もどる

映画紹介「戦場でワルツを」アカデミー賞外国映画賞ノミネート 監督:アリ・フォルマン                        かけはし2010.1.1号

イスラエル青年の記憶を描く

レバノン侵攻に
従軍した主人公

 少し変わった雰囲気のチラシに惹かれてみたこの映画、「戦場でワルツを」。ものすごい形相で牙をむき出して疾走する犬の群れ。とんでもない映画をみてしまったと後悔しながらも、この犬たちはどこへ向かうのだろうかと気になりながらみていると、ある古いビルの下に集まり、上方に向かって唸りだした。そのビルの最上階の部屋から男が下を見ている。この最初のシーンに強烈なショックを受けた。実はこれはイスラエルのレバノン侵攻に参加した青年が、それから二十四年経った今でもみる夢なのである。
この夢にうなされる旧友ボアズは、アリ(この映画の監督、映画の主人公)に会って夢の話をし、この犬はレバノンのある村を襲ったとき自分が射殺した二十六匹の犬で、どこを撃ったかも鮮明に覚えているというのだ。アリはこの友人と別れた日の夜突然、高層ホテル街が見えるベイルート西部の海に若者二人と全裸で漂う幻覚をみた。幻覚の中の三人は起き上がりホテルの方にゆっくり歩いて行くのであった。
 レバノン侵攻に従軍したアリには、当時の記憶が全くなかった。そこで、親友のオーリに会って相談し、そしてレバノン侵攻を体験している友人に次々と会って当時の状況の記憶を聞くことになった。

実話をアニメーションによって表現

映画「戦場でワルツを」は、数々の国際映画賞を受賞し、そしてイスラエルのアカデミー賞六部門を受賞している。アリ・フォルマン監督は一九六二年ハイファ生まれ。ホロコーストを生き延びたポーランド人を両親に持つ。監督も他の登場人物もすべてがレバノン侵攻に従軍した実在の人物で、彼らは十九歳そこらの若さで従軍し、それから二十四年が過ぎても、時々戦争時の情景のフラッシュバックを経験するのだった。彼らの間で交わされる会話も実際の会話で、そのうちの何人かは本人自身が出演している。しかし、映像はアニメーションで、その動作はなめらかさを欠いていて、とても上手とはいえない。でも不思議なことに、実際の映像よりその方がむしろ迫力があって、観客を話の本質に引きつけるように思えた。この映画は戦争のドキュメンタリー映画だと思うが、それをアニメーションという表現手法を使って制作した点でユニークな映画である。

フラッシュバック
の原因を探す旅

 会った友人から当時の記憶を聞く旅が始まり、いくつかの場面が再現されていく。ベイルートに向かう船上で、泳いできた巨大な全裸の女性に助けられ、女性のおなかに乗せられて船から離れ、その後船が爆破される夢の記憶。明け方目覚め仲間と上陸するが、近づいてくるベンツを恐怖と興奮のあまりに一斉射撃し蜂の巣にした記憶。
 ベイルート空港に到着したとき、たくさんの死体が積まれていて、それを運んだ記憶。ベイルートのビルの谷間で、上から射撃してくる敵に対して、路上でまるでワルツを踊るように機関銃を連射して応戦していた友人の記憶。何事もなく戦車で進軍していると突然攻撃され、仲間がほとんど斃れ、自分は岩陰に隠れて夜を待ち海岸に出て泳いで帰還したが、自分を裏切り者と思い心が晴れないという告白。家畜場が友軍の砲撃で破壊され、絶対に助からない多くの馬たちが苦悶している光景を目の当たりにして、カメラが壊れ現実に素手でふれてしまったというジャーナリストで友人の話。
 このような話を聞いているうちに記憶が少しずつ戻ってきて、繰り返しフラッシュバックする海には自分はいたはずがないという事実にアリは突き当たる。親友の分析によれば、アリの両親がアウシュビッツにいたと知った七歳の時の恐怖とレバノン侵攻での経験が記憶を変容させているというのである。またある心理学者は、自己防衛の一種だといった。小隊が果樹園の中を進んでいるとき、戦車が砲撃される。その砲弾はまだ小さい少年が持つ迫撃砲から発射されたものだった。この記憶を聞いたとき、自分もそこにいたというアリの記憶がよみがえる。
ピアノで流れるショパンとバッハ

 この場面ではバッハの曲のピアノ演奏が使われていた。こんな場面に美しい音楽なんかと普通なら思うところだが、この映画ではそれが不自然さを感じさせず、むしろぴったりとマッチしていてとても印象深かった。実は市街戦でワルツを踊る場面でも、ショパンのピアノ曲が流れていた。本来なら異質であると思われるものが、何ともいえない感情を呼び起こし、何かを強く訴えるのである。この映画の特徴でもあるといえよう。
 映画の最後は、サブラ・シャティーラの虐殺の場面である。アリに最後まで失われていた記憶が、この日の記憶であった。戦車隊員の友人の記憶では、女性や子供、老人たちはテロ分子ではないと見なされてキャンプの外に連れ出されていくのが見えていた。従軍していたジャーナリストの友人は、知り合いの大佐から虐殺のことを耳打ちされて、そのことを当時の国防相シャロンに電話するが、シャロンは知らせてくれてありがとうの一言で終わったといった。

