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第1回アジア地域グローバル・ジャスティス学校に参加して(上)
                            
かけはし2010.1.18号

新しいアジアの交流拠点へ

スーパーパワー中国の台頭と
民衆運動の国境を超えた連帯


IIREマニラ
の船出に参加して

 本紙09年10月5日号国際面で紹介したように、第四インターナショナルが一九八二年にオランダのアムステルダムで開設し、第四インターにとどまらない世界のラディカルな活動家・研究者に開かれた研究・教育機関として重要な役割を果たしているIIRE(International Institute for Research and Education 国際調査・教育研究機関)の姉妹組織が、フィリピンのマニラ首都圏に新しく作られた。IIREマニラである。IIREマニラは、おもにアジア太平洋地域の活動家が相互に交流し、学び、研究する場として活用されることになるだろう。IIREマニラの最初の企画が十一月九日から二十八日まで三週間にわたって開催された第一回アジア地域グローバル・ジャスティス学校である。
 私はIIREには恩義がある。もう二十年以上前の一九八八年の九月から十二月まで、アムステルダムのIIREで開かれた英語圏国際学校に参加し、三カ月以上にわたって哲学、経済学から労働運動、革命運動の理論と実践、その歴史的総括から現在の諸問題、フェミニズム、エコロジーなどについて故エルネスト・マンデルをはじめとする経験豊かな同志から講義を受け、世界各国からやってきた仲間たちと寝食をともにしながら討論する、という貴重な経験をすることができたからだ。私が日本から出たのはその時が生まれて初めてのことだった。実際、その経験は私の活動家としての一つの転機だった。「国際主義」の意味を実感し、思考の方法を広げることを可能にする機会を与えてくれた同志たちに、私は今でも深く感謝している。
 私が国際学校で学んだ当時IIREの「校長」役だったピエール・ルッセから、十月になってこのIIREマニラの出発企画への日本からの協力を求めるメールが来た時、これはなんとかしなければならないと思ったのは、そうした私の「IIRE経験」が最大の理由である。しかしいくらなんでも今の私にとって三週間も日本から離れることは不可能である。そこで十一月中旬以後の約一週間だけなら参加できる、と返事したところ、しばらくしてIIREマニラ事務局のロナルドから来たメールで私に割り当てられた課題は「アジア太平洋における新興超大国の台頭と力関係の変化、ならびに社会運動にとっての影響」というテーマで報告をせよというもの。つまり、中国の台頭と日米中のトライアングル関係の分析を軸にして、グローバル資本主義の危機下での今後のアジアにおける労働者・民衆運動の展望を報告せよ、という依頼だった。
 きわめて核心的な課題ではあるが、あまりにも複雑でかつ不確定要素だらけのテーマだ。誰にとっても過大な要求である。しかし、自分の力量についてあまり深く考えることなくその気になってしまう私の安直な性癖が今回も災いして、とにかく試論的にでも提起して今後の討論の方向を設定することぐらいは、という軽い気持ちで、無謀にも約二時間の報告を引き受けてしまった。
 こうして「天皇即位二十年奉祝」に異議あり!の行動に一区切りつけた十一月十四日にフィリピンへ飛ぶことになった。しかし、私の報告はマニラに着いた翌日の十五日に予定されている。私は直前の十三日夜まで毎日の実務や大衆運動の会議に追われて、原稿はとうてい準備できず、とにかく細切れ的に時間を割いて項目レジュメだけは作成し、メールでマニラに送った。私の粗雑な英語で二時間の講義などできるのか、と本来なら焦り、悩むところだが、「悩んでもどうしようもない、なるようにしかならない」、という半ばやけっぱちの気分で飛行機に乗った次第。フィリピンの同志諸君、ごめんなさい……。

