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1980年代以後の「非イスラム」民族運動の展開について かけはし2010.3.29号

イスラエルへの屈服=オスロ協定がパレスチナ解放運動の分解を強制

第1次インティファーダが歴史と政治の転換点となる

ジュリアン・サリンゲ


 ここに掲載したPLOに代表される「非イスラム主義」パレスチナ民族運動の推移についての文章は、昨年二月にアムステルダムのIIRE(国際調査教育研究機関――第四インターが運営するオープンな研究・教育施設)で開催されたパレスチナ問題セミナーで報告されたもの。同セミナーには中東をはじめ欧米・アジアからも活動家が参加して活発な討論を行った。ここでは、一九八七年の第一次インティファーダ、湾岸戦争、オスロ合意の過程でもたらされたパレスチナ解放運動諸組織の危機・再編・展望について簡潔な分析が行われている。パレスチナ連帯運動をつくり上げるために、検討していただきたい。(「かけはし」編集部)

はじめに:1987年以前

 この報告の目的は、一九八〇年代末以来の非イスラム的民族運動の展開を取り扱うことである。パレスチナ解放機構(PLO)の多数派潮流であるファタハの展開から独立した形で左翼の展開について考えることが困難だったために、もともと一つだけにするよう提案された二つの報告を「つぎ合わせる」ことを私が選んだのは、そうしたためである。
 この報告の出発点は一九八七年になる。最初のインティファーダが起こったその年が、歴史と政治の転換点となりえたという意味で、それは転換点だった。こうした出来事やその結果を、それ以前にまでさかのぼって見ることぬきには理解することができないのは明らかである。しかし時間に制限があるので、やむをえず、とり急ぎ、かつ図式的なやり方で本質的なことのみを取りあげることにしたい。
 パレスチナ民族運動が、真に始まり発展したのは一九六七年以後であり、六日間戦争でアラブの軍隊と国家がイスラエルに敗れてからだった。その時までパレスチナ問題はアラブ諸国家の手に握られたままだった。アラブ諸国家による支配は、アラブ連盟諸国、とりわけナセルのエジプトのイニシアティブでPLOが一九六四年に創設された時に表明されていた。たとえばPLO憲章は、西岸やガザに対していかなる地域的主権も行使しないことを明確に述べていた。
 西岸、ガザは、それぞれ異なった形式と影響力をめぐる闘争の枠組みの下でヨルダンとエジプトが統治しており、地域のエリート(とりわけ名士の大家族)に基盤を置きながら、自治的なパレスチナ「民族」潮流を伴っていた。
 パレスチナ問題のこうした集約に反発して、一九四八年以来のアラブ諸国の受動性を批判し、闘争の「パレスチナ化」を主張する、クウェートに亡命していたパレスチナ人(アラファト、カダミ、アブ・ジハド、アブ・イヤド)たちが一九五九年にファタハを結成した。彼らはパレスチナ人大衆が行う「人民戦争」(アルジェリアを模した)を唱え、ヨルダンとレバノンにある難民キャンプ内に支援基地を設立した。一九六五年以後、彼らはそこでイスラエルの軍事目標に対する武装作戦を拡大した。一九六七年の第三次中東戦争の敗北で、ファタハは信頼を獲得した。その信頼は、イスラエル軍部隊に対してパレスチナ人ゲリラ自身が行った一九六八年のカラメフの戦闘で強化された。これは転換点であり、一九六八〜六九年にはファタハをトップとするゲリラ組織は、PLOの支配権を獲得し、PLO憲章を「パレスチナ化」し、それまで強固な基盤を持たなかった組織をかなりの程度発展させた。PLOは近隣諸国にある難民キャンプで発展した。西岸とガザが占領されていたために、そこにゲリラの細胞を建設することは不可能だったからである。
 PLO指導部は、パレスチナ領土の外部に基盤を置いていたにもかかわらず、内部の住民にも正当性を獲得していった。とりわけ一九七〇年九月以後である。この時、ヨルダン軍が難民キャンプで行った虐殺によって、パレスチナ住民やその民族主義的感情は、ヨルダンや親ヨルダンの名士たちに敵対的なものになった。このようにしてパレスチナ領土内でPLOと強固に結びついた民族主義運動が発展し、PLOをパレスチナ人民の唯一正当な代表として認めることになった。しかし、外部の指導部との関係では相対的な自治を求めようとしていた。内部での運動を構造化しようという幾つかの試み(1972年のパレスチナ民族戦線、1978年の民族路線委員会)は、外部の指導部によって掌握され、雲散霧消してしまった。
 組織の財源を切り盛りしていたPLOのファタハ指導部は、戦士たちや地域の民衆的基幹活動家層に基盤を置いて自らが地域の支配的勢力であることを確保しようとする政策を遂行しつつ、パレスチナ内部の真の指導部の登場を阻止した。
 パレスチナ人左翼、おもにパレスチナ共産党(パレスチナ地域に主要な基盤を持っていた)、パレスチナ解放人民戦線(PFLP)、パレスチナ解放民主戦線(DFLP)は、徐々にファタハにその地歩を譲り渡した。さらに、パレスチナ占領地内部(そこでは左翼は比較的強力だった)と外部(そこではファタハが明らかに優勢だった)では力関係が異なっていたために、外部からの内部への統制が次第に確立していったことは、左派の弱体化の要因となった。
 こうしてインティファーダの前夜には、一定の内紛を抱えつつもPLOを中心に構造化された民族運動と、一九七〇年代半ば以来、占領に対する日常的な闘争によっていっそうラディカル化した占領地域内部の活動家にあまりに多くの自治を委ねることを拒否し、交渉による解決を支持するようになった(1974年のアラファトの国連演説参照)PLOの官僚的指導部が存在していた。われわれは、こうした内紛を過大評価すべきではないが、それに注意を払うべきである。それは将来の発展を解き明かすものだからである。

