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検察のオーバーアクション、有罪!            かけはし2010.3.1号

強引な捜査、無責任な起訴…忠誠度に報いるシステム

 最近、重みを持つ「時局関連事件」で相次いで無罪判決が出ている。政府・与党と検察、朝中東(朝鮮日報、中央日報、東亜日報の3大右派メディアを指す)が声をそろえて裁判所批判に乗り出した。だがこれらの声高の批難には沈着な省察やキチンとした論理を見いだすことはできない。〈ハンギョレ21〉は、このような事態を招いた検察の無理な起訴の背景を分析し、さらにそれぞれの無罪判決がいかなる根拠や法理から出て来たものかを探ってみた。(「ハンギョレ21」編集部)
 昨年4月、〈ハンギョレ21〉はイ・ミョンバク政府が発足した後に示されている検察のあり様を扱った。政権が微妙に反応するに充分な事案に対して「強引な」捜査、「無責任な」起訴を乱発している、との内容だった。いったん標的を定めた後、集中的な捜査を進め「傷手」を被らせることに成功すれば、よしんば後になって無罪が宣告されたとしても検察は損するところはない。相手方は既に回復しがたい傷手を受けたけれども、検察は「法理の判断が異なる。控訴する」と言えば、それまでだからだ。

起訴自体が常識とかけ離れ

 その代表的犠牲の羊としてインターネット上の論客「ミネルバ」ことパク・テソン氏が紹介された。公益を害する目的で虚偽の事実を流布したとの嫌疑(電気通信法違反)で起訴された彼は2009年4月20日、1審で無罪を宣告されたものの、勝者は検察だった。百日余りの間、監獄に捕らわれたまま、ありもしない罪の対価を支払わされ、「むやみにからかって言ったりやったりしたりしたらどうなるか」を満天下に知らしめたからだ。
 ところで報道の背後でもこのようなケースは相次いだ。4カ月後の09年8月18日、会社に数千億ウォンの損害を及ぼした嫌疑(業務上背任)で起訴されたチョン・ヨンジュ前・韓国放送社長がソウル地裁で無罪が宣告された。1年間、退屈な法廷闘争を繰り広げた末に勝訴したものの、やはり傷だらけの栄光だった。既に社長の座から追われた身であり、復職できるわけは全くなかったからだ。
 最近では、その3番目の主人公が登場した。米国産牛肉のBSEの危険を取り扱った番組を放映し、「キャンドル・デモ」の元凶と烙印づけられた〈PD手帳〉の制作陣だ。ソウル中央地裁刑事13単独のムン・ソングワン判事は1月20日、虚偽の事実流布や名誉棄損の嫌疑で起訴された制作陣すべてに「虚偽の報道と見ることはできない」として無罪を宣告した。今回も当事者たちは憔悴した表情なのだが、検察はキム・ジュンギュ総長まで乗り出して「司法部の判断について不安がっている国民が多いようだ」と毅然としてみせた。

記者の大半は前科者?

