大阪】関西共同行動主催の連続学習会の三回目が九月二十一日に開かれ、「在日米軍犯罪問題から見える日米地位協定」と題して萩原一哉さん(米軍犯罪被害者救援センター事務局)が講演した。同センターは最近、「米軍犯罪対応マニュアル」を発行し、沖縄をはじめ全国各地から注文があり、その活動が注目されている。
米軍優先の
日米地位協定
日米地位協定は、一九五一年に旧日米安保条約が締結されたことに伴い、翌年の一九五二年にNATO軍と米軍の地位協定をモデルにした行政協定として結ばれた。
行政協定になったのは米国議会の承認を必要としないからであった。一九六〇年日米安保条約改定時に、今の地位協定が結ばれた。このときはNATO並に改定されたといわれる。
地位協定はその後、運用によって「改善」がはかられてきた。にもかかわらず不平等な多くの問題が存在する。米国は一貫して自国軍隊が他国の法律で裁かれることに対する拒絶反応がある。事実、裁判権の帰属問題にしても、一八一二年米連邦最高裁の判決では、「米国軍隊は他国領域に滞在中に、当該国の裁判権の対象から除外される」と言う考えが示されており、それ以降もこの判決は効力を有しているという。
結論的にいえば、米国軍隊が駐留する当該国の市民生活や人権より米国軍隊の軍事の論理が優先されてきたということだ。日米安保条約の核心は日米地位協定にあるといっても過言ではない。地位協定の運用は協定二五条に基づき日米合同委員会の協議によって行われ、合意議事録は秘密事項とされて、公にされなかった。
米軍演習での
「密約」さらに
一九七三年に米軍の県道104号線越え実弾演習が実施された。県が米軍に抗議したところ、県道は米軍の活動を妨げない限り一般住民の使用が認められると、七二年の日米合同委員会で合意されているという説明があった。ここで初めて五・一五メモの存在が明らかになる。
一九七二年沖縄返還時に、その後の米軍基地の使用について日米合同委員会で合意したときの非公開メモ(1972年5月15日)は五・一五メモと呼ばれている。沖縄県はその後何度かメモの公開を要請してきた。一九九七年、鳥島射爆撃場における劣化ウラン弾使用事件に関連し、橋本首相と大田知事との会談および沖縄米軍基地問題協議会の場で、沖縄県が五・一五メモの公開を要求した。それで初めて五・一五メモ全文が公開された。一部公開された部分を除く合同委員会合意議事録全体は非公開である。その意味でもうひとつの「密約」といえる(都裕史、同センター事務局長の言)。日米合同委員会は今までに千回以上も開かれており、その合意議事録は膨大な量にのぼることが推測される。
第1次裁判権
の帰属問題
萩原さんは米軍犯罪の大半を占める交通事件・事故を中心に地位協定の問題点を説明した。
今年春、社民党の質問に対する回答として防衛省が明らかにした「米軍人等による事件・事故件数および賠償金等支払い実績」(2000年度から2008年度)という資料によると、例えば二〇〇三年度では公務中の事件・事故三百十五件(うち賠償金支払件数316件)、公務外事件・事故千七百六十四件(うち賠償金支払件数37件)、計二千七十九件となっている。ちなみに二〇〇七年度は、公務中の事件・事故二百二十四件(うち賠償金支払件数205件)、公務外の事件・事故千二百八十八件(うち賠償金支払件数23件)、計千五百十二件である。この件数のうち、自動車による過失致死傷と道交法違反が毎年九〇%前後を占めている。しかも、事件・事故の大半は沖縄に集中しており、沖縄では毎年千件前後の事件・事故が発生している。二〇〇五年度に那覇市では千十二件であった。公務外の事件の場合、賠償金支払いがきわめて少ないことがわかる。