新しい抵抗闘争の開始

 イスラエルによる占領の暴力と一九七〇年代以来の被占領地域におけるパレスチナ民族主義の結果である一九八七年の爆発は、PLOによって計画化されたものでも組織化されたものでもなかった。それは真の民衆的決起であり、パレスチナの政治組織が最初から支配したものでも、指導したものでもなかった。決起の最初の数週間にイスラエル軍に逮捕された暴動参加者は、よく知られた、あるいは組織された活動家ではなかった。
 とりわけPLOの諸分派出身の地域活動家が登場し、地域レベル(民衆委員会)でも全国レベル(UNC、決起の統一全国指導機関)でも、一定数の自主的組織化の構造が生まれた。
 その諸要求、UNCが確定した動員の日時は、地域の民衆委員会や他の諸組織でも採用された。UNCはPLOへの忠誠を確認したが、それは単にチュニスに拠点を置く指導部から流れ出たものとか、パレスチナ地域に伝達されたものと見なされるべきではない。UNCはPLO指導部との関係では自らの自治(しかし決して独立ではない)を主張したのである。当初UNCは「被占領地外部を退けて、内部が政治的イニシアティブを掌握するプロセスの手段」(J・F・レグレイン)だった。それはまた、被占領地内部における力関係の表現だった。それはPLO加盟諸組織間の対等を尊重していた(PLO指導部とは異なって)からである。
 しかし一九八八年夏以後、UNCの相対的自治は姿を消した。外部の政治指導部(ファタハだけではなくPFLPとDFLPも)による圧力の下で、UNCに参加していた被占領地内部の活動家たちは政治的決定権を剥奪された。その時から公式の声明はチュニスで書かれ、被占領地域においては徐々に分派主義が再び支配することになった。決起の指導部の正統的な枠組みを間接的に支配することにより、PLO指導部は被占領地域の住民の代表という機能を確保し、彼らを代表して交渉することを主張した。
 一九八八年七月、ヨルダン国王は西岸へのヨルダンの主権を放棄するとの決定を発表した。十一月にアルジェで開催されたパレスチナ民族評議会の次の会議で、一九六七年の被占領地域でのパレスチナ独立国家が宣言された。その宣言は、国連決議242、そして一九四九年のイスラエルの国境線の承認を伴っていた。PLOはそうすることで、交渉の仮定の枠組みの中で不可避的かつ合理的な対話の担い手として押し出すために、自らを決起の中に位置づけようとしたのである。
 しかしその道は、なお長いものだった。湾岸戦争時にサダム・フセインを支持したことでかなりの程度弱体化し、内部の指導部との討論を選ぶと主張して不和を生じさせるイスラエルの策略にぶつかったPLO指導的中核は、被占領地内部のパレスチナ人やPLO指導機関に隠れて、最小限の条件を基礎にした隠密裏の交渉に同意することになってしまったのである。
 米国とイスラエルは賭けを行った。アラファト指導部は十分に弱まったので、無事に逃げおおせるために、イスラエルにきわめて有利な条件での交渉にも同意するだろう。しかし彼らは、五年間にわたる残虐な弾圧によって叩きのめされ、疲弊した住民に合意を受け入れさせる程度の正統性を依然として持っている。その合意とは実際には降服以外のなにものでもない。それがオスロ協定であった。オスロ協定は、実際にはアロン構想(最も人口が密集している地域を放棄してパレスチナ自治政府の支配下に置き、パレスチナの主要部分のイスラエルによる支配を維持する)を基礎にした古くからのイスラエル問題(ユダヤ人的であるとともに民主主義的でもある国家を持つ)の解決策以上のなにものでもなかった。

