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鳩山政権の経済政策を検証する(下)           かけはし2010.3.8号

新自由主義の破綻が政権を揺さぶる
富の抜本的な社会的再分配が必要

なんのための東アジア共同体か

 さて第三の転換、東アジア共同体構想だが、これもまた、歴史の締め付けと鳩山政権の主観という矛盾の中で、この政権の歩みを足下から揺さぶるものとならざるを得ない。
アメリカが取り仕切る世界、世界はアメリカがいずれは何とか収めるはず、との発想を絶対のものとする方向設定の非現実性に、多くの日本の民衆も既に気づき始めている。実際、普天間基地問題に対するマスメディアの、`アメリカとの関係をそこなうなaとの異常な大キャンペーンに、しかし民衆は大きな動揺を見せているわけではない。要するに、アメリカの、あるいはアメリカ支配階級の、民衆に対するいわば「知的、道徳的ヘゲモニー」は大きく失墜しているのだ。その意味でこの構想は確かに時代をとらえてはいる。また大枠では、労働者民衆の未来に不可欠の方向設定と言ってもよい。その限りでそれは、時代の転換期が求める挑戦として、客観的には風を受けている。
しかし東アジアは、先行モデルとしてのヨーロッパや、今具体的に模索が進んでいるラテンアメリカとは条件が大きく異なっている。ここでは、文化的、民族的、宗教的、社会的、政治的、経済的多様性ははるかに大きい。端的に、例えば地域内の賃金格差にはべらぼうなものがある。そしてそこには先の二つの地域よりもずっと長い文明史の根がある。必然的にその多様性には、かなりの頑固さがあると見なければならない。なおかつここには、今なお鋭く厳しい政治的・軍事的緊張すら持続している。これらを簡単に飛び越えることなどできないのだ。共同体への道のりは、いくつもの困難な障害を実際的に乗り越えるための、長く粘り強い誠実な相互的調整と慎重な経過的段階を、しかも民衆的レベルでの同意を不可欠とする繰り返しの調整を経なければならないだろう。そうであれば共同体への道は、何よりも先ず、その道を歩むとする強固な政治的意志を支えとしない限りは絶対に不可能なこととなる。
しかし鳩山政権の東アジア共同体構想の致命的欠陥こそ、この政治的意志の問題にある。さまざまな美辞麗句を尽くした所信表明が、しかしアジアに対する日本の歴史的責任には一言も触れなかったことを確認しなければならない。この構想に、当のアジアから早くも、「新版大東亜共栄圏」との警戒の声が上げられている。まさしく正当な不信だ。要するに鳩山政権のこの構想には、客観的な風を受け止めるべき肝心要のところに実がない。
他方、この政権には前述のように、自由貿易と新自由主義的グローバリゼーションへの無批判的信仰が抜きがたくこびりついていることを改めて確認しよう。そして、新自由主義的グローバリゼーション、つまり資本の手による国家をねじ伏せた市場統合ということであれば、なるほど、面倒な政治的調整過程などはじき飛ばして「共同体」への道は開かれる、との勝手な思わくはあり得る。こうして鳩山政権の打ち出しが客観的に帯びるもう一つの色合いが浮き上がる。すなわち、資本の手による暴力的な市場統合を包み隠す美しい化粧包装紙という役割だ。そしてその限りでこの構想は、中国を含めアジア各地域に出現する新興大独占資本とそれに結びつく支配的エリート同士の談合を飾り立てる包装紙としては、確かに役立つのかもしれない。
トヨタなどの場
当たり的な政策