地位協定一七条は米軍人・軍属が引き起こした事件・事故の裁判権について定めている。米軍側が公務中である場合は、第一次裁判権は米軍側にあるので、統一軍事裁判法が適用される。自動車事故等の場合無罪か軽微の罪にしかならない。米軍側が公務外の場合は第一次裁判権は日本側にあるので、日本の刑事訴訟法が適用される。ところが、ここの問題がある。米軍側が公務外であっても「公務証明書」なる書類が作成されると、裁判ではそれが証拠となることが、地位協定の付属文書(合同委員会合意議事録)に記されているのだ。
屈従的な日本
政府の姿勢
法務省は一九五三年に通達を出し、四原則つまり「軍隊の地位や国際先例を考慮し、実質的な重要事件についてのみ裁判権を行使し、そうでない場合は不行使ではなく起訴猶予とし、また将校の引き起こした事件はすべて公務中のものと見なす」と指示している。これにより、五三年以降の五年間に九七%の第一次裁判権が放棄された。
日本に第一次裁判権がある場合でも、軽微事件の場合(具体的な定義はないから恣意的に判断される)米国に好意的な配慮をすることが地位協定一七条三項Cで規定されている。日本が態度を決しかねて十日か二十日時間か経過すると、日本が裁判権を放棄したものと見なされる(1953年合同委員会での合意)。この時間切れによる裁判権の放棄については、今年四月岡田外相がこの密約の存在を公式に認めている。
ちなみに沖縄タイムスの社説(10年4月15日)によると、二〇〇〇年から〇八年間の刑法犯の起訴率は国内で五四%、米兵の場合は二三%、そのうち強姦事件では国内が六二%、米兵の場合は二六%だという。
米軍被疑者の拘留や捜査は、日本側に第1次裁判権のある場合でも、起訴まで間の「拘禁特権」が米軍側に認められている。
請求権と賠
償金支払い
民事訴訟の請求権(地位協定18条)についてはどのように合意されているのか。
米軍加害者が公務中の場合は、請求権は日本政府に対して発生し、加害者は免責特権が認められている。米軍側にのみ責任がある場合でも、賠償金の二五%を日本政府が分担する(責任がないのになぜ日本が払うのか!)。日米双方に責任がある場合は五〇%ずつ分担する。
地位協定一八条五項で、請求権に対しては日本政府が処理すると規定されている。つまり、賠償金の全額を日本政府が立て替えて支払っておいて、米軍側の分担額を事後に請求するわけだ。米軍側は支払っているのか。日本政府はきちんと請求しているのか。爆音訴訟の場合を例にとると、米国が支払った形跡はないそうである。
公務外の場合、請求権は加害米兵個人に対して発生する。ところが、公務中か公務外かで争われると、仲裁人が裁定する(地位協定18条8項)。この場合、示談交渉が中心となる。民事訴訟の判決で賠償金が確定しても、加害者である米兵がそれを支払う保障はないし、事実支払わなかった。
そこで、一九九六年のSACO合意で、不足分は日本政府が補填することが決められた。この合意が適用された件数は現在までで六件ある。一九九六年二月米兵による交通事故で死亡した海老原鉄平さんの場合、刑事判決は禁固一年執行猶予四年、民事裁判での賠償金請求額七千八百六十万円に対し、判決額は三千六百六十三万円だった。これに対して米兵側が支払ったのは五百五十六万円のみで、不足額三千百七万円は日本政府が補填したわけである。米兵側が支払ったとされる金額でも、個人の支払い能力や移動の関係で、実際には米政府が支払っているのではないかと思われる。
9月7日の
岩国事件
萩原さんの講演の後、同センターの武市菜穂子さんから九月七日に発生した岩国の事件について補足報告があった。九月七日朝七時過ぎ頃に米軍軍属の女性が運転する自家用車が、愛宕山を守る会のメンバーである恩田美雄さんをひき殺した。この女性は車から降りて被害者救護をすることなく、ひたすら車内で携帯電話をかけていたという。この女性は米海軍岩国基地内のボーリング場勤務で、事故後米軍側は女性が通勤途中であり公務中に該当すると主張している。加害者側の通勤途中を公務中と認定するかどうかについては、交渉が続いているという。
