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「幻の資本」を追い遠征闘争に乗り出した解雇労働者たち                                     かけはし2010.2.22号

労働者がいなければ歌はなく
歌がなければ暮らしもない



 「資本」は意のままにならなければ切り捨て、工場を閉鎖する。国外に逃避したり身を隠したりすることは航空券を予約することのように簡単だ。資本の世界旅行は1960年代に米国の製造業から本格化した。「人間」には目を振り向けないまま「利益」ばかりを追い求めるその旅行は、韓国にも数多くの犠牲者を残した。コルト楽器の富平工場、コルテックの大田工場、ヴァレオ空調コリアの天安工場、スンニム・カーボンの安山工場が門を閉じた。職場を失った労働者たちは水を失った魚のようにバタバタするものの、こだまは返って来ない。訴えや談判どころか対面さえ難しい資本の前で、労働者は絶叫する。たまらなくなってカバンを用意する。自由に世界を移動する「グローバル資本」を遅ればせながら追いかける。地球の至る所を、労働者たちは自らの賃金の1カ月分以上もする飛行機代金を準備して、疲れる遠征闘争に出かける理由だ。その労働者たちの世界旅行に同行してみた。(「ハンギョレ21」編集部)


 米国カリフォルニア南部の都市エナハイム。百万人のコリアンが暮らしているロサンジェルス(LA)から1時間ほどの距離だ。毎年1月ともなれば様々な楽器の一大饗宴が繰り広げられる。エナハイム・コンベンションセンターで開かれる「ナムショー」(NAMM SHOW)だ。新製品がお目見得し、数多くの有名歌手らが「装飾」となる世界最大の楽器博覧会(1月14〜17日)だ。

解雇無効判決でも復職できず

 催しの間中、クゥィンシー・ジョーンズ、オノ・ヨーコ、ジェイスン・モラーズ、スティービー・ワンダーたちを間近にするたびにセンターはどよめく。その合い間、合い間には無心にサキソフォンを合奏する父子たちに出会う。ひざを折った1人の女性の前で低い電子音でささやき続ける中年男性もいる。
 行事の頂点となる1月16日(土)の午後5時、1階の小型コンサート場の周辺はごったがえす。無名の女性歌手の歌にも5百人余りが聴きほれている。ロビーが次第に一杯になって、行き来も大変なほどだ。
 音楽は人間の本能を最も美しく代弁する。楽器産業の従事者、招待客、記者たちだけが入場可能なナムショーは、その本能を最も優雅に包み込んでいる。そうしてセンターを出れば、まん前の広場でビラを配りながら「場違い」の「闘争歌」を熱唱し続けているコルト楽器やコルテックの労働者と出会うこととなる。夢を破る「晴天のへきれき」もかくやとばかりだ。〈ニムのための行進曲〉(注、有名な闘争歌の1つ)にも予告なしに会える。「労働者がいなければ楽器はなく、音楽がなければ暮らしもない!」(ノー ワーカーズ ノー ミュージック、ノー ミュージック ノー ライフ!)。リズムに合わせて甲高い声が飛び出す。人間の本能を凄絶に代弁する音楽。
 1月8日、2人の労働者が米国LA往きの飛行機に搭乗する。今年でそれぞれ23年目、11年目のコルト、コルテックスの労働者だと自ら紹介してきたパン・チョンウン(52)、イ・イングン(44)氏だ。けれども彼らの仕事場は事実上2007年(コルテック・大田工場)と2008年(コルト・京畿富平工場)に閉鎖された。最後の労組委員長だった。
 飛行機には2着あるかなしかの服を入れた小さなカバン1つずつが積み込まれる。パク・ヨンホ・コルト、コルテック社長の顔が描かれた首かけポスターが積まれ、ビラと赤いハチマキも旅に同行した。
 失業者たちが「不純な」荷物ばかりをいっぱい積み込んで遠い異郷の道を行く訳は、12時間の飛行距離ほどにも長い説明が必要だ。けれども大方は関心を持たない。古い歌は一番だけを繰り返し歌うのもくたびれる。
 1970年代に設立されたコルト楽器とその子会社であるコルテックは世界のギター生産の30%を占める。06年、当期純損益を被る。黒字経営10年目にしてだ。07〜08年、国内の工場をすべて閉鎖する。当時、コルト楽器側は「経営赤字と労使の葛藤などのため廃業せざるをえなかった」と語った。すべての生産は1993年と99年に建てたインドネシアと中国の工場に移される。
 「偽装廃業」の批判が高い。中央労働委員会は解雇が不当だと08年に決定する。09年、裁判所の判決が相次ぐ。コルトの解雇無効確認行政訴訟(2審)で労働者側勝訴。民事訴訟(1審)も「解雇は無効であり原職に復帰させるまで月平均の賃金などを支払わなければならない」と判決する。コルテックもまた昨年11月、解雇は不当だとの控訴審判決を受けた。
 会社は見る気もなく聞く気もない。それぞれ控訴・上告した。復職闘争1100日が過ぎていく。パン・チョンウン氏は2007年9月以降、パク・ヨンホ社長とは会うことができていない。彼は「実にまか不思議な社長」だとの言葉を繰り返すばかりだ。「労働者らが自分の人生を台無しにしたとばかり言いながら、労働者たちを完全に無視する」と言うのだ。
 結局、米国行き飛行機のチケットを買う。往復200万ウォン余りだ。20年ギター製造一筋の男性熟練工の1カ月分の給料を超える。いわゆる「遠征闘争」だ。