変貌するマニラ
「発展」と貧困問題

 フィリピンは一九九四年以来十五年ぶり、二度目の訪問である。マニラは十五年前と比べて、一見したところ高層ビルが林立し、高速道路も発達し、自動車道路と並行して従来のLRTという高架鉄道以外に、MRTという新しい高架鉄道も「メトロスター」の名前で走っている。しゃれた感じのショッピングセンターが目につく。以前ほどの渋滞や喧噪も感じられない。
 バスやタクシーも新車がほとんどだ。十五年前のマニラのバスは、前面の行先表示板に堂々と「西武球場前」とか「花小金井駅前」などと漢字で書かれたままの西武バスの中古車が目立ち、タクシーもオンボロだったのだが。ジプニーという米軍のジープを改造した有名な乗合自動車も走っているが、以前のような派手な装飾が目立たず、総じてくすんだ印象を受ける。どこが違ってしまったのかと考えるうちに気がついた。ジプニーといえば、かつてはアメリカンロックなどをものすごいボリュームで流して走り、喧騒と活気をまき散らしていたのだが、今回見た限りではあの騒音が消えてしまっているのだ。
 飛行場に迎えにきてくれたIIREスタッフのAさんから車の中で「マニラはだいぶ変わりましたか」と聞かれたので、そうした感想を話したら「それはやっぱり発展なんでしょうか」と問いかける。私は「それはあなたがたの方がわかるでしょう」と答えたら、彼は「そうだね」と笑っていた。
 この「発展」の内実は、どのようなものか。翌日の「インクワイヤラー」紙を見ると一面トップの記事は、当局の発表ではフィリピンで貧困線以下の生活をしている人口比率は三五%で、総人口九千万人のうち三千万人以上に達すると報じ、アロヨ政権の「貧困削減」計画は達成されない、とのこと。外見上の「発展」にもかかわらず、新自由主義的開発構想の危機の下で、貧困問題が解決の方途を見出し得ていない現状を指摘していた。
 マニラだけをとってみても外見的な「現代化」と隣り合わせに劣悪な環境のスラムに住む住民は膨大な数に上る。十二月十日に起こった市場近くの「不法占拠」スラムの出火で一万五千人以上が、住居も失い着の身着のままで投げ出されていることは、その現れである。

事務所の概要と
参加者・スタッフ

 IIREマニラの事務所に着いたのはちょうど夕食時だった。IIREマニラは、マニラ・シティー北東、「メトロ・マニラ」に属するケソン・シティにある。フィリピン大学にほど近いティーチャーズ・ビレッジに位置している。NGOの事務所なども多い、比較的閑静な地区にある青く塗られた四階建ての貸ビルで、一階が台所兼食堂、二階が事務所、三、四階がベッドルームとなっている。ベッドルームは二段ベッドを二つ入れたユースホステルタイプの部屋が五室あり、二十人ほどの宿泊・食事が可能だ。事務所の壁には時計がならび、その針はそれぞれマニラ、東京、イスラマバード、アムステルダム、ワシントン、ハバナの現地時間を指している。
 事務所でまだ二十代のIIREマニラ事務局長・ロナルドをはじめ、第四インターナショナル国際委員会での顔見知りであるBさんとも会う。Bさんは第四インター・フィリピン支部である革命的労働者党―ミンダナオ(RPM―M)の中心的リーダーだ。二〇〇三年の第四インター世界大会でフィリピンの代議員団として参加していた人とも再会した。
 パキスタン労働党(LPP)の若い同志とも初めて会った。相撲取りほどの巨体の持ち主である彼は、タリバンと同じパシュトゥン人で、北西辺境州で活動している。今、米・パキスタン軍の「対テロ」作戦の戦場と化している地域に近い町で生まれ、育ったという。LPPのスポークスパースンであるファルーク・タリクも今回の学校の前半に報告者として来ていたが、ちょうど私とは入れ違いでパキスタンに戻ったそうだ。この若い同志もファルークという名前で、皆からは「ヤング・ファルーク」と呼ばれていた。LPPが、最近タリバンなどイスラム主義勢力の強い北西辺境州で多くの活動家を獲得していることは聞いていたが、彼に会うことができて幸いだった。
 欧州からは、IIREの活動を熟知しているオランダの男性同志二人(アレックスとヤコブ)とデンマークの女性同志(ニーナ)が参加している。アレックスは第四インター・オランダ支部の専従で機関誌編集長だが、今度支部の専従をやめてアジアとの連帯運動の組織化に活動の重点を置くという。ニーナは、第四インターの欧州青年キャンプのオルガナイザーでもある。欧州青年キャンプには毎年フィリピンの青年たちも参加している。欧州からの三人は、IIREマニラの立ち上げ支援の任務を担っているようだ。