サブラ・シャテ
ィーラの衝撃

 虐殺の三日目に半狂乱の女性や老人たちがキャンプの外に出てきたことで事態が明らかになる。アリたちは丁度その場面に遭遇するが、そのときジープでやってきた指揮官風の軍人がハンドマイクで、「もう終わったから中に入れ。これは命令だ」と叫んで、また引き返していった。アリたちはキャンプの中に入ってみて、初めて事態を知る。映画は突然アニメーションから実際の映像に変わるのである。実に巧みなやり方だ。
一九八二年六月イスラエル軍はレバノンに侵攻し、パレスチナゲリラの拠点を壊滅させ、PLOらパレスチナ武装勢力は九月までにチュニジアに撤退する。その後、親イスラエルのキリスト教マロン派民兵勢力・ファランヘ党本部が爆破され、若手指導者バシールが死亡する事件があった。 ファランヘ党はパレスチナ武装勢力の仕業と断定し、イスラエル軍が包囲しているパレスチナ難民キャンプに入り三日間にわたり虐殺を行ったといわれる。イスラエル軍は、虐殺が行われている間キャンプの入り口を固め、さらにキャンプが見えるビルの屋上に前線基地を置いていた。犠牲者は三千人を超えたといわれている。

映画の最後は〇九
年のガザと錯覚

 映画の最後のシーンは、まるで二〇〇八年の年末から〇九年にかけて起きたイスラエルのガザ侵攻時の映像ではないかと錯覚するほどであった。見終わって、イスラエル人について今まで見ていたのと少し別の見方をすることができるかなとも思った。また最近刊行されたイラク・アフガン帰還米兵の証言集「冬の兵士」のことを思った。 (津山)




NHKテレビ評「外事警察」
民衆にテロの恐怖を煽りながら
人権侵害を繰り返す公安警察

 このドラマは、日本で開催される国際テロ会議を前にして、日本にテロリストが潜入しているというCIAからの極秘情報のもと、日本の公安警察が暗躍するというものである。視聴者にテロの恐怖をあおりながら、盗撮、盗聴、スパイ、事件作り、違法逮捕などのあらゆる人権侵害を繰り返す(ただしメール盗聴はまだ出て来ない)。警備局長(石橋凌)は、官房長官(余貴美子)にさえも、今後、テロ情報を得られなくなるという理由で出所は言えないと話す。もしこの情報が公安の捏造だとしても国民には確認する術がないということだ。
 つまり、公安が得意とするストーリー捏造を行えば国でさえも動かせるということである。このドラマは公安の中でも特に外事課を描いたものである。外事警察と一般の公安とは違い、外事警察は「エリート」とされ、一般の公安との確執もあるという。

国民の心理を利
用する宣伝ドラマ

 主人公は「公安が生み出した魔物」とされる、警視庁公安部外事四課主任の住本(渡部篤郎)である。ネット掲示板等々では、過去があり、裏の世界のこの住本が「カッコイイ」と評判になっている。しかし、実際に公安と関わった人々の話では、実際の公安刑事の姿と住本の人物像にもかなりの隔たりがある。住本は、自分の協力者の死に、日本にはテロ防止の本格的な法律が無いから協力者を危険にさらしてしまうと警備局長に詰め寄る。その住本と裏公安のトップである「ゼロ」(警備企画課理事官)(遠藤憲一)が対立する。
 ちなみに、国民新党の亀井静香は以前、この「ゼロ」の立場にあった人物だといわれている(『日本の公安警察』講談社現代新書 青木理著より)。
 新しく外事課に配属された警官が住本に、なぜ自分のことをそこまで知っているのかと尋ねる場面では、一言、「公安だから」と答える。歯向かう刑事警察(平 岳大)に対し、「お前の過去の違法行為を知っている。お前を潰すのはわけない。」と脅す。しかし公安が何でも知っているのは、「国を守る」ことの意味を彼らに都合よくすり替えて、人権や命を危険にさらす違法捜査を行っているからにすぎない。相手のことを知りたい、特に対立する相手のことを知って優位に立ちたいという覗き見主義的な人間はたくさんいるが、これが金と権力を盾に行われているというだけのことである。公安警察が言う「安心・安全」とは、国民にとっての「不安・危険」である。まだ最終章まで見ていないが、どうもテロに恐怖する国民の心理を利用した公安宣伝ドラマのような展開である。しかし、現実の公安の姿と、このドラマにはギャップがある。