時あたかも、大資本に俄然高まるアジアなだれ込みへの熱がある。アジア、特に中国の成長を取り込む、日本の大企業経営者が最近しきりに使うはやり言葉だ。あたかも、これぞ戦略思考、とでも言いたげだが、この彼らにとって、政権が掲げる「東アジア共同体」は一つの大義名分となるのかもしれない。しかしつい二年前まで彼らは、アメリカの「繁栄」を取り込むことに、そこに乗り遅れないことに、その「繁栄」の持続可能性など一顧だにせず血道を上げていたのではなかったか。トヨタに至っては、燃料浪費で悪名高かったSUV(スポーツ用多目的車)の市場獲得に前のめりに乗り出し、一昨年のリーマンショック破裂時点では、専用工場着工寸前までその計画を進めていた。トヨタが今直面している大量リコールと販売停止は、おそらくこの場当たり的経営(ついでに言えばこの経営は、結局はコスト飛ばし、リスク飛ばしにすぎなかったカンバン方式生産と底ではつながっている)と無関係ではない。
このような現実は、実のところ彼らに戦略性などどこにもないことを示して余りある。アジアなどと言いつつも、それもしょせん、あちらがダメならこちら式の、あたかも略奪漁法のようなものでしかない。もしそうでないというのなら彼らには、アジアを語る以上、アジアの未来に対する責任を共に背負う意志が問われる。しかしそのようなものがないことは、彼らが今操業している日本社会に対して完全に責任を放棄している事実に加えて、鳩山首相のみならず彼らもまた、アジアに対する歴史的責任に頬被りしている事実が鮮明に照らし出している。
しかしそのような「東アジア共同体」は、彼らだけの勝手な思惑にすぎない。新自由主義的グローバリゼーションの破綻に加えて、アジア各国の産業化が不可避的に、民衆の運動を伴った「もの言う民」を大量に生み出しつつあることを確認しよう。大資本主導の暴力的な市場統合への突進は、むしろ巨大な民衆的抵抗の引き金を引くだろう。そしてそこにおいて、歴史的責任に蓋をし、なおかつ無責任かつ場当たり的な日本多国籍資本の行動は、その民衆的抵抗にむしろ燃料を注ぐものとなるだろう。
 鳩山政権の打ち出しの中に潜む歴史的必然としての東アジア共同体は、こうして、東アジア規模の民衆的抵抗の中にこそ姿を現す。そうであれば日本の労働者民衆は、鳩山政権の「東アジア共同体」打ち上げを、その旗を自らのものとして奪い取る機会へと変えることこそが求められる。そこにおいては、支配的エリートに歴史的責任の直視を迫り、多国籍大資本の手を具体的に縛る自らの闘いを手にアジアの民衆的抵抗に連なろうとすることが、その第一歩となるだろう。日本の多国籍大独占資本を自由にしないことは、民衆の東アジア共同体をめざす上でも不可欠の課題として提起されている。

「人間のための経済」とは?

 鳩山政権の「人間のための経済」をとらえている袋小路、そこに潜む政権を挟んだ闘争、それ故の鳩山政権につきまとうある種不可避的な漂流的性格を上に見てきた。最後にここに見てきたものを、最初に触れた世界総体の歴史的危機との関係の中に置いて、この転換登場の歴史的な位置とそこでわれわれ労働者民衆に問われる課題を、少し視点を遠ざけて改めて整理してみたい。ここでは三点に分けて考える。
 先ず第一点は、転換を特徴付ける新自由主義の恐るべき破壊作用に対する反作用と言ってよいもの、それを体現する人びとの憤りが作り出す政治への圧力がもつ効力の問題。圧力そのものについてはおそらく衆目の一致するところだと思われる。それ故鳩山政権が踏み出した路線の第一の要素は、少なくとも新自由主義の抑制とならざるを得ない。おそらくこの要素が三党連立の最大の共通項だと見ることができる。
 この反作用としての力学は、九〇年代中盤以降ヨーロッパに広がった右派政権倒壊に表れた力学と共通すると見ることができるだろう。しかし当時、そこに成立した中道左派政権は、反新自由主義の政権とはならなかった。そこにはいくつかの要因が考えられるが、労働者民衆の闘争力回復の遅れ(世界的な反グローバリゼーション運動はまだ水面下にあった)と、社会民主主義に対抗できる左翼の、あるいは民衆の憤りを新しい政治的方向に向かう結集へと進める動きの弱さも重要な要因だった。いずれにしても資本主義が強要する成長への呪縛を断ち切る力は弱かった。成長に固執する限り、そして資本主義の体制を政治的に安定させる階級間の妥協のためにはそうするしかないのだが、七〇年代のスタグフレーションを経験した上は、時の中道左派政権には新自由主義に抵抗する術も意志もなかった。しかしこの条件は、現在の日本においてより深刻な姿で共通する。
 これは、鳩山政権が結局は反新自由主義の政権とはならない可能性を強く示唆するものだ。見てきたように実際、所信表明演説や民主党マニフェストにちりばめられた後戻りの諸要素はその端的な表現と言える。さらにまた民主党が折に触れて表明している市民社会像は、均質な「自立した」個人から構成される社会を想定したものであることを濃厚に映し出している。例えば鳩山首相が唱える「新しい公共」にもその色彩は明確ににじみ出ている。しかしそれこそ、新自由主義の市民社会論に他ならない。そこには、支配と従属の関係が強固に構造化され、それ故ある種非和解的な利害対立を抱え込んだ階層的・差別的分断社会、つまり多様な格差が埋め込まれた階級社会、という現実の姿から目をそらす虚構の論理が明確に刻み込まれている。それ故、大独占資本の問題や社会的資源の極度に偏った配分の問題が完全に無視され、縮む財源に対しては消費税での穴埋めという発想しか出てないことには、根の深い必然的なものがある。

