| 東京大空襲で九死に一生を得た北韓住民の証言 かけはし2010.2.15号 |
今年3月10日は東京大空襲65周年を迎える日だ。これまで東京大空襲の朝鮮人犠牲者の問題を調査してきた「東京朝鮮人強制連行真相調査団(以下、調査団)」は来る2月27日、東京で南北と日本の学者たちを招き「東京大空襲65周年、朝鮮人犠牲者追悼国際シンポジウム」を開催する予定だ。調査団は、これに先立ちこのシンポジウムを通じて紹介される北韓(北朝鮮、朝鮮民主主義人民共和国)出身の空襲犠牲者、故ソン・ジョンホ氏(1930〜2009)の証言を〈ハンギョレ21〉に送ってきた。ソン氏は1930年5月12日、平安北道江界郡イプクァン面ウンソン洞で生まれ、この証言を終えた後、昨年9月に脳出血で死亡した。日帝強占下(1910〜45の日帝による植民支配期)の強制動員被害真相究明委員会チョン・ヘギョン調査2課長は「東京大空襲の被害者は大部分が空襲当時に死亡し、生存者の証言が公開されるのは極めてまれなケース」だと語った。(「ハンギョレ21」編集部)
優越感と好奇心で
私は2008年5月25日付の〈労働新聞〉に掲載された「日本・東京に引っ張られて行き米軍の空襲によって犠牲となった朝鮮人強制連行犠牲者問題に関わる調査報告書」を読み、私が実際に体験した当時の具体的な状況を該当機関に知らせようとの考えに至った。
私は1943年10月、日本・東京都城東区にある特殊鋼株式会社に引っ張られて行き1945年5月までいた。1945年3月10日の夜12時に米軍の大型爆撃機B29によって焼夷弾と爆弾が投下された時、それを直接体験した。
わが父ソン・ゲサムは地主の土地を耕して暮らす小作農をしていたが、大家族を食べさせるために、ありとあらゆる苦労を重ね、私が9歳の時にこの世を去った。8人の兄弟姉妹、姉が4人、兄が3人で私は末子だった。父母に似て皆、体格が大きかった。
兄や姉たちはとうにこの世を去り、私もいつの間にか80の高齢となった。家族らは末子の私だけは何としても勉強させようと腹を決め、あらゆる力を尽くして学校に通えるようにしてくれたおかげで、私は困難な家族環境の中でも、そう不便さを感じることなく国民学校(小学校)を卒業することができた。私はオモニ(母)と兄、姉らが願っていたように立派な人間になろうと決心し、一生懸命に勉強し優秀な学業成績で国民学校を卒業できた。
学校を卒業したその年(1944)に面(行政末端単位)では国民学校の卒業生の中から学業成績が良くて体格もしっかりした者を2人選抜したのだが、その1人に私も選ばれた。面では「養成生」と言いつつ、日本に送って技術も学び勉強もし、カネもいっぱい稼げる、と言った。
父母きょうだいと別れ、見も知らぬよその国に行くのは不安でもあり、怖い気持ちもあったが、一方ではカネも稼ぎ勉強もし、技術も学ぶことができるという期待感、それに加えて学校から「選ばれて」行くという優越感とによって密やかに好奇心も出た。
江界郡に行くと、私のように選ばれてやってきた人々40人余りがいたが、誰もが私より年上のようだった。実際に彼らの平均年齢は19〜20歳だった。私は14歳だったが背が高くて2歳ぐらい水増ししてもいいだろうということで何の気なしにそのままにした。私の名前も日本式に「モリトク・マサヒロ」と言い、同じ学校から一緒に行った友達は「タマカワ・トクスイ」と呼ばれた。彼の朝鮮名は覚えていない。
我々を引率して行ったのは面の書記(職員)と在郷軍人以外にもう1人いたが、後になって彼は日本から我々を連れて行こうとやってきた人物だということを知るところとなった。江界郡から汽車に乗って釜山まで行って釜山の宿舎で人員点検を受ける時、私がキチンと返事ができないでいると、我々を引率していった人は「このヤロー、自分の名前も知らないのか」と言って尻を蹴とばした。
「今からは覚悟しろ」と脅し
その日の夕方、釜山で眠り、その翌朝、引率者の奴が言うには「今からは一切、自由行動はない。釜山まではお前らが家に戻ると言いはしないかと思ってなだめすかしてきたが、今からはそうはいかない」と脅しをかけるのだった。
釜山から関釜連絡船に乗り8時間、下関に到着した。下関に到着した後、我々が着て行った服などをすべてはがされ団体作業服に着換えさせられた。
10月10日の朝、汽車に乗って48時間走り、10月12日に東京に到着し「キュージョー」(日王がいる家、宮城)の前に立ち、仕事をしっかりやるという誓約式を行い、目的地だという城東区の製鋼所に到着した。行った所は東京都城東区南砂町6―73番地にある「東京特殊鋼管株式会社砂町製鋼所」だった。