 事実、ミネルバ事件がそうであるように、チョン・ヨンジュ前社長の事件や〈PD手帳〉の事件もすべて起訴自体が常識からかけ離れた措置だった。チョン社長の場合、判決文にも出てきているように、国税庁との行政訴訟で裁判所が提示した調停案を受け入れなかっただけの経営者に背任罪を問うという検察の主張自体が極めて奇怪な論理だった。08年、チョン前社長が起訴された当時、大検(最高検)に勤務していたある高位幹部でさえ最近、記者と会ってこう吐露したほどだ。
 「裁判所の調停に応じず背任罪が成立するという論理はムチャクチャだった。担当の部長検事に『おい、これがどうして背任になるんだい』と尋ねると、真剣な表情で『なります』と答えていた。まあ、何ともいやはや…。率直に言って、私の見るところでもこれはちょっとひどかった、と」。
 結果的に〈PD手帳〉の報道は誤報ではないことが明らかになったものの、検察の主張通りに誤報を刑事処罰しなければならないとするのなら、韓国の大多数の言論社の記者たちは前科者でなければならない。皮肉なことに〈PD手帳〉の無罪判決に猛烈に怒っている〈東亜日報〉や〈朝鮮日報〉のケースが最も劇的だ。
 〈東亜日報〉は(1945年の)解放の政局で「モスクワでの3相会議でソ連は信託統治を主張し、米国は即刻独立を主張した」という、事実とは正反対の内容を盛り込んだ大形の誤報を流した。この記事によって韓(朝鮮)半島はあっという間に信託と反託の激しい対立の場に変わり、結果的に南北と左右の分裂が一層深まるという契機となった。けれども、このように歴史に悪影響を及ぼした誤報をめぐっても、かつてであれ今日であれ刑事処罰をすべきだとの主張はなかった。
 〈朝鮮日報〉はどうか。国際通貨基金(IMF)の救済金融を前にした1997年12月24日付の1面で「緊急提言―直ちに実践してこそ生きられる」という題目のキム・デジュン主筆(金大中元大統領と同姓同名の別人)がコラムを書いた。「米国の各メディアはキム・デジュン大統領職当選者を今なお疑惑のまなざしで見ている。12月22日付の〈ウォールストリート・ジャーナル〉はキム当選者を指して『人気主義者(ポピュリスト)』、『予測しがたい政治家』だと表現し、彼の経済政策を『根拠のない』ものと見ている」。
 ところでインターネット・メディアの〈タンジ日報〉がこのコラムと〈ウォールストリート・ジャーナル〉の報道原文を比較した文章を掲載し、〈朝鮮日報〉を長安(ソウルのこと)の物笑いだと報じた。「DJ(デジュンの愛称)の経済政策に対する心配は、間違いなく根拠のないものと判明するだろう」という原文が「キム・デジュンの経済政策は明らかに根拠のないものと判明するだろう」という文章に化けたのであり、「予測しがたい政治家」という単語は原文では見つけ出すことさえできなかった。
 また〈ワシントン・ポスト〉が12月21日付の社説で「彼は最も困難な時期に大統領になったけれども、昨今の危機に対処する準備が最もよくできている指導者こそ、まさに彼であり得る」のだとしてキム当選者を高く評価したのだが、問題のコラムは、米国の各メディアは「疑惑のまなざしで見ている」と伝えた。
 「米国産牛」をBSEにかかったか、かかった可能性が大きい牛だと言ったことが虚偽の事実流布罪に該当するという検察の論理を適用すれば、「悪意による誤報」であることが明白なキム・デジュン主筆の場合は虚偽事実流布罪の大おじさんとなるだろう。けれども彼の文章に刑事的責任を問わなければならないと主張した人は誰もいなかった。誤報であることが明白な事案も意見や主張が疎通する言論市場において冷静に評価されれば、ただそれだけのことだからだ。当時の検察もまたいかなる動きも示さなかったが、今日の検察の論理通りならば、その時の検事たちは職務怠慢を犯していたというわけなのか。

政府の意向に敏感に反応

 検察の「オーバーアクション」はこれだけではない。最近下されたbソウル高裁の龍山惨事の捜査記録閲覧・コピーの許可処分bソウル南部地裁イ・ドンヨン判事によるカン・ギガプ民主労働党代表への無罪判決b全州地裁キム・ギュンテ判事による時局宣言教師への無罪判決なども検察がばらまいた「強引な起訴」の「諸成果」だ。
 ひまさえあれば「公益の代弁者」だと主張している検察が被告人に有利な捜査記録を公開しないこと自体が二律背反的なありようであったし、教師らが公務員である以前に市民の1人として民主主義の後退に対する憂慮を表したことを処罰しようとする試みは民主主義の基本精神を否定する行為だった。
 これらの事件の共通点は、政権が極めて敏感にならざるをえない事案だった、という点だ。このために検察の「オーバー・アクション」は政府・与党や朝・中・東など保守言論の支持を伴ったし、またこれらのバック・アップは結果的に検察の厚顔無恥に正当性という外皮を羽織らせた。
 けれどもこのような連合攻勢がどれほどの効果を挙げるかは未知数だ。まずは彼らの視線や論理が余りにも復古モードという点が問題だ。大多数の平凡な判事たちでさえ腹を立てるほどのレベルなので、むしろ逆効果を心配しなければならないところだからだ。
 もちろん状況を楽観的にのみ見るのは難しい。判事たちが独立的に裁判を行うとは言うものの、一般官僚のように昇進システムが存在してる裁判所では地位が上がれば上がるほど権力の動向に目を向けざるをえない。地裁部長判事は高裁部長判事への昇進を意識し、高裁の部長判事らは裁判長や大法官(最高裁判事)の座に視線が向かわざるをえない。ところでそれらの座は上に行けば行くほど狭き門となるものだから、人事に影響力を行使できる政治圏を過度に意識する何者かが出てくることのできる構造だ。そう遠くの例を引くまでもなく、シン・ヨンチョル大法官の場合が代表的だ。
 最近、相次いだ判決も、先に示したように裁判所が並外れた勇気をもってしたというよりは、検察の「強引で無責任な起訴」による当然の帰結という性格が強い。それにもかかわらず政府・与党や検察が司法部に対して過度の攻勢を展開しているのは、内心「第2のシン・ヨンチョル」が出て来て裁判所の雰囲気を厳重に取り締まることを期待しつつ、裁判所揺さぶりに乗り出すことと見ることができる。
 ところで、「裁判所飼いならし」に共感した人々も、その同行の脈絡は少しずつ違いを見せている。まず、政府・与党と保守言論は「国政運営のために」という名分によって「裁判所飼いならし」の必要性に共感したと思われる。
 党職を担っているハンナラ党のある議員は〈PD手帳〉の判決当日、記者と会って「〈PD手帳〉や全教組の時局宣言に対する判決はもちろん、龍山事件の捜査記録公開の決定まで、このようなことが繰り返されれば正常な国政運営が不可能になる」と語った。行政府と国会が渾然一体となってイ・ミョンバク大統領の統治理念の実現に身を投げうっているからには、全く同様に「国の禄(ろく)」を育んでいる判事たちもしっかりしなければならないのに、それができていないとでも言いたげだ。
 ここには議員個々人が判事や裁判所に対して持っている情緒的反感も加えられる。ハンナラ党内の親ミョンバク系のある議員は「実際のところ判事の腹の決めどころ次第で(選挙法違反容疑で起訴された議員の)議員職がなくなったりとどまったりしているのに、不満がないはずがない」と語った。「住民の選択によって選ばれたこの座を一介の判事が思うがままにするだなんて」という根っからの拒否感が横たわっているのだ。

