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龍山、2009年12月32日               かけはし2010.1.25号

真相究明もされず、責任者の処罰も不問にされた「劇的妥結」

ナミルダンに注ぐ日射し

 庚寅(かのえとら)年の新たな太陽は龍山4区域にも昇った。5人が炎に包まれて亡くなった死の区域。日射しは人々が去った場所、追われた場所、えぐり取られた場所、そのすみずみまでかき分けて入ってきた。警察が陣取っていた場所、地上げ屋の事務所が立っていた所をも分けへだてしなかった。
 悲鳴さえ火炎に燃えてしまったその場所も例外ではなかった。2010年正月、最初の朝、ナミルダンの建物を見回りに来た遺家族チョン・ジェスクさんとキム・ヨンドクさんの顔にも日射しは下りていた。3階の歯科があった所に散らばっていた歯茎の写真パネルにも日射しは注いでいた。足どりを移すたびに鋭く、そして黒く打ち砕かれたガラス片だけが日射しに代わって踏まれる。ガシャッガシャッと音がする。
 「劇的妥結」とメディアがはやしたてた日から気温はますます冷えきるばかりだった。だからだろうか。1年前の記憶が鮮明となる。2人の女性が突然、涙を流す。先にナミルダンの惨事現場を見回っていたムン・ギュヒョン神父に偶然、会ったからだ。キム・ヨンドクさんがぐっと抱きしめる。そのすき間にも日射しは差し込もうとした。
 そうだ。龍山の惨事がとうとう「妥結」した。2人の女性は知っている。今や本当に忘れられていくことだけが残った。ここには4区域を見下ろしている道の向こうの「スターシティ」のように豪華な建物が高く並び立つことだろう。その外壁にも日射しは無心に照りつけるだろう。

5人の遺影と幼いイエス

 「妥結」の知らせが伝えられたその2日前、ソウル龍山ナミルダンの夕暮れは、いつもと変わらなかった。焼香所わきの宿所に4つの膳が整えられた。1つ、また1つと膳に近づいて器が整えられた。湯気がゆらゆらと立っているご飯の器、焼きのり、干し大根、キムチ、塩辛が盛られた皿、イカの汁物を持った平皿までたくさんの物が用意された。この日、涙の記者会見を終えた後、お昼ごはんの時は力なく持ちあげられていたチョン・ジェスクさんのおはしが今度は素早い。涙がいささかかわいたからだろうか。ジェスクさんの夫イ・サンニムさんは345日前、この建物の屋上4階の望楼で火に焼かれ亡くなった。撤去民5人と警察1人が亡くなったその屋根に別れのつらさを伝えながら、残された者たちは生き続けなければならないとごはんつぶをかみしめる。
 この人々は今や早晩、ここを離れなければならない。1月25日までに建物を明け渡すことで再開発組合、ソウル市と約束した。1坪当たりの鑑定評価額は1億2千万ウォンだが、ナミルダンは彼らのものではない。
 建物の外に出ると寒さが襲ってくる。零下10度を下回る温度に世の中がコチンコチンに凍りついてしまうかのようだ。寒風に切りさかれたかのように耳が痛い。いや、耳が痛いのは言葉たちの絶叫のせいかも知れない。建物の壁はもちろん、工事用の覆いシート、そちらこちらに張られた壁報、あるいは街頭の配電函にまで、さまざまな文字が、叫びが書かれている。解決し、究明し、謝罪し、反省せよという内容だ。いわゆる「妥結」となったので絶叫の言葉たちは消され、取りはずされるだろう。建物は壊され、壁報ははがされ、横断幕は撤去されるだろう。
 太陽を闇の中に最も長く閉じ込めていた冬至が過ぎた。夜よりも昼が長くなってはいるものの、まだまだ闇の時間は長い。午後6時なのに太陽はすでに沈んだ。ナミルダンの裏側の建物、レアホープの側に宅配の車が走ってくる。レアホープは龍山の惨事に心を寄せている作家やメディア活動家らの根拠地だった。車が急ブレーキを踏みつつ雪道ですべる。この辺の地理に明るい人々にとって、この道は近道だ。こうして、亡くなった者たちの故郷は、生きている者たちの近道となった。
 しばらくしてナミルダンのそばでミサが行われた。神父たちの前に5人の遺影が置かれ、そのそばには幼いイエスの像が置かれた。おくるみ姿のまま飼い葉桶に横たわる幼いイエスは寒そうだ。ニュースで伝えられたせいか、いつもより多い300人ほどの市民が集まった。