オスロ合意と左翼の分裂

 こうしてパレスチナ自治政府(PA)が創設された。シオニスト構想の枠組みの中でのその現実の機能(アラファトの意向、あるいは幻想がどのようなものであったかにかかわらず)は、エセ国家の建設と引き換えにパレスチナ自治地域の法と秩序を維持することであり、パレスチナ人の抵抗を破壊することだった。
 PAの指導的中核(アラファトと彼の親密な同僚であるコレイ、アッバス、ナビル・シャアト)の主要な問題は、彼らが真の主権を持っていない地域に政治的権威を確立することだった。こうして、対立・論争する勢力(イスラム主義勢力、そしてそれより小さな程度において左翼勢力)を無力化し、交渉プロセスの継続の中でイスラエルとの唯一かつ不可避的な対話相手であり続けるために絶対に必要な操縦桿を保持しつつ、被占領地域内部の社会勢力の支持を確保することがPAにとって必要となった。
 強力な治安部隊が建設され、その中で多くの第一次インティファーダの活動家たちが再利用された。そしてその指導部には、被占領地域の信頼できる、そして正統性のある諸個人(自治地域の支配機構になくてはならない構成要素である予防治安部隊トップにはラジャブとダーラン)が据えられた。治安部隊は、イスラエルの機関との不断の協力、数え切れないほどの逮捕、時にはきわめて暴力的なものとなった弾圧(1994年11月のガザにおけるハマス・ジハード部隊のデモでの14人の死者)を特徴としている。
 PLOへの国際的財政援助資金を独占的に支配し、イスラエル市場への道を閉ざされた十万人以上の労働者がいる社会での主要な雇用の源泉である国家機構を建設することで、アラファトは被保護者の広大なネットワークと、設立された「パレスチナ行政機構」のあらゆるレベルにおける腐敗のシステムを作りあげた。それはファタハならびにパレスチナ社会全体の脱政治化を加速した。
 一九九六年のパレスチナ議会選挙の時、PLOの指導的中核が、第一次インティファーダの時に何もしないことで際立っていた多くの地方名士を支援し、大家族に自らの基盤を置くことをためらわなかった一方、反抗的なファタハの指導者(たとえばバラタのフサム・カダール)は脇に追いやられた。それは選挙でのファタハの勝利を保障したが、実際には地方への配慮が全国的配慮を上回った。それはPA指導部にとって両刃の剣となった。彼らは、自分たちが全国レベルで権力を行使できる唯一の勢力であることを確実なものにしようとしたが、同時にそれはパレスチナ社会での分散的傾向、植民地化とガザの孤立の結果である細分化によってすでにかなりの程度で促進されていた傾向を強めることになってしまった。
 PA指導部の正統性は、PLOとアラファトの過去、そして来るべき解放への約束に依拠したものである。しかしこの正統性はオスロ協定の日々に使い尽くされ、急速な幻滅が始まった。
 ファタハの活動家の多くは方針を見失い、政治的分野の活動を放棄した。パレスチナの左翼はオスロ協定をめぐって分裂した。PCP(パレスチナ共産党、後にパレスチナ人民党[PPP]になった)はおずおずとした保留を伴いながら和平プロセスを支持し、さらにPA政府に参加しさえしたのに対し、PFLP、DFLPは様子見の態度を取った。彼らはオスロ協定に批判的でありながら、PA指導部との衝突を敢えて行うことはほとんどなかった。最初の数年間でマヒ状態に陥ったPFLP活動家とPPPの一部は、全国的な政治の分野を見捨てて、難民キャンプ内のNGOや文化センターの活動に後退した。パレスチナ人の政治生活のこうしたNGO化(その最も顕著な人格的表現はムスタファ・バルグーチである)は、脱政治化と、オスロ和平のスポンサーからもたらされる資金源の批判的「左翼的要素」にいっそう大きく依存する事態の要因となった。
 「片足は内部に、もう一方の足は外部に」という左翼の態度は、その弱体化に貢献した。さらに政治勢力のイニシアティブの欠落は、オスロ協定への態度があいまいであり、より強力な諸社会組織(より素早く行動し、帝国主義の「ゴッドファーザー」への依存の度合いが少ない)のネットワークを保持していたハマスに自由な活動の分野を与えることになった。
 このプロセスの限界に気づき、左翼(PAに有利なPLOの特権喪失、そしてPFLPやDFLPの様子見的な態度、さらにPAの設立に全面的に加わり、閣僚の座にもついた共産党=現在のPPPの追随主義によって大きく弱体化していた)さらにファタハの一部の批判に見舞われる中で、アラファトは二〇〇〇年夏のキャンプ・デービッドでバラク(当時のイスラエル首相)からの「寛大な申し入れ」を拒否し、大きくはげまされた二〇〇〇年九月の決起の機会を捉えて、イスラエルとの力関係を修正しようとした。