政権と検察のホットライン

 これに比して検察の「裁判所叩き」は、もう少し深い根っこと構造的原因を持っている。1990年以降、司法制度改革の論議があるたびに自分たちは攻撃対象だったのであり、裁判所や弁護士らが主導する場にやむなく引っ張られていったのだというのが検察組織全体に流れている気分だ。
 実際、検察は司法制度改革推進委員会の論議で守勢的位置に立つ場合が多かったし、「公判中心主義の強化」を協調したイ・ヨンウン大法院長が登場した後は令状の棄却率や無罪率が上昇し、裁判所に対する反感が極に達した。時々吹き出す「令状の悶着」状況において、このような「怨恨」が少しずつ表出していたが、検察に友好的な政権が登場した今こそ、裁判所をとっちめる絶好のチャンスとなったわけだ。
 けれども検察の「オーバー・アクション」を読み取る最も重要なキー・ワードはMB(ミョンバク)政権の「ニンジン政策」だ。過去にノ・ムヒョン政府で検察は政権と微妙な緊張関係にあったが、現在は蜜月関係だと言っても良いほどに円満な関係を結んでいる。青瓦台(大統領府)民政首席の座にイ・ジョンチャン、チョン・ドンギ、クォン・ジェジンなど検察の先輩らが据えられて「ホット・ライン」が復元したし、「復古モードの政権」らしく、かつて軍部独裁の時代に「検察のオーナー」として君臨していた大邱・慶北(TK)の出身者らを大挙、要職に抜てきした。
 そして決定的に人事の恵沢という「ニンジン」を利用して検察組織を評定した。もちろんすべての検事に与えたわけではなく、政権にとって鋭敏で微妙な事件をうまく(?)扱う場合にのみ破格の「ニンジン」が与えられた。2007年の大選(大統領選挙)の政局にあってイ・ミョンバク大統領の足を引っぱったBBK事件がその代表例だ。当時、ソウル中央地検で捜査を指揮したキム・ホンイル3次長検事、チェ・ジェギョン特殊1部長検事、キム・ギドン特殊1副部長検事は栄転に次ぐ栄転で現在、大検重囚部長、法務部企画調整室長、ソウル中央地検特殊1部長の座を手にしている。
 先に言及した「ダメならやめる」式の無責任な起訴を乱発し、結果的に無罪を宣告された事件の担当者たちも同じような道を歩んでいる。

どのみち何年か後には…

 本人が誠意を込めてやっただけに確実に後を確保する政策が持続的に繰り広げられたので、検察の内部でも忠誠の競い合いがなされざるをえない。政権の安保に功をなした人、何としても目の上のたんこぶたる人々を社会から隔離させた人、権力の気にくわない判決を下した裁判所に声を荒ら立てる人々が組織でうまく出世するというのに、どんな検事が別の声をあげようか。忠誠であるほどにその報償が与えられるシステムにあって、「悪検」は「良検」を駆逐する。
 もちろん、このような検察のあり方は長期的には組織にとって弊害となる可能性が大きい。ある政権との過度な蜜月は歳月が流れた後、ブーメランとなって戻ってきた検察の歴史がこれを証明する。検察組織の論理から見ても警戒すべき点がある。
 検事出身のある弁護士は「最近、論難となった一連の事件の起訴自体が過剰なものであるのは事実だ。ところでこのように相次いで無罪が出れば検察の権威が地に落ちることになる。今や何をやっても無罪になる可能性が大きいと考えるようになり、検察の起訴が持っている意味が小さくなるだろう」と語った。
 けれどもこのような苦言に検察が耳を傾ける可能性はさしてないようだ。現在、検察の意思決定を主導している高位層の人々は、どのみち数年後には検察の組織を離れる人々であって、長期的な組織の未来よりは当面の出世に敏感にならざるをえないからだ。どうやらこうやら検察の変化が遙遠な理由だ。(「ハンギョレ21」第796号、10年2月1日付、イ・スニョク記者)


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