| 反安保実集会で新崎盛暉さん講演 かけはし2010.5.17号 |
「天皇制と植民地主義を問う」
4・28〜29連続行動を打ち抜く |
普天間が浮かび
上らせた安保
四月二十八日、文京区民センターで「天皇制と植民地主義を問う」4・28―29連続行動、「60年安保50年目の4月28日に『安保と沖縄』を考える」が新しい反安保行動をつくる実行委員会主催で開かれ、七十人以上が参加した。
最初に、梶野宏さんが主催者として集会の趣旨を次のように述べた。
「反安保実は一九九五年、沖縄米兵による少女レイプ事件をきっかけに大きく盛り上がった基地撤去闘争に連帯するということで一九九六年に結成された。新しい反安保闘争を何とかつくりあげようとしてきたが必ずしもそうなっていない。安保問題が普天間基地問題を通じて表に出てきた。今が最大のチャンスだ。一九五二年四月二十八日は、日本が独立の回復と同時に沖縄の施政権を米国に委ねた日だ。明日は植民地支配を問うということで連続行動として本日の集会があり、行動につなげたい」。
次に新崎盛暉さん(一坪反戦地主会・代表世話人、市民平和連絡会)が「日米安保体制の歴史と現在、そしてこれから―沖縄からヤマトに問う」と題した講演を行い(別掲)、それを受けて天野恵一さん(反安保実)が「ヤマトの立場から」から応答した。
昭和天皇が安保
体制をつくった
天野さんは、天皇・沖縄・安保問題をたくさんの研究的文献を紹介しながら、昭和天皇が沖縄をヤマトから切り離し米占領下にゆだね、日米安保体制によっていかに天皇制を維持したか明らかにした。
一九四七年、天皇はアメリカに対して沖縄処分のメッセージを出し、沖縄を二重植民地化するために積極的な役割を果たした。以下の天皇メッセージ。
b米国が沖縄その他の琉球諸島の軍事占領を継続するよう希望する。これは米国に役立ち、また日本に保護を与えることになる。
b沖縄に対する米国の軍事占領は、日本に主権を残したままでの長期租借――二十五年ないし五十年、あるいはそれ以上――の擬制にもとづくべきものであると考えている。
bこのような占領方法は、米国が琉球諸島に対して永続的野心を持たないことを日本国民に納得させ、またこれにより他の諸国、とくにソ連と中国が同様の権利を要求するのを阻止するだろう。
一九五一年、サンフランシスコ講和条約締結による独立と同時に日米安保条約が結ばれ、米軍への基地提供と駐留が継続された。前年、朝鮮戦争が起こり、日本の再軍備が問題になった。この時、野党や国内世論をみて動揺した吉田首相はかならずしも、米政府に同調しなかった。それに対して、天皇はダレスなどと直接やりとりを行い、日米安保成立に重要な役割を果たした。
天皇は朝鮮戦争での米軍の苦境は、間接侵略による「革命」と「戦争裁判」と天皇制打倒につながるものとみた。そこで、日本こそが米軍駐留を「希望」「要請」した。安保条約の「内乱条項」は「国体護持」のために必要であった。
一九六〇年安保改定の時、天皇はアイゼンハワー大統領を羽田で迎え、パレードをする予定だった。しかし、ハガチー事件によってアイクの訪日が中止された。同年秋、皇太子が訪米しおわび外交を行った。
沖縄返還時の「核密約」についても、天皇が深くかかわっていた。一九六七年、佐藤が訪米した時、米国による「核の傘」論を強く出し、それは天皇の意思であり、沖縄の議論を進める上で再度確認しておきたいとした。また核の密約の継承問題で、佐藤は「陛下がおられるかぎり、大丈夫だ」と語っていた。
天野さんは最後に、「天皇が安保体制をつくってきた。その責任をとってもらい、普天間基地を皇居に持ってきてはどうか」と語った。質疑討論の後、四・二九反天皇制闘争、六・一九反安保集会への取り組みが訴えられた。 (M)
新崎盛暉さんの講演から
ヤマトと沖縄の異なった
戦後史の視点で再検証
日本の戦後はどのように出発したのか。象徴天皇制・非武装国家・沖縄の分離軍事支配が一体となって進められた。連合国軍は日本本土を天皇・日本政府を通して占領支配した。沖縄は政治・行政が解体していたので米軍が直接占領支配した。憲法を擁護する平和主義派もそれを批判する自主憲法派も沖縄に注目しなかった。