勤労貧困層の世界旅行

 急に流行となる。また別のグループが1月19日、パリ行きの飛行機に乗り込んだ。ヴァレオ空調コリア(忠南・天安)の解雇労働者たちだ。この人々の仕事場も昨年末、なくなった。フランスに本社をおく世界3大自動車部品企業のヴォレオがグループレベルで決定した事項だ。これらの人々が戻って来る2月にはスンニム・カーボン(京畿・安山)の解雇労働者たちが韓国を旅立つ。会社の経営権をドイツの多国籍資本「スウィンク」が握っている。労組と葛藤を繰り返し2007年に職場を閉鎖した。
 いきさつは、みな似ている。資本撤収以降、生計はもちろんだけれども責任・倫理経営などの訴えは経営陣の耳元にも達しない。権限のある経営陣には会うこともできない。影さえない「幻の資本」は労働者を無力化する。そのためにヴァレオ、スンニム・カーボンの労働者たちは決定権のない国内の経営陣を超え、彼らの「主人」と直接会おうとする。国内資本であるコルト、コルテックの労働者たちは外国の取引先や顧客に会って訴えようとする。勤労貧困層の避けられない世界旅行となる。地球の労働者の悲哀だ。
 「グローバル資本」に立ち向かうには元来、弱い人々だ。資本の旅行速度を追いかけるには、足の遅い人々だ。記者が職場取材をするために合流した1月12日、コルト、コルテック遠征団が宿所としている事務所の風景からして、それは雄弁に語っている。
 現地の労働人権団体であるコリアンタウン労働連帯(KIWA・所長デニー・パク)の支援を受け、事務所の床にふとんを敷いて寝る。シャワーは使えない。米国では居住地でない建物に排水口を作らない。