ブレアの「幸福」は
もう許されない

 このような点から見たとき、新政権発足に当たって、民主党がイギリス新労働党政権研究のために当地に菅直人現財務相を団長とする調査団を送り込んだことは示唆的だ。ついでに言えば、「人間のための経済」の「いいとこ取り」は、ブレア新労働党のキャッチフレーズとなった「第三の道」の「いいとこ取り」とよく似ている。
しかし民主党にとっての不幸は、政権としての登場がブレアよりも十年以上遅れ、新自由主義的グローバリゼーションの破綻に直撃されていることだ。民主党にブレアの「幸福」はもう許されない。ブレア的歩みでは一時の安定すら望めないだろう。新自由主義的グローバリゼーションが世界的大恐慌としてその結論を明確にした以上、もはや今後の成長は、あるとしても別の形を、つまり新しい資本主義を模索する中で追求するしかないからだ。
これこそ二点目の問題であり、「人間のための経済」が置かれた歴史的位置とそのことが特別に作り出す困難の問題だ。鳩山政権が打ち出した「人間のための経済」には、ブレアの「第三の道」を越えて、新しい資本主義に迫るものが否応なく求められる。単に目先を変えた新自由主義では、今目の前にある危機からの脱却はとうていおぼつかない。
しかし鳩山政権あるいは日本の支配層にとっての問題は、世界の支配階級が今苦悶している新しい資本主義探求にはまったく解答が出ていないことだ。G20でとりあえず合意された金融規制自体、実施段階には今なお一歩も進んでいない。そして世界経済は、全世界の政権が見境なく青天井で注ぎ込んだ「マネー」によって次の想像を絶するバブルとその破裂を引き起こすマグマを巨大に貯め込んだまま、早期の終息など見通せない不安定な足取りを続けている。見てのとおりの実体経済はむろんのこと、束の間の安堵を得たかに見える国際金融も安泰とはとても言い難い。日銀は、新興国に流れ出した過剰な「マネー」が資産バブルにつながるとの報告を一月に出したばかりだ。あるいは、ドバイやギリシャなど、波乱の芽が次々と顔を出している。ここからの脱却の道が例え見つかるとしても、いずれにしろこの不安定かつ不透明な時期は短期では終わらない。
他方でアメリカやイギリスでは、共和党や保守党が公然と極右を引き連れその手を借り、新自由主義復権の望みにしがみついたまま、後先を考える余裕を失ったかのような闘いを仕掛けている。危険な混沌が顔を出している。この危険な混沌を誰が抑えることができるのだろうか。崩壊的後退を重ねている社会民主主義と対照的にラテンアメリカやヨーロッパで明確に姿を現した、反資本主義の新しい民衆的結集がそこに一つの回答を示している。

現在の大恐慌と
反資本主義左翼

こうして、上に見た二つの問題の底に隠された形で、資本主義の袋小路という問題が、そしてその袋小路を切り裂く反資本的な脱出が客観的に求められているという第三の問題が立ち現れる。特に高まる一方の環境危機が資本活動の水準と非和解的に衝突する形で、先の必要性は今、よりくっきりと目に見えるものとなる局面に入りつつある。
 現在の大恐慌によって、世界の二酸化炭素排出量は昨年顕著な減少を記録した、と報告された。環境危機からの脱却には何が必要かを示唆する事実と言ってよい。環境危機は少なくとも、資本主義的成長、特に帝国主義諸国のその抑制を不可欠なものとする段階に至っている。とすれば、「人間のための経済」に込められている第一の発想には、鳩山首相の主観を超えた意味が客観的に刻まれている。その貫徹こそがむしろ歴史が求めているものに他ならない。そしてこの事実と、人びとの生活防衛を合致させようとするならば、誰が考えても、富の抜本的かつ大規模な社会的再配分以外結論はない。あるいはまた、富の社会的再配分の一つの形として、第二の発想、すなわち経済的駆動力の需要側への重心移動を断固として推し進めることこそ、結果として例え成長の低下があるとしても、しかしそれは現代ではむしろ歴史の要請にかなうと言うべきだろう。人びとの生活と無縁な成長になど実際何の意味もないことは、この三十年がいやと言うほど見せつけたのだ。
鳩山首相の打ち出した「人間のための経済」への転換は、こうして彼の意図を超えて、客観的にはその底に、危機からの反資本主義的脱却という本質的な要請を潜ませざるを得ない。もちろん彼は、また民主党も、そのような道の可能性など露ほども頭にないだろう。その道を地下深くから地上に引き出すものは、文字通り労働者民衆の闘争であり、その現時点での出発点こそ、今やギリギリのところからの生活防衛を追求する闘争に他ならない。そしてその闘争が、職の創出をその欠かせない一部とする富の大規模な社会的再配分と一体となった大独占資本に対する抜本的な規制要求として、強力な社会的連帯を作り上げる道を進むにつれて、その輪郭はより確かに浮かび上がるに違いない。反資本主義左翼はそのような闘いの展望を共にしようとする中に現実の根拠をつかむだろう。(寺中徹)


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