一九五〇年の朝鮮戦争勃発により、日本の再軍備が行われる。一九五一年講和条約の締結と安保条約が結ばれ、米軍基地と米軍の駐留を認めた。沖縄には安保条約は適用されず、米軍の直接支配が続けられた。日米安保は構造的沖縄差別を軸につくられた。沖縄では平和憲法下の日本への復帰運動が始まった。一九五二年、米軍基地の割合はヤマトと沖縄では八対一だった。
一九五六年、大きな闘争があった。ヤマトでは立川米軍拡張反対の砂川闘争。沖縄では米軍による土地取り上げに対する島ぐるみ闘争。砂川闘争では米軍の駐留が違憲とされる判決が出される憲法や日米地位協定もあった。沖縄はそれらがなく、体を張った抵抗だった。一九五七年、米軍の地上戦闘部隊はヤマトから沖縄に移った。一九六〇年、ヤマトの米軍は四割に減ったのに沖縄は二倍に増え、基地の面積は一対一になった。
一九六〇年の安保改定反対の大闘争があったにもかかわらず、沖縄問題は意識されなかった。対米従属か自立かの論争があったが、今から考えるとどうであったのか。
一九六五年、米軍による北爆の開始とベトナム戦争の激化。沖縄の米軍基地が北爆の基地の一つとされ、「悪魔の島・沖縄」とベトナム人民から呼ばれる。佐藤首相が首相として初めて訪沖し、「祖国復帰がなければ戦後は終わらない」と発言する。対米従属派は「返すはずがない。単なるリップサービスだ」と言い、自立派は「それは佐藤の大きな野望だ」という立場だった。沖縄の基地労働者がベトナム反戦ストを打った。沖縄は反戦復帰論。
一九七〇年、国政参加選挙、コザ暴動、反復帰論が台頭。一九七二年、沖縄返還、日中国交回復。第二の基地しわ寄せ。米軍基地の七五%が沖縄に集中された。普天間飛行場は返還後、フル回転、めいっぱい使われるようになった。その結果基地ゾーンに三千六百人が住んでいる。二千八百メートルの滑走路を両方五百メートルずつ削れば危険性の除去はできる。
沖縄返還をどうとらえるか。軍事同盟再編強化だ。日米同盟が公式に出てくるのが大平・カーターの時だ。それ以来安保より日米同盟の流れになっていく。細川内閣は多角的安保論。一九九五年にアメリカから安保再定義が出される。
今回の普天間基地移設問題は安保問題として出ていない。岡田外相は「海兵隊は抑止力として必要だ」と言うが、なぜ必要なのかは言わない。沖縄の海兵隊は一万二千人で、そのうち兵士八千人と家族九千人をグアムに移すという。在韓米軍を三分の一に減らすとも言われている。
鳩山の登場によって普天間基地問題が浮上し、基地問題解決に対するあきらめ派が戦線復帰した。名護市長選で、最初市政民主化しか言わなかった稲嶺候補が選挙終盤に基地反対を鮮明にし勝利した。
安保につがみつくのはなぜか。それに対してどう切り返していくのか。(発言要旨、文責編集部)
反「昭和の日」行動・集会とデモ
韓国併合・植民地支配を
見すえ負の歴史の克服を
過去と現在を
貫く批判の視点
四月二十九日、「天皇制国家と植民地主義を問う」4・28―29連続行動の一環として、前日の反安保実の集会につづき「4・29反『昭和の日』行動」集会が東京・恵比寿区民会館で開催された。主催は同行動実行委員会。集会には百十人が集まった。
最初に主催者を代表して反天皇制運動連絡会の新孝一さんが発言。新さんは、昭和天皇裕仁の誕生日だった四月二十九日が二〇〇五年の祝日法改悪によって「みどりの日」から「昭和の日」になった経過を説明し、昭和天皇の戦争責任追及の声が決して小さなものではなかったために、いったん「みどりの日」というクッションを置いた形でないと、批判をかわせなかったのではないか、と語った。そして今こそ韓国併合百年・安保改定五十年の今年に、あらためて過去の植民地支配と今日の植民地主義を貫く批判の立場と行動が必要だ、と訴えた。
朝鮮総動員体制
から読みとく
この日のメイン報告は立命館大教員(朝鮮近現代史)の庵逧(あんざこ)由香さん。庵逧さんは一九九七年から二〇〇六年まで韓国に留学していたが、その間の日本の韓国認識の大きな変化として「韓流」という形で日本の人々の韓国・朝鮮に対する無関心が大きく変化し、韓国の大衆文化が身近に受容されるようになったという歓迎すべき事態があること、他方では韓国がイメージアップした分だけ差別や偏見の意識が朝鮮民主主義人民共和国に向かい、さらに在特会に代表されるような在日外国人・朝鮮人の日本での生活権や生存権を否定するネオ・ファシズム的運動が登場していることを指摘した。