コチュジャン売りカネ集め

 遠征闘争に同行した金属労組ヤン・トゥッキュン副委員長、キム・ソンサン国際局長、文化連帯イ・ウォンジェ事務処長も、朝な夕なに洗面台に上げることのできる部分だけ洗う。紅一点で通訳を引き受けた在米同胞のホン・ソッチョン氏の指の爪にはあかがにじんでいる。記者の爪も間違いなく2日後にそうなった。
 パン・チョンウン氏は「初めて海外に行くというので、いささか心がはやりもした」と語る。つくり笑いをうかべる。すべての旅行が格別であるにしても、労働者のそれは違う。
 コルト、コルテック解雇労働者48人がカネを集め経費を支えた。コルテックの労働者らがコチュジャンとみそを売って稼いだカネが含まれている。コルト解雇労働者22人のうち女性が13人だ。昼には学校の給食補助、夜遅くには銭湯の清掃をして稼いだカネ、映画館の掃除で稼いだ女世帯のカネも経費に含まれている。
 遠征団が身をもってあがなわなければならない負債だ。みんな3、4時間しか寝ずに遠征デモを踏ん張った。朝食はしばしば抜き、昼はハンガーガーで解決する。パン・チョンウン氏は軍の空輸部隊にいた時には蛇も食べたが「米国の戦闘食糧」には仰天した。ハンバーガーを節約しようとして寝るのをさらに減らし朝飯を作った。
 帰国の時まで1度もシャワーを使えなかったイ・イングン氏は朝の髪整えは欠かさなかった。韓国では無視された自分たちのいきさつを聞いてくれる人々に対する最小の礼儀のようだった。そして車で1時間をかけて到着したエナハイム・コンベンションセンター一帯で1日8時間ぐらい、千枚内外のビラを配る。「コルトとの取引をやめろ」。大声で叫ぶ。
 それでも彼らは「韓国にいる仲間たちにすまない」と語った。余りにも楽な時間だったという意味だ。牛乳パックの製造企業であるペトラパック(京畿・驪州)の解雇労働者たちは2007年、スイスに遠征闘争に行き3カ月間、滞在した。テント籠城をした。ハンストもした。彼らも韓国に残った仲間たちにすまないと思ったのだろう。
 遠征団の真の苦しみは「目標達成」が困難だ、ということにある。ヴァレオ空調コリア労働者らの遠征闘争は今回が3度目だ。復職闘争をしている100人余りの労働者の中から4人が参加した。
 「疲れる旅行」の内情は如実に見てとれる。彼らが初めて旅行カバンを用意したのは昨年11月23日だ。日本行き、だ。10月23日、日本ヴァレオ本社が株主総会を通じて会社の清算計画を一方的に通告してきたからだ。1週間後、180人の労働者全員にメールやクゥィクサービスで解雇が通告される。労組の激しい反発に、本社の責任者は清算人に代わって労働者たちと会うと言って11月17日に韓国にやって来た。けれども工場内の、要求などを書いた横断幕などを撤去しなかったからとして、そのまま帰っていってしまった。
 労働者が行った日本で本社の経営陣との面談が実現されたものの、「清算を撤回する意志は全くない」という立場だけが再確認された。「ヴァレオ空調コリアは競争力がなく、雇用承継の責任は我々にはない」という話は、2004年に工場を買収した当時の態度とは余りにも異なる。昨年12月、フランスのヴァレオ・グループ本社に向かった。やっと会えた経営陣は「慰労金、再就職などの後続作業についての交渉権限は韓国側の前経営陣に委ねた」と語った。サッカーボールのように返ってきたわけだ。
 今回の遠征は1月31日までだ。パリ在住コリアンの民宿に滞在する。2回目の遠征の時とは違って、グループ経営陣は面談自体を拒否する。現地の各市民団体の反応も期待には及ばない。遠征闘争に同行したチョン・ウォニョン民主労総忠南本部長は「工場の海外移転などの問題がここでも深刻だが、我々とは違って失職者に求職の時まで支援金を与えたり各種の税金上の恵沢によって求職者と失職者の所得差が少ないため、社会的争点となるには限界があるようだ」と評価する。それにもかかわらず遠征団は朝6時ごろ起き、イタリア産米で朝ごはんを1回ごとにたいて食べる。そうしてから本社まで40分を歩き、日が暮れるまでデモをしつつ、支持を訴えることもできる。
 エナハイムで出会ったレオ・ジェラード全米鉄鋼労組国際委員長の言葉は、だから重みがある。「世界化時代には1国の問題が他の国の問題となる。国際的に連帯しなければ資本はさらに貧しい国家へ移動し、同じ問題が繰り返され、大きくなる」。

