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  かけはし2010.1.25号

追悼 ダニエル・ベンサイド

新しい時代に適応した革命的マルクス主義のために闘う
                           フランソワ・サバド


六八年五月運動
の指導者の一人

 この一月十二日、火曜日、ダニエルが逝った。一九四六年に生まれた彼は、生涯の最後まで革命的マルクス主義の思想の防衛に自らをささげた。
 彼はJCR(革命的共産主義青年同盟)とLCR(革命的共産主義者同盟、第四インターナショナル・フランス支部)の創設者の一人となった。
 一九六八年五月の運動の指導者として、彼は、政治的イニシアチブの重要性に深い確信を抱くセンスを持ち合わせていた。この当時、「三月二十二日運動」の指導者の一人となった彼は、社会運動の発展力学を、とりわけ、学生運動と労働者のゼネストとの結びつきの意味を捉えることができただけでなく同時に政治組織を建設し、革命党建設のために力を蓄積する必要性をも理解した人々のうちの一人でもあった。

LCR創立の
中心的メンバー

 ダニエルの知性の特質、それは、理論と実践とを、直観と政治的理解とを、思想と組織とを、結びつけることにあった。集団を先頭に立ってまとめる力を発揮すると同時に理論的テキストをも書くこともできたのである。
 彼は、原則や政治的境界の画定と開かれた立場やセクト主義の拒否とを結びつけた闘いを鼓舞することができる人であった。自身の政治的確信が自分の中にしっかりと定着していたので、ダニエルは常にまず最初に討論し、説得を試み、意見を交換し、それを通じて自分の考え方を刷新することを望むようなタイプの人であった。
 一九六〇年代末から九〇年代初めまでの期間、LCRの日常活動の指導に当たり続けたが、その中で、日常活動と革命的緊張とを結びつける計画や路線の形成に決定的な役割を果たした。その理論的、政治的活動の多くの部分は、戦略的問題、革命の主要な経験の歴史的教訓に関するものであった。

病を乗り越え
若い世代を鼓舞

 ダニエルは、深く国際主義的であった。彼はフランコ時代のスペインのLCR(第四インターナショナル・スペイン支部)の建設に中心的な役割を果たした。この期間、ダニエルは、第四インターナショナルの内部で大きな役割を果たし、とりわけラテンアメリカとブラジルの情勢を一貫して追跡し続けた。世界についてのわれわれのビジョンを今日の時代に適応するように刷新し、一九八〇年代末の歴史的な激変にわれわれが備えるのに大きく貢献したのだった。
 九〇年代から今日に至るまで、彼は、自らの政治的闘いを追求しながら、自らは理論的考察とその練上げに集中した。政治思想の歴史、カール・マルクスの『資本論』、二十世紀とその革命の総括、その中でもまず第一にロシア革命の総括、エコロジー、フェミニズム、アイデンティティーとユダヤ人問題、資本主義のグローバリゼーションに直面する革命的左翼のための新しい政治の策定、などの問題に取り組んだのであった。彼はもうひとつの世界を目指す運動の世界社会フォーラムにも定期的に出席し、その活動をフォローし続けた。
 ダニエルは、社会の革命的変革という展望を一貫して保持し続けながら、開かれた、教条主義的でない、新しい時代に適応した革命的マルクス主義の歴史的連続性を保障してきた。
 重い病に冒されながらも、彼は、旅行や集会でのスピーチや会議への出席をけっして断わることなく、思考し、書き、自分の思想にもとづいて活動しながら、この病を長年にわたって乗り越えてきた。ダニエルは、われわれの土台の強固さを点検し、それを若い世代に継承することを自らの任務にしてきた。そのことに全身全霊を注いだ。アムステルダムの国際研究所での、そしてLCRやその後のNPA(反資本主義新党)の夏季大学での、さらには第四インターナショナルの青年サマーキャンプでの彼の報告や講演は多数の同志たちの心に刻みつけられている。LCRの経験をNPAに伝えるべく、ダニエルは、われわれの新しい組織(反資本主義新党)の出発とともに進むために、論争と急進的思想の考察の場として雑誌『コントルタン』を再刊し、「ルイーズ・ミシェル協会」を結成することを決意した。

 以上だが、そのうえ、ダニエルは好ましく、熱心で、陽気な人間であった。彼は人生を愛した。
 六八年の元活動家世代の多くが考えを変え、その若い頃の思想を放棄したのに対して、ベンサイドはそこからけっして逸脱することもなかったし、何も放棄しなかった。彼はそのままそこにいる! 
二〇一〇年一月十二日(火)



コラム

もうひとつの「坂の上の雲」

 司馬遼太郎の小説『坂の上の雲』には、バルト海からアフリカ大陸南端の喜望峰をまわり、ウラジオストクに向かおうとするロシアのバルチック艦隊の半年間にわたる長い航海のもようが、こと細かに綴られている。
 イギリス政府は、ロシアと同盟関係にあるフランス政府にも圧力をかけ、艦隊の補給を徹底して妨害する。そのため、各艦船は、甲板の上まで石炭を満載して航行せざるをえない。労働者・農民からなる水兵は疲弊し、病に斃れる者が続出する。水兵と士官の間には、険悪な空気が流れる。
 その描写はあまりも見事であり、ロシアの一九〇五年革命が間近に迫っていることをリアルに想起させる。だが、作者はふとそれに気づいたかのように、革命への嫌悪感をあらわす言葉を、恥も外聞もなく書き込む。まるで「私が描いている日英同盟のパワーから目をそらしてはならない」とでも言いたげである。講談から採り入れたと思われる手法、つまり語り手の「地の声」を途中にさしはさむ司馬遼太郎特有の手法が、物語の自然な流れをかき乱す。
 陸戦の様子も、詳細に描写される。ここでも、戦場にされたのが中国東北部であることにふと気づいたかのように、「中国の人びとには、はなはだ迷惑な話であろう」といった言葉がさしはさまれる。日本国民国家形成の「物語」にとって、中国人民が自国の領土が侵犯される「迷惑」を「がまん」するのは、さも当然であるかのような語り口である。
 ところで、日英同盟は、なぜ、結ばれたのか。
 インドを植民地としたイギリス帝国主義は、中国でアヘン戦争を誘発させるなどして、一九世紀半ばには東に勢力を延ばそうとしていた。だが、セポイ(東インド会社軍の傭兵)の反乱、あるいは中国の太平天国の乱に見られるように、インドでも中国でも巨大な人民反乱に遭遇する。
 そこで、イギリス帝国主義が目をつけたのが、形成途上にあった大日本帝国であった。かたやアジアを手中におさめようとするイギリス帝国主義、かたや朝鮮半島を略奪しようとする日本帝国主義。その利害が一致したところに日英同盟が成立した。
 このような日英同盟のもとで「勝利」した日露戦争は、日本国民国家にとって数少ない「成功体験」となる。日英同盟は、第二次大戦後には「アングロ・サクソンとの同盟」へと横すべりされ、日米同盟こそ日本帝国主義にとって戦略的要衝であるとする保守本流の考えが脈々と受けつがれてきた。それは、今では硬直的イデオロギーにさえなっている。
 米軍の沖縄・普天間基地移設問題において、多くのマスメディアは、保守本流と歩調を合わせ、日米同盟のどんなに小さなすき間風も、日本国民国家を危機に導くかのごとき脅しをかけている。それは、冷静な政治展望というより、「沖縄に暮らす人びとにははなはだ迷惑な話だが」と平然と言ってのける、脈々と受けつがれて硬直化した、そんなイデオロギー攻撃にほかならない。 (岩)


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