「龍山の闘いは今から始まる」

 09年12月30日、龍山撤去民惨事汎国民対策委員会(以下、龍山汎対委)とソウル市、龍山4区域再開発組合は合意案を出した。チョン・ウンチャン国務総理が龍山惨事の責任を認め、遺憾の意を表明することにする一方、遺家族と龍山4区域の撤去民に与える慰労金や被害補償金、葬儀費用などを組合が負担することとした。チョン総理はこの日の午後に声明を出し、「気の毒なことが発生したことについて総理として責任を感じるとともに、重ねて遺族の皆さんに深い遺憾の意を表する」と語った。彼は龍山の惨事がわれわれの時代に決してあってはならない不幸なことだとしながらも「(惨事の)原因がどこにあるにせよ」という但し書きを付した。
 遺家族らは、龍山の惨事は依然として解決されてはいないのであり、この日、伝えられた消息も「妥結」ではないと考える。ミサの最後にマイクを握ったチョン・ジェスクさんは「この国に問いただしたいことが山ほどある」「真相究明も責任者の処罰もまだされてはいない」と語った。故ユン・ヨンホンさんの妻ユ・ヨンスクさんも「夫らは今やっと安らかな所に行くけれども、いまだ名誉回復もさらせれなかった」とすすり泣いた。そしてそのすすり泣きの合い間、合い間に「私どもは最後まで闘いぬくので応援して下さい」との決意の言葉ももらした。講論(カトリックで信者に教理を教えること)に立った天主教(カトリック)仁川教区のチャン・ドンフン神父は「龍山の闘いは終わったのではなく、今こそ始まったのだ」と語った。
 龍山の問題を共に悩み行動してきた人々にとって「妥結」とはいかなる意味なのだろうか? ノ・フェチャン進歩新党代表がこの日正午、ナミルダンのそばで開かれた記者会見の際、あいさつで語った通り、「葬儀を執り行うことのできる最小限の前提条件」にすぎない。1月9日、京畿マソクの牡丹公園墓地に5人の撤去民が埋葬された後にも遺族と市民社会の真実探しは続けられるだろう。09年1月20日、ナミルダンの望楼に火を放ったのは誰なのか、撤去民5人はどうして亡くなったのか、油蒸気に満ち満ちた望楼を強制鎮圧した警察特攻隊の鎮圧過程は無理があったのではないのか、検察が公開を拒否している捜査記録3千ページ分には、はたしてどんな内容が入っているのかなど、遺家族らはまだまだ知りたいことがたくさんある。
 そのせいだろうか。この日の夜もチョン・ジェスクさんは眠れなかった。09年12月31日未明の2時を過ぎてやっと目をつぶったものの再び目覚め、携帯電話の時計を見ると4時だった。再び目を閉じ、あれやこれやと思いをめぐらし、起きたのは朝6時30分だ。まだ撤去されてはいない空き家を生活の場としてきたジェスクさんは午前10時過ぎてやっとナミルダンの宿所に現れた。
 ジェスクさんは今回の合意が全く満足がいかない。前日、チョン総理の声明内容を伝え聞いた瞬間、「間違った」と考えた。惨事が起きた責任が政府にあると明らかにしなかったからだ。ジェスクさンは「我々の子どもらがアボジ(父親)を殺したというぬれぎぬも晴らせなかったでしょ」と語った。息子イ・チュンニョンさんは惨事が起きた時、アボジイ・サンニムさんと共に望楼を守った。燃え上がる望楼の4階から落下したために彼はひざが折れるなどの負傷は被ったものの命は助かった。検察はイ・チュンニョンさんが国家の公務執行を妨害する過程で警察官や自分のアボジらを殺した疑いがあるとして起訴し、1審の法廷は彼の有罪を認定し懲役6年を宣告した。事故当時「都心のテロリスト」と決めつけられた彼は突然、父親殺しという人倫にもとる親不孝という罪まで背負わされたのだ。

謝罪文案論議中に妥結の報道

 今回の合意によってイ・チュンニョンさんと共に起訴された8人は現在執行されている控訴審で減刑の恵沢を受ける見通しだ。けれども合意が有罪の宣告を無罪に変えることはできないという事実をジェスクさんもよく分かっている。
 ごはんを食べる時間はカチカチと回ってきた。この日の昼食メニューはジャガイモの入ったスジェビ(一種のスイトン)だった。ジェスクさんは再びかいがいしく準備をした。惨事で夫ヤン・フェソンさんを失ったキム・ヨンドクさんはごはんをくれと言った。イ・スホ民主労働党最高委員が入って来たので静かに座り共に膳をかこんだ。
 食事を終えたジェスクさんは「神父さんたちは行く所がなくてテントで苦労なさったじゃないですか」「あの方々をお送り申しあげようとして(合意)したんですよ」と語った。遺族らがそれほどまでに満足のいかない合意を受けれたその訳だ。惨事が起きて11カ月余りが経過する間、街頭闘争をして自分たちも疲れはてるほどに疲れたけれども、たえず共に行動してきた天主教の神父たちや活動家たちに余りにもすまないという思いがしたと言うのだ。
 今回の合意過程で政府が遺家族らを背後から攻撃したとの意見もある。09年12月29日、交渉が急展するとともに、遺族らは夕刻9時ごろナム・ギョンナム全国撤去民連合(全撤連)議長とパン・ネグン龍山汎対委共同執行委員長らが警察を避けて滞在している明洞聖堂に向かった。政府側が提案した総理の謝罪の文言に関して、惨事についての責任を明確にする方向へと修正案を作って提起していたが、それに対する答えを聞いてもいないうちに「交渉妥結」というニュースが伝えられ、チョン総理は当初の政府側の案をそのままに発表した。ある遺族は「こちらが(政府に)やられたという感じもする」と語った。
 これらの人々は今や別れなければならない。逆説的ながらも、日常に戻るということは彼らにとって苦痛として迫り来る。遺族たちは一様に「これまで龍山を守ってくれた人々とどうやって別れたらいいのか分からない」と語る。すぐさま戻る家もない。レアホープ3階が住まいだったチョン・ジェスクさんは「行くべき家のないことが心配なのではなく、司祭団の神父さんたちとどうやって背を向けていけるのかが心配だ」というのだ。
 ソウル巡和洞の撤去民闘争を展開していたユ・ヨンスクさんは、その町の空き家に入って暮らすつもりだと語った。ヨンスクさんの家は壊されてから久しい。夫ユンさんは巡和洞で撤去に反対して闘争し、全撤連と関係を持つようになり、連帯闘争の一環としてナミルダンの望楼に上って、この事態に遭った。同じ状況の故ハン・テソンさんの連れ合いであるシン・スクチャさんも高2の息子が1人で過ごしている京畿の水原の2千万ウォンの伝貰の借家(注)に戻らなければならない。けれども、ここも再開発が決定し、来年には明け渡さなければならない。シンさんは「カネのない者は、あっち行ってもこっち行っても引っかかる」と語った。