アジア太平洋
の新しい情勢

 十一月九日から十四日までは、ファルーク・タリクによる「グローバリゼーションと第三世界」についての概論的報告、IIREマニラスタッフによる「フィリピン情勢」、「ミンダナオの情勢についての討論」、「ミンダナオの文脈に即しての民族自決権に関する理論的討論」などのテーマで進められ、マニラ首都圏地域の労働者・農民組織訪問のフィールドワークも行われた。
 十一月十五日の午後は、私が報告することになっている。IIREアムステルダム事務所は宿泊施設、事務所、図書室の他に数十人が入る教室設備もあるが、発足したばかりのマニラ事務所は教室用のスペースがない。そこで歩いて数分のキリスト教関係の施設まで移動して報告・討論を行うことになった。
 ちょうど十一月十四日からシンガポールでAPEC首脳会議が開かれている最中である。私の報告は、最初にグローバル資本主義の危機の深まりと米国の一極的覇権の終焉の中で、かつてのG7、G8といった先進資本主義諸国・主要国による利害調整を通じた世界の管理・支配の時代からG20に代表される新興国による「多極化」の時代への移行と言われていることの意味を切り口にして、G2と呼ばれる米中両国関係を軸に、日本での画期的政権交代と鳩山首相の言う「東アジア共同体」路線が内包する米日中の相互関係の変化を論じるものであった。もちろんそこには多くの不確定要素が含まれることは必然的である、という前提を確認した上ではあるが。
 私は、戦後の東アジア・太平洋地域がアメリカ帝国主義の圧倒的な軍事的力を背景に中国革命に代表される民族解放闘争に対峙し、封じ込めるために再組織された歴史的経過、ベトナム革命の勝利と一九七〇年代後半から八〇年代にかけての日本帝国主義の経済的再進出、韓国・香港・台湾・シンガポールなどの工業化の進展と中国の「改革・開放」政策の展開、一九九〇年代以後の「ワシントン・コンセンサス」が主導する新自由主義的グローバル化の嵐と一九九七〜九八年のアジア金融危機、さらには新自由主義的な東アジア諸国の経済的・金融的統合の流れなどを駆け足で紹介した。
 その上で中国の急速なスーパーパワーとしての台頭を背景にしながら、米中の二国間関係を基軸に日本もそこにからんだ力関係の再編の始まりを、鳩山政権の成立と旧来の「日米同盟」の変化の可能性を含めて指摘した。そしてその中で鍵となるのが共産党の一党独裁支配の中で急激な資本主義的発展をとげた中国の役割であり、その矛盾をどう捉えるのかが大きなテーマになる、と強調した。深刻な危機の渦中にある世界資本主義が今や中国の市場、その金融的・経済的パワーの発展に依存せざるをえない現状から見ても、なおさらそうである。
 またFTA(自由貿易協定)、EPA(経済連携協定)を多元的な形で駆使した新自由主義的な「東アジア共同体」への流れに対して、民衆運動の「草の根」からの国境を超えた連帯を通じて、どのようにそれを組み換え、オルタナティブを共同で構想することに挑戦していくのかが中心的課題である、と述べた。そしてそのためにも様々な大国主義的民族主義、排外主義、宗教的原理主義の影響の拡大と闘うことが必要である、と提起し、社会的・経済的危機に見舞われた日本での「嫌中・嫌韓」的感情の噴出についても訴えた。

質問・討論の焦
点は中国の評価

 質問・討論は、やはり中国の評価が焦点だった。例えば、中国の軍事的能力の拡大、アフリカなどでの積極的資源開発への乗り出しを見れば、中国を「新しい帝国主義」と捉えるべきではないか、という意見、さらに時代は「米中冷戦」に入っていると見るべきではないかという意見などである。私は、そのどちらの意見にも与しないと答えた。
 例えば後者の問題について言うならば、米国には中国を、潜在的には自国の世界的パワーに挑戦する可能性を持った最大の「潜在的脅威」と見なして戦略を組み立てる軍部や政治勢力が存在することは事実であるにしても、相互に政治的・経済的パートナーとして相手を必要としている二国間関係は、「米ソ冷戦」の構造とは大きく異なっているからである。また軍事的な面では、米中の差は歴然としているからである。
 日本の経済危機と「格差・貧困」の問題、あるいは鳩山政権の評価と労働者・市民の反応、日本での排外主義的ナショナリズムについても質問、意見交換が行われたが、ここでは割愛する。討論は夕食の最中も続いたが、寝不足が続いていた私としてはやっと少し肩の荷が下りた気分になった。
 なおこの日も翌日もTVや新聞の最大の話題は、米国ラスベガスで行われたボクシングのWBC世界ウエルター級タイトルマッチで、フィリピンの国民的ヒーローであるマニー・パッキャオがチャンピオンのプエルトリコの選手をTKOで下し、アジアで初の世界五階級制覇をなしとげたこと。TVは延々とその画像を流し続けている。ちまたではミンダナオの極貧の農家の子どもである彼を「次の大統領に」などという声も上がっているとの報道もあった。   (つづく)
(国富建治)


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