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第1回アジア地域グローバル・ジャスティス学校に参加して(下)
                            
かけはし2010.1.25号

フィリピンの仲間の挑戦に応えよう

アジアは資本主義の危機の
「救済者」か矛盾の発火点か


軍事化された
ミンダナオ島

 十一月十六日には、朝八時に事務所を出発してミンダナオに向かう。十一月九日から始まっていた「グローバル・ジャスティス学校」は十五日までで前半のマニラでの日程を終え、ミンダナオでの「移動学校」が始まるのだ。十五年前にフィリピンを訪れた時はマニラ以外に行かなかったので、見知らぬ土地への関心が高まる。RPM―M(革命的労働者党―ミンダナオ)は名称の通り、活動の中心拠点はフィリピン第二の島ミンダナオ島の中西部にある。一九九〇年代前半のフィリピン共産党(CPP)大分裂にあたって、ジョマ・シソン指導部から決別したCPPセントラル・ミンダナオ委員会をその源流としているからだ。
 マニラの空港から飛行機で約一時間半のミンダナオ南西部コタバトの空港は、まるで田舎の中学校の広い校庭に滑走路が一本ある、といったひなびた趣きで、タラップを降りると南国の日差しがじりじりと照りつける。ごていねいに飛行機から降りたところでカラフルな日傘が用意してある。
 人口約二十五万人のコタバトはムスリム・ミンダナオ自治地域(ARMM)の中心都市であり、マギンダナオ州に囲まれた独立行政区域を構成している。MILF(モロ・イスラム解放戦線)の影響力が強い地域でもある。ちなみにここコタバトを含むミンダナオ島西部は日本の旅行ガイドブックなどには何も書かれていない。ミンダナオ西部にはMILFと国軍との武力衝突や、さまざまな武装グループが展開しているので近づかない方がいいとの注意書きがあるほどだ。この旅行ガイドブックの注意書きについて話したら、ミンダナオの同志からは「非常に適切な指摘だね」と言われてしまった。
 七月頃までは軍とMILFとの戦闘が熾烈に繰り広げられ、先住民族やムスリムなどが居住地域を奪われて難民となっていることが日本のメディアでも大きく報道されていた。そして私が帰国した直後の十一月二十三日には、衝撃的事件が勃発した。マギンダナオ州やムスリム自治地域を長年にわたって暴力的・独占的に支配してきた絶対権力者である州知事のアパントゥアン一族の私兵が、来年の州知事選立候補を表明した対立一族の関係者、ジャーナリストなど五十七人を襲撃・拉致し、虐殺したという事件である。
 アパントゥアン一族は、警察・裁判所を含め行政・経済を掌握し、この虐殺事件には警察のトップも関与していた。しかもアパントゥアン一族はアロヨ大統領と親密な関係にあり、「二〇〇四年大統領選でアロヨ氏はイスラム自治区内で不自然なほど大量に得票し、票操作が疑われたほどだ」(朝日新聞、12月6日)と報じられている。アパントゥアン一族の私兵の武器は軍から横流しされたものだとも言われており、アロヨ政権の下で続発している活動家、ジャーナリストへの「政治的殺害」事件は、地方の支配的ボス、その私兵と結託することなしには不可能だったろう。ミンダナオに多く向けられた日本からのODAもまた、こうした地方の絶対的支配者の利権と結び付いたものであると推測しうる。
 事件直後にマギンダナオ州全域と私が訪れたコタバト市にも非常事態宣言が発せられ、さらに十二月四日には戒厳令が布告され、一族の関係者や警察のトップも逮捕・拘束された。しかしこの戒厳令自体、アロヨ政権の側がアパントゥアン一族との癒着関係の証拠を消去するための隠ぺい工作ではないかとも語られている。このマギンダナオ州の虐殺事件は、白石隆が『海の帝国』(中公新書)で書いた「親分・子分関係の全国的ネットワーク」というフィリピン国家のあり方を、暴力的に露呈したものと捉えることができるだろうか。
 そうした極度に軍事化されたミンダナオ州南西部の情勢であるため、安全上の配慮からRPM―M指導部のBさんをはじめとする一部の人びとは、マニラからコタバトに向かった私たちとは別ルートでミンダナオに向かうことになった。