あらゆる手口
を使って弾圧

 現実の公安警察がしていることは……現実の公安警察の「はたらき」はこのドラマの内容とは程遠い。公安の存在意義を繕い「事業仕分け」されないために、テロとは無縁の市民運動の人々をあたかも危険なテロリストであるかのように見せかけ、微罪逮捕や嫌がらせなど、あらゆる手口を使って弾圧している。危険な存在に見せかけるための手法は、最近の神奈川県警の弾圧では、10・24免状不実記載弾圧裁判、「河内誠・国家賠償請求訴訟」裁(http://www.actio.gr.jp/2009/04/04064935.html)での県側の代理人の金子弁護士や県警公安三課課長補佐の佐藤証人の言動は共通している。
 令状を取るためには裁判所さえも騙す。逮捕、家宅捜査を大げさに演じて見せる。刑事警察を蔑視し捜査妨害もする。予算獲得のための仕事作り、存在意義のアピールのために力を注ぐ。緻密な捜査が苦手だとも言われている。坂本弁護士一家殺害事件では、労働運動にかかわり、共産党系の弁護士グループに所属していた坂本氏の捜査を軽視したために、地下鉄サリン事件などの、それこそテロ行為を許すことになったと言われている。その自らの失態を取り繕う為に大量のオウム信者に対する微罪逮捕を行ったという。「泥棒や殺人犯を捕まえなくても国は滅びないが、左翼を泳がせておけば国が滅ぶ。公安が国を動かしている」というのが公安警察である。立川ビラ配り弾圧や10・24免状不実記載弾圧、ルームシェア弾圧、葛飾ビラ配り弾圧などは全て公安が仕掛けたでっち上げ事件である。
監視されるべき
存在としての公安

 ドラマの中で行われる違法捜査は、元公安警察官の暴露本などに描かれている内容にほぼ近い。しかし、これがNHKで放映されて、いくら「これはフィクションであり……」とテロップが出ても、誤解が生じる等の理由で公安からNHKに抗議がないのは不思議である。むしろ、公安警察はこのドラマを歓迎しているのではないか。イメージ作りができればそれでいい。多少の人間味と緻密さ、洞察力があり、若者に闇の世界の「かっこよさ」を感じさせるこの主人公を歓迎しているかもしれない。しかし言論、人権など、国民の「安心、安全」を脅かす公安警察こそが、テロ組織そのものとはいえないだろうか。
 公安が今までにやってきた「実績」こそがテロ行為であり、監視されるべき存在とは言えないだろうか。(K・O)



コラム

「侵略の道か、連帯の道か」

 司馬遼太郎原作のドラマ『坂の上の雲』がNHKで放送されている。このドラマは愛媛・松山出身の三人の青年を主人公とし、日清、日露の両戦争に突き進んでいく近代―明治日本を舞台としている。全十三回のドラマを三部立てにして、三年もかけて放送するというのだ。
 なぜ今の時期に……、今年が日韓併合から百年にあたるという理由からであろうか。そしてもうひとつ浮かんでくるのは、近代日本には、このような戦争と侵略の道以外に選択の余地はなかったのだろうかという疑問である。やはり近代日本の進むべき道をめぐって闘われた、自由民権運動とその敗北について考察する必要があるのだろう。
 自由民権運動が全国政治闘争として成立するのは、国会開設運動を通してであった。国会期成同盟の第二回大会(1880年11月)では、「われわれ人民のものであるわが国に国会を開くのに、政府に願うことはない、人民の実力によって闘いとろう」と決議。
 その後「自由民権の主義を国政全般に実現するための政党として、自由党の結成」を決め、その盟約として「日本人民の自由の拡充と権利の伸長、国の進歩と人民の幸福の増大、全国民の平等同権、立憲政体の樹立」を掲げた。まさに薩長藩閥政府を打倒し、人民民主主義的な政府の樹立をめざす全国単一の自由主義的な「革命党」として自由党を結成しようとしたのである。
 しかしこの試みは、一八八一年十月に政府の介入で分裂し、急進派は板垣退助を総理として自由党を結成(1881年10月)し、改良派は大隈重信を党首として立憲改進党を結成(1882年4月)した。
 そうした分裂があったものの、自由民権運動は政治闘争と重税反対などの地域民衆闘争と結合して急進化し、全国的に高揚していく。政府の岩倉具視は「今日の形勢は恐らくフランス革命前夜の状態とあまりちがわないであろう」(1882年12月)とまで発言している。
 また憲法に関して自由党は、国民代表による憲法制定と主権在民を主張した。対外政策の基本は民族の独立であり、日朝清が連帯して欧米列強の侵略に抵抗することを主張している。
 八二年に政府が実施した歳出引き締めと大幅増税は、デフレによる深刻な不況の始まりとなった。税金滞納―高利借金―土地手放しの泥沼のなかで中小農民は没落していく。
 こうしたなかで生存権をかけた農民らの闘いはより急進化し、蜂起という形態にまで発展すると、板垣ら自由党幹部は、八四年十月の大会で党を解散するという裏切りを行った。同年十一月の秩父、十二月の飯田の農民らによる蜂起は、こうした困難を押して決行されたのであった。
 自由民権運動の敗北は、近代日本を絶対天皇制のもと戦争と侵略の道に突き進ませた。日清、日露の戦争はその始まりにすぎなかった。日朝中の人民が連帯して欧米列強の侵略に抵抗するということが実現されていれば、正義と感動のドラマが作られていたに違いない。 (星)


もどる

Back