2000年9月の決起

 アラファトが決起を組織したと語るのは言い過ぎかもしれないが、彼がそれを準備し、可能なかぎり近いところでそれをコントロールしうるために踏み込んだことは否定できない。彼はファタハの戦闘的翼を体現するマルワン・バルグーティのような人物、そして第一次インティファーダの産物であるカードル層を好み、支持した。アラファトがオスロの時期に彼らをつねに周辺に追いやってきたにもかかわらずである。彼はかなりの程度において、ファタハの軍事部門であるアル・アクサ旅団の創出と発展に手を貸した。PA指導部は、運動の自主的組織化の活力を奪い、ハマスに地盤を奪われないようにするため、そして決起を脱民衆化するためにその軍事化を促進し、新たな交渉の展望を提起しながら自らこの決起の当然の指導者であると宣言した。
 この政策は失敗した。イスラエルの暴力的弾圧、バラクの政治路線、そしてとりわけ9・11以後のシャロンの路線は、たんに決起を解体するだけではなくアラファトが実施した構造的枠組み、とりわけ時にはその武器をイスラエルに向ける治安部隊を解体することにあった。それは自治地域の再占領(2001年10月)、アラファトを望ましからざる人物として隔離することと結びついた二〇〇二年三〜四月の大規模な攻撃をもたらした。PA指導部の中に亀裂が現れた。アブ・マーゼン(マフムード・アッバスの通称)やナビル・アミールのような一部の人は、決起と武装闘争への復帰を公然と非難した。
 PAを改革し、権力を共有する合意のためにアラファトへの圧力が行使された。二〇〇三年に首相のポストが作られた(アッバスのために)が、アラファトは治安部隊の支配を放棄せず、この亀裂は頂点に達した。こうして機関、闘争はますますハマス、ジハード部隊、PFLPに掌握され、ファタハは内部から破裂していった。一九九〇年代にPAによって仕組まれた脱政治化と、自らの被保護者ネットワークを持った地域の支配者の育成は、ファタハの名士たちの自立化、彼らの間での競争の激化、ファタハと連携した武装グループ(とりわけアル・アクサ旅団)の分解と自立化の要因となった。
 以前に持っていた武装レジスタンスの手段と、全般化した貧困・PAの不十分なインフラが解体した時期にその有用性を示した社会組織のネットワークを携えて参加したパレスチナ左翼、とりわけPFLPは、その基盤の小さな部分を取り戻した。PFLPはオスロ以来の十年間の批判的検証を企画し、国際的連携をふくめてその方針を今日的なものにしようとした。ムスタファ・バルグーティも、確信によるものというよりは政治工作と日和見主義的理由から同様のことを行った。