草の根からの平和
創造と女性たち

 瀬戸内の島に向かう船の発着所程度の規模のコタバト空港を出ると、治安警察軍のものと思われる砲塔つきの装甲車と、迷彩服を着込み自動小銃を抱えた兵士の姿がすぐ目についた。そこへ迎えのピックアップ・トラックがするすると入ってくるのを見ていると、「はーい、ケンジ、久しぶり」という女性の声が聞こえる。
 二〇〇三年のハイデラバードのアジア社会フォーラムと二〇〇四年のムンバイの世界社会フォーラムで会ったCさんだった。六年前は、まだ二十歳前後の「生意気盛り」という雰囲気だったが、今や髪をレゲエのミュージシャンのように編んでファッショナブルな黒ぶち眼鏡をかけ、テキパキと指示を下すなかなか貫禄のある「親分肌」になっている。早口で歯切れのよい、べらんめえ口調の英語を耳にして、彼女のことを思い出したのだ。彼女は、ミンダナオのNGOを代表してキリスト教徒移民、ムスリムのモロ民族、そして先住民族が共同で進める草の根からの「和平プロセス」を担当しており、その立場から政府との交渉も取りしきる重責を遂行している。
 ムスリムの自治・自決権をめぐって闘われてきたモロ民族の闘いは、十六世紀のスペインによる侵略以来の長い抵抗の歴史を持つが、今日の闘いは米国の植民地支配と戦後の独立以後に加速した、ルソン島やビサヤ諸島(ルソン島とミンダナオ島の間にあるネグロス、パナイ、サマールなどの島々)のキリスト教徒の土地なし農民によるミンダナオへの大規模な入植と、ムスリム農民や先住民の農地の強奪、ムスリムへの差別政策に起因している。大地主制度によって土地を奪われた貧しい小農民の不満のはけ口のためにムスリムや先住民族の土地への入植政策を推進し、その入植農民もまた大地主、外国のアグリビジネスの大農園によって土地を失うという二重・三重の搾取の構造が、モロ民族の闘いの中から浮かび上がってくる。現在、フィリピン政府とMILF(モロ・イスラム解放戦線)との間での和平交渉再開の動きが進んでおり、日本政府もこの交渉にオブザーバーとして参加する方向である。
 コタバトに着いて最初に訪れたのは、MPPM(ミンダナオ民衆平和運動)の事務所である。そこは地域のNGOセンターとなっているが、資金不足のために上の階は建設途上で放置されたまま使われていない。民衆の平和運動とは、三つの民族(キリスト教徒の移住民、ムスリムのモロ民族、先住民族)の草の根からの自治を通じた和平交渉を積み上げていくことであり、そのためには女性のエンパワーメントが不可欠だという。ここではムスリムの女性をふくめて十人の女性たちが参加し、私たちと討論した。女性の権利すなわち女性が事実を知り、和平交渉に女性たちが参加していくことが決定的だという。そうした活動とともに持続可能でエコロジー的な農業のための運動を作り出していくことの重要性も女性たちは口々に語った。討論と交流が終わった夕刻、ミンダナオ西部では一年を通じて毎日のようにあると言われる猛烈なスコールに見舞われた。
 建設途上の建物の、コンクリートむき出しの上の階に上がると、雨に煙ったムスリムの村落の美しい姿がよく見渡せた。