製鋼所の基本任務は日帝の侵略戦争に必要な製鋼材を生産することだった。製鋼所には5t電気炉3機、7t半のが1機と計4機があり、2日間に3回ずつ出鋼した。生産された製鋼材は汽車に積み込み、汚物や鋼材廃棄物などは製鋼所のそばに流れている運河を通じて機関船に積んで遥かの海に持って行った。
従業員は3千人余りで、その中で朝鮮人は5百人ほどだった。全羅道や慶山道から来た南半部地域出身の人々と平安南・北道から来た北半部地域の人々がいた。地方別の特性や個別的に性格などが違い、時には何だかんだとありもしたけれども、基本的にはみんな仲良く過ごした。
朝鮮の青年たちは1日に12〜14時間、ある時には16〜18時間ほど昼となく夜となく追い立てられるということが少なくなかった。ウェノム(倭奴=日本人への蔑称)らは朝鮮の人々に何の技術も数えてくれたことはなく、汚物と鋼滓を積み出す単純ながらも力の要る作業だけを命じた。作業場ではいつも監督の監視下で働き、いささかでも仕事の手を緩めると、容赦のないののしりと鞭打ちが待っていた。故郷を旅立つときの話とは違って、私をはじめとする大方の朝鮮人らは2年の間、汚物と鋼宰を積んでは下ろすという作業ばかりをした。
宿所は2階建ての木造の建て物だった。寄宿舎には一室あたり10人ずつ配置され、1日の作業が終わって宿所に戻って来ると「カミダナ(家の中に神を祀った棚)」の前にひざまずいて「きょうの作業量はどのぐらいだったか、課題を全部やりおおせたか、出退勤の時間を正確に守ったか」など、自己反省をすることになっていた。反省をキチンとしないと夕飯を与えなかった。
飯はさらっと盛った麦飯や豆ご飯、代用食品の「トコロテン」(テングサで作った豆腐のような食品)を120〜150gほど与えたが、腹が減って働けないと言うと、また罰として神棚の前にひざまずかせて反省をさせ、ひどい時には鞭打ちをするので、無条件に服従するほかはなかった。
1945年3月10日、米軍の飛行機数百機(当時の新聞では325機だったという)が東京の中心区域を猛爆撃した。東京や、その周辺から高射砲が米爆撃機を狙って撃ち上げられはしたものの、うまくあたらなかった。主として焼夷弾と爆撃を降り注いでいるが、木造建築が多いことを計算したようだった。そのうえ風に乗って火の手が一層強く広がったが、その火によって多くの人々が焼け死んだ。
その前にウェノムらは「B29はサイパンから2時間かけて飛んできており、2時間爆撃し、2時間かけて戻ることになる。だからその時間に防空壕に入っていさえすれば大丈夫だ」と宣伝した。だが一切を燃やしてしまう火の手と息を阻む煙の中で防空壕も何の役にもたたなかった。
一緒に行った40人は跡形もなく
この日あった夜間爆撃や焼夷弾による火災によって作業交代を終えて宿所に帰っていた朝鮮の人々はほとんど焼死し、また窒息死した。工場で作業していた人々も砲撃の中で焼け死んだ。周辺で暮らしていた日本人労働者とその家族もたくさん死んだ。
その日、私はいつも一緒に過ごしていた近しい仲間だったリ・ギウォン(キムラ・ナガオ、当時19歳)と夜間交代番なので製鋼所に出てきて、いつものようにスラック(スレグ、鉱石から金属を取り出して残った鉱滓)を運搬船に載せる作業をしていたが、防空壕に行く時間がなくて運河に跳び込んだ。
気を取り直して水面に頭を出して見回してみると、工場とその周辺はまるで火の海だった。その火の海の中から凄惨な悲鳴や、何かがドカンドカンと破裂する音が聞こえてきた。夜だったが、火災によって真昼のように明るかった。我々のように運河に跳び込んだ人々は、それなりに生き残ることができた。その日の砲撃の中で、製鋼所の労働者のうち生き残った人は約千人だという。だがリ・ギウォンや私だけが残り、一緒に行った40人は跡形もなくなってしまった。みんな焼け死ぬか水におぼれて死んだと考える。
翌日から被害の復旧をすると言ったけれども、復旧できる状況にはならなかった。生き残った人々は乾パンで飢えをしのぎつつ製鋼所の復旧作業に駆り立てられた。私はリ・ギウォンと共に製鋼所から脱け出し、東京から400里(日本の40里=約160q)離れた千葉県に向かった。その時、全羅道出身の60代の朝鮮人の下で、飯さえ出してくれて寝させてさえくれればいいという条件で働いた。むつ飛行場の建設場で土木工事をすることになった。