講演後、日本の場合の通勤途中の事故と岩国の事件の比較、米軍人らが自家用車を登録するとき車庫証明が不要であること、スピード違反は適用されないこと、自賠責保険の有無などの具体的なことについて論議があった。被害者救済より米軍の安定的駐留を優先させている日本政府の姿勢や日米地位協定の実態が浮き彫りになった。
これらの事柄は、民主党政権になってから明らかになった密約とは別の「密約」で、市民にはほとんど知られていないので、とにかくこのことを周りの人に知らせていくことの大切さを確認しあった。 (T・T)
ミニシンポ アントニオ・ラブリオーラと現代
マルクス主義を「実践の哲学」として掘り下げる
並々ならぬ
準備と報告
九月十一日午後、東京で標記表題のミニシンポが四十人を超える参加の下に開かれた。本紙7月19日号で紹介された『思想は天から降ってはこない 新訳・唯物史観概説』の出版を機に企画され、「トロツキー研究所」と「東京グラムシ会」が共催、「社会理論学会」と「同時代社」が後援した。
マルクス主義復権の時代に『唯物史観概説』を読む、と副題が付いたこのシンポでは、四人の報告者が以下のように問題を提起した。
@田畑稔「ラブリオーラは哲学に対するマルクス/マルクス主義の関係をどうみたか」
A中村勝巳「『思想は天から降ってはこない 新訳・唯物史観概説』を読んで」
B西島栄「ラブリオーラとプレハーノフ―トロツキーおよびグラムシとの関係性において」
C小原耕一「アントニオ・ラブリオーラと現代」
危機の世界に向
き合う足場とは
いずれもかなり詳細なレジュメが用意され、報告者が並々ならぬ準備を行ったことを実感させた。主催者も、ラブリオーラが著作を発表した当時(19世紀末)のマルクス主義の哲学的基礎をめぐる論争参加者の書簡や書評を集めた、これもかなりの分量になる資料を付録として用意、シンポジウムの充実を期した。ちなみに一九世紀末は、ヨーロッパレベルでマルクス主義の危機が意識され、論争が活発化した時期だという。確かにこの時期、ドイツを中心に修正主義論争が激しく展開された。イタリアではそれが、主要に哲学問題としての論争となったのだという。
このような準備の下で行われた報告並びに報告者間の議論は筆者にとって難解な部分が多いものだったが、各自の観点から一九世紀末の論争をたどりつつ、マルクス主義をどうとらえるのか、あるいはとらえてならないのかを、現代の問題として考えようとするものだったように思える。「思える」というあいまいな言い方しかできないのは、ひとえに筆者の貧弱な素養の故だ。それゆえまた、今回行われた議論を詳細かつ正確に伝えることは筆者の手に余る。
いずれにしろ現代もまた、マルクス主義が危機にあり、同時に、総体としての行き詰まりがあらわとなっている世界を切り開く思想として、その復権が期待される時代であることも間違いない。ある意味で、一九世紀末と現代には、重なるものがあると言える。その意味でマルクス主義の危機とは、マルクス主義が先の期待に値するものであるのか否か、現実の民衆的闘争の中で厳しくふるいにかけられる、実践と深く結びついた緊張した関係を映すものに他ならない。
まさにそのような関係そのままに、今回のシンポジウムでは各報告者とも、マルクス主義についてラブリオーラが与えたという「実践の哲学」という規定を中心に置き、そこに込められた意味を探ろうとした。そこで行われた議論の中では、普通の人びとの行為、「プロレタリアートと貧民」が望むこと、できること、そこに社会主義の現実的根拠を定めようとした観点の積極的な受け止め、並びに経済決定論的でないマルクス主義の擁護などが、日本共産党の提示する「科学としてのマルクス主義」像と対照的観点として印象に残った。 (谷)
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