古典的なアジアの
都市風景コタバト

 翌十一月十七日の午前中、私たちはコタバトの中心街を歩いてみた。大きな建物はほとんどないが一つだけマニラにあるような四階建ての超現代的なショッピングセンターがある。日本の地方都市の郊外にある巨大スーパーのような建物で、連れてきた子ども向けの遊具なども備わっている。新自由主義のショーウインドーであるこのショッピングセンターは多くの人で賑わっているが、その近くでは就学前の子どもの物乞いの姿も見られる。そしてこのショッピングセンターの入り口には、ボディーチェックするガードマンの姿もある。マニラと違いバスやタクシーはほとんど見当たらず、交通機関は三輪バイクのトライシクロが主流だ。古典的なアジアの都市風景である。町を歩く女性の中にはベールをかぶったムスリムも多く、モスクも点在する。やはりここはムスリム自治区なのだ。
 あるカトリック教会の前でIIREマニラの事務局長ロナルド――もちろん彼もミンダナオの出身である――が、道路の隅を指して、先月この場所で爆弾事件があって何人かの死者が出た、と教えてくれた。しかし何事もなかったかのように人びとは通り過ぎていく。

権利法制定をめざ
す先住民族と対話

 午後私たちは、コタバト東南方の山間部の入り口にある先住民族のセンターに向かった。
 「ティムアイの正義とガバナンス テドゥライとランバンギアンの自決権のための闘い」というスローガン(ティムアイとは少数民族の伝統的な指導者システムを指す)が掲げられた大きな事務所は「国内難民の救済とケア」のためのセンターでもあり、内戦によって住む家を奪われた少数民族を支援する活動にも携わっている。
 この事務所の責任者は、先住民族の自決権と環境保護を活動の二つの柱とし、先住民族の権利法の制定を目指している、と紹介した。先住民族が掲げるべき旗は六つだと彼は言う。第一は、自然との近接と一体性に基づいた文化である。第二は、集団的な指導性である。第三は、共同体における基本的生活資源の共同体的所有である。第四は、社会の中でのあらゆる人びとの平等な地位である。第五は、公正と発展の基礎としての平和の心である。第六は進歩的複数主義である。
 彼はこのように述べるとともに、先住民族にとって社会運動への参加の意味を説明し、女性、青年・子どもたちといった部門別の活動、また先住民族の発展のための教育を目指した奨学金基金や、紛争を管理するためのトレーニングについても語った。また自然環境破壊や森林伐採に反対し、七千人の先住民を動員した運動についても報告した。このような運動、教育を基礎にMILFとの和平フォーラムにも取り組んでいるという。
 先住民族プロジェクトの基本は、部族の自己統治能力を高め、部族間の協調に基づく連合を形成することである。その中では女性たちの活動の比重がきわめて大きい。自らの権利についての自覚を高める教育、医療活動などである。こうして先住民族の女性たちの活動は、「新しいテクノロジーのための種まき」をしているのだという。実際、私たちとの会合に参加していた人びとの約二十人のうち半数以上が女性だった。
 私たちからの質問の後、それぞれの国の先住民族の現状がどうなっているのかという質問が出た。パキスタンのファルークが同国の複雑な民族構成について説明し、デンマークのニーナがデンマーク領グリーンランドのイヌイットの権利要求運動について語った後、私はアイヌ民族の運動について報告した。近代日本帝国主義の植民地拡大の歴史においてアイヌモシリの国内植民地化がその先駆けであったこと、和人の入植を通じてアイヌ民族は居住・生活空間を奪われ、同化政策によって自らの言語・文化も奪われ、差別されてきたこと、戦後においても「単一民族国家」論が横行する中で、日本政府はアイヌ民族が先住民族であることを否定し、自治権・自決権を否定してきたこと、それに対してアイヌ民族の権利要求の闘いが進展し、新たな水路が開かれつつあることなどを説明すると、自分たちと共通する問題だと理解してもらうことができたようだ。