最大の取引先が調査に着手

 ヴァレオは全世界の事業場で今年、千人を削減することを決めた。どの国で葛藤が生じるかは見通しがたい。ただ、それが韓国労働者の問題にまでかかわるということは明らかだ。遠征団は「このような状況のために(韓国工場についての)ヴァレオ側の立場が変わることはないようだ」と見通す。
 反面、コルト・コルテック遠征団はフェンダー(FMIC)が「真相調査」に着手することを引き出した。米国第1のギターブレンドとして、コルトに「相手先ブランド製造・販売(OEM)」方式で下請けを与える最大の取引先だ。遠征日程の最終日である1月17日、フェンダーの法律担当マーク・ベン・ブリットと広報担当のジェイスン・パジットは「直ちにコルトに与えた注文を中断することはできない」としつつも「(コルトの労働搾取などについての)調査を始めたし、事態を深刻に受けとめていることを理解してくれ」と伝えた。ブリットは以降、コルト、コルテック側の意見を聞いて客観的な結論を下す計画だと語った。彼は「本来は別の約束があるのだが、代表がこの場にぜひとも参加した後、その内容を報告してくれと指示したので、来た」と語った。
 出会うこと自体、大いに意味がある。コルトは裁判所の判決も拒否した。資本はただただ資本にのみ服属するとの態度だ。そのようなコルトが「トップ」とみなしている最大の「資本」に会ったのだ。
 世界的ギタリスト、トム・モレロがフェンダーに手紙を送った。ナムショーでビラを受け取った楽器商たちもメッセージを伝える、と言った。LAの100余の人権団体や労組も遠征闘争団に支持の意を明らかにした。
 だが本当の力は資本より「消費市民」側から求められる。1月14日、ある女性がコルト、コルテックの労働者たちにツカツカと歩み寄ってきて「ここに来てくれてありがとう」と話す。楽器店を始めて6年目、2店を経営しているクリスティン・スピアクだ。ギターのような楽器は上辺は華麗でかわいいが、中はそうでない場合が多い」「クレフターのような韓国ブランドを売っているが、コルトは今後も取り扱わない」と語る。国内では1度も経験できなかった連帯だ。