アラファトの死と右転換

 二〇〇四年十一月のヤセル・アラファトの肉体的死は、重要な時期を示すものだった。彼は、ファタハとPA内の統一の見せかけを確保することのできる唯一の人物であり、過去のレジスタンスと「和平」プロセスを体現する唯一の人物だった。アブ・マーゼンが継承し、二〇〇五年の選挙で「良くない成績で当選」した(投票率は低く、とりわけ票の20%はバルグーティに投じられた。バルグーティはPFLPなどが支持した)。彼はPA内で一連の改革を行い、治安部隊を再組織化して、その担当者の一部を変えようとした。
 二〇〇五年には大都市での自治体選挙が組織され、初めてほとんどの都市でハマスが勝利した。PFLPは幾つかの自治体(とりわけベツレヘム)でイスラム組織との連携を選択した。イスラエルと米国は、二〇〇六年一月に議会選挙を行うようアッバスに強制した。ハマスとファタハは、全国レベルでの議席リストでは競り合ったが、地区レベル(議席の半数)ではファタハの敗北は明白だった。PAと結びついた候補(前閣僚や政府高官)は一掃された。PFLPは得票率四%であり、ムスタファ・バルグーティは二・五%だった。
 二〇〇七年の冒険的挑発の失敗後アブ・マーゼンは非常事態を宣言し、サラム・ファイヤドを首相に任命(米国とEUの推薦によって)した。PAの新政権は、エコノミストとテクノクラートの政府であり、アブ・マーゼン――ファイヤドの二頭立て政権は三つの主要目標を立てた。イスラエルとの経済関係の正常化、治安部隊の再建と改革、抵抗運動の解体である。
 治安部隊の再組織化は、ファイヤドとアブ・マーゼンが遂行している変革の重要な特徴だった。部隊の徴募はもはや活動家をベースにしては行われない(オスロ合意後に起こったこととは逆であり、ファタハにいることや戦士としての過去を避けるほうが良かった)し、新たな隊員の訓練は公式に米国の監督の下で行われ(デイトン将軍によって)、主要な任務の担当は、米国と密接な関係にあると見なされた者に置きかえられた(たとえばファタハのメンバーであるが、ハマスとの関係で融和的すぎると見なされたカマル・シェイクに代わってハセム・アタラフが西岸の警察部隊の担当者に任命された)。
 それに続いて、ナブルス、ジェニン、ヘブロンで、数百人の逮捕、深刻な事件(死者、負傷者が出た)、全武装グループの解体を伴った、「秩序の復活」をめざす一連の作戦が展開された。ガザでの事件が起こった時、西岸ではイスラエルを対象とすることを阻止するためにデモを鎮圧する目的でこの警察部隊が使われ、数十人の活動家、とりわけ左翼とハマスの活動家が逮捕された。

結論:新しい局面とハマス

 アラファトがオスロ協定を「イデオロギー的」に受け入れさせることができたのだとすれば、アブ・マーゼン―ファイヤドのチームは、イスラエルと米国では、経済的にんじんと鞭を使ってそれらを確実に受け入れさせられるような存在として計算されている。
 この二十年間で、国家なき国家機構からイスラエルの植民地行政システムに統合された要素への、PLOの転換プロセスは完了した。その特権と正統性を失ったPLOは、その代価を支払うことになった。完全に内部的破裂をこうむったファタハは、その代価を支払った。アブ・マーゼンは民族運動の「戦略」を体現せず、最もむきだしの協力を体現しており、それは(複数主義的な)ファタハ内部で批判を受けずにはすまされない。
 左翼はこの二十年間で、相当程度区分された。PPPはきわめて弱体化した。PPPは信頼性を失い、活動家の多くはオスロ以後の批判的総括、そしてそれ以上のものを求めている。DFLPはパレスチナ地域での小集団となり、オスロ協定時にヤセル・アベド・ラボの分裂とFIDA(パレスチナ民主連合)の創設により激減してしまった。パレスチナ政治生活のNGO化と政治的日和見主義を体現するムスタファ・バルグーチは、彼がパレスチナで得ていたよりも多くの信頼と多くの聴衆を、連帯運動の中で得ている。
 PFLPが残っている。PFLPの指導部は相当弱体化した(基幹活動家の半数は獄中にいる)。PFLPも地域主義を特徴としているが、その組織の維持に成功し、第二の風を見出している。活動家の多くは真の正統性を持っており、彼らのPAに対する「左翼的」批判は、かなりの聴衆を得ている。そしてその組織は外の世界に開かれ、国際的規模でなされている変化、とりわけラディカル左派内とラテンアメリカ諸国で行われている政治的再編に気づいている。
 しかしPFLPは、中長期的な戦略的ビジョンを持っていない。PLOにとどまりながら、二〇〇五年にはバルグーティとともに、そして地方選挙ではハマスとともに、それからパレスチナ議会選挙では独自の候補で闘った。西岸ではハマスと協働している(デモや学生の選挙)が、ガザではハマスと恒常的に衝突している。PFLPは二〇〇六年の選挙以来、必要とされる信頼しうる政治的オルタナティブの構築ぬきに、主としてハマスとファタハの間の統一者としての役割を果たそうとしている。
 ガザの事態以後のかれらの最近の宣言は、「抵抗における」統一にアクセントを置いている。PFLPの一部の指導者は、ハマスの統合の可能性をふくめてPLOの再組織化をめぐる討論に参加している。それは重要な進展を示すものである。さらにファタハにはその隊列の中に、パレスチナ抵抗運動とPLO、さらにイスラム主義分派や、一九四八年のパレスチナ地域住民を含む再組織化のプロセスにも参加する批判的要素を含んでいる。

▼ジュリアン・サリンゲは仏反資本主義新党(NPA)のメンバー。彼は二〇〇一年以来、定期的に被占領地域を訪問している。(「インターナショナル・ビューポイント」ウェブサイト「討論」欄)


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