日本との歴史を
残す北ラナオ州

 十一月十八日、私たちはコタバトを離れて、北西部のラナオ・デル・ノルテ州(北ラナオ州)に向かう。自動車を猛スピードで飛ばして一度も休むことなく約四時間の距離。地図で見ると、それほど距離はないように思えたのだが、なにしろミンダナオ島は北海道と四国を合わせたほどの面積のある大きな島なので想像以上に遠かった。その間、大きな町はなく、ココナッツ農園と水田、そしてバナナ農園の広がる田園地帯をひた走る。時々美しい海が見え隠れする。日本人の食べるバナナの大半はミンダナオの農園で生産されるのだが、鶴見良行の名著『バナナと日本人』(岩波新書)によれば、そのほとんどが南部のダバオ州に集中している。しかし、それほど多くはないもののこのあたりにもバナナ農園が散在している。
 ラナオ・デル・ノルテ州の州都はフィリピン最大の湖であるラナオ湖の北側のトゥボッドである。私たちの目的地は、同州南西部のイラナ湾に面したカパタガン近くの町。このあたりはフィリピンの同志たちの最大拠点の一つだ。
 ここでは農漁民の生活発展センターに結集する、コミュニティー活動の組織者、農民組織、漁民組織、青年、女性などのセクター別活動に従事している活動家たちから話を聞いた。こうした部門別の活動の展開を通じて同時にその連合組織を地区的に形成することにミンダナオの同志たちの活動の目標が置かれている。漁民(ムスリムが多い)、農民たちは、多国籍企業のやり方に対して持続可能な漁業、農業のオルタナティブを実践しようとしている。農民たちは農地改革を自らの力で行い、土地の配分を自主的に進めているのだという。キリスト教徒の入植者を組織し、ムスリムや先住民族との共存を自覚的に広げていくことが「平和構築」につながる、ということも意識されている。会議が行われたのは、教会ではない結婚式会場などにも使われる施設で、キリスト教徒もムスリムも分け隔てなく利用しているのだという。
 このあたりは戦前、日本人がアバカ麻のプランテーションを開いた土地である。遠くに雲を抱いた山が見えた。その山のことを若い同志に聞くと、「実は今年九十歳になる僕のおじいさんが戦争中、あの山で抗日ゲリラ活動をやっていたんだ」と話してくれた。彼によればミンダナオの日本兵の中には戦後も日本に帰らず、この土地にとどまった人がいるとのこと。思わぬところで日本との歴史的関係を意識させられることになった。


左腕を負傷した
ある活動家の話

 十一月二十日に日本に帰らなければならない私にとって、飛行機の関係で十九日にはマニラに戻らなければならない。私は十八日の夜中に北部のイリガンに移動し、翌十九日にイリガンのNGOで活動している人の車でカガヤン・デ・オロに向かい、そこからマニラに飛んで再びIIREマニラの事務所に泊まった。
 空港で私を迎えてくれた事務所のスタッフAさんと再会し、彼の経験を聞いた。彼は左の腕が右腕の三分の二ほどの長さしかない。軍による銃撃で、ほとんど腕を切断するほどの重傷を負ったためである。左腕以外にも三カ所に銃創がある。
 彼は一九九二年、十九歳で政治活動に参加した。地域で労働者サークルを組織する活動を行う中で大学をやめ、その後、農村に派遣された後、CPP(フィリピン共産党)の軍事部門であるNPA(新人民軍)で非公然の軍事活動に従事した。彼が銃撃戦で負傷したのは一九九五年十二月のことであった。負傷した日時は絶対に忘れることはない、と彼は静かに語った。
 Aさんの兄も妹も活動家で、二人ともCPPの現役党員だという。「母のところで、兄や妹と今でも会うことがある。でも政治の話で論争すると母が怒るので、兄や妹と会っても家族のことしか話さないんだ」と彼は笑った。「僕が活動を始めてからしばらくは、マルクス主義の学習といえば毛沢東だけだった。トロツキーを読むようになってずいぶん違うなと思ったよ」と彼はしみじみと話してくれた。
 私の今回の学校報告はここまでである。今後、IIREマニラは、フィリピンの他の左翼潮流も運営に加わることが期待されている。アジア地域学校は、毎年開催することが計画されている。来年にはさらに多くのアジア諸国からの活動家を迎えるよう準備も進んでいる。支配階級にとってはグローバルな意味でも資本主義の危機の「救済者」になると熱い視線が注がれているアジアは、その矛盾の爆発的発火点でもあるだろう。私たちは、フィリピンの仲間の新しい挑戦に応える義務がある。(国富建治)


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