そうこうするうちに8・15を迎えた。その人の名前はキム・ホンニャンだったと記憶している。雇い主も含め3人で、解放後に祖国に帰ってきた。10月中旬に下関に行ったが大きな船で朝鮮に向かうものはなかった。10日間、あれこれたずね回って、やっと50人ほどが乗ることのできる小型機関船(密航船)に乗り3日ぶりで釜山に到着した。関釜連絡船に乗って日本に渡った時は8時間かかったが、この小型機関船は70時間ほどかかって夜9時頃、釜山に到着した。
今まで謝罪・補償もない
釜山で祖国の同胞らが我々を抱きしめ、九死に一生で生きて帰ってきた人々だと言って、心底から喜んでくれた。おそらく自分の息子や夫を待っている血肉の心情だったろう。彼ら温かな歓迎と歓待を受けて、翌日、汽車で開城に行き、歩いて38度線を越えて金川に行き満浦行きの汽車に乗って故郷のイプクワンに到着した。
私の歳は80になっているが、ウェノムと決着をつけることなしには目をとじることもできない。まだ父母の懐の中で甘え、一生懸命勉強しなければならない、骨もまだ固まっていない少年たちを「技術伝習」だの、「養成」だの、カネ稼ぎだのと言いながら丸めこみ、血肉の懐から切り離し、安い労働力で引っ張っていく奴隷にもそっくり似ていたのであり、さまざまな民族的蔑視と虐待を強要した日帝の獣のような暴虐非道を何年経とうが忘れることはできない。そればかりか敗亡後60余年が流れている今日までも朝鮮の人々の犠牲と被害に対する謝罪や補償を回避している日本当局や日本各企業の破廉恥な仕打ちを強力に断罪糾弾する。
我々、すべての強制連行被害者たちは日本の歴史的な罪悪を絶対に忘れないであろうし、代を継いででもこの怨恨と血の代価を必ずや決算するであろう。
2008年10月21日、記録す。(「ハンギョレ21」第796号、10年2月1日付)
えん罪横浜事件「無罪」さらに前進を
結城 守保(元小田急労研)
刑事司法に誤り
横浜事件の元被告五人について、二月四日請求通り約四千七百万円の刑事補償を、横浜地裁は認めた。画期的な勝利である。長い苦しい闘いだった。
憲法学者の奥平康弘・東大名誉教授は、「再審で免訴となった元被告の名誉回復策が、刑事だけかどうかの検討は必要だが、ようやく正義にかなった、あるべき結果になった」(5日付、朝日)という。
横浜事件は、一九四二年から四五年、共産党再建の謀議を図ったなどとして、雑誌編集者ら約六十人を治安維持法違反容疑で逮捕。拷問で四人が獄死した国家犯罪である。
判決はいう。「大赦や同法廃止という免訴を言い渡すべき理由がなく、再審公判で裁判所が実体判断をすることが可能だったならば、無罪の裁判を受けたであろうことは明らか。刑事補償が認められる『無罪の判決を受けるべきものと認められる十分な事由』があったといえる」といい「無罪」と認定した。国家権力は、敗北した。
横浜事件と治安維持法
関西学院大・川崎英明教授(刑事訴訟法)は、横浜事件に幕を下ろすことできないと言い、次のようなコメントをしている。「横浜事件とは何だったのかということに司法がどこまで踏み込めるか期待したが、決定は深入りせず、歯がゆさを感ずる。手続き上はこれで終わるが、治安維持法という悪法の下で必然的に生じた言論弾圧であることを直視することなしに、横浜事件に幕を下ろすことはできない」(5日付、毎日)。同感である。
私たちは、昨年えん罪神奈川Aさん事件(東京高裁)で、全国のAさん不当逮捕許すなの声に支えられ、勝利した。それは、現代版治安維持法との闘いだった。たかが免状不実記載で、神奈川県警は総力をあげてAさんを逮捕した。左翼団体であれば、警察は何をしてもいいという。
公判は、いきなり、三・二六三里塚管制塔占拠闘争で始まった。三里塚闘争こそ、人民の抵抗権だ。裁判の結果は、県警「事実誤認」で敗北だった。
えん罪共産党葛飾、えん罪立川反戦ビラ事件などに勝利しよう。ビラという表現の自由、憲法で認められていながら葛飾や立川は最高裁で敗北した。今最高裁に求められているのは、法の支配の確立です。
ビラを配って、二十三日間逮捕・拘留。そして、人民に罰金。誰が考えてもこれは間違っている。日本の裁判は、近代法治主義と全く逆なのだ。
現代版治安維持法を許すな。葛飾や立川のように闘い、勝利しよう。 (2月7日)
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