植民地主義の問題についてはどうか。庵逧さんは、日本帝国主義の植民地支配の研究の蓄積が進む一方で、植民地主義を批判する日本人の側に「いかに日本がひどいことをしてきたのか」という点でのみ問題を捉え、日本人の主体的責任を切開するという、それ自身は重要な課題にのみ集中する結果として朝鮮人の主体が見えなくなっていることがありはしないか、と提起した。その例として庵逧さんは、日本の朝鮮植民地支配はそれほど深く民衆の間に浸透していたわけではないこと、一九四五年八月十五日の解放後わずか数日で地域レベルの建国準備委員会が結成され、人民委員会と名を変えたその組織は米軍占領下の南でも三カ月のうちに五割を超える自治体で作られていたことを紹介した。
庵逧さんは、さらに日本による「朝鮮総動員体制」の歴史を報告する中から、「愛国班」を基礎にした朝鮮半島の物的・人的・精神的・文化的な戦争動員体制の実情を分析した。しかしこの総動員体制によっても、朝鮮半島の民衆は解放されたとたんに独立国家形成に向かう動きを急速に開始していったのである。
集会ではこの後、反安保実、「韓国強制併合100年共同行動」日本実行委員会、「日の丸・君が代」の法制化と強制に反対する神奈川の会、立川自衛隊監視テント村、辺野古への基地建設を許さない実行委、アクティブミュージアム女たちの戦争と平和資料館(WAM)、2010安保連絡会のあいさつを受けてデモに出発。
デモは渋谷署の不当な規制を参加者一体となった抗議でやめさせ、さらに右翼街宣車の大音量での執拗な罵倒をはねのけて、渋谷ハチ公前広場を通って宮下公園までのデモを行った。(K)
コラム
ウィンドウズ物語
先月末。新しいパソコンを買った。ウィンドウズ七代目のOS「7」。初めてパソコンを手にした〇二年の夏から、約八年ぶりの新機種である。
私にとってパソコンは、ワープロ専用機の代替品でしかなかった。長い文章を書くようになると、一文書を複数のファイルに分けて保存するなど、専用機の性能にいよいよ限界を感じていたのだ。
30ギガという当時としては大容量のHDや、FDドライブ装備に引かれ、XP機をローンで購入した。ネットのための通信環境はなく、アナログの電話回線やPHSとつないでいた。地域の図書館が貸し出す無線LANカードを本体に差し込んで、初めて高速でアップデートしたときのうれしさは忘れられない。
三年ほど前。連れ合いのG社製98機が老朽化したので、私が買ったA電器に同伴してビスタ機を選んだ。ところが初期メモリは512メガ。ワンクリックしただけで動作が数分間止まった。それからわが家では「ビスタの悪夢」が始まった。発売時から評価が分かれていたから、遅いのはOSのせいだと思い込み、じっと耐えていた。
この不満を職場の後輩に漏らすと、メモリ増設を勧められた。そこで「パソコンクリニック」を併設するB電器へ直行。空きスロットに追加した。客には何の説明もせずに売りっぱなしのA電器。今では閑古鳥が鳴いている。
XP機では、液晶画面の固定枠が外れそうにもなった。メーカーに電話で相談すると、引き取り修理で迅速に対応。約二万円かかった。地域の上映集会では、運動系の写真家のUSBから、スパイウエアが侵入。パニックに陥った私はこの時もB電器に駆け込み、実費で駆除した。以来家電はほとんどこの店で買う。ウイルス対策も無料ソフトで再開した。
愛機の欠点は、USBポートが第一世代であることだ。速報性が求められる写真のネット掲載には辛かった。データの取込みが遅いので、取材現場ではできるだけ、シャッターを切らないようにしていたくらいだ。
毎週末に折込まれるB電器の広告。「7」の実売価格は、一台目XP機の四割、ビスタの六割にまで下落。満を持して決断した。店員との交渉価格でレジに行くと、予想外の追加値引きが待っていた。
ビスタの立ち上げには、半日以上を要した。極貧メモリと取説指示の「マイリカバリ」なる処理を、何の疑いもなく素直に実行したからだ。そのトラウマで「7」の初期設定も心配だったが、なんと数分で終わった。トラブルもなくサクサクと動いている。
とはいえ本稿もXP機で書いている。一〇本の指が、キーボードとの別れを惜しんでいる。掲載の喜びも、ボツの悔しさも、こいつと一緒だった。現役は、しばらく続きそうだ。(隆)
|