思いがけない力に出会う

 日本のギターブランドESPの社長と副社長はデモ中の遠征団のところに直接やってきて「我々はコルト、コルテックと関係がないのだからプラカードに書かれた名前をはずしてくれ」と要求した。メツ・メシアンダロ社長は「コルト側と会ったことはあるが、信頼できず、取引はしなかった」と語った。
 関心のない連帯は不可能だ。トム・モレロは記者とのインタビューを終えた後、遠征団が準備したビラをていねいに読んだ。そして聞いた。「(2007年に抗議の焼身を試みたイ・ドンホ氏が)本当に焼身したのか? 死んだのか?」「韓国の法律は何をしているのか」。(インタビューは略)
 ドイツの楽器製造企業ICMのジーグフリート・アッカは「1980年代にOMEを与えコルト工場に何度か行ったことがある」「OMEを与えればどこであれプロジェクト・マネージャーが現地工場に行ってみるために、今日の状況をフェンダーが知らないというのは話にもならない」と教えてくれる。
 もっと内密な関心などもある。時差への適応もできず睡眠不足で、遠征団は誰かれとなく苦痛を訴えた。留学中の韓医師ウ・オチャン氏が彼らを診てくれた。1日おき、2日おきに夜遅く宿所であるKIWA事務所を訪れ鍼(はり)をうった。KIWAのデニー・パク所長とユン・ウチャン牧師らは朝晩、往復2時間の距離のエナハイムに遠征団を乗せてくれた。多くの同胞が夕食ごとに食事を準備してくれた。その相当数が、ノ・ムヒョン前大統領の逝去当時に用意した市民焼香所をきっかけにして一緒になった。政治的社会的にカミングアウトするのをためらっていた人々だった。そのおかげで進歩市民勢力の外縁が少しずつ、そのかわりより堅固に拡散中だ。ヤン・ドゥギュン副委員長は「僑民たちがいなかったなら、本当に何もできなかった」と言い切った。
 ナムショーの催事場内のコルトのブースは中規模だ。だが1月16日だけはどのブランドのブースよりも混雑した。世界的ギタリスト・ジーン・シモンス(グループ・キス)がコルトのギターを使用することにし、広報行事に参加することにしたおかげだ。けれども韓国から来たコルトの職員らがシモンスとのインタビューはもちろんのこと、列を作っている人々とのインタビューも妨害した。ソ・ジンモ海外営業チーム課長は「何にも知らない人にそれを語って悪いイメージを与えるのは望まない」と語った。名前を明かすことを拒否した職員は「私の知っている10人に8人は(遠征デモのため)韓国のイメージが悪くなる、と言っている」と「(記者)あなたのような人々のせいで会社がつぶれ、仕事の場を失うことになれば、どうするのか」と語った。
 米国で唯一、何の欠落もなしにすべてを理解したが、それは最もたちが悪く、ぶしつけな言語だった。既に長い間、仕事の場を失った人々がセンターの外でのデモをしばし休み、昼食用のハンバーガーを食べていた、昼の1時ごろのことだった。
 コルトは米国法人ウェストハイマーを通じて現地の流通がされる。ここの代表ジャック・ウェストハイマーは「外に(デモをしている)何人かがいるのは知っている」としつつ「彼らと会って話をする意思はない」と語った。彼は「何度も韓国の作業場に行ってみたが、労働法をキチンと守っている企業だった。彼らは大げさに話している」とも語った。
 行事場を出で来るジーン・シモンスをつかまえ「コルト問題」をやっと聞いた。「部外者には関係のないことだ。どうにもできない問題だ」。シモンスの言葉は、彼は偶像だったというトム・モレノの言葉ほどにも明瞭だった。公人として関心を持つべきではないのかと言うと「それは余りにも詩的な言い方」であり「誰であれ、どんな理由であれ、切ることはできるし、やめることもできる。ただ別の職業を求めれば良いこと」だと語った。資本と音楽の堅固な結合だった。
 実際、コルト側は徹底して遠征団を無視した。ただし1回だけ対応があった。コルト遠征闘争を放送した現地のラジオ番組に反論の報道要請をしたのだ。これまた明瞭だった。「(このデモは)金属労組が背後勢力であり彼ら(パン・チョンウム、イ・イングン氏)はコルト、コルテックの労働者ではない」。
 経済が成長するとともに「脱製造業化」はさからうことのできない流れだ。産業の需要を予測し、政府レベルの人力調整や支援策を用意することが優先的対応としてあげられてきた。産業研究院は2005年、これを担当する機構として国家競争力委員会の創設を提案したりもした。ペトラパック遠征闘争に同行していた化学繊維連盟チョン・キジン組織局長は「国際金融危機以降、数多くの多国籍企業が韓国に来て恵沢を受けて利益をあげたが、いざ資本や工場が撤収する時に受ける規則はこれといってない」と指摘する。いずれも2000年初めころから繰り返されていた話だ。労働者の立場からすれば何ら変化したものはない。
 1月16日、エナハイム・コンベンションセンター前。午後5時30分を回り、日は最後の光の一筋を引きとめていた。1人の白人男性が遠征団に近寄った。おそるおそる「あなた方がデモに使っていた絵をもらうことはできないか」と頼みこんだ。腰まで届くごちゃごちゃした小物を下げている彼をつかまえた。クリス・プレイシュ(42)は、理由をたずねると「学生たちに不当な労働の現実について教える時に使おうと思う」と語った。米西海岸サンフランシスコで7年間、中学生を教えている教師だ。彼は「見えざる労働の真実を話してやりたい」と語った。結論はすでに下されていた。「商品が安い理由を考えなければならない。見えない誰かの苦痛が必ず隠れている」。
 もちろんプレイシュにとってコルト、コルテックはそのカテゴリーさえ超える。「(解雇や工場閉鎖などは)人間的に正しくない」。共にナムショーを訪れた友人トビ・ハウォル(36、LA中学校教師)も同じ絵を持っている。2つの絵のうちの1つを彼がまず手にしたのだ。薄い板にはギターを胴体とした労働者の版画が刻まれている。「働きたい」というひとことが添えられている。

いずれ新しい連帯が芽吹く

 連帯は、それ自らが分裂して育つ細胞となる。今やLAとサンフランシスコの中学生たちもコルト、コルテックの経営倫理を知るところとなるだろう。コルト、コルテックは後世、この人々らのための「新たな反論」を示さなければならないかも知れない。
 遠征団がすべて離れた1月18日、うららかだったカリフォルニアの天気は突然、変わった。10年ぶりの暴雨が降り注いだ。待っていたかのように冷ややかになった。都市は終日、びゅうんびゅうんと吹きつのった。今回の遠征闘争に天の連帯もあったことを遠征団は知らないまま、旅行カバンをまとめて故国に帰って行った。(「ハンギョレ21」第797号、10年2月8日付、ロスアンジェルス=イム・インテク記者、パリ=チョン・ウォニヨン/民主労総忠南本部長)


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