補償を除外された賃貸者

 龍山惨事解決のために10カ月間、ナミルダンで寝食を共にしたムン・ジョンヒョン神父は「超緊急状態で1年余を過ごし、今は暮らしの場に戻らなければならないが、精神的恐慌がなくなるのだろうか」「みんなどうやって生きていくのか、想像もできない。精神治療でも集団的に受けられるならば良いのだが」と語った。
 龍山汎対委の人々も作家たちもメディア活動家たちも龍山を離れなければならない。彼らには、この間、撤去民たちと共に行動しつつ感じたあったかい連帯の思い出とともに、孤立していっているというつらさの記憶が共存する。メディア活動家ホ・ギョンさんは「政府側から反応がなく、夏が過ぎ秋になるほどに地上げ屋や警察との摩擦が繰り返され続け、『我々は弱いんだなあ』『おそろしい』という思いがした」「撤去民・賃貸の人々とあれこれ心を通じ合うことができたことは実にあたたかな記憶として残り、この1年はとても良かった」と語った。活動家たちは、これまでカメラに残した龍山での闘争や遺家族の姿をドキュメンタリーとして作る計画も持っている。
 妥結ならざる妥結以降、昨年1月20日のような惨事が再び起こりはしないだろうか? 不幸の種は龍山4区内でも依然として見いだされる。今回の合意は賃貸者のうち全撤連所属の23人にのみ適用される。26人ほどと把握されているかつての民主労働党賃貸入居者分会所属の人々は被害補償金や商店分譲権、工事場での食堂運営権などとは無関係だ。09年12月31日の昼に会ったある賃貸居住者は「全撤連側の問題は解決されたのだから、今度は我々が組合と交渉に入らなければならない」と語った。匿名を条件として、彼は民主労働党賃貸居住者分会が組合側に臨時の商店経営権を用意してくれと要求しているものの、「組合は歯牙にもかけない態度だ」と語った。
 当初、営業損失金は2千万にもならなかったという彼は、そのカネを持ってどこに行き、何の商売ができるのか、と聞いた。彼は「我々も望楼を築いて上らなければ」と語った。
 「妥結」のニュースは、とんでもないことにイ・ゴニ元サムスングループ会長への赦免の件を覆いかくした。そして「妥結」のニュースと共に龍山の惨事も他のニュースに次第に埋もれていくだろう。遠からず掘削機が再び4区域で轟音を響かせ、ナミルダンもレアホープもその形が消えていくのは定められた手順だ。死んだ者の故郷は、そうして持てる者たちの楽園へと変わっていくはすだ。
 09年12月30日のミサでチャン・ドンウン神父はこう語った。「ムチに打たれ、侮りを受け、脅迫で追われて望楼で焼死したわれらのイエスを我々は今日、再びわが胸に抱き、授げます。いまだ赤児、今なお関心と愛とを必要としている完全なる無防備の弱きイエス。このイエスを育て、成長させるのは我々の責任ある日常であり、たえず龍山の記憶をよみがえらせようとする努力です」。龍山を忘れ、「責任ある日常」を生きないならば惨事はいつでも再現されるのは間違いない。再開発の嵐はまだ止んではいない。

遺家族にとって新年は遠い

 09年の最後の日、午後9時30分から12時までレア・ホープ前では「追悼文化祭」が開かれた。催しの題名は「龍山! 2009年12月32日」だった。いまだこの人々にとって新年は遠い。もちろん日射しの訪れるはずもなかった真夜中、気温は09年の最低値を記録した。(「ハンギョレ21」第793号、10年1月11日付、チョン・ジョンウィ記者、イム・インテク記者)

注 韓国の賃貸住居には月極めの場合もあるが、最初に一定のまとまったカネを支払い、退去時に全額、返される伝貰(チョンセ)という契約がある。家主はチョンセのカネを活用